モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――宇野浩二(5)“女”をいじめるのはだれ(何)か?・続

2024年07月19日 | 初期「私小説」論
『軍港行進曲』の後半には「続軍港行進曲」というタイトルがつけられています。
君子が横須賀の芸者屋に身を売ってから10年ほどの間の最初の2年ぐらいは、“私”は君子と逢い引きするために何度も横須賀まで出かけているし、君子は芸者屋からの逃走を何度も試みて東京の“私”を訪ねたりしています。
訪ねるたびに「兄ちゃんの小説はまだ売れないのか」と“私”を詰ります(早く自分を身請けして、“私”と所帯が持てるようにして欲しいという願望の表明です)。
君子が東京に姿を現わすたびに持病のヒステリーをおこして“私”の日常を混乱させることを“私”は恐れていて、彼女との関係を絶とうと何度も試みます(しかし成功しません)。
しかしそれでも最後の別れがあり、その別れの直後に書き上げた小説(君子との暮らしをモチーフにした『苦の世界』)が雑誌社に採用され、文壇でも認められて収入のある生活が開けていきます。

君子との離別が実現してから8年が経ったときに君子の死の知らせを受けます。
知らせを持ってきた高木という友人との会話を次のように語っています。

「君のあの人はやはりいい人だったんだね、」と高木は黙ってぼんやりしていた私に向かっていった。「『苦の世界』はやっぱり苦の世界で幕を閉じたね。」
「ああ、しかし、彼女のやうに生まれた者は、少しでも早く死んだ方が幸福かもしれない、」と私はいった。
私の心は限りない悲しみの淵に沈んだ。


この後“私”は八年ぶりに横須賀を訪れます。中学校の同窓会が横須賀で開かれるためであり、5人もの同窓が海軍の軍人になっていたということ書かれています。
その同窓会では旧知の芸者も交えて君子を偲ぶ会話が交わされ、宴会が終った後は料理屋の小部屋で一夜を過ごす。
つまり、8年前の同窓生や君子ら芸者衆との宴会の一夜と似たような光景が再現されるわけです。
そして小説の最後は、8年前と同じシチュエーションで、早朝に目が覚めた“私”と、矢崎という同窓生の軍人との間に会話が交わされ、そして以下の文で締められています。

…矢張り八年前の時のやうに、彼(同窓生)の鞄の中には戦術の地図が入ってゐるのだらうか、聞いて見ようかと思ったが、私だつて今は彼に負けぬ程忙しかつた。私の鞄には勝栗(芸者で君子の後輩)のいわゆる『げんこ』(原稿)が入つてゐる訳だ。
 矢崎が起きた勢ひで、窓の雨戸を一枚繰ると、障子に薄い朝日がさした。




 小説が終る少し前には次のような文章が置かれています。

 考へて見ると、彼女は伯父の警視総監に、私が最初に知つた頃、彼女の街を追はれたといふものの、その後私と一所(ママ)になつ」てからも、私と別れてからも始終居所が変り、境遇が変つてゐた。ふつうの彼女のやうな女なら、私の考へるところでは、最初の場合と、私と駆落ちした場所を除いては、一つも彼女が別の境遇を求める必要が考へられなかつた。
別の境遇に変つたら、それだけ彼女のやうな境遇のものには借金が増え、自由から遠ざかる訳だつた。それを知らない彼女ではなかつたと思へる。(中略)しかし、もし彼女は二年待って、(小説家として売れ始めた)私と元の夫婦になつたところが、落ち着いてゐたらうか? 矢張りそこで以前より充たされた生活に満足しないで、何かを求めて何処かへ泣きながら行きはしなかつたか? 何処へ?――考へて見ると、彼女にも分らなかった。その求めるものは地上にはないものではなかつたか、とも私は考へるのである。

「君のあの人はやはりいい人だったんだね」
後半の語りの中でこれと同類の発言が、登場人物の口を通して二、三度出てきます。
いい人でありながら、君子は君子の「苦の世界」を生きていくことを余儀なくされていたと考えられます。
女の「苦」を強いた者は何者か?
“私”もその一人であるということを“私”は充分に自覚していることは間違いありません。
上記に引用した三つの文章は、読者には一見責任逃れのような、自己弁明めいた文章のように感じられるかもしれませんが、
その根底に流れているのは、後悔しても後悔しきれない自己呵責の念であると私には感じられます。
この体験は宇野浩二にとって、その後の創作の方向を決定づける出来事ではなかったかと思うのです。

「軍港行進曲」は昭和2年2月に『中央公論』に、その二ヵ月後の4月に「続軍港行進曲」が同じく『中央公論』に発表されます。
そしてそれから二ヵ月後に宇野は精神に変調をきたして、三年間ほどの闘病生活を送ることになります。








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初期「私小説」論――宇野浩二(4)“女”をいじめるのはだれ(何)か?

2024年07月12日 | 初期「私小説」論
 宇野浩二の代表作と言えば、誰でもが『蔵の中』『苦の世界』『子を貸し屋』を挙げます。
それらを代表作と認めることに私もやぶさかではありませんが、しかし日本の私小説の発生を、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界の文学の潮流、その極東アジア版として見る場合には、私には『軍港行進曲』という作品がとても重要であるように想われます。
 この作品では宇野の先天的な語りの技が、ひとつの臨界点に達してるように感じるんですね。
ここでは、語られていることそのことよりも、語られていない、あるいは語りえない(語りを可能とするところまで認識が達していない)事柄によって作品が成り立っている、そんな感じを受けてしまうようなところがある。
それはこの作品の謎の部分として、作品鑑賞の一つの壁を形成しているように感じられるのです。

 とりあえず、作品の概要を紹介していきましょう。
 まず、モチーフとなる状況設定は、宇野が小説家としてデビューを果たすまでの貧窮生活のなかで出会い同棲していた女性(君子)が、経済的苦境を脱するために芸者となって軍港の街横須賀の芸者屋に売られていく。“私”はその彼女とのあいびきに横須賀を何度か訪ねていったというのが話の大筋です。
 (君子にはヒステリーの持病があって、“私”と母親と君子との生活が君子のヒステリーの発作によって苦しめられ続けるという状況が、実質上のデビュー作となった『苦の世界』という作品のメインモチーフになっています。)

 小説の冒頭は、“私”と君子と、桂庵と呼ばれる人身売買の斡旋業の男との三人で横須賀を訪ねていくところから始まります。
出だしは「汽車がトンネルを出ると、突然目の下に、山ふところに抱かれた湾が現れた。」とあるのは、後年、川端康成はこれをパクったかと思わせるものがあります。
 そして軍港の風景が語られますが、「飛行機が浮かんでゐる」という表現が、ちょっとシュールな雰囲気を漂わせるんですね。
横須賀の駅はさらにもう一つトンネルを抜けたところにあると書かれていて、そのプラットフォームからやはり軍港を擁する海が見えるのですが、「見ると、左手に海が迫ってゐるやうに、右手には断崖の山が聳えてゐて」というふうに町の空間が語られ、海と断崖の間の道を、三人を乗せたタクシーがどこまでもどこまでも走っていきます。

 汽車が横須賀の駅に着いたところからタクシーで町をよぎっていく行く語りの間に、君子のとの出会いや彼女の出自のこと、そして芸者屋に売られていく経緯が語られます。
 ここでは、君子の伯父に音楽学校の校長だの勅撰議員だの警視総監だの東京市長だのといった役職に着いている人たちがいることが語られ、それが事実とすれば君子は明治・大正期の政官界の中枢に生息する家系の子女であることになります。
しかし君子はその家族から勘当されていて、独りで生きるために東京の紅灯の巷に身を沈めていたところに、“私”との出会いがあったというわけです。

 あと、ここで書いておくべきは、軍艦の話と、“私”の中学時代の同級で海軍士官になって横須賀の軍港に務めている数人と再開し、旧交を温める話です。
軍艦の話は、軍港に停泊している船の名前をあげていったりしますが、“私”の幼年期に軍艦の絵をよく描いていたということが子細に語られていきます。
(軍艦の話が幼年時の記憶として語られるのはなぜかということも一考の余地がありそうです。)
 同級の海軍士官との交流は、彼らとの会話を通して、海軍の日常の様子の一端を伝えようとするかのようです。



