モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

#本居宣長の[ながむる(奈我牟流)]の論

2023年02月19日 | 「‶見ること″の優位」
[ながむる(奈我牟流)]
本居宣長著『石上私淑言』
より

奈我牟流とは。聲を長くひきていふ事を。すべていふ也。于多布(うたふ)とは。其奈我牟流言の中にて。ほどよく調ひ文あるをいふ也。さればすべて聲をながく引ていふはみな奈我牟流也。其聲にあやをなしてほどよくながむるが于多布也。故に于多布をも通じて奈我牟流といへることおほし。奈我牟流をすべて于多布とはいひがたきことおほし。よりて文字も詠字は奈我牟流にも于多布にももちひ。歌字は于多布にのみ用て。奈我牟流には用ひず。もろこしにても此こころばえにて歌字と詠字ともちひかたに差別ある故也。(p.122)

「さて又物おもひしてなげくことを奈我牟流といへつこと。歌にも物語ぶみにもおほし。これはといふ言と同じ事也。其ゆへはは長息といふ事也。それをともはたらかしていふ事は。息と生と同じ事也。性と死とは一つの息によりて分るる物にて。息すれば生也。せねば死也。されば生は息するといふ意にて。本は息と生と同じ言なれば。息はともはたらく言也。されば其息を長くするをといひ。それをつづめて奈宜久(なげく)ともいふなれば。奈宜久はながいきするといふ事也。万葉集に。長氣所念鴨などよめる事数しらず。さて何故に息を長くするぞといふに。すべて。情にと不覚思ふ事あれば。必長き息をつく。俗にこれを多売伊幾都久(ためいきつく)といふ。漢文にも長-大-息などといへり。その長く息をつくによりて。むすぼほれたる心のはるる故に、心に深く感ずる事あればおのづから長息はする也。(p.123)

されば息を長くする事なれば。奈宜久を奈我牟流といふなり。さて。心に深くとおもふ事あれば。かならず長息をする故に。その意より転じて。物に感ずる事をやがて奈宜久とも奈我牟流ともいふ也。(p.123)

問云。物をつくづくとみるを奈我牟流といふは。いかなる故ぞ。
答云。(前略)然るを千載新古今のことよりして。もはら物を見る事にのみいへるは。又其意を一転せる物也。それにつきて二つの今按あり。「一にはまづ物思ふときは。常よりも見る物きく物に心のとまりて。ふと見出す雲霞木草にも目のつきて。つくづくと見らるるものなれば、かの者おもふ事を奈我牟流といふよりして、其時に」つくづくと物を見るのもやがて奈我牟流といへるより、後にはかならずしも物おもわねども。ただ物をつくづく見るをもしかいふ事になれるなるべし。されば中比は。物おもふ事と。見ることとをかねていへるやうに聞こゆるか。歌にも詞にもおほし。これ物おもふ時はかならず物をつくづくとみる物故也蜻蛉日記に。よろずをながめおもふに。又かかる事をつきせずながむるほどに。などいへるは。まさしくなげくといふに同じくして。物思ふ事也。(p.124-125)

「今一つには。三代集の比の歌にも詞にも。物思ひなげく事を奈我牟流といへるが。物を見る事のやうにも聞えてまぎらわしきがおほかるを。あやまりて。物を見ることぞと心得て後には。其意に用る事になれるなり。されば昔の歌に物思ふ事によめるを。見る事と心得ること今もおほし。此両義を並べて按ずるに。猶まえの義まさるべし。とまれかくまれ。物おもふ事より転ぜしはたがわぬ也。さて奈我牟流といふに。眺字をかくは。この字は視也望也と註したれば。後に物を見る事にいふこころ也。言の義にはかなはず。奈我牟流には詠字よくあたれり。ただし後の歌共に、見る事を奈我牟流とよめるに。詠字をかくは。文字は仮-物とはいひながら。目にたちてあしきもの也。(p.125)






日本的りべらりずむ 最終回 古典和歌の表現的特性について

2022年09月13日 | 日本的りべらりずむ
『源氏物語』の世界は、特定のテーマが基底に据えられていて、それを巡って展開される物語、というふうのものではなく、
自然と人間の世界で繰り広げられるさまざまな出来事や心理の交錯をひたすら観察し、思考実験を繰り返してその観照世界を深めていく、といった趣きの作品です。

しかしそれにしても、西洋ではまだ「暗黒の中世期」といわれていた時代に、一人一人の人間の個別的な世界をなぜこれほどまでに物語文学の俎上に載せていくことができたのか、
『源氏』を読むつどいつもそこのところに感心するとともに不思議に思っていました。

いろいろ調べたり考えたりしているうちに、和歌という表現メディアが重要な役割を果たしていそうだということになってきました。


和歌といえば、すでに万葉集の時代から詠み手としての“個人”の存在が認知されていたと考えられます。

しかも、防人とか東歌とかの読み手はいわゆる“名もなき庶民”と言われる人で、上は天皇から下は名もなき庶民まで、万葉集の中では身分差を超えて歌が収録されています。

和歌という表現メディアは、人類史の中で見ると日本列島という地域に住む人たちの集団の中で育てられた、他に例を見ない歌詠みのメディアです。

そしてこの地域に育てられた文芸や芸術の創作精神の骨格を成して、日本文化の特質を豊かに肉付けていったように思います。

      

『源氏物語』には八百首に近い和歌が散らばめられていて、物語はそれらの和歌の付け詞の延長として書かれているという国文学者もいるぐらいに、単なる添え物ではなく重要な役割を有していると考えられています。

二人の人間が互いに応答しあう和歌が大半で、中でも男女が贈答し合う和歌が大半です。

和歌を軸にして物語を読んでいくと、任意の二人の人間関係がさまざまに設定されて、その関係の中で一人一人がどのように行動し、どのような心理的葛藤を演じるか、
作者紫式部にとって物語るとは、それら登場人物の言動を思考実験し、観察し、その積み重ねの上で、人間社会の観照を深めていくことに他ならなかったように思われるほどです。


古典和歌の研究者の鈴木日出男という国文学者は「源氏物語の和歌」という論文の中で次のように書いています。

「(男女の贈答のメディアとしての和歌表現は)場における連帯を可能にしながら相容れない個的感情をも表出しうる具として…。」
「『源氏物語』における、人間関係の独自な表現としての和歌は、人と人を関係づける重要な契機によりながら、その関係の固有さを個々人の心性のかたちとして形象している。具体的にいえば、場や場の言葉が人間関係を外側から包摂し、個々人はその外的な条件を媒介として関係の中の自己を形象化するのである。そしてこの、関係が個々人の心性のかたちによって把捉されるところに、物語において人間の孤立化の凝視される途を開いていく。しかも物語散文によって相対化される和歌は、連帯的機能よりも、個人の相容れない思念の一面をいよいよ鮮明にすることになる。」


古代和歌の世界は、二人の人間の間で思いを贈答し合うような機能性を土台にして詠われてきました。

このような関係は日本文芸史学において“連帯”とか“座”とかと概念づけられながら、古代から近世に至る日本の文芸史を通底する特徴として認知されています。

それはまた日本文化を生み出してきた思考や創作の基底的なパターンを表わしているとも言えるでしょう。

『源氏物語』は古代という時代区分の後半期においてすでに、日本的な思考と観照の構造的本質を明示していたと、私は思っています。

                                     (了)


※今回をもちまして“日本的リベラリズム”シリーズを一旦終了といたします。

日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ⑤浮舟は二代目「わきまえない女」

2022年08月30日 | 日本的りべらりずむ

後半のクライマックスは、「宇治十帖」と呼ばれている最後の一〇巻に語られている物語で、主な登場人物は、薫大将、匂宮、八の宮、大君、中君、浮舟です。

薫大将は、柏木と女三の宮の間にできた子で、表向きは光源氏と三の宮の子供ということになっている。匂宮は光源氏の孫(明石宮と今上帝の第三皇子)。八の宮は光源氏の異母弟で皇位をめぐって光源氏と対立し、源氏が権勢をほしいままにしてからは失脚して出家し、宇治に引き籠る。大君・中君姉妹の父親。浮舟の腹違いの父でもある。
薫大将と匂宮は平安期物語文学を彩る男性登場人物の二大タイプを表していると言えるでしょうか。匂宮は“色好み”、薫大将は女性にはあまり関心を示さず、仏道に憧れて精神的な世界を志向する人格者のイメージで描写されるところから始まります。

