葛西善藏の私小説における〝私"は、主人公乃至語り手の〝私"がほとんど作者自身と変わらないほどに密着した〝私"とみなしてよいかと思いますが、それは小説というフィクションの世界を〝私"の世界として引き受けるという葛西の覚悟の表明であるかのように、私(筆者)には思われます。
「小説というフィクションの世界を〝私"の世界として引き受ける」、逆に言えばそれは「〝私"の世界を小説というフィクションの世界に重ねる」ということと同義として受け止めることが可能です。
いうなれば「〝私"の世界化」ですね。そのようなものとして小説を創作していこうとする考え方です。
晩年の葛西は精神的にも肉体的にも疲弊し、イメージ的にはほとんど崩壊しかかっていると言ってもいいぐらいの心身の状況にありました。
そしてその現実をそのまま小説創作の世界に晒していくような作品を残していきました。
世評はそれを、自分の生活状況をそのまま写しただけの、創造性もフィクション性もないただのボロッ布(きれ)のような駄作と見なして、私小説の衰退現象と否定的に評価しました。
私はしかし、これが晩年の葛西の、身を賭しての文学の方法であったと考えます。
一枚のボロッ布にすぎないとしても、そのボロッ布のままに〝私"の世界を提示する。
あるいは〝私"の世界を生きていく。
たとえボロッ布であっても、それはひとつの世界の断片として捉えて、断片化した世界を提示していく。
それが葛西善藏の、小説家としての最後の闘いであったように私には思えます。
世評に反して葛西の創作を最後まで評価していく姿勢を維持し続けた、同じ文学仲間の宇野浩二も似たようなことを言ってます。
以下は、神谷忠孝著『葛西善藏論 雪をんなの美学』(響文社刊)からの引用です。
「葛西善藏は「私小説」作家の典型の一人とされている。善藏がまだ生きていたころ、宇野浩二は「『私小説』私見」の中で、善藏の「湖畔手記」と「弱者」を私小説の「極致」であると指摘し、善藏にとっては「作すること」がすなわち「生活する」ことであるが、その「私」の生活をも含めて明らかに一つの「行き詰り」を示しており、その意味での「一種の象徴主義的作品」にまでなっていると評した。」
引用文中の「行き詰り」は善藏の生活の行き詰まりであるとともに「(小説を)作する子と」の行き詰まりでもありますが、その「行き詰り」をそのまま作品化していることを、宇野は「一種の象徴主義的作品」という言い方で評価しているわけです。
ここで使われている「象徴主義」という言葉から連想されるのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したアーサー・シモンズというイギリスの文芸批評家で、シモンズの代表的な著書『象徴主義の文学運動』が日本でも大正初期に翻訳されています。
当時の日本の若手小説家は概ねこの本を読んでいるようで、「象徴主義」はこのころの文壇に浸透していった文学・芸術の思潮でありました。
文壇では自然主義思想や方法が低迷状況を呈していて、自然主義を超えていく方向として象徴主義ということが話題になっていたと思います。
宇野の創作思想にも象徴主義の文学思潮が深く浸透していることは明らかです。
『象徴主義の文学運動』は19世紀のヨーロッパで新しく起こってきた象徴主義文学の運動に参画していると見なされる文学者たちを列伝風に記述していった本で、
その初っ端はフランスの象徴主義文学の先駆者とされるジェラール・ネルヴァルのエピソードが語られています。
その冒頭には、「文学の野心的な創作ではなく、人生そのものを一篇の小説とすること、逆に言えば、「小説を一人の人間の人生そのものとして表す」ということとも解されるわけで…、
つまり「文学=人生」ということに他ならないということですね。
象徴主義者の思念を占めていた一つの考え方として、「人生そのものを文学化する」ということがあると私は思います。
それは19世紀末期あたりに起こった、近代文学における文学観の一大転換を示していると考えることができます。
すなわち、それまでの近代文学を定義づけていた客観小説、普遍主義的な全体小説(作者乃至語り手が神の視点からシーンの全体を語る)の概念から、〝私"という主観性を語りの基点に置くという創作手法への転換です。
ある意味、19世紀末から20世紀初頭における世界文学の動きは、文学思想の根本的といってよい革命を為した時期と捉えることもできるのではないかということです。
一言でいえば、この時期に世界の文学そのものが「〝私"小説化」していったということです。
アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』はそのことを宣言することを意図した著書とも読めます。
そして葛西善藏・近松秋江・宇野浩二が大正期に生産した〝私"小説群は、世界文学の革命的事態の中での、極東地域における展開として読むことができると私は思っています。