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モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

音声版「現代工芸論」を始めました。

2018年05月18日 | 笹山央著『現代工芸論』


音声版「現代工芸論」を始めました。


書籍『現代工芸論』の続編として、「工芸」とはどういうものであるかを、

世の中に流布している誤解や俗説を修正して、一般の方にも理解できるように

一番基本的なところから解説していくことを試みるものです。


試聴していただいた方からは、書籍で読むより頭に入りやすいとの評価をいただきました。

是非聴いていただきたいものです。


1冊(1回)300円の「NOTEを購入する」という形で聴講できるシステムになっています(クレジットカードが必要です)。


第1回———————なぜ「工芸」を語るのか
第2回———————「工芸」と「工業」の違い

聴講は「工芸評論かたち」のHPからアクセスできます。


クレジットカード決済以外の購入方法は、
「工芸評論かたち」にお問合せください




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『現代工芸論』を受講した学生のレポートから

2016年08月18日 | 笹山央著『現代工芸論』

拙著『現代工芸論』をテキストにした講義を多摩美術大学で毎年上半期に行ってきましたが、講師の定年規定により、今年が最後の講義となりました。
講義が終了して学生から寄せられた受講レポートには、いつものことながら、興味深いものがありましたので、そのいくつかを抜粋してここにご紹介しておきます。
『現代工芸論』とはいえ、どんなことを書き、どんなことを学生に話してきたか、その一端なりとも触れていただければ幸甚です。

●「工芸とは何か」という問いに対して
 機能とはつまりそのものがどう現実に作用するかを問うことで、それは私が絵画を描く上で絵画の中には現実空間が広がるわけではないですから、だからこそどう現実に影響を及ぼし、関係を結び、現実でその存在意義を確立できるのかという問題と同じものだったように感じます。しかしそれは絵画がそもそもどういうものなのかという問い直しなのでもあり、それは当然ながら条件があります。その条件を今回のように自分なりに再定義してみることはとても重要なことでした。今回の授業を通して得たことを自らの制作にもつなげられるよう努力していこうと思います。 (油画専攻 3年生)

●「工芸と工業の違い――〈手の痕跡〉から」に対して
 (講義資料として配布したプリントに、以下の文があった。)
〈「工芸」のものには手の痕跡が認められるが、工業製品は原理的に不可能。工芸家の中には意図的に手の痕跡を消そうとする人もいるが、これは気質の問題。しかし、手わざを機械の仕事に近づけようとするのは、工芸的価値と工業的価値の区別がつけられていないとしか思えない。〉

 まったくその通りだと思った。そしてまた、私が日常考えていることととても関係した話だと思った。と言うのも、私は、ニュータウンというものに興味があり、それについて思索しながら制作している。(中略)人と、人が作ったものとの関係性を探るべく制作している。要は、工業製品からどうにかして〈手の痕跡〉を探れないかという話である。
(結末に至って)
 いかなる工業製品も、誰かが設計、デザインしたものであって、しかもそれに用途がある以上、作品性を放棄している点以外においては、「工芸」と変わらないと考えるからである。工業製品の表面上には、一切現われることのない〈手の痕跡〉であるが、ものづくりとは何なのか、また、ものとは何なのか、そして、ものを作る私たち人間とは何なのか、という問いに正面から向き合えばこそ、読み取ることができるのではないだろうか。そのことを視覚的に提示するのが、私にとっての美術である。    (彫刻専攻 3年生)

●「用の美」について
 自分の疑問をまとめると、「用」があるから美しいのか、美しいから「用」があるのか、だろう。さらに、「用」の追求の果ての美は「用」と関係ない、役に立たないものの美と共通したものになるのかということだ。そして役に立たない(と見える)ものにもじつは「用」の要素がふくまれていただけなのではと疑っている。現時点においては「用」そのものこそが実は美しさの原点なのでは、という考えに至った。たとえば割れた茶碗の破片なども結局「刺さりそう」という「用」を感じるからかっこいいと感じているのである。それに考えてみれば、宝石だって高価だからあまりそうしないというだけで、日本画では絵の具に使われているし、硬い宝石なら何かを加工する道具として無理やり使おうとすれば使えるだろう。「用」のないものなどやはり無い。とすればやはり生活で役に立たないけど美しいものにも自分が気付いていないだけ、知らないだけで何らかの高い「用」が含まれているのかもしれないと思っておかなければな、と思う。    (日本画専攻 2年生)

