モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

「初期私小説論拾遺」(2)世界の断片としての “私” ② 世界文学の変革期の中で

2024年08月29日 | 初期「私小説」論

葛西善藏の私小説における〝私"は、主人公乃至語り手の〝私"がほとんど作者自身と変わらないほどに密着した〝私"とみなしてよいかと思いますが、それは小説というフィクションの世界を〝私"の世界として引き受けるという葛西の覚悟の表明であるかのように、私(筆者)には思われます。
「小説というフィクションの世界を〝私"の世界として引き受ける」、逆に言えばそれは「〝私"の世界を小説というフィクションの世界に重ねる」ということと同義として受け止めることが可能です。
いうなれば「〝私"の世界化」ですね。そのようなものとして小説を創作していこうとする考え方です。

晩年の葛西は精神的にも肉体的にも疲弊し、イメージ的にはほとんど崩壊しかかっていると言ってもいいぐらいの心身の状況にありました。
そしてその現実をそのまま小説創作の世界に晒していくような作品を残していきました。
世評はそれを、自分の生活状況をそのまま写しただけの、創造性もフィクション性もないただのボロッ布(きれ)のような駄作と見なして、私小説の衰退現象と否定的に評価しました。

私はしかし、これが晩年の葛西の、身を賭しての文学の方法であったと考えます。
一枚のボロッ布にすぎないとしても、そのボロッ布のままに〝私"の世界を提示する。
あるいは〝私"の世界を生きていく。
たとえボロッ布であっても、それはひとつの世界の断片として捉えて、断片化した世界を提示していく。
それが葛西善藏の、小説家としての最後の闘いであったように私には思えます。



世評に反して葛西の創作を最後まで評価していく姿勢を維持し続けた、同じ文学仲間の宇野浩二も似たようなことを言ってます。
以下は、神谷忠孝著『葛西善藏論 雪をんなの美学』(響文社刊)からの引用です。
「葛西善藏は「私小説」作家の典型の一人とされている。善藏がまだ生きていたころ、宇野浩二は「『私小説』私見」の中で、善藏の「湖畔手記」と「弱者」を私小説の「極致」であると指摘し、善藏にとっては「作すること」がすなわち「生活する」ことであるが、その「私」の生活をも含めて明らかに一つの「行き詰り」を示しており、その意味での「一種の象徴主義的作品」にまでなっていると評した。」

引用文中の「行き詰り」は善藏の生活の行き詰まりであるとともに「(小説を)作する子と」の行き詰まりでもありますが、その「行き詰り」をそのまま作品化していることを、宇野は「一種の象徴主義的作品」という言い方で評価しているわけです。
ここで使われている「象徴主義」という言葉から連想されるのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したアーサー・シモンズというイギリスの文芸批評家で、シモンズの代表的な著書『象徴主義の文学運動』が日本でも大正初期に翻訳されています。
当時の日本の若手小説家は概ねこの本を読んでいるようで、「象徴主義」はこのころの文壇に浸透していった文学・芸術の思潮でありました。
文壇では自然主義思想や方法が低迷状況を呈していて、自然主義を超えていく方向として象徴主義ということが話題になっていたと思います。
宇野の創作思想にも象徴主義の文学思潮が深く浸透していることは明らかです。

『象徴主義の文学運動』は19世紀のヨーロッパで新しく起こってきた象徴主義文学の運動に参画していると見なされる文学者たちを列伝風に記述していった本で、
その初っ端はフランスの象徴主義文学の先駆者とされるジェラール・ネルヴァルのエピソードが語られています。
その冒頭には、「文学の野心的な創作ではなく、人生そのものを一篇の小説とすること、逆に言えば、「小説を一人の人間の人生そのものとして表す」ということとも解されるわけで…、
つまり「文学=人生」ということに他ならないということですね。

