モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅴ‐1〈鳥獣戯画絵巻〉と院政期の絵巻物ーー身体の動態表現に見る創作意識の芽生え

2021年09月07日 | 日本的りべらりずむ
後白河法皇の院政期には、現在国宝に指定されている絵巻物が何点か創作されています。
今回から5回にわたって、それらの絵巻物から抽出できる「日本的りべらる」の要素について、私見を書いていきたいと思います。

 
                「鳥獣戯画絵巻」展(東京国立博物館)図録より

絵画作品についての評釈は主観的要素の混じるのを避けがたく、難しいところもあるのですが、
あまり気にせずに、私が個人的に感じ、思うところを、みずからに放言を許す気持ちで書いていきますので、そのつもりで気楽に読んでいただけると幸甚です。


まずは、今年東京国立博物館でも大々的な展覧会のあった〈鳥獣戯画絵巻〉を取り上げましょう。

この絵巻物が話題になるときには、「謎に包まれた」というような紹介をされるのが定番になってますが、
その謎の主だった事項を挙げますと、

①制作年 ②作者はだれか ③制作の目的 ④テーマは何か ⑤なぜ動物に託して遊び
の世界が描かれているのか

といったことがあります。

今年の2月に、名古屋大学大学院で平安期から中世期の日本絵画の研究をされている伊藤大輔教授の『鳥獣戯画を読む』という本が上梓されましたが、この絵巻物の研究の最新の成果が示されています。

それによりますと、動物の世界のこととして描かれていることを、院政時代の王権の願望・夢想と繋げて解釈しているようです。

〈鳥獣戯画絵巻〉とほぼ同時期に創作されたと見られる〈年中行事絵巻〉との相似性がよく話題に出されますが、
『鳥獣戯画を読む』でも、〈鳥獣戯画絵巻〉が〈年中行事絵巻〉と共通した趣向で創作されていることに注目しています。
そして「なぜ年中行事的なのか」と問いを立てて、次のように解読しています。

「それは年中行事というものが、人間の文化的営みが、強固な制度として結晶化したものであり、人間や文化という構造上の極性を最も先鋭に意識させる行為であったからではないだろうか。動物に年中行事風のふるまいをさせることで、動物と人間、自然と文化の両極の存在は、明白な形をとって画中で前面化される。つまり二つの隣接領域が相互侵犯して生れる両義性をしっかりと担保するために、年中行事的なふるまいが必要であったものと考えられる。」(p.106)

院政期の都に展開された人間の「遊び」の世界が、動物の姿で描かれたのは何故か?

私が思うには、もし人間の姿で描けば衣裳も描くことになり、衣裳の描写は当時の人間の身分を表わすことになります。
そうすると、遊びや戯の表象の中に身分制の表象が侵入してくることになって、ひょっとしたらそれは後白河法皇の意に反することになるかもしれないということが、一つの可能性として想定されます。
遊びや戯においては、身分の区別は否定されてしかるべきであるという考え方が、院政期には無くもなかったようです。
『鳥獣戯画を読む』には、後白河法皇やその後の後鳥羽上皇の考え方の中には、身分制を否定するベクトルの存在したことが言及されています。(p.102-103)


私が〈鳥獣戯画絵巻〉から受ける一番強い印象は、動物たちの動き、動態の描写です。
その素形はもちろん人間の身体の動態ですが、それを描くことに何か絵師たちの嬉々とした感情の躍動を感じるのです。
これが表現できるためには、身体の動態をしっかりと観察してデッサンを積み重ねていったことでしょう。

身体の動態に作画のモチベーションを見出していくということは、平安期の同時代の他の絵画表現にあったでしょうか。
中国(北宋・南宋時代)や朝鮮半島にその例を求めてみましたが、国内の美術関係の出版物の中には見い出すことができませんでした。
(ポーズではありません。ポーズの表現は、身体を描けば何らかの形で伴います。)

確認データが少ない段階で確定的なことは言えませんが、これは時代や社会にとっての“絵画の意味”にかかわる問題が含まれているような気もしてきました。


ここは気軽な気持ちで言っときたいと思うのですが、身体の動態表現への着目は、絵を描くことを職業とする人(つまり絵師)にとっての、造形美的な関心であるように思います。

つまり、社会や時代が絵画に求めている機能とは別に(あるいは、それから離れて)、絵師の個人的な関心として、人間の動態表現への興味が発生してきているように感じられるのです。

それは絵師における、個人的な表現者としての意識の芽生えと意義付けることができます。
そういった事態が、人類の絵画表現史の中で、12世紀の日本で起こっていたのです。

(中国では山水画や花鳥画など静態的でコスミックな表現の段階であり、西洋では、キリスト教聖典に記された教えや説話をモチーフとする、宗教的コスモスの世界を表現する段階にありました。)




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Ⅳ‐5後白河法皇(と梁塵秘抄)ーー信仰・遊び(美)・労働を一体化した浄土的世界への夢

2021年09月04日 | 日本的りべらりずむ

後白河法皇が夢に思い描いた浄土王国のイメージを改めて整理して表すならば、
それは、遊び・信仰・文化(現代で言うアート)・労働の4つのカテゴリーで成っていると見ることができるでしょう。
(政治・経済・法律などは地上権力としての武家による統治に付託。)

各々のカテゴリーを象徴的に担っている事象は、遊びは歌謡集『梁塵秘抄』に編纂された今様と庶民の間で流行した遊戯、
信仰は千手観音と熊野権現への度重なる参詣、文化(アート)は蓮華王院で営まれた絵巻物などの創作や、
和歌集・仏典などの典籍の収集、ということになるでしょうが、
労働に関しては、特にこれという具体的な事績が残されているわけではありません。

しかし平安中期あたりから庶民が従事する職業にさまざまなヴァリエーションが発生してきて、
白河上皇(後白河法皇の祖父)から始まる院政期あたりになると、多様な職種が見られるようになってきます。

そして『梁塵秘抄』にもその反映が見られるわけです。

鎌倉期から室町後期にかけてのこの職の発展・展開が、日本中世史の下層社会での庶民の暮らしぶりの内容をなし、
またそこで醸成されたカウンターカルチャーが上層階級へと浸透していくことで、日本中世独自の芸術・文化事象を形成していきます。

そのような展開の端緒を成し、その後の推進のはずみをつけていったのが後白河法皇による、職の領域に向けての政策的な対処です。

後白河法皇の項の最後となる今回は、そのあたりのことに少し触れておくことにします。



平安・鎌倉期に天皇や上皇が発布した法令は新制と呼ばれていますが、後白河法皇が発布した新制の中に、
職の体系・身分体系の整序という項目があって、棚橋光男の『後白河法皇』によると、

「殺生禁断の宗教イデオロギーを振りかざして、山野河海で働く広範な人々の意志の領有とその生業にたいする統制を実現せんとしたのである。そして、これらは、とりもなおさず治天(院=天皇権力)の至上高権の明示(朝儀復興)に寄与し、職の体系・身分体系の整序にも貢献したのである」

