モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

ニコラス・クザーヌスーー「神を見る」視覚のメカニズム

2020年04月27日 | 「‶見ること″の優位」

西洋中世のキリスト教神学あるいは思想における“観照”は、
もっぱら個人の内面世界で神に向き合ったり出会ったりするというような性格のもので、
いわゆる外的・客観的な対象世界に対しては心の門戸を閉ざしているような印象があります。
そんな中、ルネッサンス期に入ったドイツなどの北方キリスト教世界では、新たな流れが生じてきます。
いわゆる「ドイツ神秘主義」という呼称で分類されていますが、特徴としては、神秘体験と“観照”の重視ということが挙げられます。
どちらも「神を見る」とか「神に出会う」というような、神の存在を具体的に体験することが、教えの本旨をなしているようです。
そう聞くとなんだか非合理的・超常的な現象を志向しているように受け取られるかもしれませんが、
これが意外と、やがて迎えることになる近世という時代を予感させるような内容を含んでいるのですね。
ここに取り上げるニコラス・クザーヌスなどはその代表的なキリスト教者と言えるかと思います。

神秘主義というラベルを貼られながら、近世への暁光を感じさせるのはどういう点でかと言いますと、
神を見たり出会ったりする場合の“見る”とか“感じる”というはたらき、
すなわち人間の五感の現実的なはたらきに関心を向けていこうとする姿勢が見て取れる点です。
“見る”とか“感じる”ということを観念的・精神論的にではなく、
たとえば“見る”であれば、視覚のはたらきを具体的に観察していこうとするような動きが、クザーヌスの著書には認められます。
その場合に、視覚のはたらきは光との関係で現実的・物質的なレベルで捉えられ、
それが神の認知という非物質的・形而上的世界の現象として意味付けられていく、
そのあたりの論理の展開の仕方にクザーヌスの独創性が認められて、とても興味深く読めます。
以下、著書からの引用文で、その大略を紹介しておきましょう。



「「『神』Deusはtheoroすなわち、『わたくしは見る」(という動詞)から来ていると言われています。なぜなら、神自体はいわば色の領域における視覚visusとして、われわれの領域のうちに存するからです。というのは、色は、視覚による以外の仕方ででは到達されませんし、また、(視覚が)あらゆる色に自由に到達するために、視覚の中枢は色を持たないで存しているからです。色の領域において視覚が見出されないのは、視覚が色をもたないで存しているからに他ならないのです。したがって、色の領域に基づけば、視覚は、『或るもの』であるよりも、むしろ、『無(非存在)』であるのです。」(『隠れたる神についての対話』より)

「「観ること」は、探し求めるものが通って進まなければならぬ「道」との類似をもっている。したがって、われわれは、感覚的に見ることの本性を知性的に見る眼の前にひろげて、それから上昇の階段をつくり出す必要があるのである。」(『神の探求について』より)

「われわれの「見ること」は、大脳の頂点から眼という器官へと下降する或る明るく澄み渡った気息と、みずからの似姿の形象へと多重化する色の或る対象とから、外部の光の協働の下に生み出される。それゆえ、可視的なものどもの領域においては、色しか見出されない。」(同上)

「可視的なものは、自分自身をはいりこませるちからをもつ光のなかにあるときにこそ、目へとはいりこみうるのである。(中略)したがって、色がみずからの根源において、すなわち、光において可視的になることは明らかである。なぜなら、外的な光と視覚の気息とが明澄性において交わるからである。この交わりによって、可視的なものを照らすあの光は、対等な相手である光へとはいりこみ、色彩形象を対象化して視覚へともたらすのである。」(同上)

「われわれの認識はすべてかれ(われわれの神)の光において存するのであって、ために、認識するのはわれわれではなくて、むしろ、われわれのうちに存するかれ(われわれの神)なのである、ということになる。(中略)それゆえ、「存在すること」がかれに依存しているように、「認識されること」もまたかれに依存しているのである。」(同上)