 作品の全体は2部に別れていて(「軍港行進曲」と「続軍港行進曲」)、前半の終わりの1000字ほどが前半で語られた世界を象徴的に表すような書き方になっています。
 場面は、“私”と君子が料理屋の一部屋の窓から軍港を眺め下すところです。
 その箇所の出だしは以下のようです。

「しばらく黙っていた彼女は青白い顔を上げて、
 「お兄ちゃん、その窓を開けてごらん、」といった。
 障子を開けて、雨戸を開けると、目の下に真っ黒な海が迫ってゐた。が、目を上げると、港の方は、何かあるやうに、彼方にも此方にも点々とあかりがついてゐた。陸にも、海にも、次第に暗に馴れた目で見ると、建物も、煙突も、山も、軍艦も、ランチも、それぞれ黒い形で夜の暗の中に刻まれて見えた。いつの間にか彼女が私の傍らに立ってゐて、
「怖い海でせう、」といった。」


そして翌朝、2人の海軍士官が早起きですでに職務に着こうとしていることが語られ、最後は次のように締めくくられます。
「風早は飛行機に乗りに追浜に帰り、こいつ(もう一人の士官)は待合で、負けた戦術の考察をしてゐる。俺は何をしているのだ! と私は思わない訳には行かなかった。」

「怖い海でせう」という君子の発声は、軍港の眺めと1人の庶民の間で生じたネガティブな発言としては、作品中唯一の言葉です。
君子の中のどんな感情が」これを言わしめたのか、これについては作者は一切触れて(語って)いません。
また、最後の“私”の「俺は何をしているのだ!」という思念は、旧友がお国のために奉公しているときに自分は何をやってるのだ、ということを言おうとしているのではないのです(その根拠は作品中に見出すことができますが、ここでは触れません)が、それについても一切語られていません。

重要なことは「語らない」という形で提示されていると私は考えます。
なぜか。
それを解き明かすには、もう一つの「語られない」ことである「いじめられる女」という視点を設定することにします。
ヒステリーという持病、帝国国家の中枢に営まれる家族からの勘当、男との貧窮生活といった境遇は、「いじめられる女」の「苦の世界」をこそ表すものです。

では、何が女をいじめているのか? 
話をさらに続けていきましょう。








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初期「私小説」論――宇野浩二(3)「いじめられる母親」あるいは女たち

2024年06月28日 | 初期「私小説」論
宇野が学生時代(早稲田大学)に発表した最初期の小説で、実質的に処女作とされる作品があります。
『清二郎 夢見る子』というタイトルで、4歳か20歳までを過ごした大阪の中心地を舞台とした、幼少から少年期を追憶して小説仕立てにしています。
この作品の特徴は、大阪の繁華街――宗右衛門町、道頓堀、南新地、難波、堀江、千日前といったいわば大正時代当時は遊行の街でもあった地域の都市的風情を詳細に描写していることです。
「空間の語り」という観点からすれば、前回の『夢見る部屋』の空間の描写をモチーフの一つとしている点で共通するところがあります(一方は屋内、他方は屋外の違いはありますが)。

基本は追憶という意識の流れに沿っての都市空間の描写であり、その空間描写と人事の交流とを巧みに絡ませながら語り継いでいくところに、宇野の語りの妙味を堪能することができます。
たとえば、
「川を越えて、向こう側の家々の裏が見える。写真屋がある。芝居茶屋が四五軒ならんで居る。赤青の色ガラスの障子をはめたうどんやがある。芝居茶屋の座敷では、清二郎ぐらゐの男の子と妹らしい女の子が、何か食べながら面白さうに遊んで居る。その笑ひ聲が手に取るやうに聞えて来た。その隣りのうどんやでは数組の客が飲食して居る様に、まるで違うた世界の影の様に見えた。」
こんな文章が大阪の中心街の描写の至るところに散らばめられています。



この小説は前書きのような文から始まって作者のなにやら言い訳めいた文章があって、それから本題に入るのですが、出だしは母親についての追憶が主調になっています。
最初の中見出しが「人形になりゆくひと」となっていて、
「その人形はむかし、ひとであったといふ。
極めて顔の美くしい、極めて姿の美くしい、その人形は又美くしい衣裳を着て居た。」

といった文章が置かれています。
そして次のようなシーンが描かれるのです。

『なんでお前はそんなん(そんな者)やろ』
 一時間程前に、伯父はこわい顔して母様にいうた。
 夫に別れた身を思へば、少し確(しっ)かりしたひとならば、さうしてわが身が大切、子が大切、家が大切と思ふなら、女子(おなご)は女子だけのそれ相当の方針をたてねばならぬ。『それにお前は唯わが身だけの、而も女子のくせに、行き当たりばつたりにやつてゆくのやもの』
(中略)
『お前は自分ひとりのつもりか知らんけれど、子があるのを知らんのか?
『なるほど、お前一人のつもりなら、、さうしていたら申し分ないやらう。貧乏して食えへん様になる迄、お前は綺麗な着物着て、おいしいものを食べて行くつもりかいな』
『そんなら出て行きます』
 最後に母は斯ういうて、自分の涙をふきながら、小さい子の涙をふきながら、何も持たずに、而も化粧だけ美しうして、着物だけ着かへて、傘を一本さしかけて、雨の町に夜を出た。


このシーンは追憶のかなりはじめの方で出てきます。
宇野は3歳のときに父親が亡くなり、母親と兄(知的障害を持つ)と三人で生地の福岡から神戸に移住、8歳のときに大阪の宗右衛門町の母方の伯父の家で面倒を見てもらう境遇になります。
上記の一節は伯父の家で8歳の宇野が目にしたシーンを回想しているわけですが、数多ある母親の思い出の中でこのシーンが小説の初めあたりに出てくるところに、宇野にとっては忘れ難いシーンであったと推測されます。
(この後、宇野と母親は宇野が成人するまで離れ離れで過ごすことになります。)

私にはこのシーンが「いじめられる母親」のイメージとして宇野の脳裏に焼きついたのでは、と想像しています。
何に(あるいは、誰に)いじめられたのか、読者にもおおよその見当はつくかと思いますが、この「母親をいじめた」相手が何(あるいは、誰)であるかということが、宇野文学のライトモチーフとして、意識の底に居座っているように思うのですね。

では、そのような相手に戦いを挑んでいくことが宇野文学のテーマであったかというと、そのことはあからさまには明示されていませんし、創作の主題として判然と提示されているわけではありません。
むしろ「いじめられる母親あるいは女たち」、といったいわば社会的弱者の境涯に否応なく追い込まれていく人々の生き様を、リアルに観照し物語っていくというところに、宇野の創作的リビドーは向かっていたように思います。
しかしその小説的に造形された虚構世界を介して、読者たる私たちは、弱者を「いじめる」のは何者であるかを見通すことは可能であるかと思われます。







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初期「私小説」論――宇野浩二(3)「いじめられる母親」あるいは女たち

2024年06月28日 | 初期「私小説」論
宇野が学生時代(早稲田大学)に発表した最初期の小説で、実質的に処女作とされる作品があります。
『清二郎 夢見る子』というタイトルで、4歳か20歳までを過ごした大阪の中心地を舞台とした、幼少から少年期を追憶して小説仕立てにしています。
この作品の特徴は、大阪の繁華街――宗右衛門町、道頓堀、南新地、難波、堀江、千日前といったいわば大正時代当時は遊行の街でもあった地域の都市的風情を詳細に描写していることです。
「空間の語り」という観点からすれば、前回の『夢見る部屋』の空間の描写をモチーフの一つとしている点で共通するところがあります(一方は屋内、他方は屋外の違いはありますが)。

