モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

眼は自分自身を見ることができない

2020年09月25日 | 「‶見ること″の優位」
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「眼は自分自身を見ることはできない」という文句が、インドの仏教再興の祖であり大乗仏教の始祖とされる龍樹(ナーガールジュナ)の主著『中論』に中にあります。
続けて「自分自身を見ないものがどうして他のものを見るであろうか」となり、
眼(=見るはたらき)とか「見られるもの」とか「見る主体」とかいったものは本当は存在しないのである、
と結論づけていくのが、“空”を説く『中論』の論理です。

確かに、眼は自分自身(=見るはたらき)を見ることはできないかもしれませんが、
しかし現代の私たちは、眼が自分自身を見ようとするとどうなるかということを確かめる物理的な装置を持っています。

すなわち、カメラとそれが見ている対象を映し出すモニターとの関係がそれです。
カメラをモニターに向けると、理屈の上では、モニター(網膜)に映し出されている像をカメラ(眼)自身でも見ることができるはずです。
実際にやってみると、そこに映し出されるものは、モニターの枠が外枠から画面の中心に向けて入れ子状に重層している像です。
モニターを少し傾けてカメラとモニターの関係を少しずらすと、渦巻きが発生するのですね。
眼(=見るはたらき)が自分自身を見ようとすると、そういうこと(無限の繰り返しパターン、あるいは渦巻の形)が起こるわけです。



眼(=見るはたらき)そのものを見ようとした画家(あるいは絵師)がいます。
長谷川沼田居という人で、戦前から戦後にかけて栃木県足利市に生まれ、生涯を送りました。
戦後は徐々に眼が見えなくなり、晩年には眼球の摘出手術を受けるなど、画家としては致命的な病いに犯されながら、
最期まで絵筆を手放すことなく描き続けた人です。
人生の後半期は、次第に視力を失っていくわが眼を覗き込んで絵に描くということをしきりに行っています。
まさに眼(=見るはたらき)を自分の眼で見ようとしたわけですが、
その画像はやはり渦巻的な表現になっていくのが興味深いところです。

[沼田居の作品]
   こちらもご覧ください。

自分の眼のなかを覗き込むということは、心の闇の中を覗き込むことに他ならないかもしれません。
沼田居の迫真的な表現は、そういうことに思い至らせてくれます。
しかしその結果としての作品は決して暗くありません。
むしろ、可視光線とは別ないわば“心の光”とも言うべきものが闇の中に差し込んでくる、
不思議な明るさが彼の晩年の絵にはうかがわれて、観賞サイドとしても救われるものがあります。
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半眼で見るということ

2020年09月12日 | 「‶見ること″の優位」
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仏教の経典を読んでいると、「見」とか「観」という漢字がよく出てきます。
よく知られているところでは、たとえば「見性」とか「観音」とかあります。
「見性」というのは、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。
特に禅宗系の修行の目標を言うときに、「見性成仏」と言ったりします。
自己の本性を見極めたとき、心性が仏性そのものであると悟って成仏する、のだそうです。
「観音」は「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」を略している場合が多いですが、
意味としては「音を観る」ということで、人の話を聞いて煩悩から救い出してくれる菩薩のことを言ったりします。
人の話を聞くということを、「音を観る」というふうに表現するわけですね。

私は、仏教というのは「みるはたらき」ということを重視する宗教であると思っています。
「み(見・観)る」というのを「感覚する」に置き換えると、感覚のはたらきを仏教は重視しています。
「空」や「無」という言葉は、単純に感覚を否定しているのではなく、事象の本質は空性であること、
あるいは「見ること(感覚のはたらき)」を超えて「空・無」に至る、というニュアンスがあるようです。

大仏や如来の眼は、まぶたが半分ほど下がっていて半眼の形になっています。
座禅を組むときには、眼は半眼にして、と言われます。
なぜ半眼なのか、その正確な理由は分からないそうです。
昔、私が座禅道場でお試しをさせてもらったときには、お寺の人は「眼をつむると眠くなるから、少し開けて」と言ってました。



私が経験したところでは、半眼状態を維持することは結構難しいようです。
まぶたがブルブルと震えて、視野が安定しません。
眼を瞑ったほうが気持ちが落ち着きます。
眠くなることはありません。むしろ半眼にしたほうが眠くなりやすいです、私の場合。

私は座禅を自己流で試みているにすぎませんが、最近分かってきたことは、
少し座禅に馴れてきて持続力がついてくると、半眼状態もある程度持続できるようになるということです。
半眼で視線の先(単なる板壁ですが)を固定した状態を維持することは、ある意味で視線の先の壁をしっかりと見るということにつながります。
しっかりと見る(眼球はできるだけ動かさない)ことで、意識の中に生じる雑念や妄念を消し去ったり、起こさせなかったりすることができるようです。

