モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ③柏木――平安貴族の新たな男性像の兆し

2022年08月06日 | 日本的りべらりずむ

平安期の貴族社会に対して現代の私たちは、非常に閉塞した社会をイメージしやすいかと思います。

男性にしろ女性にしろ職業的な選択肢はほとんどなくて、
男性は国政や祭事や税務や治安にかかわる仕事に従事して、身分制社会のなかで出世していくことが人生の大方の目標であり、
女性はただひたすら家庭の主婦の役割を果たすか、身分の高い公家の寵愛を受けたり妻問いを受けたりすることで生活の安心を得ていくことに精力を傾けます。

そういう閉塞的な社会の中で男女の関係は、「男性にとって女性は性的な欲求を満たす存在」「和歌のやりとりなどを介して恋のアバンチュールを楽しむ」「結婚が成立すれば、女性は跡継ぎの生産・養育に励む」といったところで、各々の役割を演じてくわけです。

貴族社会のこのような特性が、〝色好み″を主題とする物語を構制したり、紫式部の批評意識を生み出す与件となっていると考えられます。

「若菜下」巻で語られる柏木と女三の宮の密通譚においては、柏木は具体的に二つの閉塞感に襲われ、その中で悶死します。

それに対して女三の宮は、自らの閉塞状況を、ある意味で乗り越えていくのです。



密通譚のあらましは、以下のようです。
柏木が女三の宮を自分の妻にと求める当初の動機は、自分の出世あるいは世間体として天皇の息女(皇女)であるべきという打算からでした。三の宮には二の宮という異腹の姉がいて、父親の朱雀院と柏木の両親の間で、柏木の正妻として女二の宮が推奨され、柏木は説得されてこれを受け入れました(二の宮が正妻になる)。その後女三の宮は光源氏の正妻に迎えられるのですが、柏木は源氏の邸宅六条院で女三の宮の現し身(うつしみ)の姿を垣間見て一目ぼれし、以来、恋心を秘めて十年近い歳月を送ります。彼の心はすっかり三の宮に奪われて正妻二の宮のことは蔑ろにし、顧みようともしません。他方、女三の宮は柏木の存在を認識しておらず、柏木は何度も和歌を送ったりするのですが、まったく取り合ってもらえません。しかし最終的に柏木は実力行使に出て、三の宮のお付きの女房の手引きで三の宮との密通を成就します。ただ、夜中の真っ暗な闇の中での契りだったので、三の宮は最初は相手が源氏と思い込んで受け入れたので、夜が明けてそれが見知らぬ男であることがわかり、自分のしたことに対する後悔の念とおののきに襲われます。その感情は、主として源氏に知れたときのことを思って生じてきたものです。
その後、柏木は和歌を通して自分の恋心を三の宮に伝えようと努めますが、三の宮の精神的な幼なさは男女の恋の作法もわきまえず、また源氏を恐れる気持から柏木の思いを受け入れようとしません。柏木は、三の宮を慕う気持に対してせめて一言「あはれと言って欲しい」と嘆願するのですが、三の宮はやはり心を動かしません。
二人の密通の事実を知った源氏は、世間体を慮って六条院では表面上は何事もないかのようにとりつくろって暮らしていましたが、あるとき柏木と対面して、皮肉に満ちた言辞を彼に浴びせかけます。恐れをなした柏木は帰宅してそのまま病いに伏し、心身ともに衰弱していきます。死を悟った意識の中で柏木は、正妻二の宮に対する自分のつれない態度を反省し、自分が先に死んで彼女に先行き心細い思いにさせてしまうことを可哀想に思ったりするのです。そして母親に「心に掛けてお見舞いを差し上げて欲しい」と後を託します。かくして、柏木は無念の気持を抱いたまま息を引き取ります。
(太字部分は、以下の本文中で言及される箇所です。)


柏木の前に立ち塞がった具体的な閉塞感とは、一つは、時の権力者と言ってよい源氏の怒りに触れて出世の道が絶たれたということ、
もう一つは、自らの恋を、三の宮の幼児性あるいは恋の作法を「わきまえない」融通のなさのために、成就できなかった(「あはれ」という言葉を掛けてもらえなかった)ことです。

平安期貴族社会の中での男女の恋の作法の観点からすれば、女性の心を征服するという目的が達成されなかったという意味で、
柏木は自分の前に立ち塞がった壁を乗り越えられなかったことになるわけです。

しかし私は、この柏木の今はの際の意識の中に、平安期の男性の文学的造形において新しい観点が見出されてきているのではないかという気がすうのです。

それは、正妻二の宮への態度を後悔し、二の宮に侘びたいと思う気持ちが生じていることです。


今わの際に母親に「心に掛けてお見舞いを差し上げて欲しい」と懇願したとき、二の宮とのはかない宿縁を思い返す言葉を残します。
原文では「たへぬ契り恨めしうて、思し嘆かれんが心苦しきこと」(全うすることのできなかった夫婦の契りがうらめしくて、宮がどのようにお嘆きになろうかと思うとつらい)と表現されています。

このような後悔の意識は、男性の色好みの冒険の世界の中ではほとんど無視されてきた事象ではないかと思うのです。

柏木の心の中に生じた妻へのいたわりの意識は、光源氏が紫の上や玉鬘や朧月夜、朝顔の姫君など過去にかかわった女性たちの一人一人の個性を認めていくことと並行しており、
色好みの対象としての一律的な対女性認識が破られて、一人一人の人格的世界が立ち上がってくるようです。

(柏木亡き後、「落葉の宮」などと呼び名されていた、あまり冴えないイメージの妻の二の宮が、源氏の息子で柏木の友人の夕霧との間に演じられる男女の駆け引きのエピソードを通して、生き生きと蘇ってきたりするのです。二の宮の個人としての主体性の芽生えが感じ取れるエピソードです。)


男性の意識の中でのそういった変化がもたらされたのも、女三の宮とのかかわりがきっかけになっています。

ではそのような作用を起こしていく女三の宮とは、そもそも何者なのでしょうか?

次回は、この問いに向かっていこうと思っています。

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