モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

「初期私小説論拾遺」(4)小林秀雄の『私小説論』から——社会や時代と対決しない日本文壇の事情

2024年09月13日 | 初期「私小説」論

小林秀雄の『私小説論』は“社会化した「私」”という言い方をしていることでよく知られています。
その意味を同論文の中に求めると、次のように書いている箇所があります。
「(J.J.ルソーの『懺悔録』に始まる18世紀から19世紀の西洋文学の主だった)作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存在したのである。続いて現れた自然主義小説作家達はみな、かういふ対決に関して思想上の訓練を経た人達だ。」
(叙述の順番は前後するのですが、)フランスでは自然主義小説が爛熟期に達して私小説の運動があらわれたとき、
「その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧のために形式化した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼等がこの仕事の為に「私」を研究して誤らなかったのは…」
というふうに説明されています.

これに対して日本の近代小説の作家たちについては、
「(19世紀西洋の)作家等の思想上の悪闘こそ、自然主義文学を輸入した我が国の作家等に最も理解しがたかったものであった。(中略)人は、新しい思想を育てる地盤はなくとも、新しい思想に酔ふことはできる。しかしわが国の作家たちはその(新しい思想に酔ふこと)の必要を認めなかった。(中略)外来思想は作家たちに技法的にのみ受け入れられ、技法的にのみ生きざるを得なかった。」
かくして
「わが国の私小説家達が、私を信じ私小説を信じて何の不安も感じなかったのは、私の世界がそのまま社会の姿だったのであって、私の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟していったのである。」



小林の観察は日本の私小説一般の傾向について正鵠を得た議論を展開していると思います。
また後者の引用文で言ってることは、当ブログの前回で志賀直哉をとりあげて、「世界との和解(調和)を志向した私小説」で、これが主流となって日本の私小説のローカルな特徴として継承されていった、と書いたのと趣旨を同じくしています。

小林と当ブログとの違いは、当ブログは「世界との和解(調和)を志向した私小説」を、闘いを放棄して社会や時代に翼賛していったという意味で限界があるとするのに対して、小林はある意味ではそのような在り方を評価している点にあります。
小林は志賀直哉の創作を支える思想を、究極的には“無私”を目指すものと見るのですが、
『私小説論』では、志賀が夢殿の救世観音像を例にして、仏像の完成度と作者の関係について書いた文章が引き合いに出されています。
「作者というものからそれ(救世観音像)が完全に遊離した存在となっていゐからで、これは又格別な事である。文藝の上で若し私にそんな仕事でもできることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとなどとは思はないだろう。」
小林は志賀のこの思想を、次のように称賛するのです。
「私小説理論の究極が、これほど美しい言葉で要約されたことは嘗て無かったのである。」
小林のこの称賛の言葉は、「個人と自然や社会との確然たる対決」(本文冒頭の引用文より)ということを小林自身あまり重視していないということ、したがって、むしろ「私の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致」をこそ日本的私小説の特質として称揚しているということを感じさせます。

この意味で、小林の文芸批評の本質は「個人と自然や社会との確然たる対決」のモチベーションから目をそむけることの上に成り立っていると言えるでしょう。
「外来思想は(日本の)作家たちに技法的にのみ受け入れられ、技法的にのみ生きざるを得なかった。」
という、明治・大正期に生産された小説群に対する小林の総括的批評は、彼自身の批評の方法においても同断であって、社会や時代との対決ということからは一貫して身を隔てて、“歴史”だの“物”だのといったところに自己を韜晦していったというふうに私には見えます。
それゆえに小林は、日本の近代小説(私小説といってもいいですが)のある局面を見落としてしまうことになったのです。








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