モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

撥高台型ご飯茶碗を奨めるワケ

2010年12月27日 | 飯碗、湯呑み、木のクラフト
かたち21」のHP

撥高台型ご飯茶碗になぜこだわるのかについて書きます。
つまり、撥高台型ご飯茶碗推奨の文化論的背景ですね。
その視野でいえば、そもそもが現代のわれわれにとっての
手仕事の意味を問うところから始まっています。
またコムズカシイ話を、と思われるかもしれませんが、
現代における「手仕事の存在意義」なんていうこと自体が
ムズカシイところに来ているのだから、
話はコムズカシクならざるをえません。
ところがそうは思っていない人もおられるようで(それも、たくさん)、
そういった人たちは「手仕事」というものを、
「現代社会のムズカシさ」(ウツ病が流行するような)から逃れたところでの、
「趣味」とか「余暇の楽しみ」とか「癒し」とかのレベルで捉えていて、
それゆえにムズカシイ領域の事柄ではなくて、
むしろ互いの馴れ合いで成り立つような、
そういう「ヤサシさ」に浸れるような領域の事柄であると捉えておられるようです。

しかし私に言わせればそれは悪しきアマチュアリズムであって、
その悪しきアマチュアリズムが人間が生きる拠点としての「手仕事」をクチクしている、
言い換えると、人のいのちを支えてきた「手仕事」を壊滅の崖っぷちに追い込んでいる、
つまり「アマチュアの手仕事」が「プロの手仕事」をクチクしている、という状況があって、
そこに現代の手仕事についてお話しすることが
コムズカシクならざるをえない理由があります。

ご飯茶碗の話に即しますと、たとえばお茶碗の形がどうであろうと「人それぞれの好み」
というところで解決されたり、若い人なんかは形よりも大きさということで、
どんぶりのようなものの方がいいということですんでしまっているところがあります。
材質なんかでも、土ものでも磁器のものでもプラスティックのものでも
なんでもいい、というか、材質に対する感覚のはたらかせ方というものが
とても鈍感もしくは無頓着になっています。
そしてそういった、形や材質に対して鈍感または無頓着であるような人々が、
他方で「楽しい手仕事」なんてことを言ったりするので、
事態は非常に混乱してくるわけです。
(そのような混乱をもたらしている要因は他にもありますが、ここでは触れません。)

「手仕事の意義」なんてことを言う場合に、
ものの形や材質に神経を配るというはたらきはとても重要なことである、というか、
手仕事が成り立つための前提といってもいいぐらいのものです。
ところがふだんの生活環境において、人工素材の工業製品とか、
スーパーで売っている加工食材とか、自動販売機で売っている飲料とか、
そういったもので暮らしを立てていると、ひとつひとつのものの固有なはたらき
ということにはだんだんと無感覚になっていくようなのですね。

日本人の伝統的な主食であり、生きるエネルギーを供給してくれるところの「炊いたお米」、
そのお米を食べるための器が、どんな材質のもので、どんな形をしているのか、
自分はどういった材質の、どういった形のお茶碗でご飯を食べたいのか、
そういったことに神経をはたらかせる感性がなければ
手仕事はやれないのではないかという気がします。

炊き立てのご飯を盛るとたちまち手に熱く感じられる、
だから指の先に茶碗を乗せて持つ、というのではなくて、
ご飯の温かさがゆっくりと掌に伝わってくる、さらに身体の内部に浸透していって
いわゆる「内的感覚」のようなものを刺激する、
ご飯を食べるとはそういうことでありたいと私は思い、
それを実現してくれるご飯茶碗とはどういうものであるのか、
ということを長い間気にかけてきたのです。
そんな思いに、この撥高台型ご飯茶碗が応えてくれたように思います。

人はただ、機械に燃料を補給するように食べ物を食べるのではないのですね。
食するということは精神的な意味をともない、心身を養う行為なのであって、
食材(いのちの世界)と人間を媒介するところに
「器」というものが成り立つのだと私は考えています。
手仕事とは、そのことを踏まえた上で遂行されていくべき作業です。

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森野清和さんの撥高台型ご飯茶碗

2010年12月11日 | 飯碗、湯呑み、木のクラフト

かたち21で提案している「わん一式」の軸となる撥高台型ご飯茶碗の制作を、
これはという陶芸家に依頼したりしてますが、陶芸家の方は自分の形へのこだわりがあって、
こちらが思っているようには作ってもらえないことの方が多いです。
高台を小さめにすると全体の形のバランスがとりにくいとか、あるそうです。
しかし私などは微妙にアンバランスで繊細な感じになるところも、結構気に入っています。





さて、快く承諾、というか「高台を小さく作ったことはないけど、やってみてもいいかな」
という感じで引き受けてくれた人に、山口県下関市の森野清和さんがいます。
森野さんはやきもの用の粘土に深い関心を持っている人で、
山口県下から九州北部一帯にかけて粘土のサンプルを集めています。
山口県下では萩焼が有名ですが、昔の萩焼の一番良質なランクの粘土も持っています。
以前、森野さんの工房を訪ねたときに、この粘土で焼いた茶器がありましたが、
とても素晴らしいものでした。
それから、古唐津の焼味を再現するような粘土もあって、これも素晴らしいものでした。





森野さんのやきものは基本的に自分で掘ってきた原土から作っているものなので、
現代の陶芸としてはオリジナル性の高いものであると言えます。
オリジナルであって、しかもいい焼味をしています。
成形は蹴ロクロといって、電気がなかった時代の人力で動かすロクロを使っています。
そのロクロ味というのも、なかなかいいものがあります。





撥高台型に作られた森野さんの茶碗でご飯をいただくと、
掌に収まる感覚といい、土のちょっとざらざらとした刺激といい、
まさに触覚でものを味わうという、そういう感じが体験されます。
やきものの器を使うことの醍醐味とはこれだ、と思わせるものがあります。
お薦めの逸品です。





森野清和さんのお茶碗は、「軸のススメ展」「自分へのおもてなし展」に出品されます。
かたち21のWEB SHOPでも取り扱っています。




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