とあります。

中世期を通して庶民階層に営まれた職のさまざまな展開は、「職人歌合」という文献史料がその詳細な内情をリアルに伝えています。

五七五七七の短歌形式で職人の仕事や振る舞いや姿形をおもしろおかしく詠った歌を集めた歌集で、職人歌合というひとつのカテゴリーをなす文献です。

その第1号は『東北院職人歌合』という鎌倉初期のもので、後鳥羽上皇や藤原定家が制作にかかわっていそうだとされています。


東北院というお寺では毎年9月13日の夜に念仏会という行事が行われており、『東北院職人歌合』の序文には次のように書かれています。

「東北院の念仏に九重(宮中)の人々男女たかきもいやしくもこぞり侍りしに、みちみちのものども人なみなみにまいりて聴聞し侍りけるに…」

そして歌を詠んだり連歌をなどして時を過ごし、夜も更けてくると歌舞音曲も交えて場は次第に騒がしくなってくる。別の文献にはこうあります。

「糸竹声の調、歌舞面々の態、視聴の感、これもかれも飽くなし。然る間、凶党十余人、俄かに口論或は手刃に及ぶ。恐戦の処、後悔益なし」(『釈氏往来』守覚法親王著)

騒いでいるのは都に住んで仕事をしている職人たちです。

後白河法皇在世時には、このような光景はすでに定着していたと思われます。


次回からのテーマは「鳥獣戯画絵巻と院政期の絵巻物」(仮題)です。




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Ⅳ‐4後白河法皇(と梁塵秘抄)ーー文化による政治的・社会的諸集団の再統合

2021年08月14日 | 日本的りべらりずむ

後白河上皇は現在の東山七条の地に蓮華王院という寺院を建立し、
ここを拠点として総合文化的な創作・収蔵・発信のセンターとしての新しい王権国家の再生の夢に向けて活動を開始しました。

現在の三十三間堂がある場所で、三十三間堂は蓮華王院の本堂として建てられ、
千手観音坐像と千手観音立像一千体が本尊として安置されていることは、みなさんよく御存知のことでしょう。

蓮華王院で創作されたり、収集された文化史料の主なものをここに列挙しておきます。

〈絵画〉
年中行事絵巻・御禊行幸絵・後三年合戦絵(静賢法印筆)・八幡宮延喜・六道絵・長恨歌絵(信西筆)・当麻寺新曼荼羅(法橋源尊筆)・法然上人画像(藤原隆信筆)
〈典籍〉
官曹事類・刪定律令問答・部類万葉集・懐風藻・経国集・土佐日記(紀貫之筆)・貫之自撰家集(自筆)・躬恒集(承香殿女御筆)・拾遺和歌集・後拾遺和歌集・千載和歌集(奏覧本)・堀河院御時百首和歌・糸管抄・聖教(空海筆)・菅原道真真蹟・御禊行幸記文・毛詩・旧唐書・群書治要
〈楽器・楽譜〉
琵琶(「若御前」「賢円」「御前丸」「新御前」「盤渉調」「狩葉」ほか)・筝(「あしたづ」「鬼丸」ほか)・笛(「紙烏帽子」)・笙(「辛櫃(からびつ)」)・琴譜(「うちぐもり」)・催馬楽譜
〈その他〉
鬼の帯・比叡山横川の柿の木 (※この〈その他〉の資料について棚橋は、後白河の新奇趣味が面目躍如している、とコメントしてます。)

※これらの文化史料は、宝蔵という建物(倉庫)に保管されていたとのことです。



さて、後白河法皇の王権債権の構想がどのようなものであったか、棚橋光男の推測を私の下手な文章で紹介するよりは、
棚橋の文を直接読んでもらったほうが読み応えがあると思いますので、以下そのまま掲載します。

「保元・平治の蘭から源平の争乱に至る内乱の渦中で、王権そのものの消滅の危機が幾度かあり、あるいは少なくとも、複数の王権が分立する現実的可能性がありました。
その経験の中で、後白河は、王権を構成する諸要素、王権に随伴する諸機能のうち、何は落とせて何は落とせないのか、何は奪われてもしかたがなくて、何はぎりぎりのところで死守しなければならないのか、深刻な選別・ふるいわけの作業にせまられたはずです。
そしてその上で、王権から一旦奪われた諸機能を質的にちがった形で再編成する作業を行わなければならなかったのだと思います。
同時にかれは、王権の存続と再生にとって、文化的統合ということのもつ高度の政治性(政治的意味)を発見したはずです。
王権が文化的創造の最大のパトロン=文化的な(場)の主宰者であり、文化的趣味の基準の認定権者であること、そして、これを可能にする条件が、王権による文化的情報の収集・独占と情報操作にあること、このことを語白河は深く認識したはずです。
このことが政治的・社会的諸集団の再統合に果たすであろう役割を、かれは深く認識したはずです。
院の創建になる蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵が当代最高の美術品収蔵庫であったことや、院が絵巻物の新しいスタイルの開発と制作にマニアックな精力をそそいだこと、これが呼び水となって『年中行事絵巻』『伴大納言絵詞』『信貴山縁起』『餓鬼草紙』『地獄草紙』『病草紙』をはじめ絵巻物史を飾る数々の名品が生みだされたことは、以上の背景を抜きに語ることができません。
後白河が執着したのは、決して『梁塵秘抄』と今様だけではなかったのです。」                 
             (『後白河法皇』棚橋光男著 講談社選書メチエ)


この本は1995年に発行棚橋はその前年に47歳で亡くなっています。
棚橋の研究は、それまでの後白河法皇の歴史学的評価に新たな論点を提示しましたが、その後今日に至るまで、
日本中世史学において大きく更新されている様子はないようです。

後白河法皇が思い描いた王権構想は、その後の日本中世という時代における
「民衆の台頭とそれを下支えする王権」という構造の枠組みとして捉える可能性を提示しているように思えます。
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Ⅳ‐3後白河法皇(と梁塵秘抄)ーー信仰・遊び(美)・労働を一体化した浄土的世界への夢

2021年08月03日 | 日本的りべらりずむ

さて、平安後期の京の市中に流行った今様(流行歌謡)を隈なく収集して、一つの歌集として編纂する事業を起こしたのが、平安朝最後の院政を司った後白河法皇です。

後白河法皇は第77代天皇として1155年から1158年の間、わずか3年の間だけ在位し、譲位後は上皇の地位について、35年の間院政を敷きました。

スタンダードな歴史学的評価では、天皇・貴族を統治主体とする摂関政治から、武家による統治へと権力の所在が移行していく歴史の転換期の中での、
衰退していく旧勢力の一エピソードとして位置付けされてきた存在でした。

具体的には平清盛から源頼朝へと立役者が移り変わりゆく中で、その背後に退いて、
上皇の座を死守し旧体制の内向的な世界に保身しようと立ち振る舞ったように見られていました。


そういう評価に対して、20世紀末に棚橋光男という少壮の日本中世史学者が、後白河上皇の事績の意義を捉えなおして、
むしろ武家政権に対抗する新しい王権社会を構想し、グランドデザインを描き出そうとした権力者として評価していく視点を提示しました。

棚橋は惜しくも47歳の若さで急逝し、その学問的成就は果たされなかったのですが、
中世という時代区分の歴史学的な意義付けにおいては、新鮮で創造的な観点が開かれたのではないかと思います。



では、その棚橋史学の観点は、後白河法皇(上皇から法皇へ)の王権構想をどのように描き出そうとしたかということですが、
私は以下のように推測して、棚橋の夢に乗っかってみたいと思っています。

後白河法皇の王権構想の骨組みは、『梁塵秘抄』の編纂の仕方の中に一つのヒントが見出されるのではないかという気がします。

それは、『梁塵秘抄』の印象として私が前回に書いたことですが、信仰と遊びと労働(職名が謡い込まれている)が混然一体化して、
いわば仏教的な浄土世界を、この地上に実現しようとする志です。