象徴主義者の思念を占めていた一つの考え方として、「人生そのものを文学化する」ということがあると私は思います。
それは19世紀末期あたりに起こった、近代文学における文学観の一大転換を示していると考えることができます。
すなわち、それまでの近代文学を定義づけていた客観小説、普遍主義的な全体小説(作者乃至語り手が神の視点からシーンの全体を語る)の概念から、〝私"という主観性を語りの基点に置くという創作手法への転換です。
ある意味、19世紀末から20世紀初頭における世界文学の動きは、文学思想の根本的といってよい革命を為した時期と捉えることもできるのではないかということです。
一言でいえば、この時期に世界の文学そのものが「〝私"小説化」していったということです。

アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』はそのことを宣言することを意図した著書とも読めます。
そして葛西善藏・近松秋江・宇野浩二が大正期に生産した〝私"小説群は、世界文学の革命的事態の中での、極東地域における展開として読むことができると私は思っています。






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「初期私小説論拾遺」(1)世界の断片としての “私” ①

2024年08月22日 | 初期「私小説」論
日本近代文学史の定説によれば、葛西善藏は典型的な私小説作家で、極貧と飲酒癖と病気の三本柱をネタにして自分の身に起こった事しか書けない、さらには客観的な物語を構想する想像力に欠けるとか、小説的構成力が弱いとかいったイメージが定着しているようです。
その文学的営為の後半は、創作力も衰退しきってしまって、ただ日常の些末なできごとを書き写していくだけ、というような(私に言わせれば)ヒドイ偏見に押し込められてしまった印象があります。
しかし実際に読んでみるとこれらの評価は大いなる誤解の産物であることがわかるはずといいますか、善藏小説の芸術性はそんなものではないということを、私などはすごく感じています。

たとえば、彼の小説のなかには三人称で書かれたものもそこそこにありますし、ロシア文学やドストエフスキーを意識して挑戦を試みようとした作品もあるのです(不運なことに、同時代の批評家の、まあある意味での偏見的な評価のためにその挑戦は挫折していくのですが。それは『暗い部屋にて』という小説で、読んでみると、実はかなり実験的な試みが意図されているのが感じられる作品で、当時の常識的な批評家の理解のレベルを超えていることを思わせます。)

20世紀に入ってからの近代小説120年ほどの歴史を経てきた現代のわれわれの感覚で葛西を読み直すと、その文学がいかに先鋭的な方法意識で書かれているかを捉え直すことができるのではないかと私などは思っています。
そもそも葛西はなぜ、そして如何にして〝私"小説という創作方法を採用するに至ったのか、ということですが…。



大正8年の作に『兄と弟』というのがあります。
善藏と彼の実弟が東京で同居していた時のことを題材にした作品で、兄は小説家志望、弟は地方の零細な実業家で、二人ともに各々の職域で逆境を余儀なくされている状況下にあります。
お互いに相手の生き方に中途半端な不甲斐なさを感じているところがあって、たとえば兄は弟に対して、以下のように説教します。
「経営困難の見越しが附いてゐたのなら、何故こんな拙い終りの来ない前に自分から進んで破壊して了はなかつたのか、それらが悉く、人生に対して一定の方針信念のない為めにいつも受身にばかり立たされて居たのに原因するのか、それとも方針は立つてゐたが不徹底からつい曖昧なものになつて了つたのか…。」

弟はこれに対して、以下のように反撃します。
「どうして兄さん御自身がいろいろ生活のことなんかに煩はされずに創作なり何なりに取りかかるとか、またさういふ気持が人間誰にも必要だと云ふことを信じてゐらっしゃるなら、どうして往来へなり出てもそれを世間に伝へることにしないのか…。」

上記引用文中、兄の説教のなかの「受身」という言葉が、私は妙に強く印象付けられました。
この言葉は、善藏のそれまでの小説のなかでは一度も出て来ず、ここで突然この言葉に出くわしたような気がしたのです。
小説『兄と弟』を書きながら、作者善藏のなかで、これまでの創作態度が受身的ではなかったかというような反省があったのではないかという想念が、私のなかで直感的に生じました。

