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モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅥ 京極派の和歌(2)京極為兼の和歌「自分の言葉で自分の心を正直に詠いたい」

2021年11月27日 | 日本的りべらりずむ
京極派の頭目は京極為兼(ためかね 1254-1332)という人で、王朝和歌の中で独自の歌論を提唱して、主流の二条派に対抗しました。

20代半ばの頃に東宮(皇太子)時代の伏見天皇に出仕して和歌を指南し、側近の人たちにも影響を及ぼして京極派を形成していきます。

東宮が天皇になられてからは政治家としても活動しますが、持明院統と大覚寺統に分かれた皇統継承騒動にかかわって佐渡島に配流されたり、晩年には土佐に配流されたりして、波乱万丈の生涯を送っています。

独自の歌論というのは、東宮の指南役についた若年時からすでに胚胎されていて、
その内容を一言でいえば、「自分の言葉で自分の心を正直に詠いたい」というものでした。

つまり歌を詠むことを自己表現として捉えたわけですね。
いうまでもなく、これは13~14世紀の日本においては画期的なことと言えます。

1300年前後におけるこのコンセプトの先進性は、日本のみならず世界の文芸史の中でも突出しています。

西洋で創作者の個性の表現が評価の対象として自覚されるようになるのは、1400年代に入ってから、
ルネッサンス前期に活動したアルベルティが著書『絵画論』のなかでそれを言い始めたあたりからですし、
中国では1000年代の宋の時代には文芸書画における自由の気風が横溢していますが、
老荘思想や神仙思想などに基づく“境地”の表現として追求されていて、“個性の表現”を自覚するものとは言えないでしょう。

為兼の背後には日本の精神史が控えています。
このあたりをdigしていくと日本思想史の別なヴィジョンが展望されてくるような気がしています。



さて、為兼の代表的な作品を挙げていくことにしますが、同時に京極派和歌の特徴がわかるように、
岩佐美代子氏(国文学研究者にして京極派和歌研究の第一人者、故人)が整理してくれてますので、
それに依りながら紹介していきましょう。※()内は収録されている和歌集名です。

A.実景を目に見るように迫真的に描写する叙景歌
浪の上にうつる夕日のかげはあれど遠つ小島は色くれにけり
(玉葉)

「目に見えるように」ということの意味は、詠み手自身の目に映った情景を、技巧をなるべく弄さずに、そのままに、というほどの意味です。
近代の写実的な風景画を見ているような臨場感は、それまでの王朝和歌には見られなかった新しい表現です。

B.「心が心を見る」如き態度で心理分析的に詠出する恋歌
 頼まねば待たぬになして見る夜半の更けゆくままになどか悲しき
(風雅)
「頼まねば」は「当てにしないで」という意味。歌意は、「自分の心では、恋人が訪ねて来ることを当てにしていないから、待たぬことにしているけれども、夜がふけてくるとなぜか気持が悲しくなってくる」。自分の心の在り様をもうひとつの心のはたらきで観察している歌です。これもやはり近代性を感じさせる心理表現です。

C.「世のことわり」めいたことを散文的に説く非具象的思念歌
 木の葉なきむなしき枝に年暮れてまためぐむべき春ぞ近づく
(玉葉)
冬は木の葉が散って枝ばかりとなった枯れ木も、年が明けるとやがて芽が吹き出て来る春がやってくる。自然界の移り変わりの法則(世のことわり)めいたことを歌の形にアレンジしている。王朝和歌でも見かけなくもないですが、どこかカジュアル感が漂います。

D.そのすべてにわたり、「心のままに詞のにほひ(匂ひ)うく」如く、旧来の歌題や歌語にとらわれぬ自由な発想と表現法
 枝にもる朝日の影の少なさにすずしさ深き竹のおくかな
(玉葉)
為兼の代表作の一つとして常に挙げられる詠草です。ここは岩佐氏の解説に委ねましょう。
「早朝の竹林の静逸。斜光と陰影の扱いに、絵画や写真以上の切れ味を示す。五句すべて勅撰集中に用例は皆無。「朝日のかげに」以外は句の性格としてもまったく新奇であり、しかもそれらが少しの違和感もなく適確な叙景として詠み据えられている。」(笠間書院刊『玉葉和歌集全註釈』より)



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日本的りべらりずむⅥ 京極派の和歌(1)『玉葉和歌集』『風雅和歌集』の中核をなした京極派とは?