基本は追憶という意識の流れに沿っての都市空間の描写であり、その空間描写と人事の交流とを巧みに絡ませながら語り継いでいくところに、宇野の語りの妙味を堪能することができます。
たとえば、
「川を越えて、向こう側の家々の裏が見える。写真屋がある。芝居茶屋が四五軒ならんd居る。赤青の色ガラスの障子をはめたうどんやがある。芝居茶屋の座敷では、清二郎ぐらゐの男の子と妹らしい女の子が、何か食べながら面白さうに遊んで居る。その笑ひ聲が手に取るやうに聞えて来た。その隣りのうどんやでは数組の客が飲食して居る様に、まるで違うた世界の影の様に見えた。」
こんな文章が大阪の中心街の描写の至るところに散らばめられています。



この小説は前書きのような文から始まって作者のなにやら言い訳めいた文章があって、それから本題に入るのですが、出だしは母親についての追憶が主調になっています。
最初の中見出しが「人形になりゆくひと」となっていて、
「その人形はむかし、ひとであったといふ。
極めて顔の美くしい、極めて姿の美くしい、その人形は又美くしい衣裳を着て居た。」

といった文章が置かれています。
そして次のようなシーンが描かれるのです。

『なんでお前はそんなん(そんな者)やろ』
 一時間程前に、伯父はこわい顔して母様にいうた。
 夫に別れた身を思へば、少し確(しっ)かりしたひとならば、さうしてわが身が大切、子が大切、家が大切と思ふなら、女子(おなご)は女子だけのそれ相当の方針をたてねばならぬ。『それにお前は唯わが身だけの、而も女子のくせに、行き当たりばつたりにやつてゆくのやもの』
(中略)
『お前は自分ひとりのつもりか知らんけれど、子があるのを知らんのか?
『なるほど、お前一人のつもりなら、、さうしていたら申し分ないやらう。貧乏して食えへん様になる迄、お前は綺麗な着物着て、おいしいものを食べて行くつもりかいな』
『そんなら出て行きます』
 最後に母は斯ういうて、自分の涙をふきながら、小さい子の涙をふきながら、何も持たずに、而も化粧だけ美しうして、着物だけ着かへて、傘を一本さしかけて、雨の町に夜を出た。


このシーンは追憶のかなりはじめの方で出てきます。
宇野は3歳のときに父親が亡くなり、母親と兄(知的障害を持つ)と三人で生地の福岡から神戸に移住、8歳のときに大阪の宗右衛門町の母方の伯父の家で面倒を見てもらう境遇になります。
上記の一節は伯父の家で8歳の宇野が目にしたシーンを回想しているわけですが、数多ある母親の思い出の中でこのシーンが小説の初めあたりに出てくるところに、宇野にとっては忘れ難いシーンであったと推測されます。
(この後、宇野と母親は宇野が成人するまで離れ離れで過ごすことになります。)

私にはこのシーンが「いじめられる母親」のイメージとして宇野の脳裏に焼きついたのでは、と想像しています。
何に(あるいは、誰に)いじめられたのか、読者にもおおよその見当はつくかと思いますが、この「母親をいじめた」相手が何(あるいは、誰)であるかということが、宇野文学のライトモチーフとして、意識の底に居座っているように思うのですね。

では、そのような相手に戦いを挑んでいくことが宇野文学のテーマであったかというと、そのことはあからさまには明示されていませんし、創作の主題として判然と提示されているわけではありません。
むしろ「いじめられる母親あるいは女たち」、といったいわば社会的弱者の境涯に否応なく追い込まれていく人々の生き様を、リアルに観照し物語っていくというところに、宇野の創作的リビドーは向かっていたように思います。
しかしその小説的に造形された虚構世界を介して、読者たる私たちは、弱者を「いじめる」のは何者であるかを見通すことは可能であるかと思われます。










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初期「私小説」論――宇野浩二(2)何を語り、何を語らないか

2024年06月21日 | 初期「私小説」論
宇野浩二の代表作のひとつとされる『蔵の中』は初期の作品(というか、処女作ではないがこの作で文壇へのデビューを果したとされる作品です)ですが、
文体的特徴としての“語り”の技法は完成の域に達しているといっても過言ではない出来を示していて、ある種凄味のようなものさえ感じさせます。
しかし文学としての宇野の語りの可能性はそこにとどまるということがなく、『蔵の中』から3年後に発表した「夢見る部屋」は更に果敢な挑戦を試みているように私には感じられます。
一読して、何かプルーストの『失われた時を求めて』を思い起こさせるところもあって、この時期に西洋文学の世界でも注目されていた「意識の流れ」を宇野も意識していたのではないかと推測されるフシがあります。
「意識の流れ」の記念碑的作品といえばジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんかもありますが、この作が発表されたのは1920年(『失われたときを求めて』は1913年)で、宇野の『夢見る部屋』とほぼ同年です。
宇野は、日本のプルーストでありジョイスであると言ってもいいのではないかと、私は思っております。



宇野の語りの特徴は、ものの空間的秩序を時間の流れの中に溶かし込んでいきつつ、時間的秩序変換して小説的造形を達成していくところにあると私は思います。
空間的秩序を時間の流れに溶かし込んでいく手法は、空間の描写を追想の形をとって記述していくという技法に支えられています。
もしこれがそうではなく、今実際に網膜に映っている事象を語っていくやり方で空間描写をしていくと、時間の流れの中に溶かし込んでいくということができません。
追想とはそれ自体人間の心理的時空環境の中で事象を見ていくことですから、空間の秩序と人間の心理とが絡み合う記述スタイルが醸成されていきます。
そしてこの心理的時空が、その主体の視点や身体の具体的な移動とともに膨張していって、“私”が一人閉じこもって自分だけの時間を過ごすために設定された部屋(空間)もまた膨張していって外部の世界との行き来を表象するようになっていく。
そのようにして造形されていったのが、『夢見る部屋』とタイトルされた小説世界というわけです。

具体的に言いますと、『夢見る部屋』は次のように書き出されています。
「その頃、私は、しばしば、私の部屋の、私の身のまはりを見廻しては、間断なく、溜め息をついたり、舌鼓を打ったり、(中略)誠に静心なく暮らしていたのであった。」
まさにズバリ、「その頃」という言葉でこの作品が書き起こされています。
『夢見る部屋』の実験性は、自分の“語り”が、文字で極力間隙を残すことなく誌面を埋め尽くしていけるかを試みようとするかのようです。

とにかくこの小説での部屋の描写は微に入り細を穿ち(図面までつけている)、さらに部屋に設置されている家具や小道具、それに写真や幻燈機械などの飾り物・遊具に及んでいき、そしてそれらにまつわる記録やエピソードや薀蓄などへと展開し、その流れで部屋の外の世界との交渉や、そこに登場する人物たちとのやりとりなど、小説の語りはどこまでも止むことの無い勢いで続いていきます。
こういう叙述の仕方は、しかし得てして冗長、散漫、とりとめのなさといったネガティブな効果に堕していくのが一般的です。
ところが宇野の語りはそうはなっていかず、私などもついつい読み継がされていくところが、やはり宇野の語りの巧さ、あるいは地力のようなものを感じさせます。

そこにはひとつの秘密がひそんでいるような気がします。
つまり、あらゆることを語りつくそうとするかのような素振りの裏側には、実は“語らない”領域が設定されているということです。
たとえば、小説の終わりの寸前でこんなことが書かれています。
「この話の中に出てくる人物といえば、私の妻にしても、東台館の事務所の老人にしても、煙草屋の娘にしても、さては、私の恋する山の女にしても、それらの人々の風采さえ伝えないで、ただ夢のような話や感想をだけしか話さないといつて、怒りなすな。」

宇野の語りはのべつまくなしであるように見せかけて、実は“語らない領域”ということが意識されています。
そのことを考慮しながら読んでいきますと、宇野の小説空間は、膨大な“語らない領域”あるいは“語られない領域”に満ちていることがわかってきます。
何を語り何を語らないかという判断を常につきまとわせながら物語を書く、それが宇野の小説の技法的特徴であり、リアリティを生み出していく根源であると私には感じられるのです。
そのルールあるいは“節度”を規定しているのは、まさしく日本の“私”小説の特性に他なりません。









