モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――宇野浩二(3)「いじめられる母親」あるいは女たち

2024年06月28日 | 初期「私小説」論
宇野が学生時代(早稲田大学)に発表した最初期の小説で、実質的に処女作とされる作品があります。
『清二郎 夢見る子』というタイトルで、4歳か20歳までを過ごした大阪の中心地を舞台とした、幼少から少年期を追憶して小説仕立てにしています。
この作品の特徴は、大阪の繁華街――宗右衛門町、道頓堀、南新地、難波、堀江、千日前といったいわば大正時代当時は遊行の街でもあった地域の都市的風情を詳細に描写していることです。
「空間の語り」という観点からすれば、前回の『夢見る部屋』の空間の描写をモチーフの一つとしている点で共通するところがあります(一方は屋内、他方は屋外の違いはありますが)。

基本は追憶という意識の流れに沿っての都市空間の描写であり、その空間描写と人事の交流とを巧みに絡ませながら語り継いでいくところに、宇野の語りの妙味を堪能することができます。
たとえば、
「川を越えて、向こう側の家々の裏が見える。写真屋がある。芝居茶屋が四五軒ならんで居る。赤青の色ガラスの障子をはめたうどんやがある。芝居茶屋の座敷では、清二郎ぐらゐの男の子と妹らしい女の子が、何か食べながら面白さうに遊んで居る。その笑ひ聲が手に取るやうに聞えて来た。その隣りのうどんやでは数組の客が飲食して居る様に、まるで違うた世界の影の様に見えた。」
こんな文章が大阪の中心街の描写の至るところに散らばめられています。



この小説は前書きのような文から始まって作者のなにやら言い訳めいた文章があって、それから本題に入るのですが、出だしは母親についての追憶が主調になっています。
最初の中見出しが「人形になりゆくひと」となっていて、
「その人形はむかし、ひとであったといふ。
極めて顔の美くしい、極めて姿の美くしい、その人形は又美くしい衣裳を着て居た。」

といった文章が置かれています。
そして次のようなシーンが描かれるのです。

『なんでお前はそんなん(そんな者)やろ』
 一時間程前に、伯父はこわい顔して母様にいうた。
 夫に別れた身を思へば、少し確(しっ)かりしたひとならば、さうしてわが身が大切、子が大切、家が大切と思ふなら、女子(おなご)は女子だけのそれ相当の方針をたてねばならぬ。『それにお前は唯わが身だけの、而も女子のくせに、行き当たりばつたりにやつてゆくのやもの』
(中略)
『お前は自分ひとりのつもりか知らんけれど、子があるのを知らんのか?
『なるほど、お前一人のつもりなら、、さうしていたら申し分ないやらう。貧乏して食えへん様になる迄、お前は綺麗な着物着て、おいしいものを食べて行くつもりかいな』
『そんなら出て行きます』
 最後に母は斯ういうて、自分の涙をふきながら、小さい子の涙をふきながら、何も持たずに、而も化粧だけ美しうして、着物だけ着かへて、傘を一本さしかけて、雨の町に夜を出た。


このシーンは追憶のかなりはじめの方で出てきます。
宇野は3歳のときに父親が亡くなり、母親と兄(知的障害を持つ)と三人で生地の福岡から神戸に移住、8歳のときに大阪の宗右衛門町の母方の伯父の家で面倒を見てもらう境遇になります。
上記の一節は伯父の家で8歳の宇野が目にしたシーンを回想しているわけですが、数多ある母親の思い出の中でこのシーンが小説の初めあたりに出てくるところに、宇野にとっては忘れ難いシーンであったと推測されます。
(この後、宇野と母親は宇野が成人するまで離れ離れで過ごすことになります。)

私にはこのシーンが「いじめられる母親」のイメージとして宇野の脳裏に焼きついたのでは、と想像しています。
何に(あるいは、誰に)いじめられたのか、読者にもおおよその見当はつくかと思いますが、この「母親をいじめた」相手が何(あるいは、誰)であるかということが、宇野文学のライトモチーフとして、意識の底に居座っているように思うのですね。

では、そのような相手に戦いを挑んでいくことが宇野文学のテーマであったかというと、そのことはあからさまには明示されていませんし、創作の主題として判然と提示されているわけではありません。
むしろ「いじめられる母親あるいは女たち」、といったいわば社会的弱者の境涯に否応なく追い込まれていく人々の生き様を、リアルに観照し物語っていくというところに、宇野の創作的リビドーは向かっていたように思います。
しかしその小説的に造形された虚構世界を介して、読者たる私たちは、弱者を「いじめる」のは何者であるかを見通すことは可能であるかと思われます。