信仰と遊びと労働が混然一体化した社会とは、古代身分制における貴賤上下の差別が解消されているようなイメージの社会です。

武家の存在感が日増しに強くなっていく現実の社会状況の中で、
法皇の夢をいささかなりとも実現していくためには、どういう社会環境が形成されなければならないか。

私が思うに、法皇が考えたことは、現実の世界の統治は武家の手に委ねて、
文化的な創造と享受(信仰と遊びと労働、さらには美的世界の創造が加わって)の世界は世俗権力とは別に、
伝統的な王権によって司られる世界として構想していく、というようなことではなかったかということです。

いわば、西洋の古代キリスト教世界においてアウグスティヌスが夢想した、地上の王権支配に対する、“神の国”構想のようなものです。

後白河法皇の夢想の中に描かれていたそのようなユートピア的な王権世界のイメージは、
やがて現実の日本の歴史的展開の中で、いわゆる“中世的世界像”として次第に具現化していくことになると、
これは棚橋光男が描こうとした、中世という時代の歴史像でもあるのですね。


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Ⅳ‐2後白河上皇(と梁塵秘抄)ーー『梁塵秘抄』の全体から受ける印象

2021年07月24日 | 日本的りべらりずむ
(前回からの続き)筆者が受けた『梁塵秘抄』の印象について

2.仏教や神道の教えを説いた8割がたの歌の全体の印象は混沌としてますが、
仏教は基本的に法華経の教えを謡うものがほとんどで、
法華経のテーマが平等思想をアピールするものであることもあってか、
平等観というものが通奏低音のように響いているように感じられます。

特に、次のような歌からは平等を希求する意識が強く感じとれます。

 法華経きくこそあはれなれ、ほとけもわれらもおなじくて、平等大恵摩尼宝(びょうどうだいえまにほう) 末の枝とぞ説いたまふ  (八一)

  常の心の蓮(はちす)には 三身仏性おはします 垢つき穢き身なれども 
  仏に成るとぞ説いたまふ (一一九)

  仏も昔は人なりき われらも終(つい)には仏なり いづれも仏性具せる身を 
  へだつるのみこそ悲しけれ   (二三二)

一首目の歌には「ほとけもわれらも同じくて」という表現が見られますが、
平安朝の身分制社会において、たとえ法華経の思想に依りながらであっても、
俗謡の詞に「ほとけもわれらももな同じ」と詠むのは、当時としては随分と大胆な表現ではなかったかと思います。

作者は、白拍子とか遊女とかの賤民視されていた階層の人ではなく、
僧侶とか、かなり位の高い教養ある貴族ではなかったかと思われます。


ところで、「弥陀の称名を唱えさえすれば誰でも成仏できる」という思想は、
鎌倉初期に活動した法然や親鸞の「念仏を唱えれば誰でも往生できる」という他力本願仏教を連想される方が多いのではないでしょうか。

しかし梁塵秘抄が後白河上皇によって編纂されたのは1180年ごろで、
法然が浄土宗を開いて布教活動を始めたのが1175年、親鸞の布教活動は1210年過ぎごろからはじまりますので、
梁塵秘抄に表されている念仏称名の平等思想は法然や親鸞の教えによるものでないことは、言うまでもありません。

平安末期における念仏往生思想は、『梁塵秘抄』編纂より250年ほど前に京都市中において、称名念仏を唱える活動を展開した空也上人に発するものと思われます。

空也上人の活動はそれを継承する人々によって、京を中心に次第に広められていって、
1050年頃には普及のピークを迎えたということです。

法華経的な平等思想と念仏往生思想は、法然や親鸞を待つことなく平安末期には庶民の間に浸透していたわけですね。

またそのような下地ができていたからこそ、法然や親鸞の活動が、始めはさまざま迫害を受けながらも、
中世社会の中に次第に受け入れられていったと考えられます。



(3)『梁塵秘抄』全体の印象として、都の庶民生活が、宗教と遊びと労働の渾然一体となった低い目線で捉えられ、伝えられているように感じる。

「あそび」という言葉は、童(幼児)の姿や動物・昆虫の生態をモチーフにして謡っているのが散見されます。

労働を謡っているとは、具体的に職名が謡いこまれているものが多いです。
一例を挙げますと、

  楠葉の御牧の土器作り、土器は作れど娘の顔ぞよき、あなうつくしやな、
  あれを三車(みくるま)の四車(よくるま)の 愛行輦(てぐるま)に打ち載せて、受領の北の方といはせばや  (三七六)          

〔訳〕「楠葉の御牧」は大阪府淀川沿いにある地名。古代は土器の産地であったとか。土器作りの娘の顔が美しいので受領の北の方(夫人)に輿入れさせたいほどだ、というほどの意味です。
土器作りという職業は当時にあっては賤業視されていましたが、その女性従事者を受領の奥さんに位あげして見ようとする視点に、下から目線の憧れの心情がうかがわれます。

職業では他に、農夫、木こり、狩猟者、鵜飼、雑魚売りなどが出てきます。

いずれも賤業と見なされていた、下層階級の人々の仕事ですが、
古代史の流れの中で見ますと、その末期(中世の直前期)の都では様々な職業の者が、
巷をにぎわし始めていたことが想像できます。

信仰と色香が入り混じったほんわかムードの歌を一首上げておきましょう。

  春の焼け野に菜を摘めば 岩屋に聖(ひじり)こそ在(おは)すなれ
  唯一人 野辺にて度々逢ふよりは な
  いざ給へ聖こそ、賤(あや)しの様なりとも 妾(わらは)らが柴の庵へ (三〇二)


※ 梁塵秘抄を原文で読むのがまどろっこしく感じる方には、桃山晴衣が曲を附けて歌っているCDをお奨めします。原曲.がどのようであったかは皆目わかりませんが、桃山さんの才気と想像力で上級の民衆歌謡が再現されています。是非聴いてみてください。
(Youtubeでも聴けるそうです。私はもっぱらCDです。)

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Ⅳ‐1後白河上皇(と梁塵秘抄)ーー「遊びをせんとや生まれけむ」の歴史的意義

2021年07月13日 | 日本的りべらりずむ

日本の歴史における平安時代から鎌倉時代への変遷は、天皇を中心とする摂関政治から武家による統治への転換でもありました。

その平安末期に院政期と呼ばれている期間があって、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、
しかし政務はそのまま引き継いで天皇に代わって直接行なう形態をとっていました。

白河天皇が上皇となった1086年からはじまって、鳥羽上皇の期間を経て、平家が滅んだ1185年あたりまでの約100年間がその時期にあたります。

ここに取り上げる後白河上皇はこの院政期の3代目の上皇で、1158年からはじまっています。

この後白河上皇のときに源頼朝が鎌倉に幕府を開幕し、武家政権を樹立したことになっています。


後白河上皇は、当時武士や僧侶や庶民の間で流行していた今様(流行歌)を収集して、『梁塵秘抄』という歌集を編纂したことで知られています。

しかしそれだけにはとどまらず、文化的にも政治的にも非常に重要な役割を果たした人なのですが、歴史学上の評価は必ずしも一定していないようです。

ここではそのあたりの問題に触れていきたいと考えています。



まずは『梁塵秘抄』の話から入っていきましょう。

『梁塵秘抄』という歌集の存在を知っている人はだれでも

「あそびをせんとやうまれけむ、たはぶれせんとやむまれけん、あそぶこどものこゑきけば、わがみさへこそゆるがるれ」

という歌をご存知のはずです。この歌は『梁塵秘抄』を象徴するほどによく知られています。


平安末期といえば源平合戦の時代で、源氏方のヒーロー源義経には静御前という愛妾がいましたが、
この女性の職業は白拍子という舞姫で、白拍子とか、あるいは遊女と呼ばれていた“あそびめ”が謡っていたのが、『梁塵秘抄』に収集された当時の歌謡曲です。