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初期「私小説」論――宇野浩二(1)宇野文学における“語り”の特徴

2024年06月13日 | 初期「私小説」論
例によって、宇野浩二における“敗残の意識”の有る無しを確認するところからはじめましょう。
と言いつつも、宇野の場合の敗残の意識について、これといった明確に指摘できるものを見出すことは出来ませんでした。
少なくとも葛西善蔵や近松秋江に見出しえたような、日本近代における家父長制度の中での敗残意識は、宇野の中では抽出することができません。
宇野は幼少時に父親を亡くして母親一人の手で育てられ、また兄弟関係においては長兄が知的なハンデーを負っていて、宇野は弟の立場ながらこの兄に対していたわりの心持ちで接していたようです。
つまり父親からの抑圧や、長兄ではないことによる家族の中での余計者の意識を持たされることもなく、いわばのびのびと育っていったことが想像されます。

この意味で宇野には“敗残の意識”は無かったか、あっても極く薄かったように思われ、むしろ逆に、社会的弱者へのシンパシーが小説作品の中でもそこはかとなく漂っているように感じられます。
たとえば、配偶者を失った母親とともに親戚筋の庇護を受ける境遇の中で、その家の家父長制度的な倫理観のもとにいじめられる母親を目の当たりに見て、その記憶をのちのちまで強く残していたり、知的ハンデーを有する兄に寄り添って面倒をみたりしている。
また、宇野を一躍流行作家にのし上げた出世作『苦の世界』に描かれている、貧窮生活のなかでヒステリー症状の女性(同居者)に苦しまされながらも、病気に苦しむ女性を憐れむ心を持ち続けるようなところに、社会的弱者の立場に同情を寄せる宇野の人柄が実感されるわけです。



貧窮を極めた生活の中で受けるさまざまな苦しみにもかかわらず、宇野の心の様態はどこかのびやかであり、ちょっととぼけたような心情をもって逆境に対していたというイメージがあります。
俗に言う「ええとこの子」の屈託のなさとでしょうか。
そのような心の余裕というか、心が傷んでも自らを癒して立ち直っていく作用は、宇野の先天的な能力ともいえる“語り”の実践の中で獲得されていったようです。
その語りの能力が小説の創作において遺憾なく発揮されたわけですが、現実にも宇野はしゃべりだすと途切れることなくしゃべり続け、しかも聞く人間を飽きさせることがなかったと伝えられています。

宇野文学の最大の特徴はその“語り”の妙というところにあります。
その語りはあることないことすべてひっくるめてのべつまくなしの印象があり、虚と実の境を消し去って(あるいは現実の中に夢を潜ませるような)混沌とした流れを作り出していきます。
あらゆる事象がその語りの中に取り込まれていくように感じられるのですが、そこは冷静に仔細を観察してみると、「あらゆる事象」という表現は宇野の語りの特徴をかえって不分明にするようにも思えてきました。

そこで宇野の語りの特徴についてつらつらと考えていったところ、以下のようなことが指摘できるのではないかという気がしてきました。
1.「空間を語る」ことに一方ならぬ関心を注いでいる。
2.空間を時間の秩序の中に溶かし込んでいく。
3.描写的であるが分析的ではない。
4.現象を語ることに徹して、構造は語らない。
5.視野は流動的(ノマド的)であって定住的でない。
6.無目的な行動を反覆的に語る(『蔵の中』はその代表的な作例)。












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初期「私小説」論――近松秋江(8 最終回)帝国大学系哲学v.s.プラグマティズム・象徴主義哲学

2024年06月07日 | 初期「私小説」論
この近松秋江の項の最後に、明治末から大正初期にかけての哲学の状況という話題を取り上げておきましょう。
当時のよく知られている出来事としては、西田幾太郎の『善の研究』の出版があります。明治44年のことです。
その前年、西田は京都帝国大学に赴任しています。京都学派始まりの第一歩ですね。

西田哲学前期の代表的な著作のタイトルがなぜ『善の研究』なのかというと、それまでの研究が主として倫理学であったということがあるのですね。
西田は東京帝国大学で西洋の哲学を学び、30歳代を通しての研究は主として心理学と倫理学でした。

その初期の草稿原稿というのが全集の第16巻に収められています。
目次に、「心理学講義」とか「倫理学草案第一」「倫理学草案第二」とかとあるのですが、仮に「倫理学草案第二」の内容を目次を通して概観するならば、たとえばこんな見出しが並んでいます。
個人的善・共同的善・家族・社会・国家・人類・道徳の矛盾・道徳の極致、というふうに。

「心理学講義」の中にはこんな文章も見られます。
「社会(客観)的意識の発達 吾人の意識に於ける観念的活動が盛んとなるに従ひ意識は最早現在的個人的ではなくて一般的となる。即ち一般的なる知識、感情、意志が発達するのである。而して此等の者が外界の符号に由りて各人の間に交通せられ、此処に各人の精神を統一し支配する超個人的の意識が組織せらるるのである。之を客観的意識又は社会的意識といふ。(中略)吾人の個人的意識に於ける知識も感情も意志も其大部分は社会より養成せられたる者であって、吾人が一生を尽して働く此の客観的意識の発達を助くるにすぎないのである。」

西田哲学の正体を見たというか、そういう気分にさせられる文章です。

(参考までに言えば、西田の東京帝国大学在学中の哲学の教授は井上哲次郎という人で、ドイツに留学し帰国した当時は、文部大臣(初代)森有礼が「諸学校令」という教育制度を制定して教育勅語の思想に沿った国家主義的な方針が打ち出された時期でした。東京帝国大学はそのような明治国家の教育体制の頂点をなす機関として位置付けされ、井上はその哲学教授に任命されていました。)



そのような帝大系の哲学(ドイツ観念論を主軸した)に対して、在野系ではイギリス経験主義を源流とするプラグマティズムの哲学が流行っていたようです。
プラグマティズムは日本語では「実用哲学」などと翻訳され、俗流に誤解されて流布していたことが指摘されていますが、それは日本の哲学(思想)にとって不孝なことでした。
あるいは、明治国家の後ろ盾を得て威勢を張っていた帝大系のドイツ観念論によって蹴散らされてきたと言えるかもしれません。
ほんとうはプラグマティックな哲学こそ日本人の思想体質に叶っていたはずなのです。
私たち近代の日本人は、明治国家の国家主義的な思想統制の戦略にまんまと図られてきたんですね。

このプラグマティズム、そしてその兄弟分とも言える象徴主義の哲学に立て籠って帝大系哲学に対抗したのが田中王堂という人で、早稲田大学で哲学を教えていました(その前は、アメリカのシカゴ大学でプラグマティズムの泰斗デューイの下で学んでいます)。
象徴主義の側面で言えば、王堂は人間の欲望や情動といったことを肯定的に評価していった人です。
『善の研究』が出版された翌年の明治45(1912)年に王堂の著作『哲人主義』が出版されています。そこから一節を紹介しておきましょう。

「…人間は有限にして、すべての欲望を無限に満足さすることが出来ないものであるから、此処には過去の経験に参照して、同時に起こる欲望と前後に続く欲望との中より、成るたけ広く、深く、永く幸福を得る為に、ある欲望を取って、ある欲望を捨てることが必要となるのである。其くして単一なる欲望は其れが動くに当って、暫くその様式即ち支配する側面と、その内容即ち支配せらるる側面との二つに分かれる。而して吾人は前者を理想と呼び、後者を嗜欲と呼ぶのである。」(「岩野泡鳴氏の人生観及び芸術観を論ず」『哲人主義』所収)

さて、近松秋江が早稲田大学の前身、東京専門学校に在籍してときに田中王堂が哲学の教授として着任し、秋江は王堂の教えを受けているのです。
そして卒業後も二人の仲は続いていたようで、秋江のエッセーでもたまさか話題に取り上げられています。
秋江は明らかに、田中王堂の思想を受け継いで自らの文学世界を展開していったと見ることができます。。