●「長く使って愉しめるものであること」に対して〈個〉という概念なしには、現在の経済の発展は説明できない。革命により市民たちが獲得した自由は、国家権力を制限することで、資金を民衆へと流出させた。そのために、資金は流動的になった。流動的になった資金は今や世界中を海流のように巡っている。ただ、思うに限界が近づいてきている。いや、もう限界かもしれない。日本では高齢化が進み、生産力も低下した。みんなは株価が変動するごとに一喜一憂しているが、わかりやすい成長はもう望めないのではないだろうか。
 流れから抜け出す準備を始めるべきだ。時代に翻弄されるのではなく、自ら歩いていけるように。目に見える数字をただ真に受けるのではなく、数年後、数十年後の時分を思い描いてものを選び出せる。それこそ使用価値のあるものを認めることだ。堅牢の美を求めることだろうと考える。民衆はただのうごめく大多数であってはならない。古来より地道な生活をしてきた、地に根を張った存在でいなければならない。
 誰でも知っている小説の中で、とあるキツネが言っていた。
「大切なものは目に見えないんだよ」と。
それは多分、とても身近な、生活に密着したものにも当てはまるのではないかと思う。
                             (油画専攻 2年生)

●「おもてなしは日本文化のエッセンス」に対して
 「取り合わせにはそれを考えた人(亭主)の意図・工夫が託されており、客にはその意図・工夫を読み取る力量が求められる」(『現代工芸論』p.57)
 「おもてなし」は単なるサービスの日本的な心がけを表したものでも、独立した演出行為と鑑賞行為の関係でもない。全体自体が一つの作品として、「そこにある」ものなのだ。
(中略)
循環する〈空間〉をいかに美で満たし、繋げていくか。それが日本の「おもてなし」を支えてきた精神であり、その一部として工芸品は作られ、選ばれ、空間を構成し、時間を超えて存在してきた物なのだと感じた。
 また、この循環の中において流れていくものであるからこそ、「未完成」であっても「もろく壊れるもの」であっても瞬間においては完全な美を構成する一部なのであると納得をした。
                     (グラフィックデザイン専攻 3年生)

●「床の間奪回」に対して
(日本文化のエッセンスとしての取り合わせの美の例として、床の間は一般市民の私にはこれまで縁がなかったが)、しかし講義で床の間のスペースがなくても、心のよりどころとして工芸品を飾るスペースを設けてみるとよいとの話を聞き、それなら自分の家でもできるのではないかと考えた。
今回のレポートでは、もっと工芸品を身近に感じ、日常的に「よいもの」を見極め、そして一息つけるような空間を生み出すミニ床の間を実践した。しかしただの飾り物と区別するため、いくつかの規定を作った。
① 現代工芸論で「いいもの」の条件としてあげられていた
  1.用(はたらき)があること、2.長く使って愉しめるものであること、3.「美しいもの」であること、4.「くつろぎを感じさせるもの」であること
を守ることであること。
② 季節感(テーマ)を感じさせるものであること
を守るようにした。
                              (日本画専攻 2年生)
 (※レポートには、実践例の写真が6枚添付されていました。)

●「ゴミの解消はアートの役割の一つである」に対して
 この言葉は大変印象深く、美術大学で学ぶ者としてその役割を担わねばならないという意識を強く持った。
 日本画を専攻する者としての視点を持ちつつ、「用のないもの」とされたものを「用があるもの」として蘇らせることに挑戦するため「ごみから作った顔料」というテーマを掲げてみた。
(制作過程で出た大理石や御影石の破片、卵の殻からの例のあと)
捨てられていたシャンプーの空容器を拾ったので、こちらでも試してみた。
今までの素材とは違い、力を加えてもなかなか細かい粒状にはならなかったが、金槌で叩くと薄く延びた。
なんとか原型をとどめない程度になるまで叩き続けると、、日本画の粒子の単位では測れないサイズではあるが、画材としては充分に使える大きさとなる。
元のシャンプーの名前から引用し、「エッセンシャルピンク」と命名した。
                            (日本画専攻 2年生)

