モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

倫・信・品の困難  掲示板「根源へ」について

2016年01月06日 | 「いいもの」の条件

新年明けましておめでとうございます。

昨年暮れのNHKEテレの番組「100分de名著」は「平和論」をテーマにして、4冊の本を紹介しながら「平和」をどう実現していくかを、4人の識者(斉藤環、高橋源一郎、田中優子、水野和夫)が話してました。
4冊の本というのは、S・フロイト『人間はなぜ戦争をするのか』、ブローデル『地中海』、井原西鶴『日本永代蔵』、ヴォルテール『寛容論』です。
そしてそれぞれの本から平和を実現するための条件が導き出されてきました。それは次の4つの項目です。
1.対話、  2.よりゆっくりと、より近く、より少なく、  3.信用  4.寛容(怨まない)  
要するに、倫理の問題なんですね。倫理をどう立て直していくかということに行き着くのだと思います。

倫理なんていう言葉を出すと胡散臭く感じられるのであまり使いたがらない人も多いかと思います。
私自身は、現代は倫理が成立しなくなったというふうに考えてきたので、倫理ということに正面から向き合うということをして来ませんでした。
「倫理の困難」という位相で今の社会と人間を見ようとしてきたところがあります。

私の考えでは、困難なのは倫理だけではなく、「信」や「品」の成立も困難だと考えてきました。(それは「平和の不困難」につながっています。言い換えれば、「我々はいつでも戦争状態に入れる精神状況を生きている」ということです。)
「倫・信・品」は人間の根源にかかわる問題であることには違いありません。
「倫・信・品の困難」ということは、これらの問題にどうアプローチしていけばいいかについての手がかりがつかめないでいた、ということを意味しています。
しかし、そういうスタンスをいつまでも取り続けるわけにもいかないなということも思わないでもありあません。

一昨年に出版した拙著『現代工芸論』で、「工芸の役割は〈いいもの〉を作ることである」という命題を提示しましたが、実は「〈いいもの〉とは何か」という問題には触れないでいたのです。
この命題は次のように言い換えることができます。
「工芸の役割は“善きもの”と“美しいもの”が一致する事態を作り出すことである。」
ここで“善きもの”という言葉が出てきます。すなわち「倫理」ですね。

私が考える「工芸」あるいは工芸を含めたアートが、今、この時代に立ち向かうべき課題は「倫・信・品の取り戻し」ということではないかという気持ちを、「工芸の役割は〈いいもの〉を作ることである」という命題に込めた、というわけです。

では、どのようにして「倫・信・品」の問題に立ち向かっていくか。
とりあえず「根源へ」と名付けた思考と創作の空間(掲示板)を開設しました。
この掲示板は、『現代工芸論』を共感をもって読んでもらえる人たちに開放しているつもりです。
興味が持てるようでしたら覗いてみてください。
書き込みも自由です。「今、あなたがしていること」の報告を待っています。
それこそが「根源へ」の入口にほかなりません。

「根源へ」掲示板

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「いいもの」の条件(つづき)

2010年03月07日 | 「いいもの」の条件
前回の中野みどりさんの紬の画像は着尺の部分写真です。
それが現代絵画っぽく見えているわけです。それはなぜかっていうのが今日の話です。

たとえば左側の画像は着尺のエッジの部分(着尺ではミミといいます)が見えてますが、
よこ糸は何種類も使って、それを何丁もの杼を使って細かく織り混ぜているにもかかわらず、
エッジの線がきれいですよね。手でひいた線ではないのですが、
絵画という造形空間を形づくる意志的な線のように見えます。
着尺のミミとして見た場合には、その線のキリッとしたきれいさは
経糸・緯糸のテンションのバランスがよく、
織りの美しさと布としての堅牢さを表す一つの指標となっています。
(こういうふうにミミがきれいに織れている手織りの着尺は、最近はあまり見かけないですが…。)
右の画像は、なによりも色面構成の美しさが目を引きますが、
その美しさを支えているのは、経糸・緯糸のテンションのバランスのよさなのですね。