以下、あらすじを紹介しますと――、
薫は八の宮の噂を耳にして宇治の山荘に訪ね、そこで大君に出会って思いを寄せる。薫と八の宮の親交は数年続き、やがて八の宮は病に伏せ、亡くなる前に二人の娘の後見(うしろみ)を薫に託します。薫は匂宮を宇治に誘うなどして姉妹との間を取りもち、匂宮は中君を都の邸宅に迎え入れる。大君は中君の将来を案じて独身を通すことを決意し、薫の思いを受け入れずむしろ中君との間を取り持とうとしたりしますが、やがて衰弱して死んでいきます。その後薫は、匂宮が中君に対して冷淡になっていく様子を見て中君への思慕を起こしたりして、優柔不断さと俗物性がだんだんと露わになってきます。
そうこうしている内に、八の宮が愛妾との間にもうけた娘、浮舟が母親に連れられて都に住み始め、薫はその姿を垣間見て大君と引き写しのように感じて、浮舟に心を寄せ始める。匂宮も浮舟の存在を知って同じように心を奪われます。かくして薫、匂宮、浮舟は三角関係に陥ります。

浮舟の母親は下級貴族と結婚して娘を連れて東国に下りますが、浮舟は八の宮には娘と認知されず継父には疎んじられ、都に戻ってからは、匂宮の北の方となっていた中君の庇護を受けながらも、縁談の相手を探す母親の奮闘も空しく破談になったりして、浮舟は肩身の狭い思いをして暮らしていました。それがやがて薫と匂宮との三角関係に陥るわけですが、宮中での生活でも貴公子との三角関係でも浮舟は次第に閉塞的な状況に追い詰められていって、ついに自らの命を断つことを決心するに至ります。しかし思いは達せられず、宇治の山中に行き倒れているところを比叡山横川の僧都に助けられて、僧都の妹尼の庇護の下に養生の生活を送ります。その間に浮舟もまた出家を切望し、その思いは僧都の手によって遂げられます。
薫と匂宮は浮舟が行方をくらましたことに衝撃を受けますが、やがて、もうこの世にはいないと諦めかけておりました。ところが横川の僧都の話を介して薫は浮舟が生きていることを知り、浮舟に和歌や手紙を送って都に帰ってくるように勧めますが、浮舟はこれを終止拒否します。業を煮やした薫は自ら浮舟を迎えに行こうとし、彼女が潜んでいる館の近くまでやってきたところで、源氏物語全巻が閉じられます。



浮舟は薫に会って彼の申し出を受け入れるのかどうか、あるいは薫を拒否して匂宮が訪ねてくるのを待ち彼の庇護を受け入れるのか、
はたまた、薫にも匂宮にも会わず、出家したまま仏道に挺身していくことを選ぶのか、浮舟のこれからの生き方が気になるところではあります。

『窯変源氏物語』というオリジナル小説を書いた橋本治さんに『源氏供養』というエッセイ集があります。

その中で、浮舟は自分の庇護者として薫と匂宮のどちらを選択するだろうかという問題に対して、
「どちらも選択しない、という選択をした」と解答しているのを、私はなるほどと思いました。

浮舟の今後は、薫とも匂宮とも決別して、まったく異なった人生を歩んでいくだろうということです。

とすれば、それはどんな生き方になるでしょうか?
私は二つのケースを予想しました。

一つは、第三の男性が現れますが上級の貴族ではなく、国司として地方に赴任するのに付き従い、武士の胎動など地方の新らしい息吹に浸っていきます。

数年後に再び都に帰り、薫や匂宮に再会するけれども、彼らとは距離をとりつつ、宮中の人事に深くかかわっていく、という筋です。

これはしかし、武士の胎動という新しい時代の空気を体験するには時代的に少し早すぎるかも知れませんし、
紫式部に地方の状況を活写する観照データがまだ蓄積していない可能性があります。

もう一つは、男女の立場を逆転した“色好み”の物語です。

つまり、浮舟を女性版“色好み”のヒロインとして活躍させるということですね。

これならば、小野小町、伊勢、和泉式部といった先輩女性のモデルに事欠きません。

前者の案にしろ後者の案にしろ目指されているのは、女三の宮に続いて「わきまえない女」の路線を求めていくことです。

それは今日風に言えば、人間の自由を求めて平安貴族社会の拘束枠を超えていく想像力の挑戦ということに他なりません。

日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ④女三宮の聖性

2022年08月16日 | 日本的りべらりずむ

平安期貴族社会において女性がこうむっていた閉塞感は男性以上のものがあったようです。

男性の場合は、前回も書きましたが、国政や祭事や税務や治安にかかわる仕事に従事して、身分制社会のなかで出世していくという定番のストーリーが予め与えられていますが、
女性の場合は、おもそも職業というものさえなく、ただひたすら男性の庇護(当時の言葉では“後見(うしろみ)”)を頼りにし、
後見が得られないと侘しく寂しい人生を送らなければならなかったようです。

働きに出るところもないのですから、一日何をするということもなく、次第にあばら家へと朽ちていく住居の中で、所在なく漫然と日々を送ることを余儀なくされました。

『源氏物語』でいえば、たとえば“末摘花”の巻に語られている女性のような境涯に甘んじて生きていくほかありません。


そして運よく男性の後見を得て生活の安定はどうにか確保できたとしても、こんどは男性への従属に拘束された生涯を送らなければいけません。

何事につけても選択の自由とか、自分の主体性とかいったことは、そういった観念のかけらさえもなかった時代のことです。

そういう閉塞感の中で、生きる愉しみといったら何があるでしょうか。

和歌を詠むとか物語を読むとか、習い事(書字の訓練とか楽器の演奏とか)に精進するとか、宮中や寺社で催される年中行事に参加・見物するとか、まあそういったささやかな愉しみはあったかもしれませんが、
基本的に、自分の可能性を試すような冒険的なことは社会与件的には何も与えられていないわけです。

      

そんな中で、女性たちが何か希望的が託せるようなことを敢えて求めるとすれば何があるかというと、唯一“出家”ということがあるのですね。

出家とはすなわち、「俗世間に背いて仏教の修行の道に入る」ということです。

男性の場合も、俗世間での活動を全うして現役を退いたあとは出家して穏やかな余生を送ることが人生航路の一つのコースとして設定されていて、
『源氏物語』に登場する皇族・上級貴族のほとんどは晩年には出家しています。

光源氏なども、比較的若い時から出家生活への憧れを密かに持っていました。

『源氏物語』の女性の場合で言えば、紫の上が晩年には出家を強く望んで光源氏に何度か懇願するのですが、許可を得られることなく終わります。

また朧月夜や朝顔の姫君など、人生の後半に入ってくると次々と出家していきます。

女性とって出家はある意味で世俗社会の拘束性から解き放たれて、自分が自由に使える時間を持つことのできる唯一の手段であったのではないかと思われます。


柏木に強引に契りを結ばされた女三の宮は、その結果懐妊していることがわかり、ますます光源氏への恐れの感情を深めていきました。

そしてその状況から逃れる手段として出家の道を選択するのです。

臨月時にはもののけにとり憑かれて難産しますが、無事出産し(子供はのちの薫大将)、産後の養生をしている間に源氏に出家の意思を表明します。

源氏はこれも許しません。しかし三の宮は父朱雀院の力を借りて出家を断行するのです。

朱雀院は三の宮の出家に同意することを源氏に告げますが、これを聞いた源氏は、自分の権威が蔑ろにされたように感じ(要するに妻から三行半をつき付けられたようなものですから)、衝撃を受けます。

実際これ以降、源氏の中で何かが崩れていくように、その権威の形骸化が進んでいくことになります。


源氏をはじめ三の宮の周囲の人たちは、まだ二十代の身空で出家することにその行く末を案じ、引き止めようとします。

出家した三の宮は、源氏にも子供にも愛情を寄せることなく仏道に邁進していくのですが、その様子に迷いが感じられず、出家生活に馴染んでいきました。


若くして出家しながら、なぜその後の人生を波乱なく穏やかに送ることができたのか。

私が思うに、三の宮の精神的な幼稚性や柏木・源氏の心の動きに対する鈍感さあるいは冷淡さは、聖性と呼びうる資質から由来するものであって、
そのイノセント性・無垢性は実は聖なる世界の存在者であることを示しているのではないかということです。

と書くと、何か思いあたることがありませんか?

