モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――近松秋江(3)”妻”という社会的存在の形式を作り出す仕組みとの訣別

2024年04月25日 | 初期「私小説」論
(承前あている知り合いの男性に横恋慕され、遊女もどっちかといえばその男性に心惹かれていることで、主人公の“私”は嫉妬に狂ったり二人の言動に疑惑を持ったりする、そしてそれを隠そうとして虚勢をはったりすることを延々と書き連ねたりいるのは、手紙文学としての体裁を壊している、あるいは文学作品の構成として破綻しているといった批判をされてしまうのは、無理からぬところがあります。

構成的に破綻していることは誰の眼にも明らかであって、秋江もまたそれを認めるにやぶさかではなかったでしょう。
というか、秋江もそれは十分に分かっていたはずで、むしろこの展開は彼においては確信犯的に作為したものであると、私は考えます。
その理由は、第一にこの手紙は何のために書かれたのか、“私”の意図が不明瞭であることが挙げられます。
よりを戻したいと思っているのか、あるいは逆にきっぱりと最後の別れを告げて、新しい人生に踏み込むことを宣言しようとしてるのか、よくわからない、要するに不確定な精神状況を優柔不断に、ただぐだぐだと繰り言を述べているにすぎないということがあります。



二番目に、「別れたる妻」との関係ではなくて、それとは別なある決意が作者の心に宿されていて、それをこの構成上の破綻を通して表明しようとしているのでは、と思わせるふしが感じられるということがあります。
『別れたる妻~』が書かれた当時、作者の周辺にいる友人・知人からは、何かにつけて再婚を勧める言動が飛び交っていたようです。
その中で印象的なのは、秋江の実家の老母からも再婚話が持ち出されていたけれど、それを拒否して独りで生きることを、老母への手紙の体裁で表現した作品があることです。
そこに書かれていることから伝わってくるのは、上述のような「作者の密かな決意」といったものです。

『別れたる妻に送る手紙』の後半に書かれている遊女(名前は「みや」という)と“私”と、そして二人の間に割り込んできて「みや」を横取りしていく男性との三角関係をめぐる“物語り”は、作者における生き方の選択を表明することを目指して確信犯的に作為されたものであると私思うのです。
とするならば、「別れたる妻~」の「別れる」とは“妻”という言葉で表現される社会的な存在の形式あるいはその仕組みからの“別れ”ではなかったかと、私は問題提起したく思います。
そしてそれ以降、近松秋江は、女性への惑溺の中へと人生の歩みを進めていくことになるわけです。
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初期「私小説」論――近松秋江(2)明治男のダメさ加減を晒し出す

2024年04月18日 | 初期「私小説」論
近松秋江の代表作は『別れたる妻へ送る手紙』とするのが衆目の一致するところです。
比較的初期の作品で、これが文壇での評価を得たことで小説家としての地歩を固め、秋江文学の世界を築いていく大一歩となりました。
この作品のあとは『別れた妻』の系列をなす作品群が続き、さらに大阪や京都、鎌倉といった古都の花街を舞台にした遊女との情痴を重ねていく小説シリーズへと展開していきます。
そのほか、歴史小説や政治小説を試みた作品もあって多芸振りを発揮しますが、白眉はやはり『別れた妻』シリーズをもって嚆矢とすべきでしょう。

『別れたる妻へ送る手紙』は、7,8年間ほど連れ添ってはきたが、夫たる“私”は安定した収入も無く、妻は不安がって遂に家を出て行方を晦ます、その妻に送る手紙文で小説を構成した作品です。
この代表作のあと『疑惑』、『閨怨』(『別れた妻…』の続編)といった佳作が次々と発表され、俗に言う「寝取られ男」の惨めな心理や嫉妬心や猜疑心が有体もなく露呈されていきます。
『別れたる妻へ送る手紙』や『疑惑』では、それを凝縮して表現したような文章が見つからない(長めの文節ならありますが、ここに引用するには長すぎる)のですが、『閨怨』にはつぎのように述懐するシーンがあります。

(妻と住みなれた家を引き払うことを決めて引越しの作業をしていくシーンで)
「萎えたやうな心を我から引き立てて行李を縛ったり書籍を片付けたりしながら其処らを見舞はすと、何其につけて先立つものは無念の涙だ。
「何で自分はこんなに意苦地がないのだらう。男がそのやうなことでは仕方がない」
と自分で自身を叱ってみたが、私には耐力(たわい)もなく哀れつぽく悲しくつて何か深い淵の底にでも滅入り込んでゆくやうで、耐(こら)え性も何もなかった。」


いかにもたよりない境涯をみじめったらしく嘆くばかりですが、しかし恨みつらみのようなことは書いていない。
それは男の沽券というものを保とうとして虚勢をはっているからで、そのことが更にさりげなく滑稽感を表出していく効果を出していきます。
そういったことを、秋江は“私”を語り手として、自分自身の体験(実際に、妻であった女性に離縁されている)にもとづいて書いているのが、当時の読書界に衝撃を与え、明治男性のプライドを大いに傷つけたのでした。

女性に対して男性は徹底的にエゴイストで、男の沽券でもって女性を支配しているように見せかけながら、実は小心で嫉妬深く、ある感情に捉われるとそれに拘泥して抜けられなくなり、ついには女性の足元にひれ伏しようになる、といった男性像を描いていくことが、女性に溺れていく男性の姿を描く情痴文学や遊蕩文学のように受け止められていったわけです。
そういったことから近松秋江は情弱小説家のように見なされたりしてるようですが、私の印象ではむしろ男性の本質ということと向き合い、その真実の姿を描くことに文学の使命を見出していった小説家であるように思われます。
私はそこに “ある戦い”のイメージを思い描いてみたいと思います。私小説家近松秋江の内部で密かに設定されていた、明治国家イデオロギー下での“男性社会”との戦いです。



ところで、『別れたる妻へ送る手紙』の後半は、独り身となった淋しさに夜ごと紅灯の巷をほっつき歩いているうちに遊行の町の女とめぐり合って、また性懲りもなく“男性の性”に向き合っていくような事態が始まっていくのです。
その場面転換は次のように書かれています。
「 処がさうしている内に、遂々一人の女に出会(でくわ)した。
 それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といへばお前(元別れた妻)には判断できやう。一口に芸者ではないと言つたつて――笑っては可けない。――さう馬鹿には出来ないよ。遊びやうによっては随分銭も掛る。加之女だって銘々性格があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。」

別れた妻への手紙にこんなことを書くなんて、普通に考えてありえません。(つづく)









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初期「私小説」論――近松秋江(1)“情痴文学”というレッテルの裏側で

2024年04月11日 | 初期「私小説」論
近松秋江は、日本の近代文学を集結した全集系の本で岩野泡鳴とか正宗白鳥なんかの名前と並んで必ず目に入ってくる小説家だけれど、
明治末期から大正期にかけての文学史においては、なぜかエアポケットに入り込んだような印象があって、なかなか話題には上ってこない作家ではあります。
しかし気にはなる小説家なので、このたび初期私小説を論じるために、読んで見ることにしました。
詠んでみると、これが面白い。
女性をたてて男性を必要以上に卑下する、軟派系の小説ですが、読み込んでいくと実に興味深い手応えを感じさせる文学です。

