モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ⑤日本国の民衆の哲学としての国学は可能か?

2022年07月02日 | 日本的りべらりずむ

上田秋成が活動した十八世紀(1700年代)後半は、文芸では読本と呼ばれる小説形式のものが流行し、
学問の世界では市井の儒学者が“道学者”と俗称されるほどに庶民生活に溶け込んでいたりして、
学問をすることがひとつの流行風俗とみなされるような時代でした。

そして文芸と学問が接近して、古典文芸を研究することがそのまま学問として成り立っていきました。

そういう時代の空気の中で、儒学への批判に発して日本独自の思想や哲学を掘り起こし、提唱していくために、古典文芸や神話を研究する分野が新たに切り開かれていきます。

その分野は“国学”と呼ばれ、中学・高校の日本史の教科書では、万葉学を創始した契沖から始まって賀茂真淵、本居宣長と継承されていった学問と解説されます。

江戸国学の頂点に位置する学者は本居宣長ですが、上田秋成はまさにその宣長が活躍した時代に生きたのであり、
しかも国学分野において宣長のカリスマ性に敢然と立ち向かっていった学者でした。


秋成の国学研究は、30代前半に『雨月物語』で読本界に名声を確立したあと本格的に始まっていきます。

そして晩年にいたるまで新作読本の出版はいっさいなされず、労苦に満ちた人生を送りながら、
万葉集の評釈や古典文芸の研究を進めて、その集大成を『春雨物語』に結実させていこうとしたようです。

つまり秋成は読本作者と国学者の両面を併せ持っていたということです。

しかしそのことが、読本作者としては『春雨物語』を完成させるところまでには至らず、
国学者としても研究の成果を世に問うところまでにまとめきることができませんでした。



秋成の物語作者としての知性のはたらきは、国学研究に向かうときには一つの、潔癖感の強い秋成には乗り超えることが困難なジレンマを生じさせたようです。

国学は学問なので、研究の対象となる古典文芸や歴史・神話を記録した文献(古事記や日本書紀など)が、
それが生み出されてきたときのままの状態で伝えられてきているかどうかを判定する作業(いわゆる文献批判と言われる)が欠かせません。

途中で何ものかによって修正されたり、偽造されたりしていることが多いからです。

しかしそれを、誰もが納得できるような実証性の裏付けをもって判定する史料が、特に歴史・神話のテキストには不足しています。

秋成はその点でテキストに対する深刻な懐疑心を抱いていて、結局過去の歴史の真相をあきらかにすることはできないのではないかという、
いわゆる文献ニヒリズムと称される事態に陥っていくわけです。

物語作者として、創作のために言葉を偽造していくことをある意味得意としてきた秋成には、
伝承されてきた古代の歴史書や神話も「言葉の偽造によるものではないか」という疑いに眼をつむることができませんでした。

大方の国学者はこの問題をどうクリアしているかと、史料で実証することが不可能と予測される箇所は、
個人的な憶測や考え方でもってそこを補完することで辻褄を合わせていこうとします。
(つまりテキスト解釈が恣意的になされていくわけです。)

その結果、国学関係のテキストは、文献の解釈に個人的見解を偲ばせ、それがだんだんと表面に出てきて、観念性を強めていく傾向のものが多ように感じられます。

そしてそれが江戸末期から明治期にかけての天皇制的国家主義を裏付けるイデオロギー表現として超越化していくわけですね。

その代表的な学者が本居宣長です。宣長の国学は、文献解釈のコンセプトを神道思想と結びつけて、超越化していく方向を進めていきました。


それに対して、国学者としての上田秋成はそういう国学の在り方を耐えがたく感じ、嫌悪していました。

宣長の学問に対しても直接論争を挑んだりして、生涯にわたって批判を継続しています。

秋成と宣長の対立を象徴的に表現すれば、たとえば『古事記』という文献に対して、宣長はそれを神格化し国学の聖典として意義付けましたが、
秋成は『古事記』を偽書とみなして、その価値を認めませんでした。


近世文芸の研究者である日野龍夫の評価を紹介しておきましょう。

「宣長の関心は自ずから新しい正しい規範である神道へと移り、人間の自由そのものへの関心は見失われた。
秋成は、人間の自由への関心を終生失うことはなかったが、その代り、そのようなものを保護しようとする営みに公的価値があると信ずることができず、ついに自己の学問を遊びと観ずるに至った。
したがって国学者としての業績は二流に終わるほかなかった。」(『宣長と秋成』筑摩書房 p.8)


『春雨物語』の創作経緯には当時の国学や宣長との確執が重要なモチベーションとして深くかかわっており、
そのことも視野に入れて鑑賞すると、また異なった読み方ができますが、それについては後日を期したいと思います。



上田秋成の項は今回で終了です。
次回からは、このシリーズの最後のテーマとして『源氏物語』を取り上げます。


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