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初期「私小説」論――宇野浩二(3)「いじめられる母親」あるいは女たち

2024年06月28日 | 初期「私小説」論
宇野が学生時代(早稲田大学)に発表した最初期の小説で、実質的に処女作とされる作品があります。
『清二郎 夢見る子』というタイトルで、4歳か20歳までを過ごした大阪の中心地を舞台とした、幼少から少年期を追憶して小説仕立てにしています。
この作品の特徴は、大阪の繁華街――宗右衛門町、道頓堀、南新地、難波、堀江、千日前といったいわば大正時代当時は遊行の街でもあった地域の都市的風情を詳細に描写していることです。
「空間の語り」という観点からすれば、前回の『夢見る部屋』の空間の描写をモチーフの一つとしている点で共通するところがあります(一方は屋内、他方は屋外の違いはありますが)。

基本は追憶という意識の流れに沿っての都市空間の描写であり、その空間描写と人事の交流とを巧みに絡ませながら語り継いでいくところに、宇野の語りの妙味を堪能することができます。
たとえば、
「川を越えて、向こう側の家々の裏が見える。写真屋がある。芝居茶屋が四五軒ならんd居る。赤青の色ガラスの障子をはめたうどんやがある。芝居茶屋の座敷では、清二郎ぐらゐの男の子と妹らしい女の子が、何か食べながら面白さうに遊んで居る。その笑ひ聲が手に取るやうに聞えて来た。その隣りのうどんやでは数組の客が飲食して居る様に、まるで違うた世界の影の様に見えた。」
こんな文章が大阪の中心街の描写の至るところに散らばめられています。



この小説は前書きのような文から始まって作者のなにやら言い訳めいた文章があって、それから本題に入るのですが、出だしは母親についての追憶が主調になっています。
最初の中見出しが「人形になりゆくひと」となっていて、
「その人形はむかし、ひとであったといふ。
極めて顔の美くしい、極めて姿の美くしい、その人形は又美くしい衣裳を着て居た。」

といった文章が置かれています。
そして次のようなシーンが描かれるのです。

『なんでお前はそんなん(そんな者)やろ』
 一時間程前に、伯父はこわい顔して母様にいうた。
 夫に別れた身を思へば、少し確(しっ)かりしたひとならば、さうしてわが身が大切、子が大切、家が大切と思ふなら、女子(おなご)は女子だけのそれ相当の方針をたてねばならぬ。『それにお前は唯わが身だけの、而も女子のくせに、行き当たりばつたりにやつてゆくのやもの』
(中略)
『お前は自分ひとりのつもりか知らんけれど、子があるのを知らんのか?
『なるほど、お前一人のつもりなら、、さうしていたら申し分ないやらう。貧乏して食えへん様になる迄、お前は綺麗な着物着て、おいしいものを食べて行くつもりかいな』
『そんなら出て行きます』
 最後に母は斯ういうて、自分の涙をふきながら、小さい子の涙をふきながら、何も持たずに、而も化粧だけ美しうして、着物だけ着かへて、傘を一本さしかけて、雨の町に夜を出た。


このシーンは追憶のかなりはじめの方で出てきます。
宇野は3歳のときに父親が亡くなり、母親と兄(知的障害を持つ)と三人で生地の福岡から神戸に移住、8歳のときに大阪の宗右衛門町の母方の伯父の家で面倒を見てもらう境遇になります。
上記の一節は伯父の家で8歳の宇野が目にしたシーンを回想しているわけですが、数多ある母親の思い出の中でこのシーンが小説の初めあたりに出てくるところに、宇野にとっては忘れ難いシーンであったと推測されます。
(この後、宇野と母親は宇野が成人するまで離れ離れで過ごすことになります。)

私にはこのシーンが「いじめられる母親」のイメージとして宇野の脳裏に焼きついたのでは、と想像しています。
何に(あるいは、誰に)いじめられたのか、読者にもおおよその見当はつくかと思いますが、この「母親をいじめた」相手が何(あるいは、誰)であるかということが、宇野文学のライトモチーフとして、意識の底に居座っているように思うのですね。

では、そのような相手に戦いを挑んでいくことが宇野文学のテーマであったかというと、そのことはあからさまには明示されていませんし、創作の主題として判然と提示されているわけではありません。
むしろ「いじめられる母親あるいは女たち」、といったいわば社会的弱者の境涯に否応なく追い込まれていく人々の生き様を、リアルに観照し物語っていくというところに、宇野の創作的リビドーは向かっていたように思います。
しかしその小説的に造形された虚構世界を介して、読者たる私たちは、弱者を「いじめる」のは何者であるかを見通すことは可能であるかと思われます。










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初期「私小説」論――宇野浩二(2)何を語り、何を語らないか

2024年06月21日 | 初期「私小説」論
宇野浩二の代表作のひとつとされる『蔵の中』は初期の作品(というか、処女作ではないがこの作で文壇へのデビューを果したとされる作品です)ですが、
文体的特徴としての“語り”の技法は完成の域に達しているといっても過言ではない出来を示していて、ある種凄味のようなものさえ感じさせます。
しかし文学としての宇野の語りの可能性はそこにとどまるということがなく、『蔵の中』から3年後に発表した「夢見る部屋」は更に果敢な挑戦を試みているように私には感じられます。
一読して、何かプルーストの『失われた時を求めて』を思い起こさせるところもあって、この時期に西洋文学の世界でも注目されていた「意識の流れ」を宇野も意識していたのではないかと推測されるフシがあります。
「意識の流れ」の記念碑的作品といえばジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんかもありますが、この作が発表されたのは1920年(『失われたときを求めて』は1913年)で、宇野の『夢見る部屋』とほぼ同年です。
宇野は、日本のプルーストでありジョイスであると言ってもいいのではないかと、私は思っております。



宇野の語りの特徴は、ものの空間的秩序を時間の流れの中に溶かし込んでいきつつ、時間的秩序変換して小説的造形を達成していくところにあると私は思います。
空間的秩序を時間の流れに溶かし込んでいく手法は、空間の描写を追想の形をとって記述していくという技法に支えられています。
もしこれがそうではなく、今実際に網膜に映っている事象を語っていくやり方で空間描写をしていくと、時間の流れの中に溶かし込んでいくということができません。
追想とはそれ自体人間の心理的時空環境の中で事象を見ていくことですから、空間の秩序と人間の心理とが絡み合う記述スタイルが醸成されていきます。
そしてこの心理的時空が、その主体の視点や身体の具体的な移動とともに膨張していって、“私”が一人閉じこもって自分だけの時間を過ごすために設定された部屋(空間)もまた膨張していって外部の世界との行き来を表象するようになっていく。
そのようにして造形されていったのが、『夢見る部屋』とタイトルされた小説世界というわけです。

具体的に言いますと、『夢見る部屋』は次のように書き出されています。
「その頃、私は、しばしば、私の部屋の、私の身のまはりを見廻しては、間断なく、溜め息をついたり、舌鼓を打ったり、(中略)誠に静心なく暮らしていたのであった。」
まさにズバリ、「その頃」という言葉でこの作品が書き起こされています。
『夢見る部屋』の実験性は、自分の“語り”が、文字で極力間隙を残すことなく誌面を埋め尽くしていけるかを試みようとするかのようです。

とにかくこの小説での部屋の描写は微に入り細を穿ち(図面までつけている)、さらに部屋に設置されている家具や小道具、それに写真や幻燈機械などの飾り物・遊具に及んでいき、そしてそれらにまつわる記録やエピソードや薀蓄などへと展開し、その流れで部屋の外の世界との交渉や、そこに登場する人物たちとのやりとりなど、小説の語りはどこまでも止むことの無い勢いで続いていきます。
こういう叙述の仕方は、しかし得てして冗長、散漫、とりとめのなさといったネガティブな効果に堕していくのが一般的です。
ところが宇野の語りはそうはなっていかず、私などもついつい読み継がされていくところが、やはり宇野の語りの巧さ、あるいは地力のようなものを感じさせます。

そこにはひとつの秘密がひそんでいるような気がします。
つまり、あらゆることを語りつくそうとするかのような素振りの裏側には、実は“語らない”領域が設定されているということです。
たとえば、小説の終わりの寸前でこんなことが書かれています。
「この話の中に出てくる人物といえば、私の妻にしても、東台館の事務所の老人にしても、煙草屋の娘にしても、さては、私の恋する山の女にしても、それらの人々の風采さえ伝えないで、ただ夢のような話や感想をだけしか話さないといつて、怒りなすな。」

宇野の語りはのべつまくなしであるように見せかけて、実は“語らない領域”ということが意識されています。
そのことを考慮しながら読んでいきますと、宇野の小説空間は、膨大な“語らない領域”あるいは“語られない領域”に満ちていることがわかってきます。
何を語り何を語らないかという判断を常につきまとわせながら物語を書く、それが宇野の小説の技法的特徴であり、リアリティを生み出していく根源であると私には感じられるのです。
そのルールあるいは“節度”を規定しているのは、まさしく日本の“私”小説の特性に他なりません。









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初期「私小説」論――宇野浩二(1)宇野文学における“語り”の特徴

2024年06月13日 | 初期「私小説」論
例によって、宇野浩二における“敗残の意識”の有る無しを確認するところからはじめましょう。
と言いつつも、宇野の場合の敗残の意識について、これといった明確に指摘できるものを見出すことは出来ませんでした。
少なくとも葛西善蔵や近松秋江に見出しえたような、日本近代における家父長制度の中での敗残意識は、宇野の中では抽出することができません。
宇野は幼少時に父親を亡くして母親一人の手で育てられ、また兄弟関係においては長兄が知的なハンデーを負っていて、宇野は弟の立場ながらこの兄に対していたわりの心持ちで接していたようです。
つまり父親からの抑圧や、長兄ではないことによる家族の中での余計者の意識を持たされることもなく、いわばのびのびと育っていったことが想像されます。

この意味で宇野には“敗残の意識”は無かったか、あっても極く薄かったように思われ、むしろ逆に、社会的弱者へのシンパシーが小説作品の中でもそこはかとなく漂っているように感じられます。
たとえば、配偶者を失った母親とともに親戚筋の庇護を受ける境遇の中で、その家の家父長制度的な倫理観のもとにいじめられる母親を目の当たりに見て、その記憶をのちのちまで強く残していたり、知的ハンデーを有する兄に寄り添って面倒をみたりしている。
また、宇野を一躍流行作家にのし上げた出世作『苦の世界』に描かれている、貧窮生活のなかでヒステリー症状の女性(同居者)に苦しまされながらも、病気に苦しむ女性を憐れむ心を持ち続けるようなところに、社会的弱者の立場に同情を寄せる宇野の人柄が実感されるわけです。



貧窮を極めた生活の中で受けるさまざまな苦しみにもかかわらず、宇野の心の様態はどこかのびやかであり、ちょっととぼけたような心情をもって逆境に対していたというイメージがあります。
俗に言う「ええとこの子」の屈託のなさとでしょうか。
そのような心の余裕というか、心が傷んでも自らを癒して立ち直っていく作用は、宇野の先天的な能力ともいえる“語り”の実践の中で獲得されていったようです。
その語りの能力が小説の創作において遺憾なく発揮されたわけですが、現実にも宇野はしゃべりだすと途切れることなくしゃべり続け、しかも聞く人間を飽きさせることがなかったと伝えられています。

宇野文学の最大の特徴はその“語り”の妙というところにあります。
その語りはあることないことすべてひっくるめてのべつまくなしの印象があり、虚と実の境を消し去って(あるいは現実の中に夢を潜ませるような)混沌とした流れを作り出していきます。
あらゆる事象がその語りの中に取り込まれていくように感じられるのですが、そこは冷静に仔細を観察してみると、「あらゆる事象」という表現は宇野の語りの特徴をかえって不分明にするようにも思えてきました。

そこで宇野の語りの特徴についてつらつらと考えていったところ、以下のようなことが指摘できるのではないかという気がしてきました。
1.「空間を語る」ことに一方ならぬ関心を注いでいる。
2.空間を時間の秩序の中に溶かし込んでいく。
3.描写的であるが分析的ではない。
4.現象を語ることに徹して、構造は語らない。
5.視野は流動的(ノマド的)であって定住的でない。
6.無目的な行動を反覆的に語る(『蔵の中』はその代表的な作例)。












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初期「私小説」論――近松秋江(8 最終回)帝国大学系哲学v.s.プラグマティズム・象徴主義哲学

2024年06月07日 | 初期「私小説」論
この近松秋江の項の最後に、明治末から大正初期にかけての哲学の状況という話題を取り上げておきましょう。
当時のよく知られている出来事としては、西田幾太郎の『善の研究』の出版があります。明治44年のことです。
その前年、西田は京都帝国大学に赴任しています。京都学派始まりの第一歩ですね。

西田哲学前期の代表的な著作のタイトルがなぜ『善の研究』なのかというと、それまでの研究が主として倫理学であったということがあるのですね。
西田は東京帝国大学で西洋の哲学を学び、30歳代を通しての研究は主として心理学と倫理学でした。

その初期の草稿原稿というのが全集の第16巻に収められています。
目次に、「心理学講義」とか「倫理学草案第一」「倫理学草案第二」とかとあるのですが、仮に「倫理学草案第二」の内容を目次を通して概観するならば、たとえばこんな見出しが並んでいます。
個人的善・共同的善・家族・社会・国家・人類・道徳の矛盾・道徳の極致、というふうに。

「心理学講義」の中にはこんな文章も見られます。
「社会(客観)的意識の発達 吾人の意識に於ける観念的活動が盛んとなるに従ひ意識は最早現在的個人的ではなくて一般的となる。即ち一般的なる知識、感情、意志が発達するのである。而して此等の者が外界の符号に由りて各人の間に交通せられ、此処に各人の精神を統一し支配する超個人的の意識が組織せらるるのである。之を客観的意識又は社会的意識といふ。(中略)吾人の個人的意識に於ける知識も感情も意志も其大部分は社会より養成せられたる者であって、吾人が一生を尽して働く此の客観的意識の発達を助くるにすぎないのである。」

西田哲学の正体を見たというか、そういう気分にさせられる文章です。

(参考までに言えば、西田の東京帝国大学在学中の哲学の教授は井上哲次郎という人で、ドイツに留学し帰国した当時は、文部大臣(初代)森有礼が「諸学校令」という教育制度を制定して教育勅語の思想に沿った国家主義的な方針が打ち出された時期でした。東京帝国大学はそのような明治国家の教育体制の頂点をなす機関として位置付けされ、井上はその哲学教授に任命されていました。)



そのような帝大系の哲学(ドイツ観念論を主軸した)に対して、在野系ではイギリス経験主義を源流とするプラグマティズムの哲学が流行っていたようです。
プラグマティズムは日本語では「実用哲学」などと翻訳され、俗流に誤解されて流布していたことが指摘されていますが、それは日本の哲学(思想)にとって不孝なことでした。
あるいは、明治国家の後ろ盾を得て威勢を張っていた帝大系のドイツ観念論によって蹴散らされてきたと言えるかもしれません。
ほんとうはプラグマティックな哲学こそ日本人の思想体質に叶っていたはずなのです。
私たち近代の日本人は、明治国家の国家主義的な思想統制の戦略にまんまと図られてきたんですね。

このプラグマティズム、そしてその兄弟分とも言える象徴主義の哲学に立て籠って帝大系哲学に対抗したのが田中王堂という人で、早稲田大学で哲学を教えていました(その前は、アメリカのシカゴ大学でプラグマティズムの泰斗デューイの下で学んでいます)。
象徴主義の側面で言えば、王堂は人間の欲望や情動といったことを肯定的に評価していった人です。
『善の研究』が出版された翌年の明治45(1912)年に王堂の著作『哲人主義』が出版されています。そこから一節を紹介しておきましょう。

「…人間は有限にして、すべての欲望を無限に満足さすることが出来ないものであるから、此処には過去の経験に参照して、同時に起こる欲望と前後に続く欲望との中より、成るたけ広く、深く、永く幸福を得る為に、ある欲望を取って、ある欲望を捨てることが必要となるのである。其くして単一なる欲望は其れが動くに当って、暫くその様式即ち支配する側面と、その内容即ち支配せらるる側面との二つに分かれる。而して吾人は前者を理想と呼び、後者を嗜欲と呼ぶのである。」(「岩野泡鳴氏の人生観及び芸術観を論ず」『哲人主義』所収)

さて、近松秋江が早稲田大学の前身、東京専門学校に在籍してときに田中王堂が哲学の教授として着任し、秋江は王堂の教えを受けているのです。
そして卒業後も二人の仲は続いていたようで、秋江のエッセーでもたまさか話題に取り上げられています。
秋江は明らかに、田中王堂の思想を受け継いで自らの文学世界を展開していったと見ることができます。。


近松秋江の項は今回で一旦終了します。
次回から宇野浩二に行きます。








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