文学辞典とか人物辞典とかで一般向けに解説されたものでは、「露骨な愛欲生活の描写」とか書かれていて、遊郭の女性とかとの交情をモチーフにした作品が多くて、
大正期あたりの良識派とか有識者には顰蹙を買って、情痴文学だの遊蕩文学だのとレッテルを貼られたりしています。
私が長いこと読まずにいたのは、そういった先入観をもたされてしまったこともあるかもしれません。
しかしそれは表層的な見かけに過ぎなく、秋江自身は至って真面目な文学者であり、歴史や古典芸能や政治経済や世相など多方面にわたって関心を向けて自分の見解を書いているし、
文学自体についても文学史や世界の文学を視野に収めた、傾聴に値する評論・批評文を半生を通して書き続けています。

そういった文章は、1908(明治41)年から読売新聞の文芸欄日曜付録に月に1回書き始め、1942(昭和17)年まで続いた『文壇無駄話』というタイトルのコラム欄に掲載されていました。
秋江の全集では第9巻から第12巻までを満たしていて、明治末から昭和前期にかけての文学史の貴重な資料になっているのではないかと思います。



私もこのブログを書くためにときどき拾い読みをしているのですが、先日は「予の老農主義」と題した文章に出会って、思うところがありました。
そこでは、地方の大地主が製造工場などの会社事業に手を出して失敗し、家屋整理のために他村に所有していた田地を売りに出すと、小作農オ・自作農の小農家がいろいろ金策をして土地を買い戻していく、そしてそうやって私有の土地を少しづつ増やしていくということが話題とされていて、以下の文章に続いていきます。

「そこで、さういう困らない半小作半自作農は、単に農事ばかりでなく、いろいろな土木工事に稼ぎに出たり、またいろんな家内の手内職の副業をしたりして、それによって得た労銀を貯蓄して置き、それを以て田地の売物が出た時に買ふのである。」(大正12年)

こういった叙述のなかの、「会社事業に手を出して失敗」とか「土地を買い戻し」とか「土木工事」とか「手内職の副業」といった言葉が、20世紀初頭の農村地帯に近代的な産業システムがじわじわと浸透していく有り様が感じられ、金銭の貯蓄や土地の買収にといった事柄に人々の心が傾斜していく時代の空気感がそこはかとなく感取されてくるではないですか。
私はこういった様相に、明治の国家体制と経済の施策により地方の自治意識が国家の意思の下に再編統治され、空洞化されていく流れのようなものを想像してしまうのですね。

自治の精神が奪われてしまったということは、地方の生活において、少なくとも次男以下の男性はやること(生き甲斐とすること)がなにもなくて、日々を空しく過ごしていくという境涯に甘んじることになります。
それでは身が持たないので都市に出て労働者としての生活にささやかな幸福を見出していく、あるいは芸術や芸能のスキルを身につけて、他人の目には一見“自由”と映るような人生を歩んでいったりするわけです。
しかし“自治の精神”を奪われているということは、本質的には「何をなすべきか」のヴィジョンが奪われていることには変わりない、と私は考えます。

なすべきことは何であるかが見つからない限りは、当面何をやっていくかといえば「“私”の欲望に従う」ことであり、一部の男性だけに実践可能なことですが、「“女”との遊芸にうつつを抜かす」ことであるかと思います。
かくして、文学の世界においても、明治末期から大正期にかけて“私”小説が勃興し、「“女”が書けなければ一人前の文士とは言えない」という日本文学独特の因襲が醸成され始めたのでした。











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初期「私小説」論――近松秋江(1)“情痴文学”というレッテルの裏側で

2024年04月11日 | 「‶見ること″の優位」
近松秋江は、日本の近代文学を集結した全集系の本で岩野泡鳴とか正宗白鳥なんかの名前と並んで必ず目に入ってくる小説家だけれど、
明治末期から大正期にかけての文学史においては、なぜかエアポケットに入り込んだような印象があって、なかなか話題には上ってこない作家ではあります。
しかし気にはなる小説家なので、このたび初期私小説を論じるために、読んで見ることにしました。
詠んでみると、これが面白い。
女性をたてて男性を必要以上に卑下する、軟派系の小説ですが、読み込んでいくと実に興味深い手応えを感じさせる文学です。

文学辞典とか人物辞典とかで一般向けに解説されたものでは、「露骨な愛欲生活の描写」とか書かれていて、遊郭の女性とかとの交情をモチーフにした作品が多くて、
大正期あたりの良識派とか有識者には顰蹙を買って、情痴文学だの遊蕩文学だのとレッテルを貼られたりしています。
私が長いこと読まずにいたのは、そういった先入観をもたされてしまったこともあるかもしれません。
しかしそれは表層的な見かけに過ぎなく、秋江自身は至って真面目な文学者であり、歴史や古典芸能や政治経済や世相など多方面にわたって関心を向けて自分の見解を書いているし、
文学自体についても文学史や世界の文学を視野に収めた、傾聴に値する評論・批評文を半生を通して書き続けています。

そういった文章は、1908(明治41)年から読売新聞の文芸欄日曜付録に月に1回書き始め、1942(昭和17)年まで続いた『文壇無駄話』というタイトルのコラム欄に掲載されていました。
秋江の全集では第9巻から第12巻までを満たしていて、明治末から昭和前期にかけての文学史の貴重な資料になっているのではないかと思います。



私もこのブログを書くためにときどき拾い読みをしているのですが、先日は「予の老農主義」と題した文章に出会って、思うところがありました。
そこでは、地方の大地主が製造工場などの会社事業に手を出して失敗し、家屋整理のために他村に所有していた田地を売りに出すと、小作農オ・自作農の小農家がいろいろ金策をして土地を買い戻していく、そしてそうやって私有の土地を少しづつ増やしていくということが話題とされていて、以下の文章に続いていきます。

「そこで、さういう困らない半小作半自作農は、単に農事ばかりでなく、いろいろな土木工事に稼ぎに出たり、またいろんな家内の手内職の副業をしたりして、それによって得た労銀を貯蓄して置き、それを以て田地の売物が出た時に買ふのである。」(大正12年)

こういった叙述のなかの、「会社事業に手を出して失敗」とか「土地を買い戻し」とか「土木工事」とか「手内職の副業」といった言葉が、20世紀初頭の農村地帯に近代的な産業システムがじわじわと浸透していく有り様が感じられ、金銭の貯蓄や土地の買収にといった事柄に人々の心が傾斜していく時代の空気感がそこはかとなく感取されてくるではないですか。
私はこういった様相に、明治の国家体制と経済の施策により地方の自治意識が国家の意思の下に再編統治され、空洞化されていく流れのようなものを想像してしまうのですね。

