大正期に輩出した私小説作家には、これまで取り上げてきた葛西・近松・宇野とは異なった系列のものがあって、その代表的な作家の一人として、近代文学ファンなら誰でも知っている志賀直哉が挙げられます。
当ブログで志賀を取り上げない理由は、興味がないからです。
志賀の書いたものこそまさに“心境小説”と呼ぶにふさわしいもので、思わせぶりな書き方をしてますが世界が狭くて、「何かと闘っている」という印象がないんですね。
『和解』というタイトルの小説がまさにそのことを象徴しているように思われます。
この作品は主人公と父親との不和がライトモチーフになてますが、不和の原因がよくわかりません。
葛西・近松・宇野の場合は、作者自身にどれぐらいの自覚があるかは分かりませんが、バックボーンには家父長制や弱者いじめの社会システム(象徴的には国家)といったようなものがあって、その大枠のもとに人々の「苦の世界」がいかに繰り広げられているか、そしてまたいかに逃れていこうともがいているか、ということが表現者の本能明確にターゲット化されています。
しかし志賀のばあいは、「父」との確執の形で演じられる根源的モチーフを嗅ぎとる文学的臭覚とでもいえるものが感じとれません。
『和解』における主人公と父親との不和の具体的な表現は、もっぱら主人公の生理的な感覚の言葉、たとえば「不愉快」「不快」「腹立たしい」「ムッとする」といった言葉で表明されるばかりで、それ以上の展開も深まりもありません。
父権の象徴として主人公を抑圧しているのでもなく、エディプスコンプレックス的な闘争に捉われているわけでもありません。
ただ不和感を生理的・感覚的に表明する言葉が積み重ねられていって、最後の方で急展開的に「和解」してしまうのです。
読者としては、「えっ?」となって狐につままれたような気分に陥れられます。
『和解』で描かれている父親との不和は、周囲の「家族」の人々との交流の中で叙述されていきます。
主人公と父親が和解することで、家族のみんながホッと安心してめでたしめでたしでおしまい、という小説です。
この小説が目指していたのは、小説中にも何度か出てくる「調和」ということであり、結局「家族主義」的な調和に至るということが、文学的テーマとして設定されていることがわかります。
『和解』はその前に発表された『大津順吉』と後に発表された『或る男、其姉の死』とで、父親との不和をテーマにした三部作の体裁をなしています。
『或る男、其姉の死』は語り手の“私”の兄と父親との不和をめぐる話ですが、『和解』よりも深刻度が増していて、最後まで不和のままで終わります。
『和解』と較べると不和の原因・モチーフが多少はあるぶんだけ深刻です。
そのモチーフは心理的なもので、「父親は自分(兄)が早く死ぬことを望んでいるのでは?」という疑惑に兄がとりつかれているという状況が語られています。
しかしそういった深刻さも私(筆者)には観念的に思われ、思わせぶり以上のものには感じられません。
基本的には家族主義的調和が志向されているなかでのドラマチック(小説的)な虚構の設定に過ぎず、兄と父親の心理的な亀裂の深さを小説的に盛り上げようとして、兄の心の闇を神秘化していく手法がとられているだけの話です。
こういった心性は、あれこれ悩みつつも最後は「家族(国家)のために身を捧げ」て英霊として祀られるといったモノガタリに回収されていくわけです。
この意味では、この作品もまた『和解』と同一の精神世界を生きていると見なすことができます。
一時的には対立しつつも最終的には「和解」という形で調和的な世界へと到達していくことが表現者の生き様とされるようなタイプの“私小説”は、志賀直哉を筆頭に日本近代小説の一つの主流を為し、その一方で、葛西・近松・宇野の系統の私小説は傍流へと位置づけられていきます。
いわゆる“心境小説”という曖昧模糊とした小市民的で太平無事な文学表現は、かくして日本的にローカルなその意味での独自な私小説世界を形成して今日に至っているというふうに、私(筆者)は感じています。
当ブログで志賀を取り上げない理由は、興味がないからです。
志賀の書いたものこそまさに“心境小説”と呼ぶにふさわしいもので、思わせぶりな書き方をしてますが世界が狭くて、「何かと闘っている」という印象がないんですね。
『和解』というタイトルの小説がまさにそのことを象徴しているように思われます。
この作品は主人公と父親との不和がライトモチーフになてますが、不和の原因がよくわかりません。
葛西・近松・宇野の場合は、作者自身にどれぐらいの自覚があるかは分かりませんが、バックボーンには家父長制や弱者いじめの社会システム(象徴的には国家)といったようなものがあって、その大枠のもとに人々の「苦の世界」がいかに繰り広げられているか、そしてまたいかに逃れていこうともがいているか、ということが表現者の本能明確にターゲット化されています。
しかし志賀のばあいは、「父」との確執の形で演じられる根源的モチーフを嗅ぎとる文学的臭覚とでもいえるものが感じとれません。
『和解』における主人公と父親との不和の具体的な表現は、もっぱら主人公の生理的な感覚の言葉、たとえば「不愉快」「不快」「腹立たしい」「ムッとする」といった言葉で表明されるばかりで、それ以上の展開も深まりもありません。
父権の象徴として主人公を抑圧しているのでもなく、エディプスコンプレックス的な闘争に捉われているわけでもありません。
ただ不和感を生理的・感覚的に表明する言葉が積み重ねられていって、最後の方で急展開的に「和解」してしまうのです。
読者としては、「えっ?」となって狐につままれたような気分に陥れられます。
『和解』で描かれている父親との不和は、周囲の「家族」の人々との交流の中で叙述されていきます。
主人公と父親が和解することで、家族のみんながホッと安心してめでたしめでたしでおしまい、という小説です。
この小説が目指していたのは、小説中にも何度か出てくる「調和」ということであり、結局「家族主義」的な調和に至るということが、文学的テーマとして設定されていることがわかります。
『和解』はその前に発表された『大津順吉』と後に発表された『或る男、其姉の死』とで、父親との不和をテーマにした三部作の体裁をなしています。
『或る男、其姉の死』は語り手の“私”の兄と父親との不和をめぐる話ですが、『和解』よりも深刻度が増していて、最後まで不和のままで終わります。
『和解』と較べると不和の原因・モチーフが多少はあるぶんだけ深刻です。
そのモチーフは心理的なもので、「父親は自分(兄)が早く死ぬことを望んでいるのでは?」という疑惑に兄がとりつかれているという状況が語られています。
しかしそういった深刻さも私(筆者)には観念的に思われ、思わせぶり以上のものには感じられません。
基本的には家族主義的調和が志向されているなかでのドラマチック(小説的)な虚構の設定に過ぎず、兄と父親の心理的な亀裂の深さを小説的に盛り上げようとして、兄の心の闇を神秘化していく手法がとられているだけの話です。
こういった心性は、あれこれ悩みつつも最後は「家族(国家)のために身を捧げ」て英霊として祀られるといったモノガタリに回収されていくわけです。
この意味では、この作品もまた『和解』と同一の精神世界を生きていると見なすことができます。
一時的には対立しつつも最終的には「和解」という形で調和的な世界へと到達していくことが表現者の生き様とされるようなタイプの“私小説”は、志賀直哉を筆頭に日本近代小説の一つの主流を為し、その一方で、葛西・近松・宇野の系統の私小説は傍流へと位置づけられていきます。
いわゆる“心境小説”という曖昧模糊とした小市民的で太平無事な文学表現は、かくして日本的にローカルなその意味での独自な私小説世界を形成して今日に至っているというふうに、私(筆者)は感じています。