そうです。それはまさしく、竹取物語のかぐや姫と同じ世界からやってきたのではないかということです。

女三の宮とは、平安期物語世界に造形された、かぐや姫をその鑑とする「わきまえない女」系譜の、その筆頭に登場してきた女性と意味づけてみることはできないでしょうか。


日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ③柏木――平安貴族の新たな男性像の兆し

2022年08月06日 | 日本的りべらりずむ

平安期の貴族社会に対して現代の私たちは、非常に閉塞した社会をイメージしやすいかと思います。

男性にしろ女性にしろ職業的な選択肢はほとんどなくて、
男性は国政や祭事や税務や治安にかかわる仕事に従事して、身分制社会のなかで出世していくことが人生の大方の目標であり、
女性はただひたすら家庭の主婦の役割を果たすか、身分の高い公家の寵愛を受けたり妻問いを受けたりすることで生活の安心を得ていくことに精力を傾けます。

そういう閉塞的な社会の中で男女の関係は、「男性にとって女性は性的な欲求を満たす存在」「和歌のやりとりなどを介して恋のアバンチュールを楽しむ」「結婚が成立すれば、女性は跡継ぎの生産・養育に励む」といったところで、各々の役割を演じてくわけです。

貴族社会のこのような特性が、〝色好み″を主題とする物語を構制したり、紫式部の批評意識を生み出す与件となっていると考えられます。

「若菜下」巻で語られる柏木と女三の宮の密通譚においては、柏木は具体的に二つの閉塞感に襲われ、その中で悶死します。

それに対して女三の宮は、自らの閉塞状況を、ある意味で乗り越えていくのです。



密通譚のあらましは、以下のようです。
柏木が女三の宮を自分の妻にと求める当初の動機は、自分の出世あるいは世間体として天皇の息女(皇女)であるべきという打算からでした。三の宮には二の宮という異腹の姉がいて、父親の朱雀院と柏木の両親の間で、柏木の正妻として女二の宮が推奨され、柏木は説得されてこれを受け入れました(二の宮が正妻になる)。その後女三の宮は光源氏の正妻に迎えられるのですが、柏木は源氏の邸宅六条院で女三の宮の現し身(うつしみ)の姿を垣間見て一目ぼれし、以来、恋心を秘めて十年近い歳月を送ります。彼の心はすっかり三の宮に奪われて正妻二の宮のことは蔑ろにし、顧みようともしません。他方、女三の宮は柏木の存在を認識しておらず、柏木は何度も和歌を送ったりするのですが、まったく取り合ってもらえません。しかし最終的に柏木は実力行使に出て、三の宮のお付きの女房の手引きで三の宮との密通を成就します。ただ、夜中の真っ暗な闇の中での契りだったので、三の宮は最初は相手が源氏と思い込んで受け入れたので、夜が明けてそれが見知らぬ男であることがわかり、自分のしたことに対する後悔の念とおののきに襲われます。その感情は、主として源氏に知れたときのことを思って生じてきたものです。
その後、柏木は和歌を通して自分の恋心を三の宮に伝えようと努めますが、三の宮の精神的な幼なさは男女の恋の作法もわきまえず、また源氏を恐れる気持から柏木の思いを受け入れようとしません。柏木は、三の宮を慕う気持に対してせめて一言「あはれと言って欲しい」と嘆願するのですが、三の宮はやはり心を動かしません。
二人の密通の事実を知った源氏は、世間体を慮って六条院では表面上は何事もないかのようにとりつくろって暮らしていましたが、あるとき柏木と対面して、皮肉に満ちた言辞を彼に浴びせかけます。恐れをなした柏木は帰宅してそのまま病いに伏し、心身ともに衰弱していきます。死を悟った意識の中で柏木は、正妻二の宮に対する自分のつれない態度を反省し、自分が先に死んで彼女に先行き心細い思いにさせてしまうことを可哀想に思ったりするのです。そして母親に「心に掛けてお見舞いを差し上げて欲しい」と後を託します。かくして、柏木は無念の気持を抱いたまま息を引き取ります。
(太字部分は、以下の本文中で言及される箇所です。)


柏木の前に立ち塞がった具体的な閉塞感とは、一つは、時の権力者と言ってよい源氏の怒りに触れて出世の道が絶たれたということ、
もう一つは、自らの恋を、三の宮の幼児性あるいは恋の作法を「わきまえない」融通のなさのために、成就できなかった(「あはれ」という言葉を掛けてもらえなかった)ことです。

平安期貴族社会の中での男女の恋の作法の観点からすれば、女性の心を征服するという目的が達成されなかったという意味で、
柏木は自分の前に立ち塞がった壁を乗り越えられなかったことになるわけです。

しかし私は、この柏木の今はの際の意識の中に、平安期の男性の文学的造形において新しい観点が見出されてきているのではないかという気がすうのです。

それは、正妻二の宮への態度を後悔し、二の宮に侘びたいと思う気持ちが生じていることです。


今わの際に母親に「心に掛けてお見舞いを差し上げて欲しい」と懇願したとき、二の宮とのはかない宿縁を思い返す言葉を残します。
原文では「たへぬ契り恨めしうて、思し嘆かれんが心苦しきこと」(全うすることのできなかった夫婦の契りがうらめしくて、宮がどのようにお嘆きになろうかと思うとつらい)と表現されています。

このような後悔の意識は、男性の色好みの冒険の世界の中ではほとんど無視されてきた事象ではないかと思うのです。

柏木の心の中に生じた妻へのいたわりの意識は、光源氏が紫の上や玉鬘や朧月夜、朝顔の姫君など過去にかかわった女性たちの一人一人の個性を認めていくことと並行しており、
色好みの対象としての一律的な対女性認識が破られて、一人一人の人格的世界が立ち上がってくるようです。

(柏木亡き後、「落葉の宮」などと呼び名されていた、あまり冴えないイメージの妻の二の宮が、源氏の息子で柏木の友人の夕霧との間に演じられる男女の駆け引きのエピソードを通して、生き生きと蘇ってきたりするのです。二の宮の個人としての主体性の芽生えが感じ取れるエピソードです。)


男性の意識の中でのそういった変化がもたらされたのも、女三の宮とのかかわりがきっかけになっています。

ではそのような作用を起こしていく女三の宮とは、そもそも何者なのでしょうか?

