モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

フェルメールーー見えるとおりに描くと光が浮上してくる

2019年09月23日 | 「‶見ること″の優位」

見えるものを見えるとおりに描くということが決して容易なことではないということについてのもう一つの例を挙げるとするならば、やはりフェルメールの絵画を引き合いにださないわけにはいきません。
私はフェルメールの絵画の凄さというのは、見えるもの(こと)を見えるとおりに描くことに全精力を傾注していることにあると思っています。
西洋絵画史におけるフェルメールの位置付けは、「絵画にとっての光の意義」という観点からした場合の、ひとつの転回点に立っていることにあります。
どういうことかというと、フェルメールまでは光はものを見る前提条件として捉えられてきたけれども、フェルメールにおいては、比ゆ的にいえば、光は絵画の中で創作される事象として捉えられるに至ったということです。
私はこのことを、「明るいから見えるのではなく、見えるから明るいのである」という言い方で表現しています。
世界の在り様を見えるがままに描いていくことを実践していくならば、そこに光が浮上してくる、というのがフェルメールの作品の無類に独創的なところです。

今日では、フェルメールがカメラ・オブスクラを使って絵を描いていたことが知られるようになってきました。
カメラオブスクラというのはいわゆるカメラのプロトタイプのようなもので、小さな穴を通して外光を取り込んで箱の中に景色を映し出す装置(器具)です。
この器具を使うと、光の当たり具合で微妙に変化する色調を、肉眼で見るのよりもよりはっきりと見ることができるということで、フェルメールが生きた一七世紀のネーデルランドの画家たちの多くが活用していたといわれています(カメラ・オブスクラ自体はルネッサンスの時代から一部の画家によって使われていたようです)。



西洋の一七世紀という時代は、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天体を観測し、ロバート・フックが顕微鏡を覗いてノミの全身図を精密に描いた時代です。
男性の精子もこの世紀に顕微鏡観察で発見されていますが、発見したファンレーウェンフックという科学者は、フェルメールと同時代に、デルフトの町のフェルメールのすぐ近所に住んでいました。
フェルメールがカメラ・オブスクラを使って絵を描いたのは、こういった光学機器の進化と、自然観察から得られるデータを科学的研究の基礎とした一七世紀の新しい考え方とれんどうしているのです。

絵画創作の原理主義は、カメラ・オブスクラのような光学器械を補助手段に使って絵を描くことを邪道だと見なして(21世紀の今でもそう考える人がいるようです)きましたが、
フェルメールはカメラ・オブスクラを使ったのは、制作の補助手段としてではないと私は思います。
同時代の先進的な科学者たちが、地球から遠く離れた天体を望遠鏡を使って観察し、顕微鏡を使って目に見えないミクロサイズの生物を発見していったように、
いわば絵画にとってこれまでには“見えていなかった”世界を見出していくために使っていたのです。
フェルメールにとって絵を創作することの意味は、「世界はどのように見えているのか」すなわち「世界はどのように在るのか」をとことん追求していく、というところにあったのです。
そのことを私はフェルメールの表現のリアリティとして、その作品を通して感じています。



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ジャコメッティ「見えているものを見えるとおりに」

2019年09月13日 | 「‶見ること″の優位」

「見えるものを見えているとおりに描(書)く」という言い方があります。
一見なんでもないことのように思えますが、それがいかに困難なことであるかということについて、今回は書きます。
その困難さは、「何がどう見えているのか」を考えてみることがその鳥羽口になります。
「ものを見ている」ことは間違いないと思っていながら、実は何も見ていなかったと思い知らされることが往々にしてあります。
見れば見るほどその感を深くして、改めて「一体何を見ているのか」と問い直して見るにいたるのです。
それは、見ている対象の世界の“深さ”ということに関係しています。

20世紀を代表する彫刻家の一人であるジャコメッティは、生涯を通して毎日毎日デッサンの訓練を重ねていたことがよく知られています。
彼の口癖は、「見えるものを見える通りに描く」というフレーズでした。
実際の彼のデッサンは、無数と言えるほどの線が重なって対象の輪郭がだんだんと不明瞭になっていくように、われわれには感じられます。
それが彫刻作品になると、たとえば人体では、肉体がギリギリまで削ぎ落とされ、細い一本の棒のようになった形になっていきます。
われわれの通常の感覚からすると、とても「見える通り」とは思えないでしょう。
しかしジャコメッティの目には明らかに、人体(人間の形)がまさしくそのように見えているのですね。
「見える通り」に表現していることが、現代的にデフォルメされた形に見えながら、まさにジャコメッティの造形表現のリアリティとして、観る者に伝わってくるのです。
「見る」とは、そういうことにほかなりません。