自治の精神が奪われてしまったということは、地方の生活において、少なくとも次男以下の男性はやること(生き甲斐とすること)がなにもなくて、日々を空しく過ごしていくという境涯に甘んじることになります。
それでは身が持たないので都市に出て労働者としての生活にささやかな幸福を見出していく、あるいは芸術や芸能のスキルを身につけて、他人の目には一見“自由”と映るような人生を歩んでいったりするわけです。
しかし“自治の精神”を奪われているということは、本質的には「何をなすべきか」のヴィジョンが奪われていることには変わりない、と私は考えます。

なすべきことは何であるかが見つからない限りは、当面何をやっていくかといえば「“私”の欲望に従う」ことであり、一部の男性だけに実践可能なことですが、「“女”との遊芸にうつつを抜かす」ことであるかと思います。
かくして、文学の世界においても、明治末期から大正期にかけて“私”小説が勃興し、「“女”が書けなければ一人前の文士とは言えない」という日本文学独特の因襲が醸成され始めたのでした。











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初期「私小説」論――葛西善藏(8 最終回)狂気をめぐる2つの文章

2024年04月05日 | 初期「私小説」論
後半生の善蔵を悩まし続けた、得体の知れない亡霊・夢魔につきまとわれるという“病気”をめぐって、その見えざる精神の格闘に踏み込んでいくことは私の能力ではとてもなしえません。
ここでは、『弱者』からもうひとつの文節と、更に二十世紀のフランスの哲学者によるもう一つの文章とを並列することを試みてみたいと思います。(葛西善藏の文章には現在差別用語に指定されている言葉が使われています。ここでは原文のオリジナリティを尊重してそのまま掲載します。)



(夜になると庭の黒い繁みの中の黒い亡霊に悩まされるという錯乱気味な妄想を叙述する文のあと、)
自分は気違ひに丈はなり度くない。自分はどんな病気で死ぬことも、止むをえないことだとは思つてゐるが、気違ひで死ぬこと丈はいやだと思つてゐる――これ丈の自分は、自意識を持ってゐるつもりだ。ほんとに神経病になるものは、さうした神経病的兆候についての自覚が鈍いものらしい。自分は、そんなことはない。頭痛についても、不快感についても、麻痺感についても、全体としての神経が鈍つてゐるとは考へない。だから、神経衰弱ではあるんだが神経病ではないんだ――かう思ひ込んできてゐたことが、この瀬戸物の割れた堆積を見たときには、自分は悪寒と同時に、シーンとした淋しさと、訳の分らない涙の湧いてくるのを防ぐことが出来なかった。自分の神経が真に犯されてゐるとしたならば、之程悲しいことはない。中庭から覗かれる狭い空を眺めて、自分は呆然とした無力な気持で、突立つてゐた。…(葛西善蔵『弱者』より)


 精神疾患の穏やかな世界の真ん中で、現代人はもはや狂人と交通していない。一方には、狂気の方へ、医師を代表に送り、病気の抽象的普遍性を通してしか関係を許そうとしない理性の人がある。他方には、秩序、身体的および精神的拘束、集団の匿名の圧力、周囲との一致の強要といった、おなじように抽象的な理性を仲立ちとしてしか相手〔理性の人〕と交通しない狂人が一している。共通の言語はそこにはないというか、もはやないのである。十八世紀末における精神疾患としての狂気の成立は、対話の決裂を確認し、分離をすでに確定的なものとみなし、狂気と理性とのやりとりが行われていた。不完全で、固定的な統辞法を欠く、片言ともいえる言葉のすべてを忘却の中へと沈めてしまう、狂気についての理性のモノローグである精神医学の言語は、そのような沈黙の上にしか築かれえなかったのである。(M・フーコー『狂気の歴史』より)


葛西善藏の項は今回でいったん終わります。
次回からは、近松秋江を論じていきます。






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初期「私小説」論――葛西善藏(7)「病気にされる」ことへの抵抗

2024年03月29日 | 初期「私小説」論
“病気”というモチーフは葛西善蔵のほとんどの小説の要素をなしていて、貧乏と病気は葛西文学のトレードマークのようなものとして受け止められてきました。
その取り扱い方はいろいろですが、晩年の『弱者』の中では様相がいささか異なってきます。
全体に不健康さが深まってくるにつれて諦めと恐れの感情がない交ぜになってくるとともに、なにがしか怒りの感情を含めたののしり調、しかもその相手は病状自体というよりは、病気を介して自分とかかわりをもつ人間に対しての苛立ちとか罵りとかを露わにしていきます。
たとえば次のように。

「まへまへからH(善蔵の世話をしていた青年/筆者注)が、Hの伯父さんの阿保博士に紹介してやらうと、何かの機会があると云ふのだ。だいたいが、皮膚科の方で其方では一方の権威者らしい。ことに、血液問題で博士論文をと蔦人だけに、其方での研究は相当に、世界的にも認められてゐるらしい。Hの勧誘にも拘らず、私はそんな偉い博士の診察を受けるのはいやだ。君は何処までも、僕を、神経症患者にしたいのか、僕は単純な神経衰弱じゃないか。若し君がさう云ふ言葉を喜ぶならば、僕は云ふ。僕は単純なアルコール中毒者ぢやないか。貴様も悪党だぞ。僕が之程いつてゐるのに、君は僕の理想主義者であることを、君は眼ないんだな、何処までも、何処までも、君も、おせいのやうな下等な女と一緒になって僕を虐めるのか。」



この苛立ち、怒りは、何でしょうか?
『弱者』という作品は、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』や芥川龍之介の『歯車』、太宰治の『人間失格』に通じるような趣きのある独白調の小説で、いささか錯乱しているかと思わせるような叙述部分もあるのですが、
被害妄想というか、何かにおびえているようなそういった雰囲気も感じられます。

柄谷行人が『近代文学の起源』で“病気”についてこんなふうに書いています。
「医学そのものが中央集権的であり、政治的であり、且つ健康と病気を対立させる構造をもっていたのである。
国家に対して自立するような「内面」「主体」が国家的な制度によってこそ成立しえたということである。この社会は病んでおり、根本的に治療せねばならぬという「政治」の思想もまた、そこから起っている。」

明治国家は西洋医学と結託して“病気”を生産し、その治療活動を人民支配の手法として利用したという解釈です。
病気に悩まされ続けた葛西善蔵の苦しみは、その生涯の大半は放恣な生活態度からもたらされてくるものであり、生理的な苦しみとして認識されていました。
しかし晩年に至っては、何者かによって“病気”を強要されているという感覚が善蔵の中に芽ばえてきているということが、『弱者』に書かれていることから感じとれます。










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初期「私小説」論――葛西善藏(6)制度としての男女関係

2024年03月21日 | 初期「私小説」論

罵りあったり取っ組み合ったり、善蔵とおせいの間に修羅場が繰り返されながらも、おせいは善蔵の世話をずうっと焼き続けていたし、子供が生まれてくると子供を間にはさんだ生活が営まれていったりします。
そしておせいにたいする善蔵の男の煩悩は断ち切りがたく、子供が寝てる横で、たとえおせいが忌避しようとしても、それを押して男女の営みを強要することもあったようです。
そのあたりのことを善蔵は『弱者』の中で次のように述懐しています。