次回は、この問いに向かっていこうと思っています。


日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ②女三の宮は元祖「わきまえぬ女」

2022年07月26日 | 日本的りべらりずむ

『源氏物語』(以下、『源氏』)は物語の展開の上では大きく前半と後半に分かれます。

前半は光源氏が40歳を迎えて准太上天皇(天皇の座を譲位した後の天皇。上皇)の地位にまで上りつめ、
都の六条に大邸宅を建ててそれまでにかかわりのあった女性たちを住まわせるなど、この世の栄華を極めるところまでの話。

後半は、六条院に体現された栄華にもやがてたそがれの翳が忍び寄り、紫の上そして光源氏の死から、薫大将・匂宮・浮舟を主人公とする宇治十帖の物語へと移っていきます。

前半は明石や須磨の巻などよく知られたエピソードで構成されていますが、最後まで読んだ人の間では、面白いのは後半という人が多いようです。


栄華を極めた主人公や一族が後半次第に衰えていく過程が描かれるのは、古今東西の長編物語に共通してありがちですが、
『源氏』の場合は、研究者の間では、物語の主題への取り組みを、作者が改めて仕切り直した、というふうに解釈することが多いように感じられます。

つまり、前半は読者を喜ばすことを意図して物語っていますが、後半は貴族社会のなかでの男女のあり方や、仏教的な信仰のあり方など、
人間の生き方を深く凝視していくようになっているというふうに読まれることが多いということです。



私の見解を言わせてもらえば――現代の用語を使わせてもらいますが――後半はいわゆる〝脱構築”ということが試みられているように感じられます。

前半は、平安期にたくさん書かれていただろうと推測される物語文学の、プロット構成法のいくつかのパターンに即したり、組み合わせたりして、
音楽でいえばいわゆる調性コードにしたがって、光源氏の色好みの遍歴と出世譚が語られるわけですが、
後半はそこに異質な要素が入り込んできて、調性が崩れていく過程が語られていくのですね。

調性が崩れていくその歪みや裂け目のなかに、何かうごめいているように感じられるもの(それが何かは作者にもはっきりとは形象化できない)を見すえていこうとする、そんな空気が感じられてきます。

その調性崩壊の始まりを飾る話が、柏木と女三の宮の密通の物語です。

特に女三の宮の性格設定は、『源氏』あるいは六条院の予定調和的な世界に亀裂を生じさせていきます。

そしてこれをどう生かして、新しい物語世界を創り出していくかというところに、作者紫式部の文学的闘争が展開されていくわけです。


女三の宮というのは、光源氏の腹違いの兄、朱雀天皇の末娘で、末っ子であるだけに天皇は溺愛して育てました。

そして天皇を譲位したあとは出家することを希望し、まだ幼い三の宮の後見を心配した末に、最終的に光源氏の正妻に迎え入れられることになります(このときの年齢はまだ十代の前半)。

女三の宮は父親に溺愛されて育ったために源氏の正妻になってからもいつまで経っても幼児性が抜けず、その融通の利かなさに源氏は辟易として、あまり寄り付かなくなります。

源氏には紫の上という最愛の女性がいて、人間的にもよくできた人ですが、源氏の色好みな性格は、紫の上を愛しながらも蔑ろにしてきています。

それが女三の宮と比較することで、源氏の中で紫の上の人間性への評価が高まり、彼女に注ぐ源氏の愛が深まっていきます。


源氏も紫の上もこの時には晩年に至っていて、やがて二人とも亡くなるのですが、
源氏の精神世界のなかでは来し方の生き様を顧みる心が芽ばえ、紫の上ばかりでなく、他の女性たちの一人一人の個性に気付いていくという描写があったりします。

それは光源氏の色好みな生き方や六条院という調和的世界のゆるやかな解体とともに、人間の生き方の新しいヴィジョンの芽生えを暗示していると読めなくありません。

そのきっかけとなったのが、女三の宮という異質なファクターが闖入してくることによってであるわけですが、
その異質性は、現代の言葉で表現すれば、平安期貴族・男性社会のなかでの「わきまえぬ女」の逸脱性と言えるのではないかと思います。

この逸脱性は柏木と女三の宮の密通譚において効果的に発揮されて、柏木という新しいタイプの男性(人間)像の創作へとつながっていくように、私には思われます。

日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ①『源氏』の人間描写の細やかさにV.ウルフも驚嘆。

2022年07月16日 | 日本的りべらりずむ

『源氏物語』(以下、『源氏』と略します)は平安時代中期、900年代の末から1000年代の初めに書かれた世界最古の長編小説の一つとされています。

世界史のなかでは『源氏』よりも古い小説もあるようですが、何十人もの主だった登場人物、しかも決して超出した英雄とか超能力者でもなく、
普通の平均的な人間の一人一人の言動や思念を、特定の思想や道徳観や美意識に依らずに、人物自体に即してリアルに、
更には心理の襞に分け入って描写(あるいは観照)していくような、ある意味では近代小説にも比肩しうるような語り方をしている物語は、
古代の小説としては他にないと言えるのではないかと思います。

人間を個別的に観察してその言動や心理を描出するような文芸作品は、当時の文芸的教養の世界を提供していたお隣の中国では、司馬遷の歴史書『史記』あたりが思い当たります。

紫式部は『史記』を愛読していたとのことで、その影響を指摘する研究者もおられます。

(たとえば、国文学者の小西人甚一は『日本文藝史』の中で次のように書いています。
 「…紫式部が『史記』に通じていたことは、みずから語るところである。
『史記』に述べられているのは、国の治乱・興亡にもせよ、人間が自分自身の能力と責任において対処していった事跡だけれども、それらは多くの場合、望まれるような結果になっていない。
この「人の世は不如意だ」という『史記』の知見こそ、仮構物語のなかに初めて現実性を持ち込むことができた重要な契機にほかならないであろう。」)

しかし、宮廷という特殊社会ながらいわゆる〝数ならぬ”(古語で「普通の」「とるに足りない」という意味)人間の心理や振る舞いをリアリスティックに観察し、描写する近代的な意識とは異なっています。

また、『源氏』が書かれた同時期の西洋はまだルネッサンスにも至っていなくて、人間の現実の姿を描く文藝が生れてくるのは、まだまだ数百年も後のことです。



『源氏物語』が最初に英語に翻訳されたのは1925年のことで(以後1933年に全訳完了)、A.ウェイリーという人が訳しています。
これを当時小説家として油の乗っていたV.ウルフが読んで、その創作意識の先進性に驚嘆の言葉を残しています。次のように。

「(『源氏』が書かれていた時代)私たちの祖先は絶えず人間同士、イノシシ相手、生い茂る藪や沼地と格闘していて、写本にせよ翻訳にせよ年代記にせよ、ペンをとって執筆したり、あるいは荒削りの詩を荒々しくがさつな声で詠ったりしたのは、苦闘に膨れ上がった拳、危険に曝され研ぎ澄まされた頭、煙にひりついた目、湿地を踏みわけ冷え切った足を抱えてのことでした。
  夏来たる/カッコウ騒々しく鳴けり
――などが、彼らが唐突にあげた雄叫びでした。
(中略)
レディ・ムラサキはこうした時代に、過剰な表現を嫌い、ユーモアや良識を持ち、矛盾に情熱を燃やし、人間性へ好奇心を持ち、生い茂る草や侘しい風のなか朽ち果ててゆく古い館、荒寥たる景色、滝の音、砧をうつ木槌の音、ワイルド・グースの鳴く音、赤鼻のプリンセスなど、つまり不調和ゆえに美しさを増すものに愛情を抱き、それを表現する彼女の才能を遺憾なく発揮することができたのです。」(訳 毬矢まりえ、森山恵)


ウルフは、平安期日本貴族の宮廷生活のディテールが自然の豊かな変化の相の下に、細やかに優雅に描かれていることに驚嘆しています。

そのような自然環境や暮らしのディテールをながめやる紫女の深々としたまなざしは、登場人物一人一人の振る舞いや心理にも注がれ、それが物語の世界を組み立てていくわけです。

『源氏』の主題についてはさまざまな捉え方があって大方の一致を見ることはないのですが、
少なくとも「ながめ」のステージに浮上してくる出来事はすべて書き尽くしていこうとするような意志の働きに物語は支えられており、
この意味で『源氏物語』は、日本の精神風土が生み出した人間観照の文学の最も豊かな成果と言えると思います。


ではそのような「人間観照の文学」が、西暦1,000年前後の極東日本の宮廷文化の中で、何ゆえ可能であったのでしょうか。?
しかもそれが、人類史全体の流れの中でももっとも先進的に可能であったのでしょうか?