「見る」ということには訓練が伴います。
毎日欠かさず訓練していくと、「見る」ということが育っていくのです。
だから「見える」ということは、同じものがいつも同じように見えるということではありません。それは常に変化していく、奥に潜んでいるものが次々と現れて来るように変化していくのです。
ジャコメッティがデッサンしている現場に何ヶ月にもわたって立ち会い、自らもモデルに立たされる経験を持つ矢代幸雄の報告によると、数時間のデッサンの果てに、
「もう少しだ。あと一歩で核心がつかめる」といった意味のことをしょっちゅうつぶやいていたようです。
ところが翌日になると、また最初から出直し、のようなことになっている。
ジャコメッティの中で何が起こっているのかと言うと、やっと核心が見えたと思った瞬間、新たなビジョンが対象のなかから生まれて来るわけです。
それでまたそれをつかもうとして、新たな苦闘が開始されていくわけです。
「見る」とはそういうことであり、絵画や彫刻を見る醍醐味は、その苦闘に立ち会う歓びに与るところにあります。
「これで完全にマスターした」ということは、人の生涯を通して決してありえません。

麻生三郎のデッサンはジャコメッティのアプローチと似ているところがあります。
彼のデッサンも、ゆらゆらと揺れる不定形の線が何重にも重ねられて、対象に迫り、且つ、一つの空間(平面と呼ばれる空間)を生み出そうと苦闘しています。
その麻生がジャコメッティの作品について書いた文章のサワリの部分を、以下に紹介します。
「ジャコメッティの絵画彫刻群はたしかに広がりのある大地とかかわりをもった存在である。その構造はたてとよこの確実な関係をもっている。どの作品をとってもその構造によって構築されている。現実に迫ることで個我が非個我の大きな普遍の存在の強さに変っている。それはかたまったかたくなな個体ではない。そしてこの正直さは浮き上がることはなく、時間のなかで生きている。ながい生だ。永生の像だ。」(「ジャコメッティ展を見る」 『絵そして人、時』所収)



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麻生三郎の‟奥行き”表現論

2019年09月03日 | 「‶見ること″の優位」

「現実を対立物としてそのななめのおくゆきの事実をとらえる。平面はその認識のかたちであるので、そのななめのおくゆきの内容によって平面のなかみがきます。それがレアリズムだ。レアリズムはななめのおくゆきのみとめかたそのなかみの追及の方向をはっきりもっている。そのはっきりした意識によってななめのかたちを追求しようとしている考え方がレアリズムだ。それは結果的には具象になるが、あるいは抽象性を多くもつこともあり得る。ななめのこと、平面をななめに切るかたちに対する認識をいうのだ。」

上記の文章は、麻生三郎(1913-2000)という油絵画家が書いたエッセーからの引用です。
このエッセー(「これまでとこれからのこと」)は1979年に東京都美術館で開催された「麻生三郎展」の図録に掲載されたものです。
そして、麻生さんのエッセーをまとめた『絵そして人、時』というタイトルの単行本(現在、絶版)で読むことができます。

麻生三郎は東京の築地辺りの生まれで、生粋の江戸っ子といえるでしょう。
10代から画家を目指し、青年期(戦前)には豊島区の芸術村(池袋モンパルナスと通称されていた)にアトリエを構え、
瞹光や松本俊介他、戦後の日本現代絵画の中枢をなした早々たるアーチストたちと親交を深めていました。
イタリアに留学して、『イタリア紀行』という本も遺しています。



『絵そして人、時』は私にとっては観照と創作をめぐってのバイブルのようなものです。
どのページを開いても、絵画(平面表現)についての示唆に富んだ言葉に出会います。
日本の近・現代絵画が追求し試行錯誤してきた事柄の総体が、この本の中に注ぎ込まれている、と私は見なしています。
その意味では、『絵そして人、時』の中で展開される言説は、日本近・現代絵画の到達点を示していると言っても過言ではないと思います。
(そして実作者としても、日本の戦後平面表現の最も深い場所へと至った作家の一人であると評価できます。)

冒頭の引用文は、“絵画の真実”の世界を切り開いたセザンヌ以降の現代絵画の、“奥行き表現”(そして“平面”の創作)をめぐっての知見の、現時点での最深部のものであると私は思っています。



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