モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅦ 珠光、宗祇、雪舟—―さかいをまぎらかす④宗祇(後)

2022年02月12日 | 日本的りべらりずむ

連歌作品の冒頭(始まり)の句を発句と言い、連歌作品全体の趣向や雰囲気を方向付ける役割があります。

発句を詠むにあたっては満たすべきいくつかの条件があるので、たいていは練達者とか徳が高いと目される人が詠みます。

連歌作品とは別に、発句だけの句集が作られたりするのが宗祇あたりからのようで、
宗祇以前に発句集のようなものを遺している人が、私の知るかぎりでは見当たりません。

(宗祇より一世代前の心敬が遺している句集は、発句と付句のミックスで編まれています。)

(因みに、連歌から発展した俳諧も冒頭句は発句といいます。江戸期の俳人の句集は発句集または俳諧集です。
この発句が、明治期になると正岡子規らによって俳句という呼び方に変化していきました。)

連歌から発句が独立していくプロセスは、座の文芸としての連歌の集団創作の形から、
個人の表現メディアとしての俳諧や俳句(正岡子規以降)へと展開していく過程と見ることが
できます。

宗祇は連歌創作の指南書や句の評論にも能力を発揮した人ですが、詠み手の一人一人の個性も尊重していたと言われています。
自分が詠んだ発句について自己批評した著作(『発句判詞』)も遺していて、その作業は発句の自立化にはずみをつけていったようです。


『発句判詞』でよく出てくる言葉は、「長(たけ)高い」「長おくるる(足りない)」「心ざし」「詞やさし」「くらゐ(位)」「いやし(下品)」などです。

宗祇の活躍する時代から100年ほど前に二条良基という貴族の歌人が、最初の連歌の評論文と言われる『筑波問答』を書いていますが、発句について

「発句のよきと申すは、深き心のこもり、詞優しく、気高く新しく、当座の儀にかなひたるを、上品とは申すなり」

と書いてあって、宗祇の自己批評も原則的には『筑波問答』に即してなされているという印象があります。

つまり連歌創作に対して律儀というかオーソドキシティに対する誠実な態度が貫かれていて、そして厳しく自己批評してますので、
そういうところが「連歌の大成者」とみなされる所以かという気がします。




発句の約束ごとには以下のようなことがあります。

1、連歌の座が持たれる場所(ロケーション)の景状を詠み込むこと。
2、季節を表わす。言葉を入れる(俳句の季語のようなもの)。
3、主観や個人的感情・主張を交えない。
など。

これらの条件を満たすことが要請されていますので、発句のイメージは純客観的な叙景のように感じられるのですが、
宗祇の発句は、そうでありつつ何かとても味わい深いものがあります。


例を挙げるとすれば、『筑紫道記』という紀行文の中に散らばめられている発句二〇句が私としてはお奨めです。

そのいくつかをピックアップして紹介します(現代語訳するのは野暮に思いますので、原句のままを味わってください)。
(『筑紫道記』そのものが、自然と人事のさかいをまぎらかせた名文と言えるものです。)

松風やけふも神世の秋の声

ひろくみよ民の草場の秋のはな

もみじしてなをみどりそふ深山かな

菊はただむめにしたしき匂いかな

松の葉におなじ世をふる時雨かな

木枯らしを菊にわするる山路かな

これらの句は一見客観描写のように見えるかと思いますが、それを観察している”眼”があり、その”眼”は時の移ろいの中(つまり旅の中)にあることが感じられます。

宗祇の生涯を彩る数々の旅は、宗祇にとって「自然と人事のさかいがまぎらわされた」時空体験の集積であったように思います。
(宗祇までくると「まぎらかせた」というより「融け合った」といったほうがいいかもしれませんが。)

その時空体験の集積、そしてその結晶化から発句が立ち上がってきていると解釈できるならば、
それは「座から個」が立ち上がってくるイメージと重なりながら、近世の詩的表現の世界へと接続していく展開を思い描くことができる、というところに至るわけです。



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