「…自分は彼女の不従順も、不満も、さういう点からきてゐるのかも知れない。そしてまた、さういうことはお互ひに出来ないやうな心理関係になつてきてゐる。それを暴力的にいでも突破したならば、あるひは僕の征服感も満足され、また彼女の性的なものからくる優しさを引出せることが出来るだらうから――かう云つた、激情が僕の荒淫を唆つたものらしい。僕は酷く恥しくなり、かういつた状態で男性が、女性といふものに征服されてゆく動機にぶつかつた気がされ、「夫婦喧嘩は犬も喰はぬ」かうした簡単な言葉に片附けられて、如何に多数の男性、夫とか云ふものが彼女らのために、犠牲にされてきてゐたかと云ふことを思ふと、自分は、やはり淋しい気がされた……。」

ここで言われていことはどういうことでしょううか。
「男性が、女性といふものに征服されて」という表現は、今日でこそ男性の何パーセントかは了解できるだろうけれど、大正期においてはこういう認識に達している男性は稀少ではなかったかという気がします。
男性なるものは女性なるものを暴力的にでも征服することが出来るし、男女の関係とはそういうものだというふうに考えている男性がほとんどだったのではないかと思われます。

それは、今日のわれわれならばいわば「制度化された男女の関係」ということを言い表しているというふうに理解でき、その制度の下で「征服する男性」の権威が保たれているというふうに考えることができます。
しかし女性の立場で考えると、男性に征服されることを通して夫婦の関係とか“家庭”という半ば閉鎖的な小社会に居所を得ることができる。
「男に征服された女」として従順に振舞っておれば、自分の人生は安泰であるということにもなるわけです。
つまり、世間的な通念としての男女関係の「征服・被征服」の関係は、「男性がその暴力性を使って女性を征服したつもりが、実態は女性が男性を征服して我が居場所を得、男性に奉仕させる関係」を確立していったというのが真相であるということにほかならないのです。



こういった見方の基底にあるのは“制度化された男女関係”ということです。
そのことを善蔵は「かういつた状態で男性が、女性といふものに征服されてゆく動機にぶつかつた気がされ」と表現しています。
「動機にぶつかった気がされ」の「動機」とは社会の中に組み込まれていて、善蔵には其の正体は闇の中に姿を隠したままであるけれども、その存在がなにとはなしに感じられてきているわけです。
男女の性的関係が“制度化された関係”の中にはまり込むと、その関係は「犬も喰わぬ」ような、いわゆる閉鎖的な関係になっていきます。
そして善蔵が「多数の男性、夫とか云ふものが彼女らのために、犠牲にされてきてゐたかと云ふこと」に思い至ったということは、彼が生きている時代や社会の男女関係を規定している“制度”ということを感じ取り始めているということであると思います。
それが「やはり淋しい気」をおこさせるのであり、「酷く恥しい」思いにせき立てるのです。

要するに、任意の地域社会(村落共同体から国家まで)における男女関係、あるいは個人間の性的な関係はその社会を成り立たせ、運用しているなにがしかの“制度的なもの”に規定されているわけですが、明治維新以降の近代日本社会を規定していた“制度的なもの”に対する認識が、善蔵の意識にあってはまだほとんど自覚されていなかったということが言えると思います。
しかし、私は「それが私小説作家葛西善蔵の創作者としての限界」などというつもりはありません。
自覚には至ってなくても何事かを感じとっていたのであり、その感じとり方は、善蔵の同時代の中ではむしろセンサーの鋭敏さ、深さにおいて先端的ではなかったかと考えます。

善蔵の同時代とは、「新しい女性」が活発な活動を展開していた時代であり、大杉栄や辻潤や伊藤野枝らの所業が社会を騒がせていた時代のことです。
おそらく彼らのほとんどの人たちが無畏意識の状態にあり、ひいては現代のフェニミズムやリベラルを支持する人たちの言動を無意識のレベルから拘束している近代日本の“制度的なもの”に、その触覚の先端は触れているように、私には感じられるのです。








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初期「私小説」論――葛西善藏(5)二人の女性の言葉

2024年03月14日 | 初期「私小説」論
葛西善蔵は22歳で同郷(青森県)の女性と結婚し、数年の間に子供も設けながら東京での生活を続けますが、経済的には困窮状態が続いて生活できなくなります。
妻と子供たちを実家のある青森へ帰し、善蔵は単身東京に住むことになる。
33歳のとき善蔵は鎌倉の建長寺の塔頭(たっちゅう)に転宿して、ここを拠点にして創作活動がつづけられます(建長寺は臨済宗の大本山として有名なお寺です)。
建長寺の境内にあったという茶店を営む一家に一人の少女がいて、善蔵に三度の食事を運ぶなどして身辺の世話をする役割が与えられた。
この少女の名をおせいと言い、善蔵が死ぬまでの善蔵の身近にあってかかわり続け、また小説にもたびたび登場してきます。

日に三度の食事の世話と、夜は善蔵の酒飲みにつき合わされていたので、二人はやがて男女の仲となる。
恋愛とか不倫というよりは善蔵の性欲の押さえ難い衝動の結果であるかのごとく小説では書かれてますが、
おせいのほうは善蔵に対して恋情を核とした複雑な信条を断ち切りがたく有していたように推測されます。
二人の仲は一種の腐れ縁の様相を呈してきて、善蔵はなんとかおせいとの関係を断ち切ろうとあがき続け、ときには二人の間で罵りあいや、今で言うDV沙汰のような騒動を起こしたりします。
『蠢く者』という小説がそのあたりのことを書いていて、そこでおせいの棄て台詞が発せられて、善蔵を圧倒してしまうのです。
ここでもその箇所を引用しておきましょう。
そこに至る経緯が了解されていないとよく分らないかとも思いますが、「新しい女性」の動向だの米騒動で活躍した女性たちだのを背景に置きながら、現代詩を読むような気分で読んでいただくのも一興かと思います。

「こん畜生! こん畜生! お前はあたいのあれを忘れたね。あたいのあの、大事なあのことを、忘れてゐるんだねお前さんに見せこそしなかつたが、もう形がちやんと出来てゐたんだよ。丁度セルロイドのキューピーさん見たいに、形がちやんと出来てゐたんだよ。あたいが誰にも気付かれないやうに、そつと裏の桃の樹の下に埋めて、命日には屹度水などやつてゐたんだよ。この十九日で、丁度になるんだよ。それを貴様は何だ! 怳け臭つてうゐやがるんかよ。わすれてゐやがるんかよ! この畜生野郎が! そんな薄情者だから、田舎のあんないい子供さんたちのことだつて、見てやれないんじやないか。手前の薄情から、あたいのあれを、呪い殺したも同様じやないか。あたいはね、黙って他所へは嫁にも行けない身体なんだよ。白を切って他所の赤ん坊を産むことの出来ない身体なんだよ。だからこそ手前のやうな老ぼれの傍らにもゐたいと。足蹴にまでされても、でていかないんじやないか。それが貴様にはわからないのか! わかってゐてもわからない風をして、今まで虐め通して来たんだね? さあ、お前の方こそ、はっきり云ってご覧! それがお前に云へたら、あたいはこれからだって、出て行くよ。出て行ってやるとも! 身投げしたつて、構ふもんか! さあ、はつきりと云つてご覧! それとも、あたいの口から、こんなことまで言ひ出させたたくつて、斯うして来たのか? ……エーン、口惜しい! 口惜しい!」



さて、一方の善蔵の妻は、遠く青森の実家からこんな手紙を書くのです。
「あなたどうぞおせいさんを大事にしてやって下さい、かなしい思ひをさせないで下さい、おせいさんをいぢめないで下さい、あなたにあの様にいぢめられてどんあに辛いことでせう。可哀相です。今に子供さんもお産れになるのですから、大事にしてやつて下さい。……あなたもどうするお考へですか?もつともつと働いてくださらないと実に困ります。……昨年の暮れお出での節、あんなにまで言はれたことを、私とても忘れることはできません。ですが、永いこの先も私の心は決して人に恥入るやうなことは致しません。思へば思ふほどかなしう御座います……
私の手紙を見ておせいさんをいぢめてはなりません。どうか子供たちや私のことはお忘れにならぬやうにして下さい。おひまが御座いましたらお手紙を出して下さい。私はあなたのお便りを楽しみに待つて居ります。いろいろつまらぬことを書き並べてお気にさはりましたら幾重にもお許し下さい。時節柄御大切に遊ばさる様お願ひ申し上げます。」(『妻の手紙』より)」


現代のフェミニストはこの手紙をどう読むか分りませんが、少なくとも善蔵は、これで二人の女性に対して頭が上がらないという気持を持ったにちがいありません。
そして二人の言葉をきちんと書き残しているところは、呵責の念に浸りいる善蔵の心がうかがわれます。
「新しい女性」の思想と行動を充分に踏まえた上で、しかしそのまなざしは名もなき市井の女性たちの現実に向けられ、目線を低く置きながらも人間の実相を捉えていこうとする小説家の奮闘に、私は深く心を動かされます。
善蔵は本質的にはフェミニズムの精神を持つ人であったと、今風にいえば私はそのように考えます。









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初期「私小説」論――葛西善藏(4)「女性」へのまなざし

2024年03月07日 | 初期「私小説」論
日本の私小説が描き出す女性たちはそ意外に思えるほどに個性的な存在感を発する人が多いんです。
それはそれで日本文化論の一つのテーマになりそうで、いつかそのことを書いていく機会に恵まれることを願ってます。

葛西善蔵の小説も例外でなく、特に印象的な女性が数人ほど認められます。
代表的なのは善蔵の妻と、おせいという、善蔵の十代後半から死ぬまでずうっと善蔵の身辺にあって世話を続け、また善蔵の子を産んで育てていく女性がいます。
妻もおせいも善蔵の小説のなかでそれぞれにインパクトのある言葉を残していて、後世の読者が彼女たちに言及する文章ではたいてい引用される定番のものがあります。
ここでもそれを無視することはできませんが、それを持ち出す前に、どういう女性観が善蔵文学の基盤をなしていたかというところを、前もって紹介しておきたいと思います。

時代背景はもろに大正デモクラシーが盛りあがっていた時期で、男女平等や女性解放の思想も新聞・雑誌を賑わせていました。
平塚雷鳥主宰の青鞜社に志を寄せる「新しき女性」たちの活動や、大杉栄・伊藤野枝のスキャンダルなど、善蔵の耳にも入っていないはずはなく、それどころか文学的な意識からの影響もかなり受けていたような気配も感じられます。
(善蔵は影響を受けた事柄をだれにもわかるように表明するということがあまりなく、むしろ心のなかに貯蔵して時間をかけて咀嚼するタイプのようなので、そういったことを見逃す読者も多いかと思われます。)



小説作品のなかから印象的な文章を2,3取り上げていきましょう。
大正8年に発表された『遊動圓木』に以下のような、会話とそれに続く地の文が記されています。
(“私”の友達である若夫婦の、男性のほうとの会話です。)

「浪子さんと云つちやあいけないだらうか?」
「いけないよ……」
「なんて云ふの? 奥さんと云うのも余り若いんで、少し變じやないか?」
「そんなことないよ。やっぱし奥さんと云つてやつて呉れ給へな」と、彼は云った。
 斯うしたところにも、彼の優しい心づかひが見られて、私はこの年下の友達を愛せずにはゐられなかつた。しかし私には、美しくて若い彼の恋人を奥さんと呼ぶのはなんとなくふさはしくないやうな気がされて、たうたう口にすることは出来なかつた。


この小品の中でこの会話箇所は妙に印象的で、作者の意識においてはこの会話にスポットライトを当てようとしている作為性が感じられます。
女性を彼女の社会的な所属を表す名詞によってでなく、彼女自身の名前で呼ぼうとするこだわりに、当今の私たちなら一人の女性を一人の人間として認めていこうとする意識を、無理なく読み取れると思います。


大正十年発表の『本来の面目』という作品では、善蔵の実父の後妻すなわち善蔵の義母の死が語られています。
「本来の面目」という言葉は、禅宗に伝わる著名な公案「父母未生以前の本来の面目は如何」からとられたもので、仏教的な意味での「自分は何者であると自覚するか」を一人一人の人間に問うものです。
『本来の面目』は禅の哲学に触れるようなモチーフが散らばめられています。

義母は善蔵の小説の中で何度か登場しますが、私の記憶では、父を尻に敷き葛西家の家族・親族に対しては横柄に対応する、性根の悪いツッパリ女性として描かれていて、善蔵も苦手意識をもっていたようです。
今日の我々の眼からすると、義母の意識構造は当時の「新しき女性」のそれではなく、むしろ伝統的封建主義的なそれであり、いわば日本の家父長制の中を生きてきた人の人格を示しています。しかし善蔵にはその自覚はありません。
そもそもこの時代には「家父長制度」という言葉そのものが極く一部の人にしか知られてなかったと思われます。
その義母の死に臨んで善蔵は以下のように述懐するのです。

「結局義母は、義母自身の本来の面目を発揮し尽して、死んで行ったのである。彼女の活き方もさうだつたが、死方も、やはり徹底的だった。彼女は自分の死と共に、後に遺されるであらういろいろな私たちとの俗因縁をも、綺麗に払拭して死んで行った。彼女は私たちの佛になることすら、拒んだ。さうした義母の気持にも、自分は好感を持つことが出来た。」
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初期「私小説」論――葛西善藏(3)「父と子」という呪縛(続)

2024年02月29日 | 初期「私小説」論

善蔵の家族は東京で生活するのが困難となり、夫妻は別居することになります。
妻は二人の娘を連れて青森県に帰り、善蔵は鎌倉のお寺の下宿で長男と一緒に暮らします。
父子の暮らしは、善蔵が毎日のように酒を飲んで酔っ払ってしょっちゅう怒鳴り散らしていたので、息子にしてみると嫌な父親であったにちがいなく、次第に孤独感を深めていったようです。
息子が16歳のとき窃盗の事件を起こして、警察の取調べを受けるという事件が起りました。
その顛末を書いて『不良児』という作品ができています。
善蔵は真相を知ろうとして家出した息子を探したり、見つけて警察に連れて行ったり、窃盗にかかわる息子の仲間を待ち伏せたりするなどしてあたふたとするのですが、
その経過の中で息子との関係や自分自身の若気の至りを思い起こして反省したりするのは、まあ常套的な筋運びと言えます。
しかし締め括りの最終段落の文章が、私には実に含蓄深いものに感じられました。

「(“私”と一緒に長男の探索と保護に協力した人たちとの)別れの晩飯をたべ、行李と夜具を俥屋に運ばせ、三人は八時過ぎに出て行つた。せめて二三日も井出君に残って貰はうかとも思つたが、やはり全然一人になる方がいいと思つて、明日から永い間続くであらう幽閉の日々を、このがらんとした十畳八畳打越しの暗い室で、謹慎して送らねばならないと、覚悟を極めた。」

ここに書かれている「明日から永い間続くであらう幽閉の日々」とは何を言おうとしてるのでしょうか?
ふつうならば父親としての反省と悔恨の日々を送るんだろうと考えるところですが、それが「永い間続く」と予測するのはなぜか、なぜ「幽閉の日々」などと大層な自己懲罰を自らに課そうとするのか、考えどころのように思われます。
私の答えは、“私”の思念を襲っている反省や悔恨の念は単に父親としての反省と悔恨ではなく、「父と子」という関係性を超え出るステージが目指されたものではないかということです。しかしそのまなざしの向かう先は、暗い闇の中に溶け込んでいく。
それゆえに予感される「永い間続くであらう幽閉の日々」であると思われます。


さて、『哀しき父』の発表が大正元年、『不良児』が大正11年。
その間にも実父のことや、自分が父親としての立場に立って書いたものなど何篇かあって、そして晩年(大正14年)の『弱者』という作品に至ります。
この作品は自分の来し方を総括するような味わいがありますが、今まで善蔵の背後にあって見えなかった、あるいは闇に包まれていた世界の方向に少しばかり視線の方向が向き始めていることを暗示するような叙述が現なされてきます。
「父と子」のテーマの連なりで言えば、次のような文章がそれです。

「何が自分を、こんなにまで無力にし、自分を弱らせたか。自分の病気、過度な飲酒――それが大部分の原因をなして居るとは思ふが、むしろそれ以上に自分を弱らせてゐるものの本体――さういつたものが、此頃稍々明瞭に解りかけた。つまり、自分は日本的な古伝統主義者であり、家族主義者であり、その亡霊が自分を脅かしてゐたのだ。その亡霊の呵責の前には、自分は実に無抵抗な弱者である。それが永年の間、自分について廻り、生活的にも、芸術の上にも、先刻も話したやうな憂鬱妄想狂たらしめてゐるのだ。自分としては、現在の此の境地にまで押し詰められた場合として、さう云ふ感情を憎み、呪い度くさへ思ふのだが、然乍ら自分のやうな、本質的な弱者がかうした埒外に飛び越へることは難しく思はれないわけにゆかない。」

この反省は、「父と子」のテーマに限定される性質のものでなく、女性関係や親族、同業仲間、地域社会との関係など、すべてを含めての、いわば総括的な反省とも言えるものでもあるでしょう。








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初期「私小説」論――葛西善藏(2)「父と子」という呪縛

2024年02月22日 | 初期「私小説」論

葛西善蔵が生涯抱え続けた苦しみや不安――そしてこの苦しみや不安を自分にもたらしてくるものの得体がしれないという強迫観念――は、外延的に捉えるといくつかのカテゴリーを立てることができます。
すなわち、父と子、女性関係(今の言葉で言えば、不倫関係)、病い、世の中とか文壇とかの世俗社会、そして芸術という幻想、などです。
このうち、父と子、女性関係、病い、の三つテーマを取り上げて論じていきたいと思います。

今回は、「父と子」の問題に迫りましょう。
善蔵の小説が文壇で評価され、小説化とての第一歩を踏み出すきっかけとなった作品は、善蔵の代表作の一つとも言われてますが、
タイトルが『哀しき父』というもので、「父と子」が善蔵文学の支柱をなすテーマの一つであることが暗示されています。
具体的には、善蔵を生み育てた実の父親、そして若くして家族を持った善蔵自身が父親であることが、小説のモチベーションとなっています。
これはいうならば善蔵という一人の男子が「実の父の子」であると同時に、自分で作った家族の中では「子の父」であるという二重の構造の中での問題として意識されています。
つまり「子であると同時に父である」という二重性ですね。

『哀しき父』では、「子の父」としての自分の意識のもち方が問題視されています。
若い父親であった善蔵はこんなことを
「…暗い宿命の影のやうに何処まで避けてもつき纏うて来る生活と云ふこと、また大きな黴菌のやうに彼の心に喰ひ入らうとし、もう食ひ入ってゐる子供と云ふこと、さういふことどもが、流れる霧のやうに、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹き込むのであった。彼は幾度か子供の許に帰らふと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心をもって、最も元始の生活を送って、真実なる子供の友となり、兄弟となり、教育者となりたいとも思ふのであった。
けれども偉大なる子は、決して直接の父を要しないであらう。彼は寧ろどこまでも自分の道を求めて、追うて、やがて斃るるべきである。そしてまた彼の子供もやがては彼の年代に達するであらう、さうして彼の死から沢山の真実を学び得るであらう――」


現代の言葉で言うと、この文章から感じとれるのは“リベラル”な思想性というものでしょう。
吾が子を、歳はまだ幼いながらも一人の人間として、しかも「父と子」という血縁的な枠組みからも解き放って見なそうとしています。
しかしまさにそのことが父たる善蔵を苦しめているのです。
その苦しみの実感を、家族を持ち子を持つ父となることで、芸術家を目指そうとする善蔵は持ち始めたわけです。


他方、子としての善蔵の実父に対する感情は、一種親愛と崇敬の感情が基調となっています。
実父は穏やかな性格の人のようで、父親の威厳を露骨に撒き散らすようなタイプではなく、
むしろ後妻には頭が上がらないような柔弱さも感じられるような人ですが、善蔵にとっては超越的な規範を示してくるような人格として捉えられています。

父親は晩年、郷里の青森の家を処分して東京に出てきます。
出郷を知らせる電報が善蔵に届いたとき、電文を「チチシス」と読んで善蔵は悲嘆にくれ、父の亡霊を見ます。
次の文は、その時の心の内を伝えようとするものです。

「…星もない暗い空を仰いだが、月とも思われないに雲の間がひとところボーと黄色く明るんだ。「父だ!」とその瞬間にさう思つた。父の亡霊なのだ。不孝の子を父は遥々と訪ねて来て呉れたのだと思ふと私はまた新しく涙が出て来たが、私は父を慕ふ心持で胸がいつぱいになつた。「お前も来い、不憫な子よ。お前の三十五年の生涯だって結局闇から闇に彷徨してゐたに過ぎないんだが、私の年まで生き延びたつて、やっぱし同じことで、闇から闇に消えるまでのことだ。妄想未練を棄てて一直線に私のところへ来い。その醜態は何事だ!」」

ここには善蔵の倫理意識を統制する規範としての「父の権威」といったものが彼に重くのしかかっているこことが語られているように感じます。








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初期「私小説」論――葛西善藏(1)生涯脅かされ続けた不安の感情

2024年02月15日 | 初期「私小説」論
今回から本題に入ります。
ここでの初期(活動期間が明治末年~昭和初期)私小説作家とは、葛西善蔵、近松秋江、宇野浩二の3作家のことで、今日ではあまり読まれていない様子なので、
各作家ごとに、導入部は概説的な紹介から入っていく叙述方式をとっていきます。

トップバッターは葛西善蔵です。
善蔵のイメージは、貧窮、飲酒、病気の3点セットで四十余年の生涯を苦しみ続けた作家です。
自分の身辺に起ることだけを書き続けましたが寡作で、陰気で重苦しく、想像力は乏しく技巧も卓れず、などと近代文学史の中での評価は散々なものがありますが、
私が今回読み直したところでは印象がまったく異なるものでした。

自分の身辺に起ったことしか書かないので想像力が乏しいということについては、そんなことはなく、
文章がよく彫琢されていて、そのために時間がずいぶん費やされている印象を受けます。
特に晩年に進んでいくにつれて、言葉の重みが増していきます。

世の中の時事に疎いとか、思想的なバックボーンが弱いとかとも言われますが、
私は逆に、世相をよく観察しているし本もよく読んでいるし、思想的な深さ――というよりも思考の錘りを深く沈み込めていく様子が感得できるのです。
原体験とか、本から得た見識とか、突き詰めて考えたこととかをあからさまには表明せず、
いわば懐の奥深くにしまっているので外からは分りにくいけれども、
その言説空間のはしばしに豊かな知性のたゆたいのようなものが感じられて、
やはりただ者ではないという感慨に引き込まれていくところがあります。

晩年は想像力も干からびて、ただ日常のふるまいをただあるがままに書き起こしただけの退屈な心境小説で誤魔化している、などと酷評もされているのですが、その読みは浅いと私には感じられる。
むしろ“私小説”という方法が煮詰められていって、確かに精神の錯乱している局面も感じさせながらも、現実と虚構の境を紛らかした独特の“心境小説”が創造されているように思われるのです。


善蔵が何と戦っていたかということは、その作品世界をうかがっても具体的な事実には逢着できません。
初期私小説作家は「敗残の意識」を原体験として有している点で共通するものがあると「序」の2回目で書きましたが、その「敗残の意識」が「戦い」の情念を醸成していくという観点を取るにしても、善蔵の原体験として何に敗北したかは具体的にはあきらかにすることができません。

しかし敗北感を漂わせる文章は生涯の作品を通して至るところに見出すことができます。

まずは文学的出発のあたりから拾ってみましょう。
「悪魔」という作品の中に、以下のような叙述が見えます。(ここでは主人公は三人称ですが、作者自身の若き日のエピソードです)

「(秋の一日、印刷所の校正室に閉じこもった状態で外の様子を)終日窓から見下ろそうという気になれずに過ごしてしまった。何かしたいらいらと脅迫されておるのである。つつかれて居るのである。何者が俺を虐げてゐるんだらう……? あの煉瓦の建物かな? アスファルトの道路かな? 電車かな? 自動車かな? 着飾った生甲斐のありさうな顔をした人間どもかな? が何にしても俺は虐げて居るに違ひない。俺はあの建物や道路を見ると、慟哭したくなる。おお、大地なる母よ!……。

このようないわば名状し難い不安の感情が、その正体を明らかにしないまま生涯を通じて善蔵を脅かし続けるのです。









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初期「私小説」論――序(5)「見えない背後の空間」に潜むものとの戦い

2024年02月08日 | 初期「私小説」論
私小説において予め設定されている「見えない、あるいは気付かれていない世界」というと、よく言われるのは、登場人物たちの内面的世界すなわち内面の感情とか心理とかの心的現象の領域の事柄があります。
言うところの、“私”からは向かい合っている相手の心理や内的感情とかは具体的には見えていないし、書くこともできないというルールがあって、描写するのは飽くまでも相手の人間の言動や表情の変化とかに限られています。

しかしここで言う「見えない、あるいは気付かれていない世界」はそれとは違って、“私”の背後にあるがゆえに“私”の眼には見えない、あるいは気付かれていない世界のことを言います。
私小説の読み方の一つとして、作者自身も気付いていないこの「見えない、あるいは気付かれていない世界」をどう見出していくか、ということがあります。
作者自身はその世界の存在を感じとっているかいないかを考えてみたり、あるいはその世界を作者が次第に感じ取り始める過程を読み取ったりするのも、私小説を読むことの醍醐味の一つであると言えるかと思います。

初期私小説の作家たち――ここでは、近松秋江、葛西善蔵、宇野浩二の3人――の印象は、一方で敗残の意識を有しながら、他方でその敗残をもたらしたものと戦っているというイメージがあります。
ただし当初は作者自身にその自覚がないところから始まっていきます。
そしてそれが次第にそのまなざしが自らの背後の暗闇に向けられていく。その過程が実に興味深く、初期私小説の独特の世界を形作っていったように感じられるのです。


では彼らは何と戦っていたのか。この問題にアプローチしていくことをこの初期私小説論の中心的なテーマとしていくつもりです。
これを明らかにしていくことを通して、「日本の思想」の鉱脈を探り当てていくことができれば、それをもってこのブログの最大の成果としたいと考えています。

初期の私小説作家が何かと戦っているという印象は、たとえば葛西善蔵の例でいえば、善蔵の同郷の後輩である太宰治も善蔵の小説の中に読み取っています。
「善蔵を思ふ」という作品の中で表現者善蔵を、曉雲を生んだ夕焼けに喩えながら、こんなふうに書いています。
「そのとき諸君は夕焼を、不健康、退廃、などの暴言で罵り嘲ふことが、できるであらうか。できるとも、と言下に答へて腕まくり、一歩前へ進み出た壮士風の男は、この世の大馬鹿野郎である。君みたいな馬鹿がゐるから、いよいよ世の中が住みにくくなるのだ。」

善蔵の戦いの相手はこの「壮士風の男=大馬鹿野郎」であると言えば、たいていの読者は肯くことでしょう。
問題は、この「壮士風の男」がそこから襲いかかってくる、背後の闇の中に潜むものです。
善蔵がその文学的生涯を通して戦い続け、基調としてはその都度敗北を余儀なくされながら、ついには廃人状態になって身を亡ぼしていった、その相手は、善蔵自身も充分には自覚化されないまま、しかし晩年において次第にそのまなざしが向けられていき始めた、そういう存在あるいは事象です。
そのまなざしはどのように向けられていき、そしてそこに見えてきたものはどんな姿で現われてきたのか、そのあたりのことにアプローチしていきたいと思っています。









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初期「私小説」論――序(4)「見えるものは常に部分である」ことが“内部”であることの特徴

2024年02月01日 | 初期「私小説」論
デザインという職種にはいくつかジャンルがあって、インテリアデザインもその一つです。
インテリアデザインとは日本語では室内装飾とか、略して内装とかいいますが、
住居空間ファッションブティックや飲食店や理容店なんかの商店でよく眼にすることが多いです。
そのインテリアデザイン業界のいわば大御所的な存在のデザイナーの方に昨年インタビューさせていただく機会がありました。
その人の発言の中に「見えるものは常に部分であるということが、内部という空間現象の大きな特徴である」というのがあって、
これを聞いたときに、私小説にも通じるところがあるなと深く合点したものです。

私小説で叙述される世界、“私”が体験していく世界を“内部の空間”と見なした場合、
そこで見えている世界は原則的に「常に部分である」と見なすことができます。
まあこれは、主人公が三人称で語られる客観小説あるいは全体小説との比較で私小説は部分小説とか一視点小説とか言われるように、
わざわざインテリアデザインとのアナロジーを出すまでもないかもしれないのですが、
しかし私には、インテリアデザインと私小説に共通するところがあるという気付きが新鮮に感じられたものです。
そして両者のアナロジーを考えていく中で、私小説というのは、その表現空間を言葉でデザインしていく作業ともかんがえられるなあとも思えてきました。
“私”が体験していく世界は、現実には即物的・散文的な“あるがまま”の世界に過ぎなくとも、
それを言葉を媒体として使って描写し物語っていく作業は、あたかもその空間をデザインしていくかのようであり、
ひとつの小説空間として提示されるということは、それなりに整序された世界であると見られることが納得されます。
いかに粉飾なく、“あるがまま”という体裁で書かれているにしても、やはりどうしたって“つくりもの”という枠組みを超えられることはないと私は思います。

それ以上に重要なことは、私小説的叙述は「全体を描写することができない」ということです。
あるいは逆に、世界に対する認識の在り方として、「全体を描写する」ことは不可能であると断念するところから、私小説という表現手法が生れてきたという解釈ができることです。
そして私小説の特徴として、「見えない、あるいは気付かれていない世界を常に含んでいる」、そしてこの「見えない、あるいは気付かれていない世界は小説空間の中に埋め込まれている」と考えることができると思います。

インテリアデザイナーの発言に出会ってからは、私の中で私小説の読み方が少し変わってきたかな、と感じられるフシがあります。
それは、それぞれの私小説の「見えない、あるいは気付かれていない世界」がどのようなものであるかを想像すること、
あるいはその創作作法の中に、「見えない、あるいは気付かれていない世界」を探り出そうとする意識が作者にあるかどうか、あるとすれば、そのアプローチはどのように試みられているかということです。
この観点を持ちつつ私小説を読んでいくと、また新しい興味と感興が呼び起こされてきます。

この読み方は、作者の意図を超えて過剰な読みに偏していくこともあるかとも思いますが、しかしそれもまた小説を読む愉しみの一つであることには違いありません。







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初期「私小説」論――序(3)私小説が明治末期に生まれたのはなぜ?

2024年01月25日 | 初期「私小説」論
日本の“私”小説は20世紀の初っ端に極東アジアに生まれた現代文学の一様式として読むことができると私は思っていますが、では、なぜこの時期に生まれてきたのかについて、少し見ておくことにしましょう。

文学史の伝えるところでは、1900年前後(明治20年代~40年代)に盛んだった自然主義文学からの展開として私小説の生成が考えられてるようですが、
この場合、作家の身のまわりの出来事からモチーフを得て、それを「あるがままに」語ろうとしたのが私小説、などと解説されています。

当ブログでは別のブログ〈「侘び」のたたずまい〉で論じてきた、「日本の近代思想の領域で歴史的現実とリアルに闘争してきたのは、人文・社会系言論業界で文学創作の世界だけである」という観点から私小説を論じようとしているので、その観点からの私小説誕生の必然性を見るのが自然かと考えます。
この考えからすれば、「日本帝国による地方自治の支配体制が末端にまでおよんで完成されていく段階にあった」ということを、私小説創成期の社会的・歴史的背景として設定できるでしょうか。

柄谷行人の『日本近代文学の起源』は、“自然”の発見、 “告白”という制度の導入、“内面”の発見、“病気”の発見、 “児童”の発見、というふうに、西洋近代文学をモデルとしつつその造形(構成)の組み立てをバラしていく方向で日本の近代文学が誕生してきたことを論じていますが、
その伝でいけば、私小説の創成には“私”の発見があったというふうに考えることができます。

「“私”の発見」とはどういうことでしょうか。

『日本近代文学の起源』の中の私小説について触れている箇所で、柄谷は志賀直哉や芥川龍之介の文学の私小説的成り立ちを引き合いに出しながら、
「「私小説的なもの」が支配的な潮流を形成したのは、一般に近代「文学」の配置が、不自然なものと思われたからである。」
としています。

ここで出てくる「配置」という用語は、絵画で言えば西洋画が創案した遠近法、文学で言えば「主人公を三人称で語る物語文学」の、「デカルト的空間構成」の手法のようなものです。
それはいわば、体系的な空間構成法ですよね。
日本の近代文学の起源あたりに布置する作者達の感性はこの西洋近代の造形作法を「不自然」と感受し、(自覚的か無意識的かにかかわらず)その解体作業を徐々に進めていくのです。

この解体作業を進めていく中で「私小説」という方法が案出されるわけですが、そこでの
“私”の機能は、対象に向けての“観照”(身体感覚を伴った認識活動)という行為を介しての世界(体系)の断片化、ということであると考えられます。

柄谷はまた「大正期の文学は、明治二十年代に確立された「文学」に対する潜在的なリアクションとして位置づけられるだろう。」
とも書いてますが、ここでの「潜在的なリアクション」という言い方はいささか曖昧で、具体的にどういうことを言ってるのか、よく判りません。
これは“私”がどのように発見されたのか、ということにかかわる重要なところです。

私は、「“私”の発見」とは「作者を“私”として、フィクション(書かれる世界)の中にせり出していく」ということではないかと考えます。
ここでは「作者=語り手」「作者=主人公」ということが起こってきます。
これは西洋近代小説の作法とはまったく位相を異にした、日本の近代文学のオリジナルな小説作法であると私は思っています。










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