●「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題に対して
 「何か今、あきらかに違う〝モノ″になった」と感じることがある。絵を描いている時にも、立体物を作っている時にも。それは自らの手中でコントロールしているのではなく、別の次元で物質が作用していることがある。濡れた絵の具が乾くときなのか? つなぎ合わさった木と木がなじんだと感じる時か? それらは私が作品を作る時の、目に見えづらく、言葉にし難い神秘だと思っていた。
 しかし『現代工芸論』の最後に、「そのためには物質としての絵の具の動きや変化を注意深く、きめ細かく観察することが不可欠であり、そのような作業が物質の限界を超えていく条件となる」と書いてある。
物質を遊ばせるのではなく、すべてを観察することで、また支持体となる(または、芯となる・核となる)物質の下に、薄くて強固な基盤ができる気がした。
                             (油画専攻 二年生)


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『現代工芸論』が東京都立高校の入試問題に採用されました。

2015年02月25日 | 笹山央著『現代工芸論』

私にとっては青天の霹靂という他ない出来事が起りました。

昨年の春に、出版した拙著『現代工芸論』(市川文江編集、蒼天社出版刊)が、なんと東京都立高校の入試問題に採用されてたんです。
昨日出版社から連絡を受けましたが、今朝は新聞の都立高校入試特集で確認しました。
国語の第4問で、「取り合わせの美」について書いているところを引用して、5つの問題を設定しています。

設問は4番目までが4択問題で、読解力を試すもののようですが、5問目は「取り合わせの美」についての受験生各自の意見を2百字程度で書けというものです。
高校入試なので実質中学卒業段階の子どもたちに向けた問題としては、かなり難易度が高いのではないかと思われます。
みなさんも挑んでみられてはいかがかでしょうか?

他に採用されているのは、原田マハ、梅原猛、能楽師の大槻文蔵と能楽研究家の天野文雄さんの対談本といったエスタブリッシュメントな人たちの本からであるのに対して、私の場合は、『現代工芸論』が昨年出版されたばかりの唯一の著書である、 工芸の評論家で一美大の講師でしかないので、非常に驚きでもあるし、またとても光栄に思えることでもあります。
そして社会的にほとんど知られていない本を、敢えて入試問題の材料に選択された問題制作者の「英断」に、満腔の敬意を表したく思います。

私にとって何よりも一番嬉しいことは、「現代工芸論」という、世間的には特殊的と見なされている分野のことを書いたと思われがちな論述が、義務教育を卒業した段階の子どもたちでも読解可能であるという判断を、相応の見識のある人によってしていただけたということです。
私自身、「誰でも読める・誰でもが読むべきである」本を目指して、業界用語なども極力使わないことを意識して書いたものなので、わが意を得たりの感慨があります。

この本は、工芸業界の中では興味を持って読む人は少ないようですが、業界外のいわゆる「一般的読者」の方々からの反響は悪くありません。
これを機に、みなさんにも是非一度目を通していただくことを、これからはもう少し自信をもってお奨めしていきたいと思います。


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年末のご挨拶ーー明年は「かたち塾」を始めます

2014年12月30日 | 笹山央著『現代工芸論』

あと3日でお正月。
今年は私にとって、『現代工芸論』を上梓した記念すべき年でした。
この著書をスプリングボードとして、来年から「かたち塾」というのを始めます。
先日、「かたちの会」の会員向けにその案内の文書を送りましたが、
「かたち塾」開校の趣旨について、以下のように書きました。

「『現代工芸論』に表明されている考えに基づき、主として手仕事分野での活動を対象として、ヴィヴィッドなイベント・人・創作を掘り下げていく講義、ワークショップを企画、開催していきます。
工芸と美術、生活と芸術、経済と文化、等の区別を超える新しい「かたち」の世界を、人々の日常的・非日常的な営為の中に探っていくような内容です。」

さて、「かたち塾」というネーミングですが、
これを採用するまでに「かたちの学校」だの「かたちインスティチュート」だのと
いろいろ案を検討したのですが、結局「かたち塾」というところに落ち着きました。
このことでは、いささか感慨深いものを私は感じています。

そもそも「かたち」というタイトルは、私の個人編集で1979年末に創刊した現代工芸評論の専門誌につけたものです。
創刊号の特集は、当時気鋭の中堅陶芸家と目されていた茨城県笠間市の月崇寺住職松井康成(後に人間国宝、故人)さんへのロングインタビューで飾りました。
松井さんとはその数年前から懇意にさせていただいていて、雑誌を発行することでも相談にのってもらっていました。
インタビュー取材をした前後のころに、松井さんは『無のかたち』というエッセイ集の出版の準備をされていたのですが、
ある時「雑誌のタイトルは決まったか?」と訊かれたので、「『無形』というのを考えていたのだけれど、先生に先を越されました」と答えました。
それから二人で雑誌のタイトルを考えたのですが、「いっそのこと、ズバリ「かたち」で行きますか」と私が提案すると、
松井さんも「それでやってみたら」と賛同していただいたので、この言葉を背負わさせてもらうことにしました。
私が29歳のときのことです。