近松秋江の項は今回で一旦終了します。
次回から宇野浩二に行きます。








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初期「私小説」論――近松秋江(7)「遊蕩文学論」をめぐる帝大出評論家との論争

2024年05月31日 | 初期「私小説」論
明治期日本社会の標準的“男性的なるもの”と向き合った秋江の闘いでよく知られているのは、秋江らの文学を「遊蕩文学」と見なして批判した批評家との論争です。
大正5年ごろの出来事です。

その批判というのは、容易に想像できるように、遊里の街の女性との交情に惑溺して男子としての社会的役割を放棄したような生き方への批判です。
そういう生き方を、風俗壊乱だの退廃的だのと批判したのであろうと推測されます。
やり玉に挙がったのは秋江だけではなく、吉井勇や久保田万太郎といった短歌界の歌人ほか総勢5人の文学者です。
吉井や久保田までがやり玉に挙がっているのは、今日の我々からするとすこぶる違和感を感じますが、酒を飲んだり遊里に出入りするのが何より好きだったのだそうです。

大正5年という年は、文壇にこの種の遊蕩文学論争の風が吹き荒れたようで、小山内薫という名前も出てきたりしています。
に「新公論」という文芸誌に秋江が寄せた「遊蕩文学論者を笑ふ」というエッセーがそのあたりの様子を書いていて、その一端を垣間見ることができます。
「赤木氏は小山内君はじめ吾々五人を驕慢だとか、何だとか、斯うだとかいって自分の信念に忠なるために、機会あるごとに吾々の文学を撲滅するとか、吾々は書くことに無能力であるとか、言ひたい三昧の怪気焔を吐いてゐたが、いったい氏自身はどんなにエライ人間のつもりなのであらう。(中略)日本に文壇あって以来作者とともに随分いろんな批評家も出たり消えたりしたが、恐らく氏くらゐ人を漫罵する(それも少しも巧妙な漫罵ではなく、極めて鈍感な田舎式のものだが)口の先ばかり悪達者な男もめづらしい。」



上記引用文の冒頭に出てくる赤木氏というのは赤木桁平という評論家で東京帝国大学を卒業しているとされている。
吉井勇を批判したのは三井甲之という人で、この人も帝大(どこのかはわかりませんが)の国文科出の文学士と紹介されています。
そういう人たち(帝大出の評論家あるいは文学士)に江秋は敢然と立ち向かっていった(あとの4人は、争い事を好まない平和主義者ということで、端から相手にしない)わけで、
反撃の口ぶりは、たとえば
「然るに最初この議論を持ち出した人(赤木、三井ほか)の説が文学論としていかにも浅薄で幼稚である」とか
「あんな頓馬なことを言うふのを聞くといったいどんなことを国文科で学んだのかと反問してみたくなる」
といった調子です。

赤木桁平という人は、当時読書会で話題になっていた阿部次郎の『三太郎の日記』を賞賛して以下のように書いているという記録も残っています。
「阿部氏の思想は浮薄軽佻を極めたわが現代の思想界では確かに驚くべき真摯と着実を結うしている。氏は終始厳粛なる態度で覿面に宇宙人生を凝視し、その根本的意義の闡明に自己の全生命を投擲している。」

この『三太郎の日記』は、大正3年から7年にかけて、当時日本のエリート社会を席巻していた教養主義文化を象徴する書籍として一世を風靡していた、帝大の学徒による哲学風味のエッセー書です。
著者の阿部次郎は、東京帝国大学で哲学を学び、のちに哲学や美学、倫理学の本を出版しています。

赤木桁平も書いているように、この本は当時低迷していたとされる思想界に新鮮なインパクトをもたらした本のようですが、いま読むと、どうなんでしょう、こんなことも書いてますよ。

「最後に余は人類に奉仕することを要するがゆえに、また民族にも奉仕しなければならない。詩化し余はいかなる途によって民族に奉仕するを得るか。ただ余自身の体得せる「道」を民族の間に生かすことによって、世界には、民族の異動と歴史の相違によって極言せられざる一つの「道」が存在する。この「途」は歴史によって徐々に実現されるものであるが、歴史によって規定される性質のものではない。聖性の道に従う肉体が強健であり、これに従わざる肉体が病弱なるがごとく、この「途」に従う民族は反映し、この「道」に従わざる民族は衰滅する。我等が民族に対して奉仕する唯一の途は、ただ民族の意志をして、この道に従わしめるところにある。その他の意味において民族の欲望に奉仕するは、目前の母と等しくかえってその奉仕の対象を傷害する所以である。ゆえに我らが民族に奉仕する途は必然にまた苦諌の途、力争の途でなければならない。我らは民族的理想が「道」にかなわぬものであるとき、この理想に抗争することによってはじめて民族に対する奉仕を全くにする。我らが民族的理想実現の目的に奉仕することを要するは、それが民族の理想だからではなくて、民族の理想が「道」にかなっているからでなければならない。自己の本質によって是認せられざるものに奉仕するは奴隷の奉仕である。」(「思想上の民族主義」(大正六年五月)より)
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初期「私小説」論――近松秋江(6)明治末期の男性が置かれていた状況

2024年05月24日 | 初期「私小説」論
『別れたる妻に送る手紙』に至る初期作品群は、11作品が『近松秋江全集第一巻』に掲載されていて、2,3の作品を除いてほとんどが明治社会に棲息した男たちの実相が描かれていると読めるものです。
そのなかのいくつかの作品の内容を紹介しましょう。

処女作と言われている『食後』は、下宿仲間の二人の男の食後の雑談を描いています。
一人は小説家に成りかけ、一人は弁護士に成りかけで、年齢は30代かと思われ、「もはや人間の味をば塩鮭か鹿尾菜(ひじき)かぐらいにしか思っていないほどに悪戯(いたずら)をしてきている」と紹介されています。
雑談は彼らの女性体験の話題から始まり、やがて弁護士になりかけの男の学生時代のいろいろと面倒をみてくれた友人の話になり、それが下宿屋の娘との逢い引きの中で友人の厚意を蔑ろにしてしまう顛末が語られます。
弁護士に成りかけの男はそのことを後悔し、誤解を解きたいという思いを胸に抱いたまま十七八年の時間を経るのですが、娘との思い出に対してはつれない語り口であるのに対して、友人に対してはぬぐいがたい傷としてその思い出が語られます。
弁護士としての立身出世を目標とする男は、男社会における人間関係に気を遣い、女性との交情には冷淡・無関心である様子が描かれているように私には受け取れました。
小説家に成りかけの男(作者の分身でしょう)は、トルストイの小説『クロイツェルソナタ』を引き合いに出して、男女の間の官能的な関係性への関心を表明します。



田舎の友』という作品は、中学時代の同級の秀才で、中学卒業後は東京の法律学校に進んで法学士を目指していた友人のことを、つかず離れずの距離で描いています。
この友人もまた明治社会の立身出世の価値観に従った人生行路を進んでいくかに見えていたのが、十七八年の時間の経緯の中で、田舎の教師に後退して、家庭を持ちながらも日々の生活に汲々としていく様子が伝えられます。

小説の冒頭は“私”が田舎の友から受け取った手紙が紹介されます。
そこには、改めて東京に出て不動産屋か、いっぱい呑み屋か焼芋屋の商売をやりたいが、「その損益の内情なり、資本なり」がどういう感じであるのか、研究して知らせて欲しいということが書かれていました。
この友人に対する主人公“私”の批評は、「彼は唯酒を飲まんと欲すれば酒を飲み、女を擁せんと欲すれば即ち擁したまでである。かれは自ら物利主義と知らないで、生まれながらのマテリアリストであった。自ら自分の主義を解していると揚言する者に,未だ真個(ほんと)の主義者のあった例は少ない」とあります。

