モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

「初期私小説論拾遺」(7 最終回)”自然”はどう立ち現れてくるか――近松秋江の場合

2024年10月10日 | 「‶見ること″の優位」

近松秋江の数多ある短編集のなかで「青草」という植物類を現わす普通名詞だけをタイトルにつけている小説は珍しい。少なくともこの小説が収められている全集第一巻では、39篇の作品の中にこの一篇だけです。そのほかはほとんどが人事に絡んだタイトルがつけられています(「雪の日」「春の宵」「春のゆくゑ」という時候を表すものはありますが)。

四百字詰原稿枚数にして四十数枚ほどの文量のなかで「青草」という言葉が出てくるのは3箇所で、しかも各々極く短い一文に収まっています。
三番目に出てくるのは小説の最終行をなしているのであとで引用しますが、途中2箇所の文を、解説抜きでただ文だけをここで紹介しておきます。
(浅海が散歩中に通りがかった)溝の縁には足の踏み場もないまでに盛に青草が萌えてゐた。」
「青草を蒸すやうな強い日が照った。自分の感情の疲れた浅海は、焦々(いらいら)する心地で思ひに任せぬ日を消していた。」



小説の大筋は、主人公浅海(中年の独身の男性)が逗留する大阪の南海電車沿いの温泉街に、浅海が独身の恋情を思い詰めている遊女江口が訪ねてきて、しばしの時を過ごすというだけの話で、物語的な感興は特にありません。
道具立てとしては、“桜”が一つのキーワードになっています。
小説の冒頭は、浅海が逗留する宿楼の庭園の桜が盛りを過ぎて花びらを散らしていく時候がが描写されています。
回想シーンでは、浅海と遊女江口が連れ立って文楽の「義経千本桜」を観劇している場面が語られ、爛漫たる春の景状に飾り立てられた舞台が描かれます。
浅海が江口を思い詰める気持は、尾崎紅葉が創作した『金色夜叉』の間寛一、『多情多恨』の鷲見柳之介の、「切ない悲恋に身を慨(なげ)き、人を怨」む心情に重ねて表明されます。
そこには以下のような文章が置かれています。

「近頃芸術の自然を説く者の作に、理由(わけ)もなく唯嫌つてゐた柳之介が、友人の妻お種を只管(ひたすら)懐しがるに到る、如何にも自然な前後の情景を宛(さ)ながらに描いてゐるのも無かつた。」

青草は“桜”との対照の中で、小説空間のほんの一隅にさりげなく位置を占めるのみです。
その“桜”というのも、盛りを過ぎた散り際の桜であり、文楽の舞台においては、残酷な折檻を受ける中将姫の物語や、義経千本桜における静御前の吉野山の別れの舞いを伴った、、陰影のある桜です。

そうして小説『青草』の最後は、浅海と江口が宿楼で寿しを食べたりして数時間を過ごしたあと、大阪に戻る江口を南海電車の駅まで送っていく道中のエピソードを叙して閉じられます。その場面を写しておきましょう。

「『もう帰るわ。』
『ぢゃ、電車まで送ろう。』
先刻の拾い草原にまで出ると、
『ちょっと待って頂戴。私、此処に小用(しい)をするわ。』
『ぢゃ、今自家でして来ればよかったに。』
『でも、可笑いわ。階下(した)で屹度(きっと)さう思ふもの。』
さう言ひつつ、早くも暗の中に白い脛を捲くるのが見えてゐた。
翌朝、浅海は、また其処を散歩すると、青草は伸々としてゐた。」


桜の艶美を愛でるのも興趣あるところであるが、私はどちらかというと名も無い青草の、伸々と萌える景状に、素直に心を惹かれるものがある、と言おうとしているように筆者には感じられます。
これが、遊興の巷を彷徨し遊女との交情を重ねてきた近松秋江の、“自然観”の到達点とは言えないでしょうか。


今回をもって、『初期私小説論』のシリーズを終えます。
次回からの企画は「日本近代人の魂のゆくへ」を考えています。
しばらくお休みをいただきます。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初期私小説論拾遺」(6)”自然”はどう立ち現れてくるか―—葛西善藏の場合

2024年10月04日 | 初期「私小説」論

日本の小説家は、年を重ねていくにつれて“自然”との親和性を表明する傾向を示すように見えますが、当ブログで取り上げた三人の私小説作家の場合はどうでしょうか。
ここでは三人のうちの、葛西善蔵と近松秋江の場合を見てみることにします。
(宇野浩二のついては、まだ確定的なことが言えないので、ここではパスします。)

今回は葛西善蔵です。
葛西の小説群中には、自然の情景描写の巧みであることを感じさせる文章が散見できますが、トータルな形での自然体験を表現したものとしては、生涯の末期にさしかかるあたりで書かれた「湖畔手記」という作品が、秀作として知られています。
この作品は、葛西の心身がぼろっ布のように崩壊していく過程において、一瞬の期間(1ヶ月ほど)ではありますが、独り奥日光の山懐に抱かれた日々を過ごした時の体験がモチーフになっています。
とはいえ、奥日光の自然への親和感を表明するというふうな語りではなく、自然の懐にあっても、自分の心身や生活の絶望的に追い詰められた状況や、情婦おせいや故郷青森に残したままの妻との確執、そして貧窮と病いに苦しむ同じ文学仲間の死の知らせなど、葛西の頭の中に立ち込める重苦しい想念が語りの大半を占めています。



そういう中で、私にとってとても印象深い叙述はつぎのような文です。

「湯瀧のさき、十五町ほど湖畔の道を、戦場ヶ原を一眸の下に眺められるあたりまで、道々花を摘みながら、ゆつくりと歩いた。(中略)
自分のかかりの女中は、あい子と云つた。二十だと云ふが、十七八にしか見えない、素直なやさしい娘である。彼女は自分(語り手)の採つて来た花を帳場に持つて行つて、一つ一つ紙片に名を書きつけて来て呉れた。――秋グミ、大カメノキ、ツリガネニンジン、ゴマナ、ニガナ、ハクザヲ、ワレモコウ、ミヤマウド、ヒヨドリバナ、アキノキリンソウ、コウゾリナ、ヤマハハコ――自分の知つてゐるのは秋グミだけだつた。」


ここには、“自分”が中禅寺湖畔の道を散策しながら摘んできた花の名前が列挙されているわけですが、事物を名指していくことは事物に各々の意味を見出していくことであると解釈すれば、それら意味を帯びた花々を通して、中禅寺湖畔の“自然”を多彩な意味で彩られた空間として体験したことを伝えているように、私には思えます。
それは“自分”にとって、自然が新たな奥行きをもって開けてくるような実感を得た、あるいは心の内に所有するような体験を得たということを意味しているようにも思えます。
そして花々の名前を告知してくれたあい子という娘を含めて、“自分”が宿泊する宿には六人の女中(いずれも一七八~二十歳ぐらい)がいるのですが、彼女たちがあたかも山(森)の中の妖精のように感じられてくるエピソードです。

上記引用した文は小説の始まり近くのあたりでいきなり出てきます。
その前には、以下の文章が置かれています。

「今日は東京で、親しい友人の著作集の出版記念會に、自分も是非出席しなければならないのだつた。それも駄目、あれも駄目、仕事のほうも駄目、皆駄目なことになるのだ。斯うしてすべての友人からも棄てられ、生活からも棄てられて、結局生ける屍となるか、死せる屍となるか、どちらかなんだろうが、惨めな悲鳴を揚げつつ逃げ廻る愚か者よ! 自分は自分のその、惨めな姿を凝視するに堪へない。」

この叙述から、場面が一転するように花の名前を列挙した文が続きます。
花の名前を知るという体験が、いかに奥日光の自然を“自分”に深く印象づけたかということを、感動的に伝える場面と言えるでしょう。