2021年11月15日 | 日本的りべらりずむ

これから取り上げていく“京極派の歌人たち”は、鎌倉時代後期・南北朝期に編纂された勅撰和歌集『玉葉和歌集』および『風雅和歌集』の中核をなす人々です。

彼らの歌を軸としてそこに開かれていった和歌表現の新地平を紹介しつつ、「観照の文化」史上での意義と日本的りべらりずむの一局面を論じてみたいと思います。

玉葉集・風雅集といえば、私が高校で学んだ古文や日本史では、新古今和歌集以降の沈滞した宮廷文化の中で編まれた、
技巧偏重・形式重視の一連の和歌集のひとつとしてわずか一行の記述で済まされていたイメージがあります。

しかし数年前になにかのきっかけで玉葉集をひもといてみたところ、
私にはある意味とても清新なイメージに満ちた王朝和歌の世界が繰り広げられているように感じられ、
私の鑑賞の仕方が間違っているのかなといぶかしく思ったものです。

それで参考文献などで確認してみると、私の鑑賞の仕方は決して間違っているわけではなく、
一部の研究者――たとえば国文学界では折口信夫、小西甚一、短歌界では藤岡作太郎、与謝野鉄幹、土岐善麿といった人たちが高く評価して、
京極派歌人たちの近代における再発見の機縁となったことを知りました。

今では私個人としては、玉葉・風雅をして王朝和歌の頂点と見なしたいと密かに思っています。

折口信夫も「短歌の本質といふものは、実は玉葉、風雅に、完成して居たのである」と書いています。(「短歌本質成立の時代」より)



京極派の和歌が長い間日本和歌文芸史に埋もれたままであったのは、
京極派を批判した二条派(藤原俊成-定家-為家と続く和歌の家の本流を継いだ二条為氏に始まる和歌の流派)が江戸末期まで日本和歌壇の趨勢を支配してきたためとされています。
明治期になってようやく再評価の気運が芽生えてくるわけですが、
戦後教育においても玉葉・風雅の和歌は不当な評価を受けたままであったことは、私自身が経験したことであります。

京極派の歴史的な位置付けをしておきますと、為氏が二条派の領袖となる一方で、為氏の庶弟為教は京極家に、同じく為相は冷泉家に分家します。

京極為教の子為兼は二条派に対抗して新しい和歌創作論を提唱すると、
為兼が仕えていた皇太子時代の伏見天皇とその取り巻きの若者たちに受け入れられ、京極派和歌の創作が試みられていきます。

だいたい1280年代半ばのことですが、このころ皇統は持明院統と大覚寺統に分かれていて、後の南北朝の前哨をなしていました。
そのような政治的な状況の中で京極派歌人は伏見天皇の境遇とともに有為転変を重ねるのですが、
1352年に起こった室町幕府の内紛に巻き込まれて壊滅するまで、活動期間は60年に及んでいます。

そしてこの間に『玉葉和歌集』(1312年)、『風雅和歌集』(1349年)が編纂されて、京極派和歌の果実を歴史にとどめることができたのでした。



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日本的りべらりずむⅤ‐5〈鳥獣戯画絵巻〉と院政期の絵巻物ーー芥川龍之介の『地獄変』を参照しつつ

2021年11月08日 | 日本的りべらりずむ

日本の13世紀(鎌倉時代前半)において絵を描くことを生業とする絵師たちの天命の一つとして、「対象物をリアルに見る」ということが意識されていたらしいことは、
1212年に成ったとされる説話集『宇治拾遺物語』に収められた「絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶこと」の段で伺い知ることができます。