同級の人』は、東京の学校で同級であった男と十年ぶりぐらいに再会し会話を交わすひとときを語ったもので、同級ではあっても同郷ではない。
その学校は二人が卒業した後に私立の大学になっていて、その大学の教師への口を周旋してもらおうと校長(小説のなかでの表現)の私宅を訪ねたところが留守で、帰りがけに“私”の家に立ち寄ったのだという。
会話は大学への就職の話から始まって、次には、大学の教師になろうとするのは男の郷里の離れ島で代議士になるための箔付けであることが語られます。
さらに雑談が続いていきますが、最後の方では、男の発言として以下のような言葉が記されます。
……社会に出なくって好けない。……気を付けて浪人にならないようにしないといけない。
別れ際に男は自分の住所を告げて、近くに来たら寄ってくれと言い残しますが、男を送り出した後“私”は「最早今聞いた番地や下宿の名を忘れて了った」という文で締め括られます。

同級の男は、過去に精神障害で治療を受けていた時期があったことを“私”は噂に聞いていたということも書かれています。
それもあってか男の話がどれだけの信憑性があるかわからないので、“私”は適当に聞き流していることにしています。
そして最後の締め括りの文に至るのですが、しかし単に男の生活状況に対する冷淡な対応を表明することが本旨ではなく(もしそうだったとしたら、会話のディテールまで書き込んだ語りができるはずがありません)、むしろ明治の男の存立を脅かす妄想にこそ作者のまなざしは注がれているように感じられます。

それは、明治の男性にのしかかる立身出世の規範の裏側に潜む「浪人にならないようにしなければいけない」という脅迫観念です。
教えられた下宿の住所も名前もすぐに忘れてしまったと報告する“私”にもまた、そのような明治の男の強迫観念を共有しているという意識が潜んでいるように、私には感じられるのです。









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初期「私小説」論――近松秋江(5)秋江文学の原点

2024年05月10日 | 初期「私小説」論
初期の小説にはもうひとつ兄をモチーフにした作品があります。
『その一人』というタイトルで、ごく短いものです。

書き出しはこんなふうです。
「私に物情(ものごころ)が着き初めてから、私の家におみねといふ女中が居ったことを想ひ出す。が、何ういふものか、その女に対して私の見解(かんがへ)が全然(まるで)一変するやうになるその前までは、私は其の女に何等の注意をも払はなかった。その見解(みかた)の変つた理由(わけ)を次に話して見やう。
その頃おみねは廿五、私は十五で十も違つてゐた。」


この書き出しは、女性への惑溺が十五歳のあたりから芽ばえていくことの告白であるように受け取られそうですが、この後語られていく話はそうではありません。
秋江のすぐ上の兄(徳田家の三男で、仲がよかった次男ではない)が、おみねという女中にちょっかい(小説では「悪戯(いたずら)」と書いている)をかける場面にたまたま出くわして驚いたことを書いているのですが、
その驚きの内容を以下のように伝えています。

「私を驚かしたのは彼(兄)の行為ではなくて、何時の間に彼はそんなことを為るのを愉快と思ふやうになつたであらうかといふことであった。さうして無意識に私も兄のするやうなことをして見たいといふ気になった。」



兄がおみねに対してやろうとしたことをうらやましく感じて、自分もやってみたいという思いに捉われ、また妄想も抱いたりする生活を送るようになります。
しかし実際には兄のように実行に移すことができず、悶々とした青春の日々をすごすことになるわけです。
書いているところは、自分自身をだしにして“男性”の中に潜む欲望や優柔不断の心理を正直に書いており、後年の秋江の小説の片鱗をうかがわせます。

優柔不断さの理由を、少年の秋江は自分の“無きりょうさ”に求めています。(小説では、”きりょう”という言葉に「縹緻」という漢字を当てています。)
そしてこう書いている。

「何が何としても男振りほど人の行状の上に強ひ勢力を有するものはない。他人の心を惹くにも惹かぬにも容貌風采(みめかたち)といふものは、人間一個の信用にも劣らぬほどの力を有っているものである」
ここには「美と倫理との関係」について、秋江が生来身につけてきた規範のようなものがうかがわれます。

そして最後は次のような文章でこの作品は締め括られるのです。
「つまり私は容貌風采の上から剥奪された、あらゆる快楽を蔑視しやうと力めた――それをば兄は十分に享楽してゐるやうに私の眼に映った――で、その癖私は全精魂を傾けて、兄の身を妬んだ。妬みながらも自分は高慢な孤独のうちにせめてもの慰籍(なぐさめ)を見出そうとして頻りに子供心を砕き、想像に耽り、散々に神経を悩ませた。」

ここにはかなり複雑に入り組んだ心理が表明されているように感じます。
その一番根底には、日本の家制度の下で無意識的に抑圧された“男性”の感情が蠢いているように感じるのはうがちすぎというものでしょうか?
しかし私は、ここに秋江の人間観の原点があり、そして小説『その一人』は近松秋江文学の全体が集約されているように感じられます。







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初期「私小説」論――近松秋江(4)秋江の“敗残意識”とは?ーー家族の中の“余計者”

2024年05月02日 | 初期「私小説」論
初期私小説の特徴の一つとして、作者は敗残の意識を抱えているといった趣旨のことを以前に書きましたが、秋江における敗残の意識とはどのようなものであるかを、ここで探っておきたいと思います。
とは言いながら、小説作品の中でも、雑誌のコラム用の記事の中でも、特に顕著な印象を与える「敗残意識」というものが見当たりません。
経歴を見ても、10代における学業の低迷や、社会人になってからの就労体験における挫折の経験や、それこそ所帯を持った女性に愛想をつかされるといった経験は経てますが、特に深刻な敗残意識が感じられません。

それを見出したのは、『別れたる妻に送る手紙』の創作に至る以前の初期小説群を読んでいくなかでのことです。
それは表立ってはいませんから分りにくい。というか、秋江の深層の意識の中に埋め込まれた形で発見されるように思われました。



前回にも書きましたが、小説の創作によって秋江が描こうとしたのは明治男の、見栄を取り去った真実の姿であると私は考えているのですが、
初期小説群が描いているのも、男性の生き方や社会的意識の在り様で一貫していると私は思います。
その中に、自分の兄を登場させた作品がいくつかあります。
秋江は現在の岡山県和気町の農家徳田家に、四人兄弟の末っ子として生まれました。
二番目の兄と仲がよかったようです。
その兄が、成人してアメリカに出稼ぎに出るのですが、明治という時代ですから、はるか異郷の地への転身であり、出航するときには今生の別れとも覚悟するような寂しさを味わいます。
その兄が何年も経ってアメリカで客死し、その知らせを受けて愁嘆しながら故人を哀惜することをテーマとした作品(『人影』)を書いています。

仲のよい兄弟、という以上に二人の間はある親密な感情を交換しあって深く結ばれていたようです。
たとえばこんな文章が出てきます。
「 …永久に帰って来ぬ人となって仕舞たかと思へば、彼が生前、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、
時に依って変ったその面差し、性癖、境遇、嗜好、乃至其れより発生する平常の生活の、極めて些やかなことまでが、凡ベて暗い、哀れなそれはそれは痛はしい色を帯びて繰り出すやうに何処までも想ひ起こされるのです。私は其れを想うて想うて、胸の痛くなるほど想って遣りたならば、、幽冥境を異にする彼と私と、霊魂が何処かで相会ふのではあるまいかと思はれます。」


その親密さ、交情の細やかさはどこからくるのだろうかと考えてみました。
そうしたら、秋江も件の兄も、要するに「長男ではない」ということが共通した特徴としてあります。
「長男ではない」とはどういうことかというと、日本の近代の家父長制度下においては、「余り者」であるということです。

人口統計学者で家族人類学者で著名なエマニュエル・トッドは、世界の家父長制度を論じた著書でそれをいくつかのタイプに分けて、日本の家父長制度の特徴を次のように書いています。

「権威主義で不平等主義のタイプ三の父は、息子たちの中でも家業を継ぐ一人の息子とだけ濃い絆を保持する。その他の兄弟たちは、「直系家族」から出て行かなければならないか、そこに独身者としてとどまることを強いられる。このシステムでは相続人は、長子であるか(長子相続)、弟であるか(末子相続)あるいは全員の兄弟たちのなかから、父によって選ばれた子供である場合すらある。(『世界の多様性 家族構造と近代性』p.43より)」

このシステムからすれば、次男以下の兄弟はその家族の中でいわば「余計者」であって、成人すれば家から離れて自活していくことが運命づけられています(明治国家体制下では、兵士か都市労働者として徴収される。おれを拒否する者は遊蕩者・極道か芸術家として生きるほかない)。
そしてこれら次男以下の男たちは、明治国家支配下の自治なき地方においてはなすこともなく、いわば根無し草のように生きていくことを余儀なくされているわけです。
四男の秋江、そして彼と仲のよかった兄も、この意味で本質的には徳田家には必要とされていない人間です。

ここに秋江の、家族からの疎外意識、そしてそこから演繹されてくる社会的な疎外意識の発生の淵源があるのではないか、そしてそれが、秋江における無意識的で根源的な“敗残の意識”を育んだのではないかと、私はそのように考えることが出来るような気がしています。
秋江と仲の良い兄との親密な交情は、いわば家族内“敗残意識(余計者意識)”ともいうべき意識の紐帯から発せられたものではなかったでしょうか?、







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初期「私小説」論――近松秋江(3)”妻”という社会的存在の形式を作り出す仕組みとの訣別

2024年04月25日 | 初期「私小説」論
(承前あている知り合いの男性に横恋慕され、遊女もどっちかといえばその男性に心惹かれていることで、主人公の“私”は嫉妬に狂ったり二人の言動に疑惑を持ったりする、そしてそれを隠そうとして虚勢をはったりすることを延々と書き連ねたりいるのは、手紙文学としての体裁を壊している、あるいは文学作品の構成として破綻しているといった批判をされてしまうのは、無理からぬところがあります。

構成的に破綻していることは誰の眼にも明らかであって、秋江もまたそれを認めるにやぶさかではなかったでしょう。
というか、秋江もそれは十分に分かっていたはずで、むしろこの展開は彼においては確信犯的に作為したものであると、私は考えます。
その理由は、第一にこの手紙は何のために書かれたのか、“私”の意図が不明瞭であることが挙げられます。
よりを戻したいと思っているのか、あるいは逆にきっぱりと最後の別れを告げて、新しい人生に踏み込むことを宣言しようとしてるのか、よくわからない、要するに不確定な精神状況を優柔不断に、ただぐだぐだと繰り言を述べているにすぎないということがあります。



二番目に、「別れたる妻」との関係ではなくて、それとは別なある決意が作者の心に宿されていて、それをこの構成上の破綻を通して表明しようとしているのでは、と思わせるふしが感じられるということがあります。
『別れたる妻~』が書かれた当時、作者の周辺にいる友人・知人からは、何かにつけて再婚を勧める言動が飛び交っていたようです。
その中で印象的なのは、秋江の実家の老母からも再婚話が持ち出されていたけれど、それを拒否して独りで生きることを、老母への手紙の体裁で表現した作品があることです。
そこに書かれていることから伝わってくるのは、上述のような「作者の密かな決意」といったものです。

『別れたる妻に送る手紙』の後半に書かれている遊女(名前は「みや」という)と“私”と、そして二人の間に割り込んできて「みや」を横取りしていく男性との三角関係をめぐる“物語り”は、作者における生き方の選択を表明することを目指して確信犯的に作為されたものであると私思うのです。
とするならば、「別れたる妻~」の「別れる」とは“妻”という言葉で表現される社会的な存在の形式あるいはその仕組みからの“別れ”ではなかったかと、私は問題提起したく思います。
そしてそれ以降、近松秋江は、女性への惑溺の中へと人生の歩みを進めていくことになるわけです。
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初期「私小説」論――近松秋江(2)明治男のダメさ加減を晒し出す

2024年04月18日 | 初期「私小説」論
近松秋江の代表作は『別れたる妻へ送る手紙』とするのが衆目の一致するところです。
比較的初期の作品で、これが文壇での評価を得たことで小説家としての地歩を固め、秋江文学の世界を築いていく大一歩となりました。
この作品のあとは『別れた妻』の系列をなす作品群が続き、さらに大阪や京都、鎌倉といった古都の花街を舞台にした遊女との情痴を重ねていく小説シリーズへと展開していきます。
そのほか、歴史小説や政治小説を試みた作品もあって多芸振りを発揮しますが、白眉はやはり『別れた妻』シリーズをもって嚆矢とすべきでしょう。

『別れたる妻へ送る手紙』は、7,8年間ほど連れ添ってはきたが、夫たる“私”は安定した収入も無く、妻は不安がって遂に家を出て行方を晦ます、その妻に送る手紙文で小説を構成した作品です。
この代表作のあと『疑惑』、『閨怨』(『別れた妻…』の続編)といった佳作が次々と発表され、俗に言う「寝取られ男」の惨めな心理や嫉妬心や猜疑心が有体もなく露呈されていきます。
『別れたる妻へ送る手紙』や『疑惑』では、それを凝縮して表現したような文章が見つからない(長めの文節ならありますが、ここに引用するには長すぎる)のですが、『閨怨』にはつぎのように述懐するシーンがあります。

(妻と住みなれた家を引き払うことを決めて引越しの作業をしていくシーンで)
「萎えたやうな心を我から引き立てて行李を縛ったり書籍を片付けたりしながら其処らを見舞はすと、何其につけて先立つものは無念の涙だ。
「何で自分はこんなに意苦地がないのだらう。男がそのやうなことでは仕方がない」
と自分で自身を叱ってみたが、私には耐力(たわい)もなく哀れつぽく悲しくつて何か深い淵の底にでも滅入り込んでゆくやうで、耐(こら)え性も何もなかった。」


いかにもたよりない境涯をみじめったらしく嘆くばかりですが、しかし恨みつらみのようなことは書いていない。
それは男の沽券というものを保とうとして虚勢をはっているからで、そのことが更にさりげなく滑稽感を表出していく効果を出していきます。
そういったことを、秋江は“私”を語り手として、自分自身の体験(実際に、妻であった女性に離縁されている)にもとづいて書いているのが、当時の読書界に衝撃を与え、明治男性のプライドを大いに傷つけたのでした。

女性に対して男性は徹底的にエゴイストで、男の沽券でもって女性を支配しているように見せかけながら、実は小心で嫉妬深く、ある感情に捉われるとそれに拘泥して抜けられなくなり、ついには女性の足元にひれ伏しようになる、といった男性像を描いていくことが、女性に溺れていく男性の姿を描く情痴文学や遊蕩文学のように受け止められていったわけです。
そういったことから近松秋江は情弱小説家のように見なされたりしてるようですが、私の印象ではむしろ男性の本質ということと向き合い、その真実の姿を描くことに文学の使命を見出していった小説家であるように思われます。
私はそこに “ある戦い”のイメージを思い描いてみたいと思います。私小説家近松秋江の内部で密かに設定されていた、明治国家イデオロギー下での“男性社会”との戦いです。



ところで、『別れたる妻へ送る手紙』の後半は、独り身となった淋しさに夜ごと紅灯の巷をほっつき歩いているうちに遊行の町の女とめぐり合って、また性懲りもなく“男性の性”に向き合っていくような事態が始まっていくのです。
その場面転換は次のように書かれています。
「 処がさうしている内に、遂々一人の女に出会(でくわ)した。
 それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といへばお前(元別れた妻)には判断できやう。一口に芸者ではないと言つたつて――笑っては可けない。――さう馬鹿には出来ないよ。遊びやうによっては随分銭も掛る。加之女だって銘々性格があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。」

別れた妻への手紙にこんなことを書くなんて、普通に考えてありえません。(つづく)









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初期「私小説」論――近松秋江(1)“情痴文学”というレッテルの裏側で