とはいえこの小説は、最後の方では湖畔の景情にも温泉宿の風情にも、そして6人の乙女たちにも感興を覚えなくなったと云って、再び精神の闇の中に覆われていくことになるのですが。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初期私小説論拾遺」(5)「十九世紀から二十世紀にかけての資本主義的な主観性の生産」

2024年09月26日 | 初期「私小説」論

『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『カフカ』など、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとの共著で知られるF・ガタリ(1930-92)は哲学者であると同時に精神分析家としても知られ、普段はフランスのラポルド精神病院で医療活動を実践していました。
このラポルド精神病院の活動を、病院の創設者とガタリへのインタビューを通して報告している本が私の手元にあります。
『精神の管理社会をどう超えるか』というタイトルで、2000年に松籟社というところから出版されています。

この本のガタリへのインタビューの中で、私は「主観性の生産」という言葉と出会いました。
ガタリの著書で展開されている考えには、“機械”という概念が中枢の役割を担っていますが、この“機械”という概念との関連で「主観性の生産の動的編成」といった表現がされています。
そしてたとえば、
「十九世紀から二十世紀にかけての資本主義的な主観性を作る集合装備へと発展していく」
などといった表現がなされています。

この「主観性の生産」という捉え方に私はとても興味を覚えます。
特に「十九世紀から二十世紀にかけての資本主義的な主観性の生産」という表現は、十九世紀から二十世紀にかけての国際社会の様相(金融資本主義社会の進展、西洋列強国間の覇権主義の競合、労使の階級闘争の激化、他)の中で、人間の精神がどのような状況にあったのかといったことへの興味です。



さて話は一転して、小林秀雄の『私小説論』に戻ります。
この中で小林はアンドレ・ジイドの『贋金作り』という実験小説を引き合いに出して、その実験性を、
「個人性と社会性との各々に相対的な量を規定する変換式の如きものの発見が彼の実験室の仕事であったことは前に述べた。ジイドはこの変換式に第二の「私」の姿を見つけた。(中略)彼の仕事は現代個人主義小説なるものの最も美しい最も鮮明な構造を僕らに明かしてゐる。」
と説明しています。
小林がここに書いている事態は、言うなればジイドという一人の小説家(個人)において実践された「十九世紀から二十世紀にかけての資本主義的な主観性の生産」の一つのケースとして見ることができるでしょう。(『贋金作り』は1925年(大正14)に発表されていますが、そこに至るまでにジイドは30年を要したと小林は書いています。)

ジイドのこのような試みは、マラルメやヴァレリー、さらには当ブログの前々回で触れた象徴主義の文学運動を特徴づける「文学と“私”の同体化」といった理念とも連動して、
「十九世紀から二十世紀にかけての資本主義的な主観性の生産」に与していると見ることができます。
私は、この時期における日本の私小説の勃興もこの西洋文明の動きの余波を受けて発生していると見たいと思います。
特に当ブログで取り上げた葛西、近松、宇野の三人の私小説世界は、半ば無意識的にでも象徴主義の精神をひとつのルーツとしているように思います。

しかしそれは、一方に江戸期以来の日本の伝統的な文学作法、他方に志賀直哉的な伝統的家父長制度との和解を通して、小市民的自己満足的な“私小説”世界を主流化していきます。
そこには小林秀雄が言うように「“私”の社会化」を遂行していく方法意識の欠如という事態があったということは確かに言えるでしょう。
しかし私は、上記三人に関しては、そういう視点からは捉えきれない、もっと別な「“私”のなかの格闘」があったように思います。
そしてそこには本来の「日本の思想」とすべき問題群が潜んでいたはずです。
けれどもそれらは、明治帝国による、自治意識を殲滅していく人民支配のイデオロギーのなかへと回収されていったのです。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初期私小説論拾遺」(4)小林秀雄の『私小説論』から——社会や時代と対決しない日本文壇の事情

2024年09月13日 | 初期「私小説」論

小林秀雄の『私小説論』は“社会化した「私」”という言い方をしていることでよく知られています。
その意味を同論文の中に求めると、次のように書いている箇所があります。
「(J.J.ルソーの『懺悔録』に始まる18世紀から19世紀の西洋文学の主だった)作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存在したのである。続いて現れた自然主義小説作家達はみな、かういふ対決に関して思想上の訓練を経た人達だ。」
(叙述の順番は前後するのですが、)フランスでは自然主義小説が爛熟期に達して私小説の運動があらわれたとき、
「その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧のために形式化した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼等がこの仕事の為に「私」を研究して誤らなかったのは…」
というふうに説明されています.

これに対して日本の近代小説の作家たちについては、
「(19世紀西洋の)作家等の思想上の悪闘こそ、自然主義文学を輸入した我が国の作家等に最も理解しがたかったものであった。(中略)人は、新しい思想を育てる地盤はなくとも、新しい思想に酔ふことはできる。しかしわが国の作家たちはその(新しい思想に酔ふこと)の必要を認めなかった。(中略)外来思想は作家たちに技法的にのみ受け入れられ、技法的にのみ生きざるを得なかった。」
かくして
「わが国の私小説家達が、私を信じ私小説を信じて何の不安も感じなかったのは、私の世界がそのまま社会の姿だったのであって、私の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟していったのである。」



小林の観察は日本の私小説一般の傾向について正鵠を得た議論を展開していると思います。
また後者の引用文で言ってることは、当ブログの前回で志賀直哉をとりあげて、「世界との和解(調和)を志向した私小説」で、これが主流となって日本の私小説のローカルな特徴として継承されていった、と書いたのと趣旨を同じくしています。

小林と当ブログとの違いは、当ブログは「世界との和解(調和)を志向した私小説」を、闘いを放棄して社会や時代に翼賛していったという意味で限界があるとするのに対して、小林はある意味ではそのような在り方を評価している点にあります。
小林は志賀直哉の創作を支える思想を、究極的には“無私”を目指すものと見るのですが、
『私小説論』では、志賀が夢殿の救世観音像を例にして、仏像の完成度と作者の関係について書いた文章が引き合いに出されています。
「作者というものからそれ(救世観音像)が完全に遊離した存在となっていゐからで、これは又格別な事である。文藝の上で若し私にそんな仕事でもできることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとなどとは思はないだろう。」
小林は志賀のこの思想を、次のように称賛するのです。
「私小説理論の究極が、これほど美しい言葉で要約されたことは嘗て無かったのである。」
小林のこの称賛の言葉は、「個人と自然や社会との確然たる対決」(本文冒頭の引用文より)ということを小林自身あまり重視していないということ、したがって、むしろ「私の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致」をこそ日本的私小説の特質として称揚しているということを感じさせます。

この意味で、小林の文芸批評の本質は「個人と自然や社会との確然たる対決」のモチベーションから目をそむけることの上に成り立っていると言えるでしょう。
「外来思想は(日本の)作家たちに技法的にのみ受け入れられ、技法的にのみ生きざるを得なかった。」
という、明治・大正期に生産された小説群に対する小林の総括的批評は、彼自身の批評の方法においても同断であって、社会や時代との対決ということからは一貫して身を隔てて、“歴史”だの“物”だのといったところに自己を韜晦していったというふうに私には見えます。
それゆえに小林は、日本の近代小説(私小説といってもいいですが)のある局面を見落としてしまうことになったのです。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初期私小説論拾遺」(3)志賀直哉にはじまるもう一つの私小説の系譜

2024年09月05日 | 初期「私小説」論
大正期に輩出した私小説作家には、これまで取り上げてきた葛西・近松・宇野とは異なった系列のものがあって、その代表的な作家の一人として、近代文学ファンなら誰でも知っている志賀直哉が挙げられます。
当ブログで志賀を取り上げない理由は、興味がないからです。
志賀の書いたものこそまさに“心境小説”と呼ぶにふさわしいもので、思わせぶりな書き方をしてますが世界が狭くて、「何かと闘っている」という印象がないんですね。