初心段階では、眼を瞑って自分の呼吸(身体への空気の出入り)に意識を向けていけばいいでしょう。
目前の壁を見続けようとしても退屈感に苛まれるのがオチでしょう。
ある程度馴れてきて、半眼状態が維持できるようになると、外(視線の先)の壁の一点と内側の呼吸の両方に意識を向けます。
当ブログの前回に書いた「部分と全体を同時に見る」のと似たようなニュアンスで、外の世界と内側の世界(呼吸作用)の両方を同時に見るわけです。
これを続けていくと、予測としてはおそらく外の世界と内側の世界との区別が無くなります。

つまり「内外・自他の区別が無くなる」「心の世界と物質の世界は一如である」に通じていく修行法ということです。
これが半眼の意味ではないかと、今のところ私的にはそう憶測しています。



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森と木を同時に見る——大塚勉の絵画

2020年09月01日 | 「‶見ること″の優位」
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四葉のクローバーを見つける達人とされる女子高校生が、クローバーの群生する野原で、ほんの数十分の間に四葉を50本ばかりも摘み取るのをテレビで見ました。
私などは、試みることはよくあっても、今までに見つけたことがありません。
しかし四葉のクローバーは意外とたくさん生えているものだということを、そのとき初めて知りました。

クローバーの野原を眼を凝らして見つづけていると、運良く見つけることができるのかもしれません。
さらに見つづけていると2本目が見つかり、さらに3本目、4本目と見つかっていって、
見つけ出す時間の間隔が次第に短くなってきて、しまいには、ここかしこにいくらでも生えていることが見えてくる。
そういう視覚能力のようなものを、その高校生は身につけたのだと推測されます。



そのように推測する根拠は私自身の経験にあるのですが、その経験というのは、
若い時分に知人に誘われて草原で山野草を摘んだ経験です。
最初に、これが山野草だと言われて草むらの中にその形をしたものを探し始めるのですが、
はじめのうちはなかなか見つけることができませんでした。
あきらめずにしばらく目を凝らしていますと、1本見つけることができ、
それで気を入れ直して探していると2本目が見つかり、やがて次々と見つかっていくようになっていきました。
そうなってくるとその山野草が、実はその草むらの中にいっぱい生えていることに気が付くようになりました。
その時に体験した不思議なことは、目的とする山野草が草むらの中に見えてくると同時に、その他の草花も、1本1本の形と共に見えてくるように感じられたことです。
最初はどれもみな同じように見えて区別できないように感じていたことが、さまざまな種類の草花が群生していることが見えてきたのです。

この体験から私は次のような教訓を得て、それ以来ものを見たり、アート作品を見たりするときのひとつの規準のようなものにしてきました。それはすなわち、
「部分と全体が同時に見えることが“見える”ということである」
というものです。
「木を見て森を見ず」とか「森を見て木を見ず」という格言がありますが、
実は草ではなくて、木と森を同時に見ることができることが“見える”ということである、ということです。

この話題になると、私がいつも思い浮かべる絵があります。
それは大塚勉(1949-1988)という画家が描いた絵で、いわゆる“まるで写真のような絵”ではあります。
一見スーパーリアリズムの技法で描かれた絵で、その“超絶技巧”に息を呑む人も多いかも知れません。しかし私はそういうふうには見ませんでした。
大塚さんの絵を見たのはただ一度っきりで、10年ほど前に奥多摩町の「せせらぎの里美術館」というところでたまたま見かけたのです。
私が息を呑んだのは、その超絶技法な描き方ではなく、それを支えている、部分と全体を同時に見る視力の深さのようなものです。
一本の花や草の葉をまるでそこに実物があるように精緻に描きながら、その視覚が同時に草原や山や渓谷などの風景全体に及んでいることです。
技法ではなく、「部分の中に全体を見はるかす」「全体を部分として見る」視覚の力によって、リアリズムを幻視のレベルにまで高めていくような創造力に圧倒されました。
1本の草の茎の線のゆらぎが、そのまま宇宙の気息を伝えてくるような、そのような描き方です。
それはあたかも「一つ一つの微塵の中に一切の法界を見る」ことを唱えた仏典の華厳経の宇宙観に触れるような思いでした。

美術館は多摩川の岸辺にあって山の気に包まれていましたが、
展覧会を見終えて館の外に出ると、草木の見え方が一変してとても新鮮に感じました。
絵の力が私の視覚に新たな気を吹き込んでくれたのですね。
これこそがアートの力だとつくづくと感じたものでした。
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