モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

「日本的りべらりずむ」とは。

2021年01月23日 | 日本的りべらりずむ

“日本的りべらりずむ”ということについて書いていきたいと思っています。
リベラリズムの思想は基本的には近代的な考え方なので、
日本の場合だと、明治以降のことかと受け取られるかと思いますが、
そうではなくて、明治以前、それもかなり古く古代から近世初期あたりまでの
我が国の文化史の中に垣間見られるかと思われる、
リベラリズムらしきものを抽出していってみようかという、そういう試みです。
“日本的りべらりずむ”の“りべらりずむ”をひらがな表記しているのはそのためです。

2013年に安倍晋三氏が政権の長の座について以来の政治的経験を通して、日本国には民主主義が未だ根付かずの感を深くしました。
我が国の政治の現実は、地縁血縁と利権のシステムで運営されていることに気がついたのです。
これはある意味で、日本国憲法の形を借りて表現されている民主主義の、実質的な崩壊現象を示すものとも解釈されます。
また国際社会を見渡しても、至るところで民主主義思想が否定されたり、ダメージを受けたりして、
「民主主義の限界」などと言ったことを表明する人もだんだんと増えてきています。

このような状況の中で、民主主義の在り様を改めて見直していくということは、
時代から要請されている一つの必然であるのかもしれません。
そのように考えるとすれば、民主主義を支える現状のシステムや考え方の中の、
何を反省的に検討していかなければならないかを、考えなければいけません。
その場合に、これまでの民主主義の暗黙の前提とされていることとして、
この政治思想は万国に共通して敷衍されるべきものであるという、いわゆる“普遍主義”の考え方です。
ところが、特にアジアやアフリカ、中南米などの非西洋地域の諸国における民主主義システムの導入は、
各々の国の社会風土や、伝統文化などと様々な矛盾や確執を生み出していることを、認めわけにはいかなくなってきました。
日本で起っていることも大枠同じような事態として受け止めることができます。

そこでまず考えられることは、民主主義思想における普遍主義的な考え方を反省的に検討していくことが、一つ思い当たります。
普遍主義ではないとすれば相対主義、つまり地域地域の政治風土や伝統文化や生活習慣といった諸要素を踏まえて、
各々の国情に合わせた民主主義のヴァリエーションを模索していくやり方です。
この考え方に基づいて、私はこの極東の大洋に浮ぶ列島で展開されてきた生活史、文化史の中から、
りべらりずむとして認知しうるような文化的ファクターを拾い出していく作業を始めることを考え出したのです。

リベラリズムの思想を構成する基本的なカテゴリーとしては、自由、平等、正義、寛容、人権、公共性、個人、徳といった言葉で表わされる諸概念があります。
このうち正義、寛容、人権、公共性といった概念はまさしく近代の、もしくは西洋の文化風土の中で育てられてきた概念ですから、近代以前の日本の文化史の中でそれらに対応するような概念を見いだしていくことは困難です。
(代わりに、道義、道理、義理、面目、慈悲、世間、といった言葉があります。)
しかし、自由、平等、個人、徳あたりの言葉は、日本の文化史の中にも見出すことができます。
(自由、平等、徳といった言葉は古い文献の中にも見出されます。もちろん意味内容は西洋のそれと同じと見なすことはできません。)
なので、自由や平等を表わす観念や倫理観を手がかりとして、“日本的りべらりずむ”を喚起するような事象を探っていくことになります。
なかんずく、個人と集団(あるいは社会的・文化的共同体)の関係は、日本の文化風土のなかで高度に練り上げられたものがあって、
“日本的りべらりずむ”の重要な特徴として捉えることができるのではないかと考えています。

素材としては、近松門左衛門の浄瑠璃戯曲、世阿弥の謡曲、『源氏物語』、山上憶良の詩歌、京極派(為兼など)の短歌など、
さらに美術・工芸的表現の世界にもアプローチしてみたく思ってます。
(政治家、宗教家、思想家はここでは敢えて検討の対象からはずしています。)
コメント
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