ファインアート(純粋美術)から見ると工芸作品は「暮らしの道具」という
不純の要素が入っていると考える人がいますが、
「美しさ」という観点からした場合には、優れた工芸品の美しさは、
ファインアートの美しさに少しも引けをとるものではありません。
それは過去に創られた名品とされる作物を見ればわかることですが、
わかりやすい例でいえば、「民芸」品などはそのことを端的に証明してます。

柳宗悦が提唱し自らコレクションもした「民芸品(民衆的工芸品)」の多くは、
クローズアップして撮られた写真で見ると、現代美術に見まがうような現代性を持っています。
1960年代のアメリカで、日本の民芸品の写真から発想を得た
現代美術のニューウエーブが起こったことはよく知られているエピソードです。
柳宗悦が主張するように、民芸品が持っている暮らしの道具としての堅牢性と健康さが、
造形物として見た場合の美しさを生み出す元になっているのですね。
優れた「民芸品」は決して「雑器」などではない。
感度の高い感性と優れた技能が生み出した「美的なもの」であると思います。


参考までに、中野みどりさんのHP


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「いいもの」の条件

2010年02月21日 | 「いいもの」の条件
かたち21のHP



「工芸」という言葉には「伝統」という言葉がつきもので、「伝統工芸」という表現をよく見かけます。
ところで公式に使われている「伝統工芸」という概念には二つの系統があることをご存知でしょうか?
ひとつは経済産業省傘下の独立行政法人である伝統的工芸品産業振興協会が取り仕切っている「伝統工芸」と、
もうひとつは日本工芸会という工芸家団体が標榜している「伝統工芸」
(「日本伝統工芸展」という公募展を主催しています)です。
そして同じ「伝統工芸」の言葉を使っていても、両者の間で言葉の意味は非常に違っているのです。

他方、「現代工芸」という言葉もあるんです。
これはやはりデザインが現代ふうであるとか、現代美術ふうのオブジェを作ったりしています。
「伝統工芸」と「現代工芸」は、以前はすごく対立してたのです
(今はそれほどでもない、というか、どうでもいいという感じになってきてますが)。
工芸の世界では「伝統」と「現代」が長い間対立してきたんですね。

私などは、そういう対立はあまり意味がないと思って、無視してきました。
見かけは「伝統的」でも新しいと感じさせる創作はいくらでもありますし、
「現代工芸」といいながら、内実は人真似の古臭いものがいっぱい見受けます。
「伝統」というのは「昔からあるもの」という程度に解釈しておくのがよいかと思います。
一過性の「現代」は瞬間的には面白くあっても、長持ちはしません。

何が言いたいかというと、たとえば次の2枚の画像を見てください。

  



これらの画像は、1枚の絵としてみると、かなりレベルの高い抽象絵画のように見えます。
私には、現代美術家の山口長男(故人)の絵とか、
海外アーチストのマーク・ロスコの絵画とかと比較しても遜色ないように見えます。
これは明らかにコンテンポラリー(現代的)な美術作品と言ってよいでしょう。

実はこの画像は、中野みどりさんが織った紬の着尺の部分写真です。
紬の着物(着尺)というと「伝統工芸」あるいは「呉服」というふうに
この国の人たちはすぐに観念連合する傾向があります。
そこまでならまだいいとしても、更には「伝統工芸」「呉服」というフィルターを通して
着物を見るという悪い習慣が同時に発動してくるようです。

紬の着物は「昔からあるもの」という意味では「伝統的」ですが、
現存している人間が織っているものですから、明らかに「コンテンポラリー(現代的)」なものです。
コンテンポラリーな創作物として、この織物(着尺)が美しいと見るのでなければいけません。
コンテンポラリーな創作物として美しく見えるかどうかということが、
たとえ「伝統工芸」のものであろうと呉服であろうと、
「いいもの」と認められるための不可欠な条件であると私は思います。



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