『和解』というタイトルの小説がまさにそのことを象徴しているように思われます。
この作品は主人公と父親との不和がライトモチーフになてますが、不和の原因がよくわかりません。
葛西・近松・宇野の場合は、作者自身にどれぐらいの自覚があるかは分かりませんが、バックボーンには家父長制や弱者いじめの社会システム(象徴的には国家)といったようなものがあって、その大枠のもとに人々の「苦の世界」がいかに繰り広げられているか、そしてまたいかに逃れていこうともがいているか、ということが表現者の本能明確にターゲット化されています。
しかし志賀のばあいは、「父」との確執の形で演じられる根源的モチーフを嗅ぎとる文学的臭覚とでもいえるものが感じとれません。

『和解』における主人公と父親との不和の具体的な表現は、もっぱら主人公の生理的な感覚の言葉、たとえば「不愉快」「不快」「腹立たしい」「ムッとする」といった言葉で表明されるばかりで、それ以上の展開も深まりもありません。
父権の象徴として主人公を抑圧しているのでもなく、エディプスコンプレックス的な闘争に捉われているわけでもありません。
ただ不和感を生理的・感覚的に表明する言葉が積み重ねられていって、最後の方で急展開的に「和解」してしまうのです。
読者としては、「えっ?」となって狐につままれたような気分に陥れられます。

『和解』で描かれている父親との不和は、周囲の「家族」の人々との交流の中で叙述されていきます。
主人公と父親が和解することで、家族のみんながホッと安心してめでたしめでたしでおしまい、という小説です。
この小説が目指していたのは、小説中にも何度か出てくる「調和」ということであり、結局「家族主義」的な調和に至るということが、文学的テーマとして設定されていることがわかります。



『和解』はその前に発表された『大津順吉』と後に発表された『或る男、其姉の死』とで、父親との不和をテーマにした三部作の体裁をなしています。
『或る男、其姉の死』は語り手の“私”の兄と父親との不和をめぐる話ですが、『和解』よりも深刻度が増していて、最後まで不和のままで終わります。
『和解』と較べると不和の原因・モチーフが多少はあるぶんだけ深刻です。
そのモチーフは心理的なもので、「父親は自分(兄)が早く死ぬことを望んでいるのでは?」という疑惑に兄がとりつかれているという状況が語られています。

しかしそういった深刻さも私(筆者)には観念的に思われ、思わせぶり以上のものには感じられません。
基本的には家族主義的調和が志向されているなかでのドラマチック(小説的)な虚構の設定に過ぎず、兄と父親の心理的な亀裂の深さを小説的に盛り上げようとして、兄の心の闇を神秘化していく手法がとられているだけの話です。
こういった心性は、あれこれ悩みつつも最後は「家族(国家)のために身を捧げ」て英霊として祀られるといったモノガタリに回収されていくわけです。
この意味では、この作品もまた『和解』と同一の精神世界を生きていると見なすことができます。

一時的には対立しつつも最終的には「和解」という形で調和的な世界へと到達していくことが表現者の生き様とされるようなタイプの“私小説”は、志賀直哉を筆頭に日本近代小説の一つの主流を為し、その一方で、葛西・近松・宇野の系統の私小説は傍流へと位置づけられていきます。
いわゆる“心境小説”という曖昧模糊とした小市民的で太平無事な文学表現は、かくして日本的にローカルなその意味での独自な私小説世界を形成して今日に至っているというふうに、私(筆者)は感じています。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初期私小説論拾遺」(2)世界の断片としての “私” ② 世界文学の変革期の中で

2024年08月29日 | 初期「私小説」論

葛西善藏の私小説における〝私"は、主人公乃至語り手の〝私"がほとんど作者自身と変わらないほどに密着した〝私"とみなしてよいかと思いますが、それは小説というフィクションの世界を〝私"の世界として引き受けるという葛西の覚悟の表明であるかのように、私(筆者)には思われます。
「小説というフィクションの世界を〝私"の世界として引き受ける」、逆に言えばそれは「〝私"の世界を小説というフィクションの世界に重ねる」ということと同義として受け止めることが可能です。
いうなれば「〝私"の世界化」ですね。そのようなものとして小説を創作していこうとする考え方です。

晩年の葛西は精神的にも肉体的にも疲弊し、イメージ的にはほとんど崩壊しかかっていると言ってもいいぐらいの心身の状況にありました。
そしてその現実をそのまま小説創作の世界に晒していくような作品を残していきました。
世評はそれを、自分の生活状況をそのまま写しただけの、創造性もフィクション性もないただのボロッ布(きれ)のような駄作と見なして、私小説の衰退現象と否定的に評価しました。

私はしかし、これが晩年の葛西の、身を賭しての文学の方法であったと考えます。
一枚のボロッ布にすぎないとしても、そのボロッ布のままに〝私"の世界を提示する。
あるいは〝私"の世界を生きていく。
たとえボロッ布であっても、それはひとつの世界の断片として捉えて、断片化した世界を提示していく。
それが葛西善藏の、小説家としての最後の闘いであったように私には思えます。



世評に反して葛西の創作を最後まで評価していく姿勢を維持し続けた、同じ文学仲間の宇野浩二も似たようなことを言ってます。
以下は、神谷忠孝著『葛西善藏論 雪をんなの美学』(響文社刊)からの引用です。
「葛西善藏は「私小説」作家の典型の一人とされている。善藏がまだ生きていたころ、宇野浩二は「『私小説』私見」の中で、善藏の「湖畔手記」と「弱者」を私小説の「極致」であると指摘し、善藏にとっては「作すること」がすなわち「生活する」ことであるが、その「私」の生活をも含めて明らかに一つの「行き詰り」を示しており、その意味での「一種の象徴主義的作品」にまでなっていると評した。」

引用文中の「行き詰り」は善藏の生活の行き詰まりであるとともに「(小説を)作する子と」の行き詰まりでもありますが、その「行き詰り」をそのまま作品化していることを、宇野は「一種の象徴主義的作品」という言い方で評価しているわけです。
ここで使われている「象徴主義」という言葉から連想されるのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したアーサー・シモンズというイギリスの文芸批評家で、シモンズの代表的な著書『象徴主義の文学運動』が日本でも大正初期に翻訳されています。
当時の日本の若手小説家は概ねこの本を読んでいるようで、「象徴主義」はこのころの文壇に浸透していった文学・芸術の思潮でありました。
文壇では自然主義思想や方法が低迷状況を呈していて、自然主義を超えていく方向として象徴主義ということが話題になっていたと思います。
宇野の創作思想にも象徴主義の文学思潮が深く浸透していることは明らかです。

『象徴主義の文学運動』は19世紀のヨーロッパで新しく起こってきた象徴主義文学の運動に参画していると見なされる文学者たちを列伝風に記述していった本で、
その初っ端はフランスの象徴主義文学の先駆者とされるジェラール・ネルヴァルのエピソードが語られています。
その冒頭には、「文学の野心的な創作ではなく、人生そのものを一篇の小説とすること、逆に言えば、「小説を一人の人間の人生そのものとして表す」ということとも解されるわけで…、
つまり「文学=人生」ということに他ならないということですね。

象徴主義者の思念を占めていた一つの考え方として、「人生そのものを文学化する」ということがあると私は思います。
それは19世紀末期あたりに起こった、近代文学における文学観の一大転換を示していると考えることができます。
すなわち、それまでの近代文学を定義づけていた客観小説、普遍主義的な全体小説(作者乃至語り手が神の視点からシーンの全体を語る)の概念から、〝私"という主観性を語りの基点に置くという創作手法への転換です。
ある意味、19世紀末から20世紀初頭における世界文学の動きは、文学思想の根本的といってよい革命を為した時期と捉えることもできるのではないかということです。
一言でいえば、この時期に世界の文学そのものが「〝私"小説化」していったということです。

アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』はそのことを宣言することを意図した著書とも読めます。
そして葛西善藏・近松秋江・宇野浩二が大正期に生産した〝私"小説群は、世界文学の革命的事態の中での、極東地域における展開として読むことができると私は思っています。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初期私小説論拾遺」(1)世界の断片としての “私” ①

2024年08月22日 | 初期「私小説」論
日本近代文学史の定説によれば、葛西善藏は典型的な私小説作家で、極貧と飲酒癖と病気の三本柱をネタにして自分の身に起こった事しか書けない、さらには客観的な物語を構想する想像力に欠けるとか、小説的構成力が弱いとかいったイメージが定着しているようです。
その文学的営為の後半は、創作力も衰退しきってしまって、ただ日常の些末なできごとを書き写していくだけ、というような(私に言わせれば)ヒドイ偏見に押し込められてしまった印象があります。
しかし実際に読んでみるとこれらの評価は大いなる誤解の産物であることがわかるはずといいますか、善藏小説の芸術性はそんなものではないということを、私などはすごく感じています。

たとえば、彼の小説のなかには三人称で書かれたものもそこそこにありますし、ロシア文学やドストエフスキーを意識して挑戦を試みようとした作品もあるのです(不運なことに、同時代の批評家の、まあある意味での偏見的な評価のためにその挑戦は挫折していくのですが。それは『暗い部屋にて』という小説で、読んでみると、実はかなり実験的な試みが意図されているのが感じられる作品で、当時の常識的な批評家の理解のレベルを超えていることを思わせます。)

20世紀に入ってからの近代小説120年ほどの歴史を経てきた現代のわれわれの感覚で葛西を読み直すと、その文学がいかに先鋭的な方法意識で書かれているかを捉え直すことができるのではないかと私などは思っています。
そもそも葛西はなぜ、そして如何にして〝私"小説という創作方法を採用するに至ったのか、ということですが…。



大正8年の作に『兄と弟』というのがあります。
善藏と彼の実弟が東京で同居していた時のことを題材にした作品で、兄は小説家志望、弟は地方の零細な実業家で、二人ともに各々の職域で逆境を余儀なくされている状況下にあります。
お互いに相手の生き方に中途半端な不甲斐なさを感じているところがあって、たとえば兄は弟に対して、以下のように説教します。
「経営困難の見越しが附いてゐたのなら、何故こんな拙い終りの来ない前に自分から進んで破壊して了はなかつたのか、それらが悉く、人生に対して一定の方針信念のない為めにいつも受身にばかり立たされて居たのに原因するのか、それとも方針は立つてゐたが不徹底からつい曖昧なものになつて了つたのか…。」

弟はこれに対して、以下のように反撃します。
「どうして兄さん御自身がいろいろ生活のことなんかに煩はされずに創作なり何なりに取りかかるとか、またさういふ気持が人間誰にも必要だと云ふことを信じてゐらっしゃるなら、どうして往来へなり出てもそれを世間に伝へることにしないのか…。」

上記引用文中、兄の説教のなかの「受身」という言葉が、私は妙に強く印象付けられました。
この言葉は、善藏のそれまでの小説のなかでは一度も出て来ず、ここで突然この言葉に出くわしたような気がしたのです。
小説『兄と弟』を書きながら、作者善藏のなかで、これまでの創作態度が受身的ではなかったかというような反省があったのではないかという想念が、私のなかで直感的に生じました。

客観的な確証があってそういうのではありません。
ただ、『兄と弟』が書かれるまでの前期小説群のほとんどは主人公が三人称に設定され、『兄と弟』以降のほとんどの作品が〝私"小説化していく傾向が見られます。
その理由として、創作態度における「受身」的な、言い換えればどこか傍観者的な、作品のテーマあるいはモチーフに対する踏み込みのどこか中途半端であることを感じて、それを克服するために、主人公あるいは語り手として〝私"を引き受ける、という方針を採用したのではないだろうか。
そういうふうに私には思えてきたのです。              (つづく)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(7 最終回)宇野の語りの臨界点は日本の近代小説の臨界点

2024年08月01日 | 初期「私小説」論
前回の冒頭にドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から引用した文章の後半を再掲します。

「国家が内面化されるのと精神化されるのとは、同時でなければならない。良心の呵責の時がやってくる。それは大いなるシニシズムのときでもあろう。内面生活において抑圧され、恐れおののいて自分自身の個人性に後退した(畜群人間)のあの押し殺された残酷さ。飼い馴らされるために〈国家〉の中に閉じこめられ……。」

この文章をどう読むかはなかなか難しいところがあります。
ましてや昭和初期の日本の私小説の読解に適用などできるわけがないと考えるのは、無理もないところではあります。
それを了解しながらも、牽強付会の誹りを免れないかもしれませんが、まあ広い意味でのシャレのようなものと笑諾(筆者の造語です)していただいて、話を続けさせてもらいます。

宇野浩二において、「国家の内面化」は少年期に軍艦の絵を描くことを通してなされていたと考えられますが、「国家の精神化」はなされないままで現在(『軍港行進曲』を書いた時点)に至っています。
「国家の精神化」は、宇野の中学時代の同窓で現在は海軍士官として横須賀の軍港に勤めている数人の男たちに実現されています。
彼らにおいては「国家の内面化」と「国家の精神化」が同時に果たされていて、その一種安定した(国家意思に服従した)言動・姿が『軍港行進曲』では語られています。



しかしその言動・姿は、ドゥルーズ=ガタリの視界においては
「内面生活において抑圧され、恐れおののいて自分自身の個人性に後退した(畜群人間)のあの押し殺された残酷さ。飼い馴らされるために〈国家〉の中に閉じこめられ……」
と評されるようなそれです。
他方、宇野の場合は、「国家の内面化」と「国家の精神化」が同時になされていない(あるいは、「国家の精神化」の契機が欠如している)ために、「良心の呵責」に責めさいなまれることになります。

ただその「良心の呵責」の中身は、家族から見捨てられ、自らの心身を性産業の商品と化し、ヒステリーという病理に苦しんでいる社会的弱者としての“女”を、自分(“私”)との関わりの果てに死へと追い詰めてしまった、ということに向けられていることが小説『軍港行進曲』のミソとすべきところではないかという気がします。

小説前半最後の、“私”が吐く「俺は何をしているのだ!」という慙愧の言葉は、旧友が国家に忠実に奉仕する姿を目にしての自己叱責の表明ではなく、海軍士官たる旧友たちに対抗する表現者(芸術家)としての自分の至らなさの表明であり、その至らなさがまた“女”(君子)をいじめる(死へと追い詰めていく)原因であるとする自己呵責の念の表明であると私は思います。
そして後半の最後(小説全体の最後でもある)、8年後のやはり似たようなシチュエーションでの旧友(海軍士官)の昔に変わらぬ国家への忠勤ぶりに対して、自分は自立した表現者(小説家)として彼らに対峙していることへの、一種の達成感・満足感が表明されています。
しかしその表向きの自己満足的な語り口の内側では、“女”(社会的弱者)をいじめていった主体としての自分自身への痛切な断罪意識に苦しんでいることが、切々と伝わってくるように私には感じられるのです。

『軍港行進曲』は君子の死の報せを受け取ったことから構想されていったと想像されます。
そして前半の発表から半年の間に、後半の発表を経て、作者宇野の精神は錯乱の淵に沈み込んでいったのです。



※「宇野浩二」の項は今回で終わりにします。
 次回からは、「初期私小説論拾遺」として、三人の作家論を書いている間に思い及んだことなどを書いていきます。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(6)“女”(社会的弱者)をいじめるのは、“国家”