説話の内容は、「良秀の隣りの家から出た火が自分の家に移ってくるのを、中に取り残されている妻子にも告げず自分だけ先に飛び出して眺め入っていた。
それを見かけた人々が良秀を責めるが、絵師は、今描いている不動尊の火炎が描けないでいるのを、今こうやって火が燃える様子を見て、こんなふうに燃えるのだと心得たと答えてあざ笑いながら見尽くしていた」というもの。
その後良秀は傑作をものしたらしく、「良秀がよじり不動とて今に人々愛で合えり」と結ばれています。

前回紹介した『伴大納言絵詞』に応天門の大火が描かれていますが、絵師良秀のエピソードは同絵巻の大火表現の迫力を連想させます。




近代文学の人気作家芥川龍之介の小説『地獄変』は、モチーフをこの絵師良秀のエピソードから得ています。
小説では、よじり不動で好評を得た良秀の後日談の形をとって、権力者から受注した地獄変の屏風絵を描くために、自分の娘を犠牲にして地獄の業火を自分の目で見ようとした話です。
芥川ファンなら誰でも読んでいるはずな小説ですので、あらすじは省略します。

『地獄変』の冒頭に初回される「堀川の大殿様」は明らかに後白河院のことと思われますが、
平安時代末期院政期に後白河院の意向の下に絵巻物の傑作を創作した絵師たちの「見ること」への目覚めは、
900年代後半に天台宗延暦寺の僧源信によって著された『往生要集』が、その大きなモチベーションになったのではと思われます。

『地獄変』では、良秀が描いた地獄変の屏風絵の図柄を次のように解説しています。

「良秀はこの多くの罪人の中に、上は月卿雲客から下は乞食まで、あらゆる身分の人間を写して来たからでございます。(中略)とにかくそう云ういろいろの人間が、火と煙とが逆巻く中を、牛頭馬頭(ごずめず)の獄卒に虐まれて、大風に吹き散らされる落葉のように、紛々と四方八方へと逃げ迷っているのでございます。鋼又(さすまた)に髪をからまれて、蜘蛛よりも手足を縮めている女は、神巫の類ででもございましょうか。手矛に胸を刺し通されて、蝙蝠(かははり)のように逆(さかさま)になった男は、生受領か何かに相異ございますまい。そのほかあるいは鉄の笞(くろがねのしもと)に打たれるもの、あるいは千曳(ちびき)の磐石に押されるもの、あるいは怪鳥の嘴にかけられるもの、あるいはまた、毒竜の顎(あぎと)に噛まれるもの、――呵責もまた罪人の数に応じて、幾通りあるかわかりません。」

これはまさしく『往生要集』に描かれているおびただしい地獄のシーンの一つにほかなりません。

また、良秀の描くものは醜いものばかりということに触れた箇所では、次のように伝えています。

「いや、現に竜蓋寺の五趣生死(ごしゅしょうじ)の絵を描きました時などは、当たり前の人間ならわざと眼をそらせて行くあの往来の死骸の前へ、悠々と腰を下して、半ば腐れかかった顔や手足を、髪の毛一すじも違えずに、写して参った事でございました。」

人間の身体が死後次第に腐乱して骨だけになっていくまでの過程を描いた絵は「九相図」などといって、
古くから仏教系の経典や絵画の題材のひとつとして描かれてきています。

院政期においては、前々回に紹介した『病草子』の他、『餓鬼草子』『地獄草子』など人間存在の赤裸々な本質を直視しようとする絵画も制作されていて、
院政期の絵師の意識に上ってきた「見ること」の性格の一端がうかがわれるようです。

私にはこの院政期における絵師たちの、人減存在の赤裸々な真実を直視する視覚体験が、それ以降の日本文化の根底流れにているのではないかという気がするのです。





※次回からは、王朝和歌の最後の勅撰集『玉葉和歌集』『風雅集』の中核をなした、京極派歌人たちの和歌を中心に、「見ること」の深化(観照の深まり)を取り上げていきます。

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日本的りべらりずむⅤ‐4〈鳥獣戯画絵巻〉と院政期の絵巻物ーー最高傑作〈伴大納言絵詞〉鑑賞