五百首ほどありますが、量的には「あそびをせんとや」のような俗謡が2割ほどで、
八割方は仏典(主として法華経)や神道の教えを平易に説いた歌です。



『梁塵秘抄』から私が受けた印象を3点ほどにまとめてみました。以下の如くです。

1.「あそびをせんとやうまれけむ」の歌について
この歌の解釈は、意外なことに研究者の間でも一定していないようです(よく考えれば当然ともいえますが)。

どういう社会的地位の人が謡ったのか、誰のこと(幼い子供か白拍子・遊女か、あるいは人間一般か)を謡ったのか、
「わがみさへこそゆるがるれ」の「ゆるがるれ」はどういう状態なのか、等々です。

小西甚一(国文学者)の解釈は
「平生罪業深い生活を送ってゐる遊女が、みづからの沈淪に対しての身をゆるがす悔恨をうたったものであろう。」(『梁塵秘抄考』(昭和16年刊)

西郷信綱(古代文学研究者)は
「遊女のなりわいとしてのアソビと童子らの無心なアソビとの二相が、かくてここで奇しくも等価関係に置かれるのである」(『梁塵秘抄』昭和51年刊)
としています。

堅気の社会生活からははずれていわば不要不急の遊興サービス業に従事する白拍子・遊女の、負い目や哀切の感情を認める点ではだいたい一致してますが、
私はそれでもなお、この世に生を受けた者としての自己肯定感が芽吹きだしてこようとするのを感じないではいません。

この、身分制社会の下層領域においていわば賤民と見なされながら生きる人々のいささか抑制気味の自己肯定感こそが、
日本古典文芸史における古代末期から中世初期にかけて台頭してきた歌心の新しさと映ります。

そして中世期という歴史の舞台に姿を現わしてくる“民衆”と彼らの生活圏を出自とする文化諸相が、一斉に開花していく原動力となったものではないかと思います。
                                (つづく)

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Ⅲ‐5山上憶良の詩歌——老いと死に向き合って(最晩年の長歌三部作より)

2021年06月29日 | 日本的りべらりずむ

憶良は74歳で亡くなります。

60歳を過ぎたあたりから、「病をを得て、さらに老いも重なり、手足が動かず関節が痛み重りを背負ったような状態」(『士の嘆き』)にありましたが、
72歳で『貧窮問答歌』を詠った後、最晩年に至って老いや死に向き合った長歌三部作(『沈痾自哀文』『俗道悲嘆詩』『老身重病歌』)を完成します。


『沈痾自哀文』は反歌(短歌)を添えない漢文調の作品で、1,250字に及ぶ長編詩です。

大意は、
「自分は生れてから今日に至るまで、仏・法・僧を尊び、一日も欠かさず勤行を行い、多くの神を尊重して、一日として礼拝を欠いたことがない。それなのに、私は何の罪を犯したからといってこんなに重い疾病に苦しまなければいけないのか、という嘆きから始まって、その原因を探って占いや神意を聞いて回ったりしたが、一向に癒えることがない。思念は中国漢方の療法や仏典・儒学・老荘の仙術(『抱朴子』ほか)など中国古典の世界を広く渉猟しますが、遂に快復の道を見出しえず、「どのようにもなす術がなく、不幸の最たるものが、すべて私に集まっている」と現実を受け入れるに至ります。」


『俗道悲嘆詩』は、
「釈迦・弥勒、周公・孔子の教えを踏まえつつ顧みれば、「この世に恒久の存在などない。瞬きの間に百年の命もたちまちに尽き、臂(ひじ)を伸ばすほどの短い時間に千年の時も空しく過ぎる」。だから知る「生れれば必ず死ぬということを。もし死を願わないのならば、生れてこなければよいのである」と。と言いつつ、最後は「空しき事浮雲と太虚を行き、心力ともに尽きて寄る所もなし」と着地します。」


『老身重病歌』は比較的短い作品です。後半部分を現代語訳で紹介しましょう。

「老いさらばえた我が身に重病まで加えられてはたまらない。日中は嘆きつつ暮らし、夜は夜でため息をついて暮らす。そんな暮らしを長年月重病のまま続け、こんなことならいっそ死のうと思う。けれども、食べ物を求めて蝿のように騒ぐ子らを打ち捨てることもかなわず、死ぬに死ねない。こんな現状を見ていると、心では生きなければいう思いが燃え上がる。そんなこんなで思い煩い、声を出して泣けてくる。」



現代の私たちからしますと、老いや死に直面しての反応があまりにもナイーブな印象がありますが、
科学的な知見の少なかった時代ゆえにというよりは、
老いや死という、すべての生き物にとって免れがたい摂理に対して正面から、
そして全身全霊をかたむけて向き合おうとする切実さの表れのように感じられます。

その切実さに詩人的な激しさがあって、それが憶良の〈個別性〉を際立ったものにしているようです。


『万葉歌の成立』の〈共同性〉〈個別性〉の図式で言えば、仏教・儒教の教えを顧みるところは〈共同性〉に訴えようとしています。

それはいわば当時の知識人・歌人にとっての救いの思想であったかのごとくですが、
しかし憶良の詩魂・思念の激しさはその〈共同性〉の枠をも超え出て、〈個別性〉の世界を表出しています。
そこに、万葉の時代にあっての歌人山上憶良の無類の特異性があると言えるでしょう。


なお憶良は、大宝律令を遵守し、民衆の心情に感応しながらも大和朝廷の政務を誠実にまっとうしていった官僚としての一面も印象的です。

私はなんとなく、現代でいえば前川喜平さんのような人をイメージします(憶良は“面従腹背”してませんが)。

  士(をのこ)やも空しくあるべき伴代に語り継ぐべき名は立てずして
  (訳)バンダイに語り伝えるほどの名も立てずに、士たるものは空しく死んでよい筈はない。

この辞世の句を、『士の嘆き』の著者は次のように読み解いています。

「自分の人生は果たして「士」の人生であったのだろうか、万代に語り伝えられる心の「士」に値する官人であったのだろうか。死に直面した憶良は生涯を回想し、結局自分は何もしてなかったのではないかと悔恨の悲しみに棟が溢れてしまったのではないでしょうか。
 山上憶良は、これほど深く人生を見つめ通して生き抜いた人物だったのです。」



この項は今回で終わりです。次回からは後白河院(と梁塵秘抄)でいきます。



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Ⅲ‐4 山上憶良の詩歌——他者に共感する心の深さ

2021年06月18日 | 日本的りべらりずむ
詩人としての憶良は他者への共感力が大きく、それが憶良の詩歌の世界の際立った特徴をなしています。

どのぐらい大きいかというと、他人ごとながら我がことのように詠うことができるほどに、です。

「貧窮問答歌」にもその特徴ははっきりと出ていて、問答する二人の人間はどちらも憶良自身がモデルというわけではないですが、
詠んでいるとまるで憶良が自分のことを詠っているのではと錯覚してしまうほどです。


他人ごとを我がことのように詠うという詠いぶりは、
作品の印象を個人的な心情性の強いものに感じさせてくれます。

つまり、個人的な心情吐露とか思いがあふれ出てくるような印象を、詠む人は持たされてしまうということです。

このような特徴が憶良の詩歌の〈個別性〉の世界を形成していて、
そのテンションは〈共同性〉の世界を逸脱していくかと思わせるほどの強さが感じられます。

それだけその表現のグレードが、他の万葉歌人のそれに較べて、近代性に近いレベルに達しているように見えるわけです。



例を二、三あげておきましょう。

〈1〉筑紫国守の在任していた期間中に、荒雄と呼ばれる海人(あま)が、対馬に向かう船の舵師(かじとり)を大宰府から命じられた年長の仲間に代わって引き受けたところ、出航して間もなく嵐にあって遭難し命を失うという事件があった。その荒雄を追悼する歌が万葉集に採録されています。荒雄の妻子が詠ったものとされていますが、憶良が代詠したものという説があります。『士の嘆き』の著者は、憶良が国守の任務として、荒雄がとった行動を「篤道(とくどう)」と認めて朝廷に報告するために代詠したと解釈されていますので、ここでも憶良代詠説にのっとって、紹介しておきます。
10首あります(万葉集十六巻 3860-1869)が、うち2首を掲載します。(現代語訳は『士の嘆き』による)

荒雄らを来むか来じかと飯盛て門に出で立ち待てど来まさず    巻十六・3861
(訳)荒雄たちを、もう来るかすぐ来るかと、きっとお腹を空かしているだろうと思い、飯を盛り、門の前に立ち待っているのに、貴方はこない、お帰りにならない。

沖行くや赤ら小船につと遣らばけだしひと見て解き開け見むかも  巻十六・3868
(訳)沖を行くあの赤い丹塗りの官船の小舟に土産をことづけたら、きっとどこかで夫が包みを見ないだろうか、開けてみるかもしれない。)

〈2〉筑紫国で公務についていた二人の気の合った若者のうち一人が旅の途次に病に倒れて亡くなり、もう一人の若者が死者を偲んで短歌二首を作りました。それを憶良が詠んで心を熱くして、死んだ若者の無念の思いを察しながら一首の長歌と六首の短歌を作っています(万葉集五巻 886-891)。短歌六首は死んだ若者の代詠の体裁をとっています。二首を紹介しておきましょう。

たらちしの母が目見ずておぼほしくいづち向きてか我が別るらむ  巻五・887
(訳)母上に会えないので、心もうつろにどちらを向いてお別れすればよいのでしょうか。

家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも    巻五・889
(訳)故郷の家で母に看取られながら死ねたら、どんなにやすらかに死を迎えられたでしょうか。

〈3〉よく知られている例としては、大伴旅人が大宰府に帥(長官)として赴任してきて憶良と知り合い、二人を中心に筑紫歌壇と呼ばれた文化サロンを形成(平成の後の元号が決められたときに、典拠となった万葉集の長歌が創作されたのもこの文化サロンが催した宴会でのことです)していきますが、旅人が赴任してきた当初、九州まで同伴して来た妻が旅の疲れで急逝したとき、消沈して気力を失った旅人を、憶良は歌を作って慰めます。

その歌(序文・長歌1首・反歌6首)はまとめて『日本挽歌』という題名がつけられていますが、
『士の嘆き』では、次のように評しています。

「憶良は漢文で仏教の死生観を述べた後、長歌で偽りや飾りのないありのままの哀悼の思いを詠い、更に花kで愛する者を亡くした喪失感を詠いました。社交的な歌でなく、全く旅人になりきった歌を献上したのです。」

反歌(短歌)6首から2首を挙げておきます。

はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべなさ    巻五・796
(訳)私を追い慕って筑紫までやってきてくれた妻を思うと、もうどうしてよいかわからない。

悔しかもかく知らせませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを 巻五・797
(訳)こうなることが分っていたら、筑紫の国内をくまなく見物させておくのだった

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Ⅲ‐3 山上憶良の詩歌——『貧窮問答歌』の戦略

2021年06月08日 | 日本的りべらりずむ

山上憶良の詩歌の文学的成果は主として晩年に至って一挙に得られます。

貧窮問答歌もその中に含まれますが、憶良にそのモチーフを提供した社会的経験としては、
国司として伯耆国(鳥取県)や筑紫国(福岡県)に赴任(西暦716年以降)して、
当地の民情を視察し朝廷に報告する業務に従事していたことが大きいでしょう。

国司を経験する前、時代は天平年間に入った700年代初頭は大宝律令が発布されたばかりでしたが、
いきなり全国的な凶作や疫病が農村を席巻して、農民の生活は困窮状態に陥っていきました。

憶良の伯耆国司赴任中にも山陰地帯の凶作が続いて、農民たちに飢えが襲いました。

その惨状を憶良はつぶさに目にし、農民に同情しつつも国司として律令政治の成果を挙げるための業務を、
忠実に遂行していったのだろうと、『士の嘆き』の著者は書いています。


現代の私たちは農民の窮状に同情を寄せる憶良の人間性に違和感を持つことは少ないかと思いますが、
当時の貴族階級に属した人々の一般的な意識はどうだったでしょうか。

朝廷は被災農民に食料を支給するなどして救済策をとっていったり、
国司の中には農民の生活向上に尽くした人もいたようです。

しかし古代の身分制の意識の中では、農民を農産物生産者として尊重する考え方は無かったように思われます。
ましてやその惨状を歌に詠むなどということは、貴族の階層の人々には思いつきのかけらも持ち得なかったように思います。

そういう時代性の中で農民の貧窮を詠んでも、貴族や官僚社会の中で果たして共感を得ることができるでしょうか。

現代の私たちは、貧窮問答歌が律令制度の矛盾を告発しているとごく当たり前のように詠むことができますが、
憶良の時代には制度や統治の実情への批判以前に、そもそも共感がえられるかどうかという問題がありはしなかったかと思います。



貧窮問答歌はその題名が示しているように、問答の体裁をとって歌われています。

前半が問いかけ後半が応答で、両者ともに“貧”の状態を具体的に表現しますが、
前者は下級貴族・官僚、後者は貧困の極みにあえいでいる農民と推測されます。

前者は憶良自身かというと、そうではなさそうです。

問者は「雨雑り雪降る夜は、すべもなく寒くしあれば、堅塩をとりつづしろい、糟湯酒うち啜ろいて、云々」と自らの貧の状態を歌い、
家族全員が飢えの状態にある相手に向けて、どんな気持ちで暮らしているのかと問いかけます。

問者には「髭掻き撫でて、我れをおきて人は在らじと誇ろへど」といったような多少の余裕が伺えます。

これは、古代の貴族が有していた中国文化由来の“貧”の感覚を表していると解釈すると、
まずは憶良が所属する下級貴族・官僚社会に向けてのアピールを意図していたかとも推測されます。

つまり、歌への共感を呼び起こすための仕掛けとして、貴族や官僚が受容できる“貧”の状況を歌い、
しかし農民たちはそれよりももっときつい、死と隣り合わせの貧窮状態にあるという、
リアルな現実認識へと誘導していると読めます。


言い換えると、貴族・官僚社会の共有感覚を呼び起こしつつ、
後半はその範囲を逸脱した農民社会の惨状をアピールするというふうに展開していきます。

ここに、『万葉歌の成立』が提唱する、古代歌謡における〈共同性〉と〈個別性〉を柱とする歌の構造を巧みに利用した憶良の戦略がうかがえ、
律令体制下の矛盾にあえぐ人間の姿に目を向けていこうと呼びかける、憶良の絶唱が共感性を獲得していくわけです。

農民の貧困を凝視する憶良のまなざしは当時の貴族・官僚社会にあっては新奇なものであり、
その意味で憶良の〈個別性〉に由来するものと言えるでしょう。

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Ⅲ‐2 山上憶良の詩歌——二つの参考文献 『士の嘆き』と『万葉歌の成立』

2021年05月29日 | 日本的りべらりずむ

憶良の文学世界にアプローチするに当っては、二つのテキストを参考文献とさせてもらいましたので、今回はそれについて説明しておきます。

一つは、『士(をのこ)の嘆き―山上憶良―』というタイトルの書籍で、著者は梅田素門という人です。
私が住んでいる町の中央図書館で見つけました。

憶良研究書数十冊を渉猟した上で憶良文学の全体像が要領よくコンパクトにまとめられており、
また憶良の歌の全詠歌が著者ご自身による現代語訳と解釈付きで掲載されています。

私としては研究書の一々に当たる手間と時間が節約できて大いに助かりました。

著者がたまたま私の近所にお住まいでしたので、訪ねていって少しお話を聴いたりしました。

お仕事は体操を専門教科とする小学校の先生をされてきて、定年退職後の時間を利用して、
この本を書くことに時間を費やされてこられたそうです。



もう一つは、国文学者(古代文学)古橋信孝著『万葉歌の成立』(講談社学術文庫)です。

このテキストは古代歌謡から万葉時代に至る歌世界の成り立ちを、〈共同性〉と〈個人性〉という二つの、対を成す概念を使って論じています。

その論旨はたとえば次のようにまとめられるでしょうか。

「つまり歌は、自然と社会、そして〈共同性〉と〈個別性〉の軋みから発生するのだが、その構造を原型的に考えうるのが、村落共同体だということになる。」

あるいは

「共同体的なものと個別的なものとの矛盾は、個別的なものを共同体的なものに同化させることで、克服していた。言語表現としては、その村落共同体の始原、つまり村立てのときに回帰して一体感を確認することで〈個別性〉〈共同性〉の矛盾を克服しようとした。」

というふうに言い表される関係として捉えます。

そして万葉時代前期の、大和朝廷の国家体制が整備されてくる時代になってくると、

「クニや国家が成立し、村落を支えるものが村落を包み込んだより大きな共同体になったとき、個別的なものと共同的なものとの相克がむしろ〈共同性〉をもつものとして表面化した。そして、その表出が可能になるだけ歌の表現が様式化されていた。」

また長歌・短歌(五七五七七形式の歌)といった歌の形式も、

その形式自体が〈共同性〉の枠組みとなることによって、そこにどのような内容を盛り込むかは歌い手の〈個別性〉として認められるようになっていきます。

憶良(柿本人麻呂、山部赤人、大伴旅人などもほぼ同時代)の歌はちょうどこの、歌の形式が確立してくるあたりの時代に歌われたものと考えると、
「個別的なものと共同的なものとの相克がむしろ〈共同性〉をもつ」という視点を、
憶良の歌に対して設定することができるのではないかと思います。

たとえば「貧窮問答歌」が感じさせている批判性の意識のようなものは、
「個別的なものと共同的なものとの相克」が有する〈共同性〉の表現とみなすことも可能だということです。

こういった道具立てで憶良の文学世界を探っていきたいと思います。

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Ⅲ‐1 山上憶良の詩歌——「貧窮問答歌」が詠う「貧窮」の質について

2021年05月18日 | 日本的りべらりずむ
万葉集歌人山上憶良といえば、中学・高校の日本史の教科書で「貧窮問答歌」の作者として記憶している人も多いかと思います。(「貧窮問答歌」

この歌が伝えるリアリティは、格差社会を目の当たりに経験しつつある現代の私たちにも切実に伝わってくるものがあります。

しかし、今回この歌の周辺を少し探索しながら私が思ったことは、
今から1300年も前の歌人が現代に通じるようなリアルな歌をなぜものすることができたのかということです。

そう思ってよくよく考えてみると、万葉集という4500首を越える古代の歌集のなかにも、
あるいは古今集から室町初期あたりまでの古典和歌の膨大な集積の中で、「貧窮問答歌」に類似する歌は他になく、
これを含めて憶良が遺した歌の世界というのは、まさに「憶良の前に憶良なく、憶良の後に憶良なし」の観があります。



現代の私たちの感覚で「貧窮問答歌」を詠むと、まさに経済的格差ということが訴えられているわけですが、
憶良の時代は和同開珎のような流通貨幣が造られたとはいえ、貨幣経済社会というところまでには至っていませんし、
憶良の文学的教養の一翼をなす中国古典世界においても「貧」の世界にアプローチした典籍は極めて乏しいとされています。

わすかに六朝時代の詩人陶淵明に『詠貧士』七首の詩があって、そこで詠われている「貧」には切実感があり、
「貧窮問答歌」がこれを参考.にしていることは大いに考えられるところではあります。(『詠貧士』

しかし「貧窮」の意味付けが全く違っています。

憶良のそれは、古典世界のそれというよりは、19世紀フランス文学のゾラやモーパッサンが描いた「貧窮」、
いわば資本主義社会形成期における経済的格差の犠牲になっていく人間の赤裸々な姿に通じるものが感じられます。

しかも近代の文学は貨幣経済システムという社会的条件に対する自覚の下で書かれていますが、
憶良にはそのようなバックボーンはありません。

とはいえ、いわば近代性さえ感じさせるその表現内容から、
憶良の文学に民主的な社会感覚の芽生えを読み取る解釈の仕方も可能ではあるでしょう。

しかし他方で、国家の業務の一端を担う官僚としての誇りと使命感を持ち、儒教的な倫理観を恃みとして、
天皇を現人神として尊崇していた憶良のメンタリティとの整合性をどう説明するかの問題が残ります。

そういったことも含めて、七十余年の人生の終末期に「貧窮問答歌」がなぜ、そしてどのように結実していったかを考えたいと思います。

そしてこの歌を産み出した歌心あるいは精神といったものから“日本的りべらる”と
見なしうるものが掬い上げられるとするならば、その内容はどのように抽出することができるでしょうか。

そういったことが、ここでの課題です。



憶良が生きた時代の状勢と、その中での社会的立ち位置について、ごく簡単に祖述しておきます。
まず憶良の生没年は、確定はしていませんが、西暦660年頃―733年頃とされ、歴史区分上では飛鳥時代(~701年)から天平時代(701年~)にかけての時期です。
憶良の生存中に大宝律令が制定されたり、日本初の流通貨幣である和同開珎が鋳造されたりしています。風土記や万葉集の編纂が始まり、日本最古の歴史書とされる古事記が完成したりして、律令国家としての体裁が整えられ、宮廷での業務を核とした貴族社会が形成されつつあった時代です。
憶良が歴史上の記録に登場するのは、43歳のときで、遣唐使の書記官として45歳まで唐に滞在します。帰国後は下級貴族の位にあって官人としての業務に従事していましたが、57~62歳の間は(716~721年)に伯耆国(鳥取県)の国司を務めます。赴任中に全国的な飢饉や凶作が農民を襲い、律令制下の社会的矛盾が噴出してきます。
67歳(726年)で九州筑前国の国司に赴任し、当時大宰府の帥であった大伴旅人との交流が始まります。そしてこの二人が中心となって筑紫歌壇が形成され、和歌を中心とした文学活動が花開いていたようです。現在の元号の由来となった長歌も、彼らが開いた梅花宴のことを詠ったものであることはよく知られるようになりました。
九州から奈良の都に帰ってきたのは72歳(731年)頃で、74歳で没するまでの二年間ほどに「貧窮問答歌」他、憶良文学の中枢をなす長歌数首を創作しています。
万葉集には78首の長歌・短歌が撰ばれています。

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Ⅱ‐5 世阿弥の能楽—謡曲「蝉丸」異形の天皇の子(姉と弟)の再会と別れ