客観的な確証があってそういうのではありません。
ただ、『兄と弟』が書かれるまでの前期小説群のほとんどは主人公が三人称に設定され、『兄と弟』以降のほとんどの作品が〝私"小説化していく傾向が見られます。
その理由として、創作態度における「受身」的な、言い換えればどこか傍観者的な、作品のテーマあるいはモチーフに対する踏み込みのどこか中途半端であることを感じて、それを克服するために、主人公あるいは語り手として〝私"を引き受ける、という方針を採用したのではないだろうか。
そういうふうに私には思えてきたのです。              (つづく)






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初期「私小説」論――宇野浩二(7 最終回)宇野の語りの臨界点は日本の近代小説の臨界点

2024年08月01日 | 初期「私小説」論
前回の冒頭にドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から引用した文章の後半を再掲します。

「国家が内面化されるのと精神化されるのとは、同時でなければならない。良心の呵責の時がやってくる。それは大いなるシニシズムのときでもあろう。内面生活において抑圧され、恐れおののいて自分自身の個人性に後退した(畜群人間)のあの押し殺された残酷さ。飼い馴らされるために〈国家〉の中に閉じこめられ……。」

この文章をどう読むかはなかなか難しいところがあります。
ましてや昭和初期の日本の私小説の読解に適用などできるわけがないと考えるのは、無理もないところではあります。
それを了解しながらも、牽強付会の誹りを免れないかもしれませんが、まあ広い意味でのシャレのようなものと笑諾(筆者の造語です)していただいて、話を続けさせてもらいます。

宇野浩二において、「国家の内面化」は少年期に軍艦の絵を描くことを通してなされていたと考えられますが、「国家の精神化」はなされないままで現在(『軍港行進曲』を書いた時点)に至っています。
「国家の精神化」は、宇野の中学時代の同窓で現在は海軍士官として横須賀の軍港に勤めている数人の男たちに実現されています。
彼らにおいては「国家の内面化」と「国家の精神化」が同時に果たされていて、その一種安定した(国家意思に服従した)言動・姿が『軍港行進曲』では語られています。



しかしその言動・姿は、ドゥルーズ=ガタリの視界においては
「内面生活において抑圧され、恐れおののいて自分自身の個人性に後退した(畜群人間)のあの押し殺された残酷さ。飼い馴らされるために〈国家〉の中に閉じこめられ……」
と評されるようなそれです。
他方、宇野の場合は、「国家の内面化」と「国家の精神化」が同時になされていない(あるいは、「国家の精神化」の契機が欠如している)ために、「良心の呵責」に責めさいなまれることになります。

ただその「良心の呵責」の中身は、家族から見捨てられ、自らの心身を性産業の商品と化し、ヒステリーという病理に苦しんでいる社会的弱者としての“女”を、自分(“私”)との関わりの果てに死へと追い詰めてしまった、ということに向けられていることが小説『軍港行進曲』のミソとすべきところではないかという気がします。

小説前半最後の、“私”が吐く「俺は何をしているのだ!」という慙愧の言葉は、旧友が国家に忠実に奉仕する姿を目にしての自己叱責の表明ではなく、海軍士官たる旧友たちに対抗する表現者(芸術家)としての自分の至らなさの表明であり、その至らなさがまた“女”(君子)をいじめる(死へと追い詰めていく)原因であるとする自己呵責の念の表明であると私は思います。
そして後半の最後(小説全体の最後でもある)、8年後のやはり似たようなシチュエーションでの旧友(海軍士官)の昔に変わらぬ国家への忠勤ぶりに対して、自分は自立した表現者(小説家)として彼らに対峙していることへの、一種の達成感・満足感が表明されています。
しかしその表向きの自己満足的な語り口の内側では、“女”(社会的弱者)をいじめていった主体としての自分自身への痛切な断罪意識に苦しんでいることが、切々と伝わってくるように私には感じられるのです。

『軍港行進曲』は君子の死の報せを受け取ったことから構想されていったと想像されます。
そして前半の発表から半年の間に、後半の発表を経て、作者宇野の精神は錯乱の淵に沈み込んでいったのです。



※「宇野浩二」の項は今回で終わりにします。
 次回からは、「初期私小説論拾遺」として、三人の作家論を書いている間に思い及んだことなどを書いていきます。








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