2021年11月02日 | 日本的りべらりずむ

院政期に描かれたとされる絵巻物の群の中でも最高傑作と私が思うのは、〈源氏物語絵巻〉と〈伴大納言絵詞〉です。
ここでは特に人体の動態表現を軸に絵巻物を見ていってますので、〈伴大納言絵詞〉を取り上げることにします。

〈伴大納言絵詞〉を最高傑作とする理由として、人体の動態表現や顔の表情表現と群衆表現が融合された絵面の豊饒さということがあります。
この観点からしても、名場面が次々と繰り広げられていきます。

今回は、絵を見ながら簡単な解説を付けていく形で書いていきましょう。

〈あらすじ〉
清和天皇の御世に宮中内裏の応天門が焼ける事件があり、伴善男大納言は、放火したのは左大臣の源信(みなもとのまこと)であると奏上する。しかしよく調べた結果、確かな証拠がないということで天皇は源信を赦免する。実は放火の現場を目撃した者がいて、その子供が隣りの家の子供と往来で喧嘩した騒動がきっかけとなって、放火犯は伴善男であることが目撃者の口から公言される。伴善男は取調べを受け、真相が明らかとなって、伊豆へと配流される。

1.動態表現と集団表現のダイナミズムの観点から


伊豆への配流が決まった伴善男を護送する検非違使の一団の図。人体の動きが一人一人リアルに描かれて変化に富んでいます。また馬体の動態も力強く、人の群れと融合して一つのまとまりのある集団として描く筆力は見事というほかありません。

2.百人百様の顔の表情


応天門の火災を見物する人々。
群集を描きながら、その一人一人の人相や表情がみな違っています。
こういう絵が描けるのは、都の往来に立って道行く人々を観察しデッサンしていくということの日常的な積み重ねなしには考えられません。
“観る”ということに自己の存在意義を見出している絵師の意識が想像されます。
この当時の東アジアエリアでの“絵の描き方”としてもまったく独自であると思います。

3.庶民の姿への関心(および異時同図法)


子供どうしの喧嘩騒動の場面。
右端に子供の喧嘩の図、左から一方の子の父親が駆けつける、下方に、駆けつけた父親が相手の子を足蹴にしている(子供は殺されるとする文献もあるとのこと)。
一連の騒動を一つの画面の中に配して描き分けていますが、全体としての統一感で構成しています。
これは異時同図法と呼ばれて、絵巻物表現の技法として知られていますが、特に〈伴大納言絵詞〉はこの手法の活用が際立った特徴の一つとされています。

異時同図法を使って庶民の姿を絵の中に溶け込ませ、都の市中における群集を描写している]ます。

左ページのほぼ中央の5人のグループなども一人一人が巧妙に描き分けられて、一幅の絵になっていると言えるでしょう。

4.着衣の人体表現

余白をたっぷりと取った空間に束帯に身を包んだ公家が独り、ぽつんと立っています。
私はこの人物描写にしびれました。
話の流れで言えば、応天門炎上後、伴善男が、放火犯は源信であることを宮中に奏上する話に移る、その場面転換のちょうど境のところになります。

この人物が何者であるかは特定されていませんが、立像を背後から描いて、誰かが応天門炎上の知らせをもたらしてくるのを待ち受けているようにも見えますし、事件を振り返っているようにも見えます。
私にはなんとなくこの人物は伴善男で、この先の自分の運命を予感して、襲い来る不安の感情と闘っているように感じるんですね。
何よりも、鑑賞者の目をこの人物の背後に設定して、絵の中の人物と鑑賞者の視線が同じ方向を向くように描いているのは、
一つの心理の共有を促しているようで、こんな表現方法を同時代の他の地域の絵画に見出すことができるかどうか、とても興味深く思います。

いずれにしてもこの立像表現は、輪郭を線で構成して簡潔であり、日本美術の新しい造形手法を提示していることを思わされます。
そして私には、この当時の東アジアの絵画シーンの中に超然と屹立する、絵巻的表現の中で見出された日本独自の造形世界の誕生のように見えるのです。

以上、〈伴大納言絵詞〉の特徴の主だったところです。



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