2024年07月25日 | 初期「私小説」論

「…ここには国家の生成をめぐる二つの様相がある。ひとつは、物理的システムを形成しつつ、ますます脱コード化される社会的な力の場において、国家を内面化すること、もうひとつは、形而上学的システムを形成しつつ、ますます超コード化する超地上的な場において、国家を精神化することである。国家が内面化されるのと精神化されるのとは、同時でなければならない。良心の呵責の時がやってくる。それは大いなるシニシズムのときでもあろう。内面生活において抑圧され、恐れおののいて自分自身の個人性に後退した(畜群人間)のあの押し殺された残酷さ。飼い馴らされるために〈国家〉の中に閉じこめられ……。」


この文章は、20世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』の中で出会ったのですが、
なんとなく『軍港行進曲』を連想させるものがあって、私の記憶にとどめているものです。
『軍港行進曲』とドゥルーズ・ガタリとは時代も違えば国も違っているし、文化的な背景もあまりにもかけ離れていて、全然関係ないと言われるとそれを否定することはできません。
しかし『軍港行進曲』を語りの臨界点において創作された小説として捉え、その臨界点において作者宇野浩二は何と向き合おうとしていたのかということにアプローチしていこうとするとき、上記の引用文が何かを語りかけてくるような気がしてくるのです。

たとえば、横須賀が軍港の町であるということが言われ、その軍港に停泊する軍艦を描写しながら、小説の語りは“私”の幼年時代には軍艦の絵をよく描いたものだというところへ話を持っていき、その追憶の語りに多くの言葉を費やしていきます。
そこには軍港や軍艦という記号が指示している事柄に対する作者の“構え”とも言いうるものが表明されていると解釈できるわけですが、
しかしそのように“構え”ざるを得ない、作者の、ほとんど無意識化しているともいえる、精神の形成史の内実もまた籠められていると読み取ることができる。
それを言語化して表したのが、冒頭の引用文であるというふうに受け止められます。



具体的に説明するならば、
「物理的システムを形成しつつ、ますます脱コード化される社会的な力の場において、国家を内面化すること」
は、“私”の幼年時代の「軍艦の絵をよく描いた」という習慣(「脱コード化される社会的な力の場」)の中で「国家の内面化」が進行していたことを暗喩している。

それから、海軍の士官として横須賀の軍港に勤める中学時代の同窓生たちとの再開と旧交のエピソードは、
「超コード化する超地上的な場において、国家を精神化すること」
を暗喩していると解釈できるではありませんか。
すなわち、「超コード化する超地上的な場」とは、天皇を大元帥とする明治帝国の軍隊組織そのもの、あるいは『軍港行進曲』においては明治国家の統治のイメージとしての“軍港”を指していると考えられます。
そういう場の中で「国家の精神化」が進行しているというわけです。

こういったことを作者宇野自身が意識していたとはちょっと考えられません。
しかし軍隊や軍艦が宇野にとってどういう意味を持っているかということは、宇野なりに考えていたはず。
『軍港行進曲』は表現者としての宇野の誠実な語りの賜物であり、と同時に、宇野の語りの臨界点への挑戦であったとも言えるのではないかと思います。

夜の軍港を、宴会のあと、“私”と二人で料理屋の小部屋から窓を開けて眺めた君子が発する「怖い海でせう」の一言は、彼女が恐れているのは何であるかを一瞬のうちに照らし出します。
それは“軍港”に暗喩された明治国家であり、その国家を内面化している彼女の家族および親族たち、彼女の身柄を商品として取り扱う性産業界業界であり、海軍士官たちであり、そして“私”自身もまたその中に含まれているという自覚に宇野は達しています。
そして君子という“女”に象徴される社会的弱者たちをいじめているのは“国家”という支配のシステムであるというまなざしが、宇野の無意識を通して“軍港”に注がれているように、私には思われるのです。              (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(5)“女”をいじめるのはだれ(何)か?・続

2024年07月19日 | 初期「私小説」論
『軍港行進曲』の後半には「続軍港行進曲」というタイトルがつけられています。
君子が横須賀の芸者屋に身を売ってから10年ほどの間の最初の2年ぐらいは、“私”は君子と逢い引きするために何度も横須賀まで出かけているし、君子は芸者屋からの逃走を何度も試みて東京の“私”を訪ねたりしています。
訪ねるたびに「兄ちゃんの小説はまだ売れないのか」と“私”を詰ります(早く自分を身請けして、“私”と所帯が持てるようにして欲しいという願望の表明です)。
君子が東京に姿を現わすたびに持病のヒステリーをおこして“私”の日常を混乱させることを“私”は恐れていて、彼女との関係を絶とうと何度も試みます(しかし成功しません)。
しかしそれでも最後の別れがあり、その別れの直後に書き上げた小説(君子との暮らしをモチーフにした『苦の世界』)が雑誌社に採用され、文壇でも認められて収入のある生活が開けていきます。

君子との離別が実現してから8年が経ったときに君子の死の知らせを受けます。
知らせを持ってきた高木という友人との会話を次のように語っています。

「君のあの人はやはりいい人だったんだね、」と高木は黙ってぼんやりしていた私に向かっていった。「『苦の世界』はやっぱり苦の世界で幕を閉じたね。」
「ああ、しかし、彼女のやうに生まれた者は、少しでも早く死んだ方が幸福かもしれない、」と私はいった。
私の心は限りない悲しみの淵に沈んだ。


この後“私”は八年ぶりに横須賀を訪れます。中学校の同窓会が横須賀で開かれるためであり、5人もの同窓が海軍の軍人になっていたということ書かれています。
その同窓会では旧知の芸者も交えて君子を偲ぶ会話が交わされ、宴会が終った後は料理屋の小部屋で一夜を過ごす。
つまり、8年前の同窓生や君子ら芸者衆との宴会の一夜と似たような光景が再現されるわけです。
そして小説の最後は、8年前と同じシチュエーションで、早朝に目が覚めた“私”と、矢崎という同窓生の軍人との間に会話が交わされ、そして以下の文で締められています。

…矢張り八年前の時のやうに、彼(同窓生)の鞄の中には戦術の地図が入ってゐるのだらうか、聞いて見ようかと思ったが、私だつて今は彼に負けぬ程忙しかつた。私の鞄には勝栗(芸者で君子の後輩)のいわゆる『げんこ』(原稿)が入つてゐる訳だ。
 矢崎が起きた勢ひで、窓の雨戸を一枚繰ると、障子に薄い朝日がさした。




 小説が終る少し前には次のような文章が置かれています。

 考へて見ると、彼女は伯父の警視総監に、私が最初に知つた頃、彼女の街を追はれたといふものの、その後私と一所(ママ)になつ」てからも、私と別れてからも始終居所が変り、境遇が変つてゐた。ふつうの彼女のやうな女なら、私の考へるところでは、最初の場合と、私と駆落ちした場所を除いては、一つも彼女が別の境遇を求める必要が考へられなかつた。
別の境遇に変つたら、それだけ彼女のやうな境遇のものには借金が増え、自由から遠ざかる訳だつた。それを知らない彼女ではなかつたと思へる。(中略)しかし、もし彼女は二年待って、(小説家として売れ始めた)私と元の夫婦になつたところが、落ち着いてゐたらうか? 矢張りそこで以前より充たされた生活に満足しないで、何かを求めて何処かへ泣きながら行きはしなかつたか? 何処へ?――考へて見ると、彼女にも分らなかった。その求めるものは地上にはないものではなかつたか、とも私は考へるのである。

「君のあの人はやはりいい人だったんだね」
後半の語りの中でこれと同類の発言が、登場人物の口を通して二、三度出てきます。
いい人でありながら、君子は君子の「苦の世界」を生きていくことを余儀なくされていたと考えられます。
女の「苦」を強いた者は何者か?
“私”もその一人であるということを“私”は充分に自覚していることは間違いありません。
上記に引用した三つの文章は、読者には一見責任逃れのような、自己弁明めいた文章のように感じられるかもしれませんが、
その根底に流れているのは、後悔しても後悔しきれない自己呵責の念であると私には感じられます。
この体験は宇野浩二にとって、その後の創作の方向を決定づける出来事ではなかったかと思うのです。

「軍港行進曲」は昭和2年2月に『中央公論』に、その二ヵ月後の4月に「続軍港行進曲」が同じく『中央公論』に発表されます。
そしてそれから二ヵ月後に宇野は精神に変調をきたして、三年間ほどの闘病生活を送ることになります。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(4)“女”をいじめるのはだれ(何)か?