この疑問を頭の一隅に置いて、『源氏』という普遍的な文学から、〝日本的りべらる”と評価できるような要素を、これから4回にわたって探り出していきましょう。

日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ⑤日本国の民衆の哲学としての国学は可能か?

2022年07月02日 | 日本的りべらりずむ

上田秋成が活動した十八世紀(1700年代)後半は、文芸では読本と呼ばれる小説形式のものが流行し、
学問の世界では市井の儒学者が“道学者”と俗称されるほどに庶民生活に溶け込んでいたりして、
学問をすることがひとつの流行風俗とみなされるような時代でした。

そして文芸と学問が接近して、古典文芸を研究することがそのまま学問として成り立っていきました。

そういう時代の空気の中で、儒学への批判に発して日本独自の思想や哲学を掘り起こし、提唱していくために、古典文芸や神話を研究する分野が新たに切り開かれていきます。

その分野は“国学”と呼ばれ、中学・高校の日本史の教科書では、万葉学を創始した契沖から始まって賀茂真淵、本居宣長と継承されていった学問と解説されます。

江戸国学の頂点に位置する学者は本居宣長ですが、上田秋成はまさにその宣長が活躍した時代に生きたのであり、
しかも国学分野において宣長のカリスマ性に敢然と立ち向かっていった学者でした。


秋成の国学研究は、30代前半に『雨月物語』で読本界に名声を確立したあと本格的に始まっていきます。

そして晩年にいたるまで新作読本の出版はいっさいなされず、労苦に満ちた人生を送りながら、
万葉集の評釈や古典文芸の研究を進めて、その集大成を『春雨物語』に結実させていこうとしたようです。

つまり秋成は読本作者と国学者の両面を併せ持っていたということです。

しかしそのことが、読本作者としては『春雨物語』を完成させるところまでには至らず、
国学者としても研究の成果を世に問うところまでにまとめきることができませんでした。



秋成の物語作者としての知性のはたらきは、国学研究に向かうときには一つの、潔癖感の強い秋成には乗り超えることが困難なジレンマを生じさせたようです。

国学は学問なので、研究の対象となる古典文芸や歴史・神話を記録した文献(古事記や日本書紀など)が、
それが生み出されてきたときのままの状態で伝えられてきているかどうかを判定する作業(いわゆる文献批判と言われる)が欠かせません。

途中で何ものかによって修正されたり、偽造されたりしていることが多いからです。

しかしそれを、誰もが納得できるような実証性の裏付けをもって判定する史料が、特に歴史・神話のテキストには不足しています。

秋成はその点でテキストに対する深刻な懐疑心を抱いていて、結局過去の歴史の真相をあきらかにすることはできないのではないかという、
いわゆる文献ニヒリズムと称される事態に陥っていくわけです。

物語作者として、創作のために言葉を偽造していくことをある意味得意としてきた秋成には、
伝承されてきた古代の歴史書や神話も「言葉の偽造によるものではないか」という疑いに眼をつむることができませんでした。

大方の国学者はこの問題をどうクリアしているかと、史料で実証することが不可能と予測される箇所は、
個人的な憶測や考え方でもってそこを補完することで辻褄を合わせていこうとします。
(つまりテキスト解釈が恣意的になされていくわけです。)

その結果、国学関係のテキストは、文献の解釈に個人的見解を偲ばせ、それがだんだんと表面に出てきて、観念性を強めていく傾向のものが多ように感じられます。

そしてそれが江戸末期から明治期にかけての天皇制的国家主義を裏付けるイデオロギー表現として超越化していくわけですね。

その代表的な学者が本居宣長です。宣長の国学は、文献解釈のコンセプトを神道思想と結びつけて、超越化していく方向を進めていきました。


それに対して、国学者としての上田秋成はそういう国学の在り方を耐えがたく感じ、嫌悪していました。

宣長の学問に対しても直接論争を挑んだりして、生涯にわたって批判を継続しています。

秋成と宣長の対立を象徴的に表現すれば、たとえば『古事記』という文献に対して、宣長はそれを神格化し国学の聖典として意義付けましたが、
秋成は『古事記』を偽書とみなして、その価値を認めませんでした。


近世文芸の研究者である日野龍夫の評価を紹介しておきましょう。

「宣長の関心は自ずから新しい正しい規範である神道へと移り、人間の自由そのものへの関心は見失われた。
秋成は、人間の自由への関心を終生失うことはなかったが、その代り、そのようなものを保護しようとする営みに公的価値があると信ずることができず、ついに自己の学問を遊びと観ずるに至った。
したがって国学者としての業績は二流に終わるほかなかった。」(『宣長と秋成』筑摩書房 p.8)


『春雨物語』の創作経緯には当時の国学や宣長との確執が重要なモチベーションとして深くかかわっており、
そのことも視野に入れて鑑賞すると、また異なった読み方ができますが、それについては後日を期したいと思います。



上田秋成の項は今回で終了です。
次回からは、このシリーズの最後のテーマとして『源氏物語』を取り上げます。



日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ④『春雨物語』から 残りの7篇

2022年06月18日 | 日本的りべらりずむ

「1.歴史語り」の3編の次には「2.世相語り」の『二世の縁』という小説が配されてますが、先に「3.歌論」の紹介をしておきます。

「3.歌論」は『目ひとつの神』と『歌のほまれ』の2編から成ります。

『目ひとつの神』は、東国の若者が歌道を学ぶために都に上ろうとして都の手前の近江の森まで来たとき、目ひとつの神と遭遇して、
神から「都で学問をしようとしても手遅れである。故国に帰って、隠れ住むよい師を探して、自ら努めよ」と諭され、修験者に抱きかかえられて空を翔けて故郷に帰っていく話。

(森の中で目ひとつの神を中心に酒宴が催されますが、その中に猿と兎がいて酒瓶を運んだりしているのは平安末期に制作された「鳥獣戯画図」を連想させます。目ひとつの神に「四、五百年前には師と呼べる人がいた」という発言がありますが、四、五百年前を万葉時代とすると、“今”は平安末から鎌倉前期にあたり、「鳥獣戯画図」が創作された時代、且つ勅撰和歌集「新古今」が編纂された時代です。「新古今集」は上田秋月成と同時代の国学者本居宣長が王朝和歌の規範と価値付けた和歌集です。)

『歌のほまれ』は、万葉時代の歌人が旅の途中で見て詠んだ風景や花鳥が同じ場所であることが多いのは、「昔の人は心が素直で、先人が同じように詠んだかどうかは気に留めず、感動したことを素直に詠んだに過ぎないからである」と説明して、万葉歌の「直き心」を称揚した一篇です。

「3.歌論」の2篇は、万葉時代の直き歌心を和歌の範として、古今集以降の和歌を直き心を喪っていく過程として批判していると読めます。



さて、「2.世相語り」の『二世の縁』に戻りますと、舞台は現在の大阪府高槻市古曽部町にあった村で、
経済的にも文化的にも豊かに暮らしていたある農家の庭の地中から百年以上も前に入滅して土葬された僧が掘り出されたところから始まります。

これは奇跡だということで村をあげて世話するけれども、元の人間の姿にまで復活しても何の霊験も示さず単なる俗人の振る舞いに終始するので、村人から次第に信仰心が消えていった(男たちは形式だけは守ろうとする)というだけの物語です。

解説者は、痛烈な仏教批判と解釈したりしていますが、最後は「どこまでも不思議な世の有様だ」と書かれています。
この「不思議」を、人々が信仰心を失っていく現象をも含めていると読むとどういうことになるでしょうか?