2021年05月08日 | 日本的りべらりずむ

盲目の弟と逆立った毛髪姿の姉の再会を語る『蝉丸』は比較的よく知られている能楽作品ですが、世阿弥の作であるかどうかは確定していないようです。

あらすじは、
蝉丸は、平安前期の延喜年間の天皇に在位していた醍醐の第四皇子として生を享けたが、生まれつきの盲目であったことが理由かどうかはわからない(ということになっている)が、父の天皇の宣旨で逢坂山に捨て置かれ、そこで髪を切られて出家させられる。蝉丸は琵琶の名手でもあり、彼を慕っていた博雅の三位(はくがのさんみ)というやはり琵琶の名手が様子を見に来て、そのあまりに痛々しい様子にせめて雨露をしのげるようにと藁家をこしらえて、蝉丸をいざなう。
醍醐天皇の第三皇女で蝉丸の姉である逆髪は、髪が逆立った姿で狂女となって諸方をさまよっていたが、逢坂山に至って藁家から流れてくる琵琶の音を聴き、弟の蝉丸であることに気がついて、二人は再会を果たす。二人は手と手を取り合って不遇を慰め合うが、いつまでもそうしているわけにもいかず、やがてお互いを思いやりながら、「会者定離(えしゃじょうり)」の定めに従うかのように、逆髪は蝉丸の下から去っていく。

今風の見方では、目が見えないことや髪の毛が空に向かって逆立ったままの異様な姿など、
身体に障碍をもつ人が不幸な境遇を強いられている様子が描かれているということになるでしょうか。

逆髪は登場時の口上で、田舎の子供たちが「髪が逆さまなのがおかしい」と言って笑いものにされるのに対して、髪が逆立っていることより身分の低い者が「私のことを笑うことこそ逆さまというもの」と反撃して「順逆一如」の哲理を開陳します。

このことから、「順逆一如」や姉弟の再開と別れを描く「会者定離」の摂理がテーマであるというのが、一般的な解釈のようです。


しかし、逆髪の気持ちに即していえば、自分の姿をあさましいと思う心がそれで解消されているわけではありません。

まだその先に別なテーマが控えているような気がします。

蝉丸の場合で言えば、父(天皇)がなぜ自分を捨てたかが明らかにされていません。

蝉丸自身は、「自分の目が見えないのは前世の悪業によるものであり、
父は私にこの現世での因果を受けさせて、それによって後世を助けようと叡慮しているのだ」と父を弁護しますが、
そういう解釈で心の安定が得られているわけではなく、凄絶な孤独感の中に打ち沈んでいます。



ところでこの演目には、戦前、上演しようとしたところが軍部の圧力で禁止されたというエピソードがあります。

上演禁止の理由は、天皇が異形の皇女・皇子を捨てるという話が不敬であるということだったそうです。

このエピソードを聞いて私が思ったのは、二人が宮中から疎外されて賤民同様に扱われていくのは、その異形性のためではなく、
「天皇に捨てられた」というその事実が彼らを賤民へと追いやるのだ、という世の中の機構です。


天皇はなぜ姉弟を疎外したのかの理由は謡曲のなかでは依然として明らかにされませんが、
「天皇(権力者)に捨てられた者は賤民と見なされる」という中世の日本社会の機構を、能楽の作者は告発しているように見えます。

室町時代の芸能者は、権力者の庇護を受ける幸運にめぐまれることはあるにしても、基本的には賤民と見なされていた人たちであり、
世阿弥自身、一時期は足利将軍の寵愛を受けていたとはいえ、将軍の代替わりで庇護を受けなくなると、
佐渡に流されるなどして、不遇の後半生をおくることになります。

そういった立場が、逆髪・蝉丸のような被差別的な境遇に追いやられた人々へのまなざしを生みだしたのではないかと考えられます。

なおこの演目は博雅の三位という、蝉丸と並ぶ琵琶の名手が登場しているのが工夫のあるところで、
二人が奏でる美しい音曲が、この絶望感に浸されたような物語の救いとなって趣きを深めています。



今回で世阿弥の項は終わります。
次回からは、万葉集初期の歌人 山上憶良を取り上げます。



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Ⅱ‐4 世阿弥の能楽—謡曲「多度津左衛門」姫と乳母、女人禁制の高野山に乱入す

2021年04月27日 | 日本的りべらりずむ

私の手元に『多度津左衛門』というタイトルの謡曲本があります。

古本屋さんで入手したもので、奥付に発行所「大槻清韻会能楽堂」、初版発行昭和63年4月5日とあります。(昭和63年は1988年)

但し書に、多度津の左衛門復曲上演に際し、観世宗家の諒解を得て作成したとあり、資料によりますと、
1987年に観世流能楽師大槻文三のシテ方で、大阪の大槻能楽堂で上演されたことがあるようです。


その後現在に至るまで、どこかの流派で上演されたという記録が見当たりません。

当然、私も未見の演目です。

劇作家・演劇評論家にして世阿弥能楽の研究者でもある堂本正樹さんの『世阿弥の能』という著書の中で、
『多度津左衛門』を解説した一文があって、次のように書かれています。

「この作は世阿弥の自筆の「能本」(能上演用の台本)が残されているだけで、『国書総目録』を閲しても「謡本」による伝本を聞きません。世間に迎えられず、早くに廃された能なのです。……なぜ上演が継続されなかったのでしょうか。」
(世阿弥自筆の能本は現在、奈良県生駒市の宝山寺に所蔵されているとのことです。)



以下、堂本氏の所説に依って『多度津左衛門』という超幻の謡曲を紹介していきましょう。
まずは、あらすじです。

「遁世した父、多度津左衛門を尋ねて、幼い姫と乳母が讃岐の善通寺に参詣、そこで左衛門が高野山の蓮華谷にいたことを教えられる。多度津左衛門は高野山で出家していた。姫と乳母は男装し、狂人を装って、狂い登って来る。左衛門は女人禁制を盾にそれを阻止しようとするが、二人は男装を理由に押し通そうとする。左衛門の従者たる寺男が二人の芸「女の行かぬ高野山」の曲舞を所望すると、二人は舞いながら高野山の女人禁制に抗議、遂には興奮して高野に乱入しようとする。左衛門は驚き二人を杖で打つが、その杖ゆえに親子と知れ、父と娘は再会を果たす。」

狂人を装うことを“佯狂(ようきょう)”といいます。
能楽の演出における“佯狂”の手法について堂本氏は次のように解説しています。

「高野山という宗教的権威、女性差別を打破する手段として、「佯狂」なる手法は、能役者、否世阿弥自身にとって、自然な発想だったと思われます。彼は男にして女に扮する俳優であり、しかも少年として年上の男性に愛された経験を有する、「官能的存在」でした。かくて「男装する女性」を演技する世阿弥の肉体は、中世のアンドロギュヌスにして、「偽」を通して「真」に至る、一種の「憑りまし」の性質を持ったのです。」
(※憑(よ)りまし:神霊がよりつく人間のこと)

女性差別に対する抗議の論拠としては、「この世界の総てが男女の道から生成している」ということに求められ、
戯曲では地謡が次のように主張します。

  「いかなれば女人とて、いとど五障の雲霧を
   八つの谷・峰に隔てつつ
   親子だにも、見せじとや。」

堂本氏はこの謡曲の趣向と主題を、以下のように総括しています。

「男性(世阿弥)が演技者として女役に扮し、その女がさらに男に変装して男と名乗り、その男という建前を利用して、聖山(高野山)の、ひいては仏教そのものの女性差別を告発する。」

そしてこのように締めくくっています。

「世阿弥が多くの能戯曲で描きえた「人間」の深さとは、こうした生理的手続きの上に立っての、男女を超えた「普遍」だったのではないでしょうか。」

『多度津左衛門』が書かれたのは今から600年ほど昔のことです。
余談ですが、現在の香川県多度津町は、筆者が幼稚園児であった時から大学時代までの間を過ごした町です。
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Ⅱ‐3 世阿弥の能楽—謡曲「善知鳥(うとう)」持てる者と持たざる者の権力関係

2021年04月17日 | 日本的りべらりずむ

謡曲「善知鳥(うとう)」は、日本では主に北海道や青森県(津軽半島)に生息する野鳥ウトウにまつわる古くからの説話に取材して作られた演目で、
作者は不明とされていますが、世阿弥という説を支持する研究者もおられるようです。

親鳥が「うとう」と鳴くと雛鳥が「やすかた」と応じるという習性を利用してウトウを捕獲し、
それを生活の糧としてきた、津軽半島外ノ浜の猟師の亡霊がシテ。

生前の殺生の罪で、死後は地獄で鷹に化したウトウに鉄の嘴で責め苛まれる罰を受けている。

北陸は立山の霊場に立ち寄ったあと津軽半島の外ノ浜に向かう旅の僧に猟師の亡霊が現われて、
家族に自分の形見の袖を渡し、霊前で回向してもらえるよう依頼するとともに、
僧が外ノ浜に着いて遺族に伝言すると、再び亡霊が現われて、地獄の栗しみから救って欲しいと懇願して姿を消す、という話です。

猟師の亡霊が地獄で受けている業苦の描写の箇所を引用しておきます。

「〈中ノリ地〉 娑婆にては、うとうやすかたと見えしも、冥土にしては化鳥となり、罪人を追っ立て鉄の、嘴を鳴らし羽をたたき、銅の爪を磨ぎ立てては、眼を摑んで肉むらを、叫ばんとすれど猛火の煙に、むせんで声をあげ得ぬは、鴛鴦を殺しし科やらん、逃げんとすれど立ち得ぬは、羽抜鳥の報いか。
シテ うとうはかへって鷹となり
地 われは雉とぞなりたりける、遁れ交野の狩場の吹雪に、空も怖ろし地を走る、犬鷹に責められて、あら心うとうやすかた、安き暇なき身の苦しみを、助けてたべやおん僧と、言ふかと思へば失せにけり」



この話は、生類を無益に殺生してはいけないという仏教の戒めを主題として立てているように見えますし、
またそういうふうに装われているのも、最北の辺境の猟師という、生類の殺生を生業とするいわゆる賤民と目される人間がシテの演目など、
観客である都の上・中層階級の人々の関心を引くわけがないのを、仏教説話でカモフラージュしていると勘ぐれます。

しかし単純に仏教の戒めを伝えるにしては、猟師の亡霊が地獄で受けている業苦の描写に、
凄惨なイメージを執拗に重ねていく表現がとられているのはなぜでしょうか。

この執拗さには何か別な意図が秘められているように筆者には感じられるので、主題をもうひとつ掘り下げて考えてみました。


自然界には生物間に食物連鎖的な関係(生体は食べる存在であると同時に食べられる存在)があって、ウトウと猟師の関係もその一つの例と言えます。

しかし食物連鎖関係の一方が人間である場合には、他の動物や植物の間での関係とは根本的に異なっているところがあります。

その一つは、人間と動植物の関係においては必要以上の量が殺傷されるということがあります。
(動植物間では、必要とする食料以上の捕獲(殺傷)はしません。)

もう一つは、立場上の強者と弱者の関係が固定化しているということ、その結果そこに権力関係が成立していることがほとんどであるということです。

この権力関係は人間と自然との間で生じる関係であり、その多くの場合、人間は道具を持つ生き物であるということから、
(道具を)持てる存在者と持たざる存在者の間で成立する権力関係と見ることができます。

謡曲『善知鳥』が告発しているのはこの権力関係に他ならないと私は考えます。

この関係は、人間と動植物の関係に止まりません。

人間と人間、すなわち人間社会においても、持てる者と持たざるものの関係として敷衍されます。

持てる者とは財や道具(時には武器)を持つ者であり、持たざる者は財や武器を持たない者です。

謡曲『善知鳥』では地獄に落ちた猟師(持てる者)が、鷹の鉄の嘴で責め苛まれ続けるわけですが、
それは、強者と弱者の権力関係に乗っかっての、持てる者の驕りを批判し告発する劇として読み取ることができるでしょう。

そのように読むならば、『善知鳥』の作者は心からの平和主義者と見なすことができると思います。

そしてその目線の低さは、前回に紹介した謡曲『藤戸』の目線の低さに通じるものがあります。

天下が南北朝に分かれて合戦が絶えなかった室町初期において、ほぼ賤民と見なされていた芸能者の心奥には,
弱者の立場から権力を批判する抵抗者の魂が息づいていたのですね。。
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Ⅱ‐2 世阿弥の能楽—謡曲「藤戸」シテは「どこともなき下臈」の母子

2021年04月05日 | 日本的りべらりずむ

『平家物語』巻十の「藤戸」は、瀬戸内海の藤戸の浦(現 岡山県倉敷市)での源氏と平家の戦いが語られる段です。
その中で、源氏方の武将佐々木盛綱が、地元の若い漁師に馬で渡れる浅瀬ができる場所と時刻を聞き出し、
それが敵味方の双方に知られることを怖れて若者を殺害します。『平家物語』では次のように記述されています。

(盛綱は)「下臈はどこともなき者なれば、又人にかたらはれて案内をもをしへむずらん。我計(ばか)りこそしらめ」と思ひて、彼男をさしころし頚かききってすててンげり。

殺害シーンの記述はこれだけです。



謡曲ではその後日談が語られます。

盛綱は藤戸の戦いでの戦功により備前の児嶋(藤戸の近く)に領地を拝領し、その地に入部したとき、
殺された漁師の母親(老女)が近づいてきて我が子の仇を討とうとしする。
盛綱は後悔し、漁師の法要を営んで霊を供養することを約束して母親をなだめます。
法要を営んでいるとき漁師の霊が現われて、盛綱に祟りを及ぼそうとしますが、回向してもらったことに納得し、成仏して姿を消します。

あるときラジオのスイッチを入れると、たまたま謡曲「藤戸」が謡われているのを聞いたのが、私の「藤戸」の聞き初めですが、
解説を聞いていて、これは大変な演目だと思いました。
というのは、シテが名もなき(『平家物語』では「下臈はどこともなき者」と記されている)若い漁師とその母(老女)で、
母親は自力で武将に向かっていって仇を討とうとするのですから。

謡曲「藤戸」が創作されたのが世阿弥とほぼ同時代である(作者は不明)とするならば、室町時代初期、15世紀の前半です。
世阿弥によって大成され洗練されていった能楽は、その鑑賞者は主として上層の武家、貴族、富裕商人、著名文化人といったところと推測されますから、
「どこともなき下臈」の振る舞いに関心が向けられるとはとても考えられません。

ましてや、武家同士の合戦の犠牲になった名もなき庶民の親子の悲劇など、
武士の士気を萎えさせるものとして、嫌忌されるのではないかと考えられます。

『平家物語』の作者だって盛綱の処置を、今風に言えば“危機管理”の用意周到さを評価するニュアンスで記しているように感じられます。

そういうふうに考えると、謡曲「藤戸」の作者の目線は、当時としては極度に低いと想定できます。

この低さは、同時代の西洋(ルネサンス前期)にも明王朝期の中国にも見い出せないのではないかと思います。

その意味で、世界の演劇史の流れの中で見ても、極めて先鋭的だなと私は感じたのです。

この「藤戸」との出会いで、私は世阿弥の時代に創られた能楽への関心を、本格的に持つことになりました。

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