2024年04月11日 | 初期「私小説」論
近松秋江は、日本の近代文学を集結した全集系の本で岩野泡鳴とか正宗白鳥なんかの名前と並んで必ず目に入ってくる小説家だけれど、
明治末期から大正期にかけての文学史においては、なぜかエアポケットに入り込んだような印象があって、なかなか話題には上ってこない作家ではあります。
しかし気にはなる小説家なので、このたび初期私小説を論じるために、読んで見ることにしました。
詠んでみると、これが面白い。
女性をたてて男性を必要以上に卑下する、軟派系の小説ですが、読み込んでいくと実に興味深い手応えを感じさせる文学です。

文学辞典とか人物辞典とかで一般向けに解説されたものでは、「露骨な愛欲生活の描写」とか書かれていて、遊郭の女性とかとの交情をモチーフにした作品が多くて、
大正期あたりの良識派とか有識者には顰蹙を買って、情痴文学だの遊蕩文学だのとレッテルを貼られたりしています。
私が長いこと読まずにいたのは、そういった先入観をもたされてしまったこともあるかもしれません。
しかしそれは表層的な見かけに過ぎなく、秋江自身は至って真面目な文学者であり、歴史や古典芸能や政治経済や世相など多方面にわたって関心を向けて自分の見解を書いているし、
文学自体についても文学史や世界の文学を視野に収めた、傾聴に値する評論・批評文を半生を通して書き続けています。

そういった文章は、1908(明治41)年から読売新聞の文芸欄日曜付録に月に1回書き始め、1942(昭和17)年まで続いた『文壇無駄話』というタイトルのコラム欄に掲載されていました。
秋江の全集では第9巻から第12巻までを満たしていて、明治末から昭和前期にかけての文学史の貴重な資料になっているのではないかと思います。



私もこのブログを書くためにときどき拾い読みをしているのですが、先日は「予の老農主義」と題した文章に出会って、思うところがありました。
そこでは、地方の大地主が製造工場などの会社事業に手を出して失敗し、家屋整理のために他村に所有していた田地を売りに出すと、小作農オ・自作農の小農家がいろいろ金策をして土地を買い戻していく、そしてそうやって私有の土地を少しづつ増やしていくということが話題とされていて、以下の文章に続いていきます。

「そこで、さういう困らない半小作半自作農は、単に農事ばかりでなく、いろいろな土木工事に稼ぎに出たり、またいろんな家内の手内職の副業をしたりして、それによって得た労銀を貯蓄して置き、それを以て田地の売物が出た時に買ふのである。」(大正12年)

こういった叙述のなかの、「会社事業に手を出して失敗」とか「土地を買い戻し」とか「土木工事」とか「手内職の副業」といった言葉が、20世紀初頭の農村地帯に近代的な産業システムがじわじわと浸透していく有り様が感じられ、金銭の貯蓄や土地の買収にといった事柄に人々の心が傾斜していく時代の空気感がそこはかとなく感取されてくるではないですか。
私はこういった様相に、明治の国家体制と経済の施策により地方の自治意識が国家の意思の下に再編統治され、空洞化されていく流れのようなものを想像してしまうのですね。

自治の精神が奪われてしまったということは、地方の生活において、少なくとも次男以下の男性はやること(生き甲斐とすること)がなにもなくて、日々を空しく過ごしていくという境涯に甘んじることになります。
それでは身が持たないので都市に出て労働者としての生活にささやかな幸福を見出していく、あるいは芸術や芸能のスキルを身につけて、他人の目には一見“自由”と映るような人生を歩んでいったりするわけです。
しかし“自治の精神”を奪われているということは、本質的には「何をなすべきか」のヴィジョンが奪われていることには変わりない、と私は考えます。

なすべきことは何であるかが見つからない限りは、当面何をやっていくかといえば「“私”の欲望に従う」ことであり、一部の男性だけに実践可能なことですが、「“女”との遊芸にうつつを抜かす」ことであるかと思います。
かくして、文学の世界においても、明治末期から大正期にかけて“私”小説が勃興し、「“女”が書けなければ一人前の文士とは言えない」という日本文学独特の因襲が醸成され始めたのでした。











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初期「私小説」論――近松秋江(1)“情痴文学”というレッテルの裏側で

2024年04月11日 | 「‶見ること″の優位」
近松秋江は、日本の近代文学を集結した全集系の本で岩野泡鳴とか正宗白鳥なんかの名前と並んで必ず目に入ってくる小説家だけれど、
明治末期から大正期にかけての文学史においては、なぜかエアポケットに入り込んだような印象があって、なかなか話題には上ってこない作家ではあります。
しかし気にはなる小説家なので、このたび初期私小説を論じるために、読んで見ることにしました。
詠んでみると、これが面白い。
女性をたてて男性を必要以上に卑下する、軟派系の小説ですが、読み込んでいくと実に興味深い手応えを感じさせる文学です。

文学辞典とか人物辞典とかで一般向けに解説されたものでは、「露骨な愛欲生活の描写」とか書かれていて、遊郭の女性とかとの交情をモチーフにした作品が多くて、
大正期あたりの良識派とか有識者には顰蹙を買って、情痴文学だの遊蕩文学だのとレッテルを貼られたりしています。
私が長いこと読まずにいたのは、そういった先入観をもたされてしまったこともあるかもしれません。
しかしそれは表層的な見かけに過ぎなく、秋江自身は至って真面目な文学者であり、歴史や古典芸能や政治経済や世相など多方面にわたって関心を向けて自分の見解を書いているし、
文学自体についても文学史や世界の文学を視野に収めた、傾聴に値する評論・批評文を半生を通して書き続けています。

そういった文章は、1908(明治41)年から読売新聞の文芸欄日曜付録に月に1回書き始め、1942(昭和17)年まで続いた『文壇無駄話』というタイトルのコラム欄に掲載されていました。
秋江の全集では第9巻から第12巻までを満たしていて、明治末から昭和前期にかけての文学史の貴重な資料になっているのではないかと思います。



私もこのブログを書くためにときどき拾い読みをしているのですが、先日は「予の老農主義」と題した文章に出会って、思うところがありました。
そこでは、地方の大地主が製造工場などの会社事業に手を出して失敗し、家屋整理のために他村に所有していた田地を売りに出すと、小作農オ・自作農の小農家がいろいろ金策をして土地を買い戻していく、そしてそうやって私有の土地を少しづつ増やしていくということが話題とされていて、以下の文章に続いていきます。

「そこで、さういう困らない半小作半自作農は、単に農事ばかりでなく、いろいろな土木工事に稼ぎに出たり、またいろんな家内の手内職の副業をしたりして、それによって得た労銀を貯蓄して置き、それを以て田地の売物が出た時に買ふのである。」(大正12年)

こういった叙述のなかの、「会社事業に手を出して失敗」とか「土地を買い戻し」とか「土木工事」とか「手内職の副業」といった言葉が、20世紀初頭の農村地帯に近代的な産業システムがじわじわと浸透していく有り様が感じられ、金銭の貯蓄や土地の買収にといった事柄に人々の心が傾斜していく時代の空気感がそこはかとなく感取されてくるではないですか。
私はこういった様相に、明治の国家体制と経済の施策により地方の自治意識が国家の意思の下に再編統治され、空洞化されていく流れのようなものを想像してしまうのですね。

自治の精神が奪われてしまったということは、地方の生活において、少なくとも次男以下の男性はやること(生き甲斐とすること)がなにもなくて、日々を空しく過ごしていくという境涯に甘んじることになります。
それでは身が持たないので都市に出て労働者としての生活にささやかな幸福を見出していく、あるいは芸術や芸能のスキルを身につけて、他人の目には一見“自由”と映るような人生を歩んでいったりするわけです。
しかし“自治の精神”を奪われているということは、本質的には「何をなすべきか」のヴィジョンが奪われていることには変わりない、と私は考えます。

なすべきことは何であるかが見つからない限りは、当面何をやっていくかといえば「“私”の欲望に従う」ことであり、一部の男性だけに実践可能なことですが、「“女”との遊芸にうつつを抜かす」ことであるかと思います。
かくして、文学の世界においても、明治末期から大正期にかけて“私”小説が勃興し、「“女”が書けなければ一人前の文士とは言えない」という日本文学独特の因襲が醸成され始めたのでした。











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