2024年07月12日 | 初期「私小説」論
 宇野浩二の代表作と言えば、誰でもが『蔵の中』『苦の世界』『子を貸し屋』を挙げます。
それらを代表作と認めることに私もやぶさかではありませんが、しかし日本の私小説の発生を、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界の文学の潮流、その極東アジア版として見る場合には、私には『軍港行進曲』という作品がとても重要であるように想われます。
 この作品では宇野の先天的な語りの技が、ひとつの臨界点に達してるように感じるんですね。
ここでは、語られていることそのことよりも、語られていない、あるいは語りえない(語りを可能とするところまで認識が達していない)事柄によって作品が成り立っている、そんな感じを受けてしまうようなところがある。
それはこの作品の謎の部分として、作品鑑賞の一つの壁を形成しているように感じられるのです。

 とりあえず、作品の概要を紹介していきましょう。
 まず、モチーフとなる状況設定は、宇野が小説家としてデビューを果たすまでの貧窮生活のなかで出会い同棲していた女性(君子)が、経済的苦境を脱するために芸者となって軍港の街横須賀の芸者屋に売られていく。“私”はその彼女とのあいびきに横須賀を何度か訪ねていったというのが話の大筋です。
 (君子にはヒステリーの持病があって、“私”と母親と君子との生活が君子のヒステリーの発作によって苦しめられ続けるという状況が、実質上のデビュー作となった『苦の世界』という作品のメインモチーフになっています。)

 小説の冒頭は、“私”と君子と、桂庵と呼ばれる人身売買の斡旋業の男との三人で横須賀を訪ねていくところから始まります。
出だしは「汽車がトンネルを出ると、突然目の下に、山ふところに抱かれた湾が現れた。」とあるのは、後年、川端康成はこれをパクったかと思わせるものがあります。
 そして軍港の風景が語られますが、「飛行機が浮かんでゐる」という表現が、ちょっとシュールな雰囲気を漂わせるんですね。
横須賀の駅はさらにもう一つトンネルを抜けたところにあると書かれていて、そのプラットフォームからやはり軍港を擁する海が見えるのですが、「見ると、左手に海が迫ってゐるやうに、右手には断崖の山が聳えてゐて」というふうに町の空間が語られ、海と断崖の間の道を、三人を乗せたタクシーがどこまでもどこまでも走っていきます。

 汽車が横須賀の駅に着いたところからタクシーで町をよぎっていく行く語りの間に、君子のとの出会いや彼女の出自のこと、そして芸者屋に売られていく経緯が語られます。
 ここでは、君子の伯父に音楽学校の校長だの勅撰議員だの警視総監だの東京市長だのといった役職に着いている人たちがいることが語られ、それが事実とすれば君子は明治・大正期の政官界の中枢に生息する家系の子女であることになります。
しかし君子はその家族から勘当されていて、独りで生きるために東京の紅灯の巷に身を沈めていたところに、“私”との出会いがあったというわけです。

 あと、ここで書いておくべきは、軍艦の話と、“私”の中学時代の同級で海軍士官になって横須賀の軍港に務めている数人と再開し、旧交を温める話です。
軍艦の話は、軍港に停泊している船の名前をあげていったりしますが、“私”の幼年期に軍艦の絵をよく描いていたということが子細に語られていきます。
(軍艦の話が幼年時の記憶として語られるのはなぜかということも一考の余地がありそうです。)
 同級の海軍士官との交流は、彼らとの会話を通して、海軍の日常の様子の一端を伝えようとするかのようです。



 作品の全体は2部に別れていて(「軍港行進曲」と「続軍港行進曲」)、前半の終わりの1000字ほどが前半で語られた世界を象徴的に表すような書き方になっています。
 場面は、“私”と君子が料理屋の一部屋の窓から軍港を眺め下すところです。
 その箇所の出だしは以下のようです。

「しばらく黙っていた彼女は青白い顔を上げて、
 「お兄ちゃん、その窓を開けてごらん、」といった。
 障子を開けて、雨戸を開けると、目の下に真っ黒な海が迫ってゐた。が、目を上げると、港の方は、何かあるやうに、彼方にも此方にも点々とあかりがついてゐた。陸にも、海にも、次第に暗に馴れた目で見ると、建物も、煙突も、山も、軍艦も、ランチも、それぞれ黒い形で夜の暗の中に刻まれて見えた。いつの間にか彼女が私の傍らに立ってゐて、
「怖い海でせう、」といった。」


そして翌朝、2人の海軍士官が早起きですでに職務に着こうとしていることが語られ、最後は次のように締めくくられます。
「風早は飛行機に乗りに追浜に帰り、こいつ(もう一人の士官)は待合で、負けた戦術の考察をしてゐる。俺は何をしているのだ! と私は思わない訳には行かなかった。」

「怖い海でせう」という君子の発声は、軍港の眺めと1人の庶民の間で生じたネガティブな発言としては、作品中唯一の言葉です。
君子の中のどんな感情が」これを言わしめたのか、これについては作者は一切触れて(語って)いません。
また、最後の“私”の「俺は何をしているのだ!」という思念は、旧友がお国のために奉公しているときに自分は何をやってるのだ、ということを言おうとしているのではないのです(その根拠は作品中に見出すことができますが、ここでは触れません)が、それについても一切語られていません。

重要なことは「語らない」という形で提示されていると私は考えます。
なぜか。
それを解き明かすには、もう一つの「語られない」ことである「いじめられる女」という視点を設定することにします。
ヒステリーという持病、帝国国家の中枢に営まれる家族からの勘当、男との貧窮生活といった境遇は、「いじめられる女」の「苦の世界」をこそ表すものです。

では、何が女をいじめているのか? 
話をさらに続けていきましょう。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(3)「いじめられる母親」あるいは女たち

2024年06月28日 | 初期「私小説」論
宇野が学生時代(早稲田大学)に発表した最初期の小説で、実質的に処女作とされる作品があります。
『清二郎 夢見る子』というタイトルで、4歳か20歳までを過ごした大阪の中心地を舞台とした、幼少から少年期を追憶して小説仕立てにしています。
この作品の特徴は、大阪の繁華街――宗右衛門町、道頓堀、南新地、難波、堀江、千日前といったいわば大正時代当時は遊行の街でもあった地域の都市的風情を詳細に描写していることです。
「空間の語り」という観点からすれば、前回の『夢見る部屋』の空間の描写をモチーフの一つとしている点で共通するところがあります(一方は屋内、他方は屋外の違いはありますが)。

基本は追憶という意識の流れに沿っての都市空間の描写であり、その空間描写と人事の交流とを巧みに絡ませながら語り継いでいくところに、宇野の語りの妙味を堪能することができます。
たとえば、
「川を越えて、向こう側の家々の裏が見える。写真屋がある。芝居茶屋が四五軒ならんで居る。赤青の色ガラスの障子をはめたうどんやがある。芝居茶屋の座敷では、清二郎ぐらゐの男の子と妹らしい女の子が、何か食べながら面白さうに遊んで居る。その笑ひ聲が手に取るやうに聞えて来た。その隣りのうどんやでは数組の客が飲食して居る様に、まるで違うた世界の影の様に見えた。」
こんな文章が大阪の中心街の描写の至るところに散らばめられています。