小説集の構成の流れの中で見ると、冒頭の2篇が天上の政(まつりごと)としての「歴史語り」から、『二世の縁』では地上の出来事としての「歴史語り」へと舞台が移っていることになります。

その地上では人々の間で次第に信仰心(聖なるものへの尊崇の念)が喪われ、世俗のリアリズムに浸されていく世相が描かれているわけです。


「4.人倫(人の道)」は4篇から成ります。

世俗のリアリズムに浸された世界で、人はどう生きていくかという意味での「人の倫」が探り出されていくと読むことができそうです。

『死首の咲顔』『宮木が塚』は女性の生き方に焦点が当てられ、『捨石丸』『樊噌』では男性の生き方が描かれます。

つまり「人の倫(みち)」が女性と男性に分けて語られているんですね。


『死首の咲顔(しにくびのえがお)』は、富裕な酒屋の息子と貧しい農家の娘が夫婦の契りを交わすが父親の反対に阻まれる。そこで娘の兄も加わって結託し、酒屋の門の中に入り父親の目の前で息子に向かって「お前の妻だ。この家で死ぬべきなのだ」と言って、妹の首を切り落とす。その首は切り落とされたあとも微笑んだままであったという話。

『宮木が塚』は、宮木という名の遊女を身請けしようとする若者と、宮木に横恋慕して若者を謀って死に至らしめ、宮木を篭絡する男の話。宮木は身請けを約束した若者に対して貞節を守っていたので、若者が殺された上に自身も意に反して貞節を破られたことに絶望し、法然上人から念仏を授かりながら海中に身を投げる。

以上の2篇は、近代以前の家父長制度の桎梏のなかで、女性が自らの意思を貫いて生きようとすると、死を免れがたいという教訓が含まれているようです。

宮木の自死の選択は、「今は命すてんと思ひ定めたる人よ。いとかなしくあはれ也」と呟いて投身を見届けるほかなかった法然上人の聖性をも超えて、凛然とした光輝を放っているように感じられます。


『捨石丸』は、捨石丸という男とのトラブルで死んだ父親の仇討ちを国主から命じられた息子が、捨石丸を探して数年後に遭遇するが、岩の山の斜面を一里ほど掘り抜いて道を作る工事に取り組む捨石丸の姿を見て、仇討ちは止め捨石丸に協力して道を完成させたという話。

『樊噌』も『捨石丸』と同工異曲の話ですが、樊噌と呼ばれる男は肉親の父親や兄をも殺害する極悪人であり、事件後思いのままに狼藉を行いながら諸国を遍歴していくことと、晩年は高僧の地位を得て大往生するところが少し違っています。
しかしどちらも晩年にはいわば悪と聖性が合一して、社会事業に従事するような立場に回心していきます。

『春雨物語』においては、女の場合も男の場合も、この地上の社会の制度や道徳や宗教、また権威に対して、“個”としての生き様を貫くことの純粋さ(万葉の“直き心”をルーツとする)が強く打ち出されていると言えるでしょう。

日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ③『春雨物語』から 「1.歴史語り」の3篇

2022年06月04日 | 日本的りべらりずむ

ここでは小学館の「日本古典文学全集78巻」に収められた『春雨物語』をテキストとします。

テキストの冒頭は「1.歴史語り」の3篇が配されています。
「血かたびら」「天津処女」「海賊」の順番で、時代は「血かたびら」「天津処女」が平安時代初期の約40年間(806-848)、
天皇の代で言えば、桓武天皇亡き後の平城天皇から嵯峨・淳和・仁明と続く時代です。

「海賊」は仁明天皇の最期から90年ほど経った935年に飛びます。
『古今和歌集』の掲載和歌の選上にかかわり、後半生には土佐守として四国に赴任したあと、『土佐日記』を著わした紀貫之が、土佐から帰京する船の中の出来事を語るものです。

「血かたびら」は平城天皇在位の期間に起こった「藤原薬子の乱」に材をとっています。
平城帝の性質を「善柔」と規定して、性格穏和なため本人自身も政治を司るのは不向きという自覚を持っていました。
優柔不断とも言え、それが因となって寵愛していた藤原薬子に謀反の心を起こさせ、遂には次代の嵯峨帝によって罰せられ、蟄居中に自刃して果てる。
物語の題「血かたびら」は薬子自刃のときの血が几帳の薄絹(かたびら)に「飛び走りそそぎて、ぬれぬれと乾かず」からきています。
このとき平城上皇は「つゆ知られぬことであったが、ただ、「自分が間違っていた」と仰せられて出家」あそばされた、ということです。


続いての「天津処女」は嵯峨・淳和・仁明の3代にわたる時代です。
主人公をここでは良峯宗貞(のちの遍照僧正 六歌仙の一人)としておきます。
桓武天皇の孫に当たる血筋の人で、淳和帝の近臣として仕え帝からの厚い信認を得ていました。
帝から政治に関するご下問を受けたりもしましたが、一切答えず、もっぱら遊びに関することだけを昔の例などを引いてアドバイスしてさし上げたとされています。

「天津処女」というタイトルは、毎年11月の新嘗祭の翌日に宮中で行われた豊明の宴で4人の天女が舞い降りてきて舞うという趣向に、宗貞が一人増やして5人にすることを進言したことからきています。
その話は作者秋成の創作によるものですが、百人一首に遍照僧正の「天津風雲のかよひ路吹きとぢよおとめの姿しばしとどめむ」という歌があることから、発想されたかと思います。

宗貞は和歌の作者としても六歌仙の一人に名を連ねていて、古今集には作者名遍照で17首が選上されています。
色好みとしても知られ、小野小町と歌を贈答したエピソードや、女郎花をモチーフにしたちょっと色っぽい歌なども残しています。
「天津処女」では政争に巻き込まれたりしながら、その行動がいささか戯画的に表現されていますが、晩年に僧正の位まで進めたのは、「仏が授けた福運のせいにちがいない」と秋成は総括しています。


「海賊」は、古今和歌集が編まれた時代の代表的な歌人であった紀貫之が、国司として赴任していた四国の土佐の国から、任期を終えて帰京する海路の船の中で起こった出来事をかたったものです。
一人の海賊が貫之の船に乗り込んできて、主として「古今和歌集」批判をとうとうと述べていくという話です。
批判の眼目は、1.古今集の序文に「和歌は人の心を種にして、無数の言の葉」と言ってるのは、古来の語彙・語法にのっとらない誤りである、2。「歌に六義あり」は偽りの説である。人の喜怒哀楽の情はあまたあってどれほどの数になるかわからない、3.儒教の道徳下、人妻に心を寄せるような恋の歌は不謹慎である。その種の歌が古今集にたくさん集められていて政令に違反するものである。4.その他、菅原道真や三善清行といった賢臣・忠臣を政治の中枢から疎外した、時の朝廷政治への批判が述べられています。



この3篇は、平安時代の初期100年ほどの時代をモチーフにしています。

その100年間はどういう時代であったかと言いますと、万葉時代(平安遷都以前)が終焉してから、「古今和歌集」が天皇の宣旨によって編纂され新たな和歌文化が始まっていく時代です。

100年の間の前半は中国文化を直輸入したような漢風文化が席巻しますが、後半は和歌の世界に才人が輩出して国風が盛り返していきます。

「血かたびら」における平城帝の「善柔の性」は万葉時代の「直き心」(歌を詠む対象と素直に向き合う心)を受け継ぐものと受け取れば、「自分が間違っていた」という感慨は万葉の心の終焉を告げると解されます。

「天津処女」における遍照僧正は、色好みと歌人と仏教の聖人をミックのした文化イメージを体現し、それが現実の政治的世界に絡め取られていく歴史的過程を形象化していると言えるでしょうか。

「海賊」における「古今和歌集」批判は、和歌という文化ジャンルが政治的世界に絡まれて頽落していくことを伝えようとしています。


かくして、上田秋成が語る日本の古代史は“天上のまつりごと”の過程としての歴史を終焉して、“地上の出来事”としての歴史へと転換していき、その経緯の中に「歌の心」の在りどころが探られていくと、ここでは読んでおきましょう。



時事雑感2022[twitter投稿文庫]

2022年06月02日 | 時事雑感
20220601

憲法審査会にかぎらず、国会で行われていることはすべてテレビ中継するのがNHKの任務ですよ。

日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ②未刊の小説集『春雨物語』をテキストとして

2022年05月21日 | 日本的りべらりずむ

近世までの日本文芸史上で「物語」文学が盛り上がりを呈するのは2度あって、
1度目は『源氏物語』を要とする平安期、2度目が上田秋成の『雨月物語』に代表される十八世紀後半(江戸後期)の読本ブームの時です。