もう一つのエピソードを紹介しておきます。
旧「かたち」は12号まで発行して休刊になり、それから4年後に復刊しました。
復刊しての5号めに、それまでのA5の判型からA4に拡大したのですが、
この時の巻頭特集に、近代日本で傑出したアヴァンギャルドのいけばな作家中川幸夫さんを取り上げました。
中川さんとはその1年か2年ぐらい前に面識を得たのですが、その最初か2回目かぐらいのときに、
「かたちのちは血の気のちだからね」と言われたのが、強く印象に残りました。
以来、私はこの中川さんの言葉を座右の銘として今日に至っておるわけです。

「かたち塾」というタイトルは、あまりに重きに過ぎて私などのとても担いうる言葉ではないのですが、
以上のような私の「来し方」というものがあって、その意味では、私にとっては非常にすっきりとしたクリアなネーミングであることは確かです。
現在の日本男性の平均寿命からすると残された時間はあと20年ほど、常人の状態で活動できる期間は正味10年ぐらいのところと考えると、
「かたち塾」で最後を締めることができれば、私にとってはこれ以上望むべくもない幸福であると言うほかありません。

ではみなさん、良い年をお迎えください。

「かたち塾」の内容についての詳細はHPでご覧ください。
当ブログの次回でも、第1回目のご案内をいたします。



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『現代工芸論』読後感想・意見聚ーー学生レポートより

2014年08月13日 | 笹山央著『現代工芸論』
笹山央著『現代工芸論』は多摩美術大学での講義「現代工芸論」のテキストとしても使いました。

7月に今年の講義を終えて、聴講生からテキストおよび講義の内容に関するレポートを提出してもらいました。その内容は多岐に渡っており、著者にとってもとても刺激的なものになりました。

ここにその一部を紹介しますが、『現代工芸論』に対する感想・意見という観点で一部引用、要約したものです。
「現代工芸論」とはいえ、特殊分野としての「工芸」という世界の中での言説というよりは、その枠を超えてより一般的・普遍的な話題となっていることを、特に留意して読んでいただけると大変嬉しく思います。

※太字で表記している部分は、テキスト中で展開している話題を要約して見出しとしたものです。


「用(はたらき)があるということが即ち美的であるということである」という「用即美」の新たな定義の提唱に対して。
 この世に無用なものはないという考えから、はたらき(用)が起こす関係性だけが存在し、必要・不必要という概念すら無いということを連想した。しかし、はたらき(用)があっても関係性からこぼれ落ちてしまうこともあるのではないか。つまり、美術や工芸がはたらきの関係性を失い、消滅することもあるのではないか。意義や存在について考えることが美術や工芸におけるはたらきの度合いに関係していくと思われるし、それを行ない続けていくことに、確かに意味があると信じたい。(絵画学科大学院)

「器もオブジェも暮らしを豊かにする用(はたらき)があるという点で共通している」という考えに対して。
 確かに同じであると言えるが、その視点は異なる。オブジェの用は、生活の営みを外から眺める視点にあり、器の用は使うことで生じる内なる視点にあると思う。生活の営みを外から眺められるように抽出し、時に抽象化し、具象化したものがオブジェなのだ。(絵画学科2年)

技法の意義について
 技術や技法と作品は切り離せない関係であり、それを評価の際に分断するのは作品の本質を捉えられていないのではないかと思う。作家自身で素材に触れ、ものを作ることでこそ素材の深い部分まで理解し、新たな素材の発展につながるのだ。(工芸学科2年)

「繰り返しの作業は無意識の領域を育てていくという意識を伴うことが大切」と話したことに対して。
 私的には、セオリーに即して創作するのは愉しめない。毎日描くということを続けていくと、見たままを描くだけで画面の中がリアルになってきた、という予備校時代の経験から、「繰り返しという行為は自身の中への無意識へと語りかけ、無意識を引き出していく行為である」と考えている。 (生産デザイン学科2年)

「模写(模倣)」の意義について。
 今まで「模倣」することに対して否定的であったが、最近は制作で行き詰っていたところに「模倣」の意義を聴いて、著名な版画家の作品で試みてみることにした。一見シンプルに見える作品だが、1日で終わると思っていた作業、満足いくところに達するのに一週間かかった。そしてその作品が、驚くほど細かい気配りがなされて制作されていることが了解できた。これからも「模倣」を続けて、自分の個性を見つけ、創作に繋げていきたい。(絵画学科2年)