この小説は前書きのような文から始まって作者のなにやら言い訳めいた文章があって、それから本題に入るのですが、出だしは母親についての追憶が主調になっています。
最初の中見出しが「人形になりゆくひと」となっていて、
「その人形はむかし、ひとであったといふ。
極めて顔の美くしい、極めて姿の美くしい、その人形は又美くしい衣裳を着て居た。」

といった文章が置かれています。
そして次のようなシーンが描かれるのです。

『なんでお前はそんなん(そんな者)やろ』
 一時間程前に、伯父はこわい顔して母様にいうた。
 夫に別れた身を思へば、少し確(しっ)かりしたひとならば、さうしてわが身が大切、子が大切、家が大切と思ふなら、女子(おなご)は女子だけのそれ相当の方針をたてねばならぬ。『それにお前は唯わが身だけの、而も女子のくせに、行き当たりばつたりにやつてゆくのやもの』
(中略)
『お前は自分ひとりのつもりか知らんけれど、子があるのを知らんのか?
『なるほど、お前一人のつもりなら、、さうしていたら申し分ないやらう。貧乏して食えへん様になる迄、お前は綺麗な着物着て、おいしいものを食べて行くつもりかいな』
『そんなら出て行きます』
 最後に母は斯ういうて、自分の涙をふきながら、小さい子の涙をふきながら、何も持たずに、而も化粧だけ美しうして、着物だけ着かへて、傘を一本さしかけて、雨の町に夜を出た。


このシーンは追憶のかなりはじめの方で出てきます。
宇野は3歳のときに父親が亡くなり、母親と兄(知的障害を持つ)と三人で生地の福岡から神戸に移住、8歳のときに大阪の宗右衛門町の母方の伯父の家で面倒を見てもらう境遇になります。
上記の一節は伯父の家で8歳の宇野が目にしたシーンを回想しているわけですが、数多ある母親の思い出の中でこのシーンが小説の初めあたりに出てくるところに、宇野にとっては忘れ難いシーンであったと推測されます。
(この後、宇野と母親は宇野が成人するまで離れ離れで過ごすことになります。)

私にはこのシーンが「いじめられる母親」のイメージとして宇野の脳裏に焼きついたのでは、と想像しています。
何に(あるいは、誰に)いじめられたのか、読者にもおおよその見当はつくかと思いますが、この「母親をいじめた」相手が何(あるいは、誰)であるかということが、宇野文学のライトモチーフとして、意識の底に居座っているように思うのですね。

では、そのような相手に戦いを挑んでいくことが宇野文学のテーマであったかというと、そのことはあからさまには明示されていませんし、創作の主題として判然と提示されているわけではありません。
むしろ「いじめられる母親あるいは女たち」、といったいわば社会的弱者の境涯に否応なく追い込まれていく人々の生き様を、リアルに観照し物語っていくというところに、宇野の創作的リビドーは向かっていたように思います。
しかしその小説的に造形された虚構世界を介して、読者たる私たちは、弱者を「いじめる」のは何者であるかを見通すことは可能であるかと思われます。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(3)「いじめられる母親」あるいは女たち

2024年06月28日 | 初期「私小説」論
宇野が学生時代(早稲田大学)に発表した最初期の小説で、実質的に処女作とされる作品があります。
『清二郎 夢見る子』というタイトルで、4歳か20歳までを過ごした大阪の中心地を舞台とした、幼少から少年期を追憶して小説仕立てにしています。
この作品の特徴は、大阪の繁華街――宗右衛門町、道頓堀、南新地、難波、堀江、千日前といったいわば大正時代当時は遊行の街でもあった地域の都市的風情を詳細に描写していることです。
「空間の語り」という観点からすれば、前回の『夢見る部屋』の空間の描写をモチーフの一つとしている点で共通するところがあります(一方は屋内、他方は屋外の違いはありますが)。

基本は追憶という意識の流れに沿っての都市空間の描写であり、その空間描写と人事の交流とを巧みに絡ませながら語り継いでいくところに、宇野の語りの妙味を堪能することができます。
たとえば、
「川を越えて、向こう側の家々の裏が見える。写真屋がある。芝居茶屋が四五軒ならんd居る。赤青の色ガラスの障子をはめたうどんやがある。芝居茶屋の座敷では、清二郎ぐらゐの男の子と妹らしい女の子が、何か食べながら面白さうに遊んで居る。その笑ひ聲が手に取るやうに聞えて来た。その隣りのうどんやでは数組の客が飲食して居る様に、まるで違うた世界の影の様に見えた。」
こんな文章が大阪の中心街の描写の至るところに散らばめられています。



この小説は前書きのような文から始まって作者のなにやら言い訳めいた文章があって、それから本題に入るのですが、出だしは母親についての追憶が主調になっています。
最初の中見出しが「人形になりゆくひと」となっていて、
「その人形はむかし、ひとであったといふ。
極めて顔の美くしい、極めて姿の美くしい、その人形は又美くしい衣裳を着て居た。」

といった文章が置かれています。
そして次のようなシーンが描かれるのです。

『なんでお前はそんなん(そんな者)やろ』
 一時間程前に、伯父はこわい顔して母様にいうた。
 夫に別れた身を思へば、少し確(しっ)かりしたひとならば、さうしてわが身が大切、子が大切、家が大切と思ふなら、女子(おなご)は女子だけのそれ相当の方針をたてねばならぬ。『それにお前は唯わが身だけの、而も女子のくせに、行き当たりばつたりにやつてゆくのやもの』
(中略)
『お前は自分ひとりのつもりか知らんけれど、子があるのを知らんのか?
『なるほど、お前一人のつもりなら、、さうしていたら申し分ないやらう。貧乏して食えへん様になる迄、お前は綺麗な着物着て、おいしいものを食べて行くつもりかいな』
『そんなら出て行きます』
 最後に母は斯ういうて、自分の涙をふきながら、小さい子の涙をふきながら、何も持たずに、而も化粧だけ美しうして、着物だけ着かへて、傘を一本さしかけて、雨の町に夜を出た。


このシーンは追憶のかなりはじめの方で出てきます。
宇野は3歳のときに父親が亡くなり、母親と兄(知的障害を持つ)と三人で生地の福岡から神戸に移住、8歳のときに大阪の宗右衛門町の母方の伯父の家で面倒を見てもらう境遇になります。
上記の一節は伯父の家で8歳の宇野が目にしたシーンを回想しているわけですが、数多ある母親の思い出の中でこのシーンが小説の初めあたりに出てくるところに、宇野にとっては忘れ難いシーンであったと推測されます。
(この後、宇野と母親は宇野が成人するまで離れ離れで過ごすことになります。)

私にはこのシーンが「いじめられる母親」のイメージとして宇野の脳裏に焼きついたのでは、と想像しています。
何に(あるいは、誰に)いじめられたのか、読者にもおおよその見当はつくかと思いますが、この「母親をいじめた」相手が何(あるいは、誰)であるかということが、宇野文学のライトモチーフとして、意識の底に居座っているように思うのですね。

では、そのような相手に戦いを挑んでいくことが宇野文学のテーマであったかというと、そのことはあからさまには明示されていませんし、創作の主題として判然と提示されているわけではありません。
むしろ「いじめられる母親あるいは女たち」、といったいわば社会的弱者の境涯に否応なく追い込まれていく人々の生き様を、リアルに観照し物語っていくというところに、宇野の創作的リビドーは向かっていたように思います。
しかしその小説的に造形された虚構世界を介して、読者たる私たちは、弱者を「いじめる」のは何者であるかを見通すことは可能であるかと思われます。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(2)何を語り、何を語らないか