読本ブームは、江戸前期からはじまる木版印刷技術の進歩によって書籍が庶民レベルまで広く行き渡るようになったことと、
中国で白話小説という、俗語で書かれた小説が日本でも盛んに読まれるようになったことが主な理由と考えられます。

この時期の物語作者は白話小説や本邦物語文芸の果実からネタを得ながら、模倣や創意をない混ぜて新しい物語の創作を始めていったわけですが、
どういう物語を創っていくかについては、『源氏物語』などを手本にしながらあれこれ思案を重ねていったようです。

『雨月物語』は秋成30歳代の創作で、交流のあった他の読本作者の影響を受けつつ、和歌や古典文芸の研究、
さらには江戸期になって創始された国学への関心などからの成果を持ち込んで書き上げたものでした。



その後、読本作者としては長く逼塞していましたが、晩年に至って『春雨物語』の創作に取り組んでいきます。

この作品は、死没するまで10年ほどの時間をかけて何度も書き直され推敲を重ねていったために、秋成生前には刊行までに至ることができませんでした。

物語集はいくつかの異本の形で伝えられてきて、今日私たちが読めるような形にまとめられて出版されるようになったのは戦後になってからです。

『春雨物語』は、そのようなわけで未完成といえば未完成なのですが、
そもそも「物語とは何か」というような問題意識の設定の下では、
近世から近代へと展開していく創作意識をめぐる根源的な問い掛けを含むテキストとして、
ここでは『春雨物語』に焦点を当てて紹介していきたいと思います。


このテキストに対する研究者諸家のさまざまな解説や論考は、ある一定の方向性を有した創作論のようなものが獲得されているわけでもなく、多彩な解釈が繰り広げられてきています。

しかしどの研究者の論考にも共通しているのは序文への言及で、秋成の“物語”創作論の基本的な考え方が表明されています。

短いものではあるのですが、その表現はかなり込み入っていて、解釈はいろいろと成り立ちそうです。

次のように書かれています(現代語訳を出しときます)。
「昔近頃の出来事など、まことと読んで人に欺かれてきたものを、己(おのれ)またこうして偽りと知らずに人を欺いている。それもよい。絵そらごとを語りつづけて、正史であるとありがたく読ませる人もあるのだからと、ものを書き続けていると、春雨は外にひとしお降り続けることである。」(小学館刊『新編日本古典文学全集78』より)

世の中の出来事や歴史上の事実ということと、物語としてひとつの虚構を組み立てていくこととの間の関係が、
物語作者と古典・歴史の研究者を兼ねた秋成の“創作”に対する態度(倫理観)とか、作者(秋成)と読者との関係、といったことも絡んできて、相当複雑に込み入ったヴィジョンが、この短い文の中に埋め込まれているようです。


私が最初に『春雨物語』を読んだときの印象は、生涯の集大成として書いているなというものでした。
その生涯の集大成を10の物語に分けて語っていますが、これをテーマ別にカテゴリー化して分類するとすれば、私の案としては以下のようになります。

1.歴史語り――「血かたびら」「天津処女」「海賊」
2.人の世語り――「二世の縁」
3.和歌論―――「目ひとつの神」「歌のほまれ」
4.人倫(人の道)――「死首の咲顔」「宮木が塚」「捨石丸」「樊噌」

次回から、この4つのカテゴリーに即して、解説を試みていきます。




日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ①江戸期の学芸と秋成の合理精神

2022年05月07日 | 日本的りべらりずむ
江戸時代というのは幕藩体制下世情も比較的安定して、経済活動は町民階層を中心に活発化し、
富が豊かに蓄えられていって、遊行や文化活動が盛んになっていった時代です。

町民が主体となった文化は貴族や武家のそれとはまた雰囲気を違えて、気ままさとか自由感のようなものがあったと想像されます。

そうして財の裏付けのある人ならばものを蒐集するとか、何か一つの世界に薀蓄を傾けていくとかして、
いわば趣味的な文化人・知識人ふうの人がパトロン的な役割も果たして、その繁栄の様相は多様な展開を呈していったのでした。


およそ250年におよぶ江戸期の文化的な盛り上がりは、前期と後期の2回のピークを実現しました。

前期は1700年前後で元禄文化と呼ばれ、後期は1800年代初頭の文化期で化政文化と呼ばれています。

これからこのブログで取り上げていく上田秋成の活動の期間は1700年代後半で、その拠点は京都・大坂でした。

期間は江戸文化の最盛期からは少し外れていますが、しかしたとえばヴィジュアル領域では伊藤若冲、池大雅、円山応挙、与謝蕪村といった江戸期水墨画を代表する絵師たちが顔を揃えていた時代で、それなりにクオリティの高い文化状況にありました。



上田秋成は怪奇小説集『雨月物語』で知られているように、表看板は物語作家といってよいかと思います。

と同時に古典文芸の研究家でもあり、特に古事記・日本書紀の文献批判や万葉集の評釈などの事績を遺し、また江戸時代から始まった国学の学者でもありました。

さらに和歌、俳諧のジャンルでも活動しています。

特に物語作家としては30代のときに書いた『雨月物語』で一躍スターダムにのし上がりましたが、
晩年には歌人、古典研究者、国学者としての自らの人生を総括するような作品『春雨物語』を遺しています。


日本で印刷技術が発展していきはじめるのは江戸時代前期、そして後期には、現代の“小説”的な創作意識につながる、読本と呼ばれたフィクション物が盛んに書かれるようになり、書肆(書店)という業種も生まれてきました。

(同時に版画技術も精緻さを加えていって、浮世絵ブームを起こし日本美術のひとつのエポックを形成したことは周知のとおりです。)

フィクション物には、怪奇現象をモチーフにした読本に人気があったようですが、
ちょうど同じ時期の西洋でも、民主革命とロマン主義と産業革命の時代に、怪奇小説が一つのブームをなしていたというのも、興味深い現象です。


怪奇物語の作者とはいえ、秋成の創作や学問研究の全体をとおして貫かれている姿勢は、一種の合理的精神です。

秋成の合理的精神とは、私たちがふつうにイメージする科学的な合理主義というのとは少し違い、
また秋成の身辺近くにあったと推測される儒学(主として朱子学)における合理主義とも異なっています。

江戸期の儒学者は一般に、狐狸が人に憑いたり人を化かされたりすると考えるのはナンセンス(非合理)であると考えますが、
秋成の考え方は、儒学の合理主義は間違いではないが、狐狸に憑かれたり化かされたりする人もいる、自分自身にもその体験がある、というふうのものでした。

「是は必是、非は必非と思ふは愚のみ、非には是、是には非の弊あるも自然の事理ぞ」(『安々言』)
(是と認められることは必ず是であり、非は必ず非であると断定するのは愚かしい。非にも是と認められる場合があるし、是にも非の弊害が認められることもあるというのが自然の事理である)
というのが秋成の合理的精神の特徴でした。


この精神で以って物語を創作し、学問的定見に向き合って真実に辿りつくことを自らの学問的方法としていました。

ここ(当ブログ)ではこの観点から秋成の事績を、物語の創作・万葉学(または古典文芸研究)・国学の3つの領域に分けて見ていきます。

日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感⑤彼らは何を見ているのか?

2022年04月23日 | 日本的りべらりずむ

最後の問題は、彼らが眺めているのは何か、彼らのまなざしの向かう先には何があるのか、ということです。

これも、素直に考えれば東の空に浮かんでいる月であるとして何も問題はないでしょう。

満月は画面左上方に描かれており、人物の視線は水平方向に向かっていますが、日本画の研究者によれば、こういう描き方は他にも例があるとのことです。

このことは認めた上で、私としてはここでも別案を提示してみたいと思います。


この3人は揃って同じ水平方向を眺めています。

私は「ながめる」という動詞を、万葉の歌以来の日本の古典文芸の世界に通底する、観照を主体とした精神のはたらきを表わす言葉と考えています。

それは、万葉の時代の代々の天皇による国見の歌や、山部赤人の歌に代表されるような叙景歌を起点とし、
古今集時代の小野小町の「花の色はうつりにけりないたつらにわか身世にふるなかめせしまに」を経て、
新古今集では「ながめ」という詞を使った和歌を多数残した式子内親王の代表作「なかめつる-けふはむかしに-なりぬとも-のきはのうめは-われをわするな」
そして王朝和歌のとうびを飾るとともに叙景歌表現の頂点を極めたといわれる玉葉和歌集の歌人たちの作などに象徴的に表わされています。

時代が下っていくにつれて「ながめる」対象は外界の現象的世界から心的世界へと拡張していくことで、文芸の世界の拡がりと深化が推進されていきます。


(左右とも)「山水図」(至文堂刊『日本の美術2』489 久隅守景 より転載)
画面上方1/3ほどが余白表現されているのも守景の山水画の一大特徴とされています。


久隅守景が描いた山水画の特徴について、日本美術史の研究者の間では次のようなことが言われています。

すなわち山水のモチーフを画面上に少しずつ重ねることによって「後ろへ後ろへと空間の深い奥行きを表わ」していくことが、守景の山水画の特色をなしている。(榊原悟「久隅守景筆四季山水図屏風」『国華』1281)

この観方に従うならば、守景の絵画表現の精神性を、日本の伝統的な「ながめる」という精神活動の発露として捉えることが可能かと思います。



「六歌仙画帖」(至文堂刊『日本の美術2』489 久隅守景 より転載)
歌人の目の描き方に注意(見えにくいようでしたらゴメンナサイ)


さらに山水画とは別に、古今集時代の代表的な歌人たちを描いた「六歌仙画帳」という遺作があります。

彼らの眼は伏せているように描かれ、視線は下方に向かっています。

守景の人物画の多くがそのように描かれているのですが、彼らのまなざしはあたかも内面世界へと向けられている趣きがあります。


ところが「夕顔棚納涼図」では、視線の方向は下方ではなく、まっすぐ前に向かっているように描かれています。

特に女性と童子の視線ははっきり前方に向かっています。

他方、男性の視線は伏目がちに描かれ、さらに頬杖をついています。

頬杖をついていることの意味については、東京国立博物館研究員の松嶋雅人さんの論考に、

日本絵画の作例を2,3挙げながら、「これらから見ても、「納涼図」の男が頬杖をついているのは、深く考え思う様子があらわされているとみてよいかもしれない」とあります(「謎の絵師・守景」日本の美術489「久隅守景」所収 至文社)。

この説にしたがえば、男性のまなざしは、月をながめつつも意識の半分は心の内側に向かっているように描かれている、と観えなくもありません。


前回私は、この3人の像を守景自身の幼年時の両親と自分自身をモデルにしているという解釈を提示しましたが、
同時にまた守景の二人の子供(雪と彦次郎)と自分自身との3ショットという解釈も成り立ち、両者を重ねると、
「納涼図」は守景の3世代の家族を重層させての自己像と解釈することも可能かと思います。
そして、童子(守景自身または彦次郎)と女性(守景の母または雪)の視線はしっかりと前方(未来)を見据えています。

また男性を守景自身と見て、その視線は前方をながめつつ心の内側にも向かっているふうに見えます。

私はこの男性のまなざしを、水墨画の行く末を望もうとする視線と見たいと思います。


そこで改めて、守景が狩野派から離れていったのはなぜか?という問いを俎上にのせることにします。

子供たちの不祥事がその原因とされており、それもあると思いますが、同時に、「何を描くべきか」という問題意識もまた、
守景を狩野派から遠ざけていくもうひとつの理由ではなかったかと考えるのはいかがでしょうか?。

そのような想定が成り立つとすると、この問題意識は江戸前期における創作意識として最先端であるでしょう。

そしてこの問題意識を抱懐した点にこそ絵師久隅守景における近代意識の萌芽、すなわちリベラル感の萌芽があるのではないかという気がします。




日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感④自己の像に向き始める 

2022年04月12日 | 日本的りべらりずむ

一見家族のようにも見えるこの3人は果たしてどういう人たちなんだろうかということについて、ここでまた若干の検討をしておくことにします。

有力なのはやはり家族説で、しかも守景の家族とするのが自然な受け止められ方のようです。

守景には二人の子供がいて、上の子は雪という名前の娘、下の子は彦十郎という名の息子です。

二人とも若いときから絵師を目指し、守景と同様に狩野探幽に師事して研鑽を重ねていました。

雪は成人して清原家に嫁いで清原雪信という画名で創作を続け、彦十郎は師の探幽守信から一字を拝領して守則という画名を名乗っていました。

雪信は生前中から評判の高い絵師だったようですし、守則もそこそこの評価をえていたようです。

ところが二人とも醜聞事件を起こして狩野派を破門される羽目になります。

雪信は別な男性と通じ別宅をしたという説がありますが、正確な事実は伝わっていません。

守則は悪所(吉原)通いを重ねて探幽に勘当され、佐渡島に配流されます(のちに赦免されますが、そのまま佐渡に)。

雪信、守則の不祥事が守景にも影響して、守景自身も狩野派から破門される憂き目に遇い、後半生は狩野派から離れてフリーな立場で創作がつづけられます。

「夕顔棚納涼図」のモデルを守景の家族とする解釈では、男性は守景自身、女性は雪信、童子は守則ということになりますね。

彼らは揃って同じ方向に向いて何かを見ています。

絵のタイトルや画面左に満月が大きく描かれていることからして、月見をしている図であると考えるのが穏当なところでしょう。

すこしうがった見方をすれば、3人とも狩野派を破門された絵師であるということで、狩野派とは違った水墨画の可能性を夢見ているのかもしれません。
(何を見ているかについては、次回のテーマ)とします。)



ここでひとつ留意すべき事柄があります。

それは、これがもし守景自身の家族像であるとするならば、一種の自己像とみなすことができるわけですが、
絵師が自らをモデルとした作例がそれまでの水墨画の歴史にあっただろうか、ということです。

絵師の自画像といえば、守景以前では、一般向けの日本美術全集レベルの画集では雪舟とそのあとの時代の画僧 雪村(周継)ぐらいしか思い当たりません。

しかも雪舟の場合は、いわゆる頂相(ちんそう)と呼ばれる、禅宗の高僧を偶像風に描写する枠内のもので、
雪村に至って、偶像風からちょっとズレて、自分の姿をリアルに再現しようとする志向が見られるぐらいしかありません。

考えてみれは、江戸期あたりまでの絵師は職人なので自己自身に向き合うなどといった意識は持ち合わせてなかったと考えられますし、
絵画の社会的ニーズとして絵師の自画像など享受者の意識に上ることはなかったと考えるのが自然かと思います。

そのように考えると、守景の「夕顔棚納涼図」は、作者自身をモデルにしているという意味でも、日本美術史上新たなステージに入っていきつつあることを告げるものと考えることも可能.です。
(しかし絵師が自画像を描き始めるのは、少なくとももう100年ぐらい後のことになるようです。)


ここで私はモデルについてもう一つの、私の知るかぎりではまだ他で聞いたことがない案を提示したいと思います。

それは、同じ守景の家族ではありながら、守景の幼少時を追想したものではないかということです。

すなわち、男性は守景の父親、女性は母親、そして童子は守景自身ということですね。

このように解釈すると、作者自身の自己像をモチーフに取り上げるという意識は、より生々しく感じられてきます。

そのようなわけで、「夕顔棚納涼図」は日本の絵師が自己意識に目覚め始めたことを示す最初の作品としての意義を有していると考えることもできるでしょう。

身分制社会における下層階級の人間をモデルとし、しかもそこに自己自身の姿を見出そうとする意識の表出において、実に画期的な作品であると私は思うのですが、いかがでしょうか?