自然素材と複製素材をめぐって。
 工芸や日本画に対して「自然に近しいもの」といったイメージを漠然と持っていたが、実際は複製素材が使われていることが多いことや、自分が使っている日本画の絵の具(新岩絵の具)が人工素材であることを改めて気付かされた。日本画を始めたばかりの自分にとって、新岩絵の具がある環境が自然であり、新岩絵の具がない環境が不自然なのである。何が自然で、何が自然でないのか。自然ということをどのように理解し、付き合っていけばいいのか。(絵画学科2年)

工芸が創る「いいもの」の条件の一つとして挙げられている「くつろぎがあること」に対して。
 創作物から感じとれるくつろぎ感は作品の「深さ」に由来していることに納得し、自分自身の制作においても、深く探っていくことを念頭において制作していくべきであると思った。(彫刻学科2年)

「アートの役割(ゴミの解消)」と「工芸の役割(いいものを作る)」をめぐって
 「ゴミでものを作る」と「いいものを作る」を合わせて、「ゴミでいいものを作る」ことを試みた。かなり悪戦したが、「出来上がった時には今まで作った作品以上の達成感があり、工夫や加工の仕方を探索して学んだ技術が身についた。」結論は、「ゴミでいいものを作る」とは工芸を極めるための一つの方法として、大きな影響を与えてくれる」ということである。(工芸学科2年)

「物質の限界を超えなければ前に進めない」という命題に対して。
 「物質の限界を超える」という表現は、同じ物質を解釈によって変化させることなのか、物質自体の変化を求めることなのか、不明である。また最近の3Dプリンターによる銃の製造や女性器の立体コピーのように、既定の物とは異なった物質に置き換えていくことが「物質の限界を超える」ことなのか、そして「物質の限界を超える」ことが本当によいことと言えるのかどうか疑問である。そうして行き着いた私自身の考えは、制作者の意図するものを汲み取ることができるように物質側から歩み寄ることではないかということである。(絵画学科2年)

「ものの美」(マニュアルアート)、およびそれを成り立たせる三つの要件「対象と向き合う」「具象性を超える」「表現系と機能系を価値付けの上で区別しない」に対して。
 美大では「表現する」ということに対して自覚的であることが求められる。「描きたいから描いた」では駄目なのである。しかし感覚が自然にはたらくがままに描く、時には衝動に近い感覚やきっかけで描くという行為は、描き終わったときに開放感や満足感が得られ、納得できる。「表現する」という意識との葛藤の中で、「ものの美」の考え方にはどこか救われるものがある。(絵画学科2年)

 ものの美の三つの要件は、どれも極まることにより美が生まれるという本来の美の意味が含まれている。絵画や彫刻、工芸といったジャンル分けは抜きにして、はたまた美術という枠を超えて芸術という大枠で考えても、「ものの美」は根本的に重要であると思う。(工芸学科2年)

工芸論的貨幣論に対して。
 自分の作品にいくらぐらいの価格がつけられるかを考えるようになった。作品のクオリティを高くしていかないと値段はつけられない。アートや工芸の場合、安い価格でたくさん売ろうという考えは手仕事の在り方として無理がある。人の心を動かすものができないようであればものづくりは諦めるべき、という先生の言葉が重く残った。(工芸学科3年)


「もの買ってくる。自分買ってくる。」という河井寛次郎の言葉から、「消費から投資」への意識転換を提案したことに対して。
 これまでの自分の生活が「消費」のシステムに組み込まれた日常であったことを反省するとともに、「経済成長路線にのっかった創作活動」ではなく、「ローカルな循環経済の下に同じ目的を持った人とモノの価値への理解を相互に高め合っていく」ことを志向する創作活動に魅力を感じ始めている。(彫刻学科2年)

グローバリズム批判とローカリズムの提唱に対して。
 現代工芸の話を聴くことで、日本を尊敬し誇りを持って日本の勉強を始めた。しかし世界の大量生産デザインのものもまた好きである。幼いころから植えつけられた世界のクールはそう簡単には消えてくれない。なのでグローカリズムを推奨する。もはや止めようのないグローバリズム化の流れの中で日本を見詰めなおすということをやっていきたい。(絵画学科2年)








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