モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

戦後いけばな界の巨匠、中川幸夫さんを悼む

2012年06月10日 | 中川幸夫の花

私の思うところでは戦後いけばな界の最大の作家であった中川幸夫さんが、去る3月30日に亡くなられました。享年93歳でした。
中川さんがどういう人であったかは、Wikipediaで要領よく紹介されています


中川さんは私にとっては、造形美術、日本文化、自然観察における最大の師匠でもありました。(中川さんは師弟関係というものを認めなかったので、世俗的な意味での師匠というのではありませんが。)
それから、郷里(香川県)が同じということもあって、何かと目をかけてもらってもいたのです。
また、私が編集発行していた季刊誌『かたち』(1980年代後半~1990年代前半)にもたびたび登場していただきました。
そんなこともあって、「かたちの会」会誌『かたち』の最新号(No.10)では中川さんの追悼特集を組みました。



そもそも『かたち』の題字が中川さんにお願いして書いてもらったものです。
そのとき中川さんは半紙に毛筆で「かたち」と書いたものを25枚持ってきて、この中からいいのを選びなさいと私に言われました。
その25枚の半紙を今日まで保存していたので、それをランダムに広げて真ん中に椿の花を置き、
花開いた直後から数日をかけてしおれていくまで見続けて、ときどき写真を撮っていました。
その中で、私がいいできと思った写真で『かたち』の表紙を飾りました。



中味は、私および二人の工芸家(陶芸の恵美加子さんと染織の中野みどりさん)の追悼文と、
季刊誌『かたち』の中川さんに関するページを写した写真と、
それから中川さんの郷里の讃岐平野の写真と、
東京郊外に曼珠紗華を摘みに行ったときに私が撮ったスナップ写真などで構成しています。
讃岐平野の写真はそのちょうど真ん中あたりに中川さんの実家が位置するそういう写真です。



そのことに気がついたのは、追悼号を編集しているときでした。
写真は今年の1月に香川に帰省して、平野の南側のやや高い位置から北方向に(つまり平野を南側から瀬戸内海方向に向けて)臨む位置で撮影したものです。
平凡ではあるけれども穏やかで心なごむとてもいい風景だと思って、撮影したのです。
東京に帰って、パソコン画面の背景に貼り付け、3月中旬頃まで毎日のように眺めてました。

今思うと、中川さんの実家を中心とした讃岐平野の眺望をそれとは気づかず毎日のように見ていたわけです。
中川さんがとわの旅支度しているとはつゆとも思わずに毎日見ていたのでした。
いつまで見てても飽きないなと思いながら見てました。

改めて中川さんの魂の安らかなることをお祈りいたします。


会誌ご希望の方は「かたちの会」→「会誌B.N.」へアクセスしてください。


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