2024年06月21日 | 初期「私小説」論
宇野浩二の代表作のひとつとされる『蔵の中』は初期の作品(というか、処女作ではないがこの作で文壇へのデビューを果したとされる作品です)ですが、
文体的特徴としての“語り”の技法は完成の域に達しているといっても過言ではない出来を示していて、ある種凄味のようなものさえ感じさせます。
しかし文学としての宇野の語りの可能性はそこにとどまるということがなく、『蔵の中』から3年後に発表した「夢見る部屋」は更に果敢な挑戦を試みているように私には感じられます。
一読して、何かプルーストの『失われた時を求めて』を思い起こさせるところもあって、この時期に西洋文学の世界でも注目されていた「意識の流れ」を宇野も意識していたのではないかと推測されるフシがあります。
「意識の流れ」の記念碑的作品といえばジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんかもありますが、この作が発表されたのは1920年(『失われたときを求めて』は1913年)で、宇野の『夢見る部屋』とほぼ同年です。
宇野は、日本のプルーストでありジョイスであると言ってもいいのではないかと、私は思っております。



宇野の語りの特徴は、ものの空間的秩序を時間の流れの中に溶かし込んでいきつつ、時間的秩序変換して小説的造形を達成していくところにあると私は思います。
空間的秩序を時間の流れに溶かし込んでいく手法は、空間の描写を追想の形をとって記述していくという技法に支えられています。
もしこれがそうではなく、今実際に網膜に映っている事象を語っていくやり方で空間描写をしていくと、時間の流れの中に溶かし込んでいくということができません。
追想とはそれ自体人間の心理的時空環境の中で事象を見ていくことですから、空間の秩序と人間の心理とが絡み合う記述スタイルが醸成されていきます。
そしてこの心理的時空が、その主体の視点や身体の具体的な移動とともに膨張していって、“私”が一人閉じこもって自分だけの時間を過ごすために設定された部屋(空間)もまた膨張していって外部の世界との行き来を表象するようになっていく。
そのようにして造形されていったのが、『夢見る部屋』とタイトルされた小説世界というわけです。

具体的に言いますと、『夢見る部屋』は次のように書き出されています。
「その頃、私は、しばしば、私の部屋の、私の身のまはりを見廻しては、間断なく、溜め息をついたり、舌鼓を打ったり、(中略)誠に静心なく暮らしていたのであった。」
まさにズバリ、「その頃」という言葉でこの作品が書き起こされています。
『夢見る部屋』の実験性は、自分の“語り”が、文字で極力間隙を残すことなく誌面を埋め尽くしていけるかを試みようとするかのようです。

とにかくこの小説での部屋の描写は微に入り細を穿ち(図面までつけている)、さらに部屋に設置されている家具や小道具、それに写真や幻燈機械などの飾り物・遊具に及んでいき、そしてそれらにまつわる記録やエピソードや薀蓄などへと展開し、その流れで部屋の外の世界との交渉や、そこに登場する人物たちとのやりとりなど、小説の語りはどこまでも止むことの無い勢いで続いていきます。
こういう叙述の仕方は、しかし得てして冗長、散漫、とりとめのなさといったネガティブな効果に堕していくのが一般的です。
ところが宇野の語りはそうはなっていかず、私などもついつい読み継がされていくところが、やはり宇野の語りの巧さ、あるいは地力のようなものを感じさせます。

そこにはひとつの秘密がひそんでいるような気がします。
つまり、あらゆることを語りつくそうとするかのような素振りの裏側には、実は“語らない”領域が設定されているということです。
たとえば、小説の終わりの寸前でこんなことが書かれています。
「この話の中に出てくる人物といえば、私の妻にしても、東台館の事務所の老人にしても、煙草屋の娘にしても、さては、私の恋する山の女にしても、それらの人々の風采さえ伝えないで、ただ夢のような話や感想をだけしか話さないといつて、怒りなすな。」

宇野の語りはのべつまくなしであるように見せかけて、実は“語らない領域”ということが意識されています。
そのことを考慮しながら読んでいきますと、宇野の小説空間は、膨大な“語らない領域”あるいは“語られない領域”に満ちていることがわかってきます。
何を語り何を語らないかという判断を常につきまとわせながら物語を書く、それが宇野の小説の技法的特徴であり、リアリティを生み出していく根源であると私には感じられるのです。
そのルールあるいは“節度”を規定しているのは、まさしく日本の“私”小説の特性に他なりません。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初期「私小説」論――宇野浩二(1)宇野文学における“語り”の特徴

2024年06月13日 | 初期「私小説」論
例によって、宇野浩二における“敗残の意識”の有る無しを確認するところからはじめましょう。
と言いつつも、宇野の場合の敗残の意識について、これといった明確に指摘できるものを見出すことは出来ませんでした。
少なくとも葛西善蔵や近松秋江に見出しえたような、日本近代における家父長制度の中での敗残意識は、宇野の中では抽出することができません。
宇野は幼少時に父親を亡くして母親一人の手で育てられ、また兄弟関係においては長兄が知的なハンデーを負っていて、宇野は弟の立場ながらこの兄に対していたわりの心持ちで接していたようです。
つまり父親からの抑圧や、長兄ではないことによる家族の中での余計者の意識を持たされることもなく、いわばのびのびと育っていったことが想像されます。

この意味で宇野には“敗残の意識”は無かったか、あっても極く薄かったように思われ、むしろ逆に、社会的弱者へのシンパシーが小説作品の中でもそこはかとなく漂っているように感じられます。
たとえば、配偶者を失った母親とともに親戚筋の庇護を受ける境遇の中で、その家の家父長制度的な倫理観のもとにいじめられる母親を目の当たりに見て、その記憶をのちのちまで強く残していたり、知的ハンデーを有する兄に寄り添って面倒をみたりしている。
また、宇野を一躍流行作家にのし上げた出世作『苦の世界』に描かれている、貧窮生活のなかでヒステリー症状の女性(同居者)に苦しまされながらも、病気に苦しむ女性を憐れむ心を持ち続けるようなところに、社会的弱者の立場に同情を寄せる宇野の人柄が実感されるわけです。



貧窮を極めた生活の中で受けるさまざまな苦しみにもかかわらず、宇野の心の様態はどこかのびやかであり、ちょっととぼけたような心情をもって逆境に対していたというイメージがあります。
俗に言う「ええとこの子」の屈託のなさとでしょうか。
そのような心の余裕というか、心が傷んでも自らを癒して立ち直っていく作用は、宇野の先天的な能力ともいえる“語り”の実践の中で獲得されていったようです。
その語りの能力が小説の創作において遺憾なく発揮されたわけですが、現実にも宇野はしゃべりだすと途切れることなくしゃべり続け、しかも聞く人間を飽きさせることがなかったと伝えられています。

宇野文学の最大の特徴はその“語り”の妙というところにあります。
その語りはあることないことすべてひっくるめてのべつまくなしの印象があり、虚と実の境を消し去って(あるいは現実の中に夢を潜ませるような)混沌とした流れを作り出していきます。
あらゆる事象がその語りの中に取り込まれていくように感じられるのですが、そこは冷静に仔細を観察してみると、「あらゆる事象」という表現は宇野の語りの特徴をかえって不分明にするようにも思えてきました。

そこで宇野の語りの特徴についてつらつらと考えていったところ、以下のようなことが指摘できるのではないかという気がしてきました。
1.「空間を語る」ことに一方ならぬ関心を注いでいる。
2.空間を時間の秩序の中に溶かし込んでいく。
3.描写的であるが分析的ではない。
4.現象を語ることに徹して、構造は語らない。
5.視野は流動的(ノマド的)であって定住的でない。
6.無目的な行動を反覆的に語る(『蔵の中』はその代表的な作例)。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする