モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

ピタゴラスーー“数の観照”、哲学の始まり

2020年05月29日 | 「‶見ること″の優位」

西洋文明における“観照”の一つの流れとして、伝統的な思惟形式を見てきましたが、これとは別のもう一つの流れがあります。
それはいわば“数の観照”とでも言い得るような、数の性質を研究しその認識と活用を深めていった歴史です。
西洋におけるその起点として挙げられるのは、最初の哲学者とも言われるピタゴラスです。
タレス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、エンペドクレス、デモクリトスといった、いわゆる“前ソクラテス”(またはイオニア自然哲学)の賢人達とされる人たちが、ピタゴラスと同じ時期に活動しています。
この時期は、西洋哲学史においては、“万物の根源”について考えたり追求したりすることが流行したようで、
タレスはそれを“水”であると言ったり、アナクシメネスは“空気”、エンペドクレスは“地・水・火・気”という説を立てました。
ヘラクレイトスの「万物は流転する」とか、デモクリトスの“原子説”というのもよく知られていますね。
それらはいわば“前ソクラテス”期(イオニア自然哲学)における“観照”の在り様を表していると見ることができます。
そういった“観照”の流行の中で、ピタゴラスは“数”が万物の根源であると主張した、言い換えると、“数の観照”を提唱したということです。

水や火や土や空気が万物の根源であるというのは、古代的な観念としてなんとなく理解ができますが、
“数”を万物の根源とするのは、数という現象を直感的に実感することができないので、ちょっとつかみどころがないような気がします。
“数”が万物の根源であるとは、具体的にはどういうことを意味するのでしょうか。

ピタゴラスは私達が学校の数学で学ぶ「ピタゴラスの定理」にその名を残していますが、
定理の内容自体はピタゴラス以前から知られていたことがわかっています。
ピタゴラスの業績でもっとも重要なのは、音楽における音程の仕組みを数学的に解明したことです。
すなわち、1本の弦の半分の長さで倍音(オクターブ)が得られ、オクターブの中を3分割して(今日言うところの)4度音程(4:3)と5度音程(3:2)という比例関係のあることを発見しました。
そしてこれが西洋音楽の和音構成の基礎となっていきます。



自然現象を“数”で説明していくという方法を、ピタゴラスは天文現象にも適用しました。
そのような“数”による観照方法を通して、独自の思想がピタゴラスの中で育まれていったようです。
ここから先は、柄谷行人さんの最新刊の著書『哲学の起源』(岩波現代文庫)から引用させていただきます。

「(ピタゴラスにとって)天文学は「天界の音楽」を聞くことであった。弦楽器の音を何オクターヴか高くすると、人間の耳には聞こえなくなる。逆に、人間には聞こえなくとも、数学的な認識によって、「天界の音楽」を知ることができる。そのような音楽は、感覚を超えていると考えられる。
ピタゴラスが二重世界(感性的世界/超感性的世界)という考えを唱えるようになったのは、ここからである。つまり、それはもっぱら数学に関わるものだ。数学とは物と物との関係を把握することである。その場合、われわれは、一つの疑問に出会う。物は存在する。物と物との関係も存在する。しかし、後者は物が存在するのと同じように存在するのだろうか。」
「ここで、つぎのような問いが生じる。音が存在するのと同じように、音の関係も存在するのか。しかり、とピタゴラスは考えた。」
さらにピタゴラスは、物の存在(感性的世界)よりも関係の存在(超感性的世界)こそが心の実在であると考えていきました。そして
「彼は数を実在として見た。数は「関係」であり、個物が在るように在るのではない。しかるに、関係を実在として見ること、そして、それを万物の始原物質として見出すことは、観念的実在を真の実在とすることだ。」
この考え方はプラトンに引き継がれ、西洋の伝統的哲学の基盤となる観念論哲学が始まっていきます。

ついでながら、“数の観照”は中世の神学的・哲学的思惟の中で徐々に深められていきます。たとえば、ルネッサンス期のドイツ神秘主義の思想家ニコラス・クザーヌスもこんなことを書いています。
「なぜなら、すべての数は数的一性に他ならないからです。十はすべて数的一性に由来しています。数的一性なくして、十は数でもなく十でもないでしょう。なぜなら、十は、その十であることを、数的一性に負うているからです。十は数的一性以外のものではなく、また数的一性の他に何か適合しうるものがあるかのように、この一性から何かを受け取るようなものでもありません。存在するものはすべて数的一性なのです。しかし、数としての十が数的一性を数えるのではなく、数的一性は、数としての十にとっても他のどんな数にとっても、数えられないものとして留まっているのです。なぜなら、数えられない数的一性そのものは、すべての数を超越しているからです。」(『神の子であることについて』より)

