西洋中世のキリスト教神学あるいは思想における“観照”は、
もっぱら個人の内面世界で神に向き合ったり出会ったりするというような性格のもので、
いわゆる外的・客観的な対象世界に対しては心の門戸を閉ざしているような印象があります。
そんな中、ルネッサンス期に入ったドイツなどの北方キリスト教世界では、新たな流れが生じてきます。
いわゆる「ドイツ神秘主義」という呼称で分類されていますが、特徴としては、神秘体験と“観照”の重視ということが挙げられます。
どちらも「神を見る」とか「神に出会う」というような、神の存在を具体的に体験することが、教えの本旨をなしているようです。
そう聞くとなんだか非合理的・超常的な現象を志向しているように受け取られるかもしれませんが、
これが意外と、やがて迎えることになる近世という時代を予感させるような内容を含んでいるのですね。
ここに取り上げるニコラス・クザーヌスなどはその代表的なキリスト教者と言えるかと思います。
神秘主義というラベルを貼られながら、近世への暁光を感じさせるのはどういう点でかと言いますと、
神を見たり出会ったりする場合の“見る”とか“感じる”というはたらき、
すなわち人間の五感の現実的なはたらきに関心を向けていこうとする姿勢が見て取れる点です。
“見る”とか“感じる”ということを観念的・精神論的にではなく、
たとえば“見る”であれば、視覚のはたらきを具体的に観察していこうとするような動きが、クザーヌスの著書には認められます。
その場合に、視覚のはたらきは光との関係で現実的・物質的なレベルで捉えられ、
それが神の認知という非物質的・形而上的世界の現象として意味付けられていく、
そのあたりの論理の展開の仕方にクザーヌスの独創性が認められて、とても興味深く読めます。
以下、著書からの引用文で、その大略を紹介しておきましょう。
「「『神』Deusはtheoroすなわち、『わたくしは見る」(という動詞)から来ていると言われています。なぜなら、神自体はいわば色の領域における視覚visusとして、われわれの領域のうちに存するからです。というのは、色は、視覚による以外の仕方ででは到達されませんし、また、(視覚が)あらゆる色に自由に到達するために、視覚の中枢は色を持たないで存しているからです。色の領域において視覚が見出されないのは、視覚が色をもたないで存しているからに他ならないのです。したがって、色の領域に基づけば、視覚は、『或るもの』であるよりも、むしろ、『無(非存在)』であるのです。」(『隠れたる神についての対話』より)
「「観ること」は、探し求めるものが通って進まなければならぬ「道」との類似をもっている。したがって、われわれは、感覚的に見ることの本性を知性的に見る眼の前にひろげて、それから上昇の階段をつくり出す必要があるのである。」(『神の探求について』より)
「われわれの「見ること」は、大脳の頂点から眼という器官へと下降する或る明るく澄み渡った気息と、みずからの似姿の形象へと多重化する色の或る対象とから、外部の光の協働の下に生み出される。それゆえ、可視的なものどもの領域においては、色しか見出されない。」(同上)
「可視的なものは、自分自身をはいりこませるちからをもつ光のなかにあるときにこそ、目へとはいりこみうるのである。(中略)したがって、色がみずからの根源において、すなわち、光において可視的になることは明らかである。なぜなら、外的な光と視覚の気息とが明澄性において交わるからである。この交わりによって、可視的なものを照らすあの光は、対等な相手である光へとはいりこみ、色彩形象を対象化して視覚へともたらすのである。」(同上)
「われわれの認識はすべてかれ(われわれの神)の光において存するのであって、ために、認識するのはわれわれではなくて、むしろ、われわれのうちに存するかれ(われわれの神)なのである、ということになる。(中略)それゆえ、「存在すること」がかれに依存しているように、「認識されること」もまたかれに依存しているのである。」(同上)
「精神の見るものは価値的なものであり、これは可感的なものに先立つ。したがって精神は自己自身を見る。そして多くの事柄が自らにとって不可能であることから、精神は自らの可能がすべての可能の可能ではないということを見、ここから自らが可能自体ではなく、可能自体の似像であることを見る。こうして〔精神は〕自らが可能自体の現れの様相であることを見る。そしてこれと同じことを存在するすべてのものにおいて同様に見る。したがって、精神の見るすべてのものは不可滅的な可能自体のもろもろの現れの様相である。
」(『テオリアの最高段階に関する覚書』より)