アリストテレスかヘーゲルに至る西洋的思惟の背骨をなす命題の一つに、「現実的なものは理性(合理)的である」というのがあります。
“数の観照”の観点から言えば、「現実的なものは数的に表される」あるいは「数的関係で表されるものが現実的である」ということになるでしょうか。
これこそ西洋文明を根底的に規定する命題であるとは言えないでしょうか。
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フッサールの現象学的還元――20世紀の“観照”

2020年05月19日 | 「‶見ること″の優位」

20世紀の哲学の潮流の一つに、オーストリアの哲学者エトモンド・フッサールが創案した現象学があります。
フッサールの哲学は超越論的観念論と呼ばれるもので、カントやヘーゲルを代表とするドイツ観念論からの流れを受け継いだ哲学と言ってよいかと思います。
私の見るところでは、カントの脱神学的革命性と、ヘーゲルの伝統的な思惟の組み立てをミックスしたところに開かれてきた、20世紀の新たな哲学的地平である、というふうに意義付けられるのではないかと思います。
ここでは、フッサール現象学の最も有名な“現象学的還元”という方法論を、そういう新しい地平で模索された“観照”の現代哲学版として捉えてみることにします。

現象学的還元の基本的なモチベーションは、科学的な認識方法に基づいた近代学問に求められる課題の解決――
すなわち認識対象についての厳密に正確な情報(知)を、主観性を排していかに獲得していくかという問題についての、哲学的な処方を考察していくというあたりにありました。
分かりやすく言えば、「いかにして“真なるもの”の知を、(既成の観念を脱して)獲得するか」ということです。

それは逆に言えば、ものごとを認識するときに無反省的に(素朴な日常的意識で)なされると、
先入観とか固定観念とか、主観的な思い込みとかの色眼鏡を通してなされることが多いので、
そのままでは“真なるもの”の知に至りえないということを意味しています。
そのことを避けるために、認識作用の結果として得られてきたものについての判断を、とりあえず保留する(これを“エポケー”と言います)。
その保留状態において、認識の前提となっている先入観とか固定観念とか主観的な思い込みとかを反省的に吟味して、
得られてきた認識の果実を修正していく、といった作業を繰り返していって、
フッサールの言葉を使えば、「事象そのもの」とか「生活世界」といった領界を開いていこうとするわけです。
哲学的認識をめぐってのこのような方法論を、現象学的還元というのです。



現象学的還元によって得られてくる果実を客観的に表記する方法としては、一般的には言葉とか図像とかが使われます。
特に言葉の場合は、言葉そのものがやはりその使用者の主観性が絡んでいるので、
たとえば「事象そのもの」といっても、表記されている状態では純粋に客観的に伝えることは不可能ではないかと思われます。
理想的な状態を求めるならば、「事象そのもの」は言葉による表記は不可能であるという意味で、
“名指しえぬもの(事象)”としてしか現象してこないということになります。

現象学的還元という方法は、フッサールを継承したハイデガーという哲学者においては、
「事象そのもの」の“名指しえぬ”性の前で“不安”という感情に襲われつつ、
その深淵から人間の真実を見い出していこうとする生き方が提示されてきます。
ハイデガーの思想は20世紀中葉の西洋の哲学・文学・芸術の世界にいわゆる“実存主義”のブームを巻き起こすのですが、
その代表的な哲学者の一人であるフランスのサルトルの『嘔吐』という小説では、
日常的事物の、“名指しえない”という本来(実存)的な在り様が発見される経緯が描かれていたりします。

“不安”の感情を機軸として人間の生き方を求めていこうとした実存主義は、いわば“観照”の20世紀的な形態と言えなくもないですね。
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ヘーゲルーー「“観照”の近代哲学版」という読み方

2020年05月08日 | 「‶見ること″の優位」

西洋近世の哲学史に入りますと、観照・観想といった言葉はあまり見かけなくなります。
ここでの大きな流れとしては、意識のはたらきとか思惟とかの分析から
キリスト教神学の枠組みを取り去っていくプロセスが読み取れますが、
そういう流れの中にも、革新的な方向に思考を推し進めていく在り方と、
哲学の伝統的な枠組みを継承していこうとする在り方とがあります。
たとえば18世紀のドイツの哲学者イマニュエル・カントなどは、
近世を抜けて近代への扉を開いていった生粋の革命児とみることができます。
他方、ドイツ観念論の大成者というべきG・W・F・ヘーゲルの場合、その哲学体系の組み立て方には、
アリストテレスやプロティノス(新プラトン主義)などの古典哲学の枠組みを下敷きにしているようなところがうかがえて、
伝統的というか、西洋哲学史のメインストリームにのっとっているという印象があります。
そのように見ると、“観照・観想”という言葉は直接的には出てこないけれども、
意識のはたらきや思惟の発展過程を記述していくに当たって、
“観照”という人間の精神活動のイメージとして読み取っていくことも可能かなと思われます。

ヘーゲルの最初の大著である『精神現象学』の場合で見ると、
まず全体の構成というのが、意識あるいは精神の発展過程を、“感覚的確信”から始まって
“知覚作用”→“悟性による〈一般者としての物〉の認識”→“自己意識”→“理性による〈世界〉の認識”そして“精神”へと至る運動として捉えているのは、
プロティノスにおける“観照”のはたらきが、“自然”→“魂”→“知性”→“一者”
といったステップを踏んでいくイメージを下敷きにしているように感じられますし、
またその各段階で主体的なものと客体的なものが分離している状態があって、
それが統合されていくという運動のイメージは、ヘーゲルにおいては、
「真を把捉しながら、同時に真なるものの外に出て、再び自己に帰ってくる(反照する)」
という意識の運動(いわゆる“弁証法”)に翻案されているとみなすことができます。
ヘーゲルという人は、人間の心の二律背反的な在り様(矛盾する要素が並存して葛藤を演じる)に関心を向けていたようで、
『精神現象学』はそのような自らの心の観察から得てきたものを、伝統的な哲学の方法を借りて精緻を尽くして描写し、
そこから近代的な知見を豊かに生み出していったわけです。



同書の中で「見る」「眺める」という言葉が重要な意味を持って使われている文を1、2引用しておきます。

「そこでわれわれが、知を概念と呼び、実在つまり真を、存在するものまたは対象と呼ぶとすれば、吟味するとは、概念が対象に一致するかどうかを、見るということである。だが、われわれが実在もしくは対象の自体を概念と呼び、これに対し対象という言葉で、対象としての対象、つまり他者にとって在るものを呼ぶとすれば、吟味するとは、対象がその概念に一致するかどうかを、見ることとなる。」(「緒論」)

「意識が自己自身を吟味するのであるから、この側面から言っても、われわれはただ純粋に見ていればいいことになる。というのも、意識は一方では対象の意識であり、他方では自己自身の意識であるからである。つまり、意識は、意識にとって真であるものの意識であると同時に、その真についての己れの知の意識でもあるからである。」(「緒論」)

「物のこのような真の本質が規定されている姿は、物が意識に対して直接在ることではなく、意識が、内面のものに間接的に関係していることであり、悟性として、二つの力のたわむれを通して、物の真の背景に眺め入ることである。」(「力と悟性、現象と超感覚的世界」)

「理性」の項では、理性の主なはたらきを「観察すること」と捉えて、冒頭に次のような文に出会います。

「理性が目指しているのは、真理を知ることであり、思い込みや知覚にとって物であるものを、概念として見つけることである。すなわち、理性は物の姿のなかに、自分自身についての意識だけをえようとするのである。だから理性は、世界のうちの現在をもち、現在が理性的であるという確信なのだから、いまは、世界に対し一般的な関心をもつことになる。理性は、物において自己自身以外には、何ももっていないと知った上で、自らの他者を求めている。理性は自己自身の無限性をたずねているにすぎない。」

この文から、私などはアリストテレスの『形而上学』の出だしの「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」を連想します。
この意味でも、ヘーゲル哲学の土台にあるものは、西洋の思惟の歴史の中でとてもメインストリーム的に感じられます。
ヘーゲルの哲学は、ある意味では西洋的“観照”の近代哲学的表現と言えなくもないのではないでしょうか。

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