「精神の見るものは価値的なものであり、これは可感的なものに先立つ。したがって精神は自己自身を見る。そして多くの事柄が自らにとって不可能であることから、精神は自らの可能がすべての可能の可能ではないということを見、ここから自らが可能自体ではなく、可能自体の似像であることを見る。こうして〔精神は〕自らが可能自体の現れの様相であることを見る。そしてこれと同じことを存在するすべてのものにおいて同様に見る。したがって、精神の見るすべてのものは不可滅的な可能自体のもろもろの現れの様相である。
」(『テオリアの最高段階に関する覚書』より)
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アウグスティヌス――中世キリスト教教会における“観想”の始まり

2020年04月16日 | 「‶見ること″の優位」

アウグスティヌスは西洋中世のラテン語圏キリスト教世界に多大な思想的影響を及ぼしたとも評される教父です。
『告白』という著書がよく知られていますが、それによりますと、若年時は欲望の赴くままの荒れた生活を送っていたそうです。
しかし20代はキリスト教の一派であったマニ教の信者でもありましたが、
30歳の手前あたりで回心して、東方キリスト教の信者としての活動と布教活動に従事していきました。

中世のキリスト教世界では教会や修道院が信仰生活の主要な場であり、
教会での告解とか修道院での“観想”を軸とした生活など、その出所はアウグスティヌスかと思われます。
“観想”という言葉は原語では“観照”と同じ「テオリア」ですが、
中世キリスト教の日本語文献では“観想”と訳されることが多いようです。
アウグスティヌスの思想は前回紹介したプロティノスの哲学(新プラトン主義と称される)を引き継ぐものとされています。
しかし、プロティヌスにおいては思想の支柱をなしていた“観照”と、『告白』や中世キリスト教の文献中に散見される“観想”とは、
単に翻訳の表記上の違いにとどまらず、もっと本質的な違いが私には感じられます。

“観想”というのは、私の理解では、一言で言うならば、個人の内面において「神を観る」ということのようですが、
それにも大きく二つの観方(観え方)があって、一つは「神の姿を心の中で幻視する」というような在り方、
もう一つは「個人の心の中に、神の方から姿を現す」というような在り方です。
しかしいずれにしても、飽くまでも個人の内面での出来事として体験されるという点で共通しています。
アウグスティヌス研究の第一人者であった山田晶教授(故人)の言葉を借りれば、
「心の内に神を見るというのは、心が神だということではない。心のうちに深く入ってゆくと、心の最奥に、心を超えたところにおいて神に出会うのである。」
ということです。
これは個人の内面(主観的世界)を重視する、いわば一元的な世界観に立った考え方と言えるでしょう。



プロティノスの“観照”は、自然の観照→魂の観照→知性の観照とその階位を上げて行きつつ、
その過程で主体と客体に分化するプロセスを踏んでいきます。
そういうダイナミズムあるいはディアレクティシズム(弁証法)があって、その上で、最終的に“一者”というところに主客が統一されていくわけです。
マニ教を信仰していた20代のアウグスティヌスは、マニ教が標榜する二元論(物質と精神、善と悪、明と暗など)に対して
次第に疑問を感じ、迷いの淵におちいっていくのですが、それを救ったのがプロティノスの哲学とされています。
アウグスティヌスがプロティウスの哲学から受容したものは、世界の二元的な対立の相が“一者”へと統一されるという捉え方
でした。
ここからアウグスティヌスにおける“観想”の在り方が、対象(客観)的世界を捨象して、
「神との出会いは個人の内面においてなされる」とか「存在するものはすべて善である」といった一元論的な性質を帯びてくることになったのではないかと思います。

中世キリスト教の精神世界における“観想”という在り方は、それゆえにひたすら個人の内面へと向かっていくわけです。
これにより、対象的世界としての客観的世界との確執や葛藤が捨象されていくことになります。
(たとえば、神が創りたもうたこの世界がどう見えるか、といった問いを立てるような発想はほとんどまったくと言っていいほどありません。)
中世キリスト教神学関連の文献は、ほとんどが個人の内面を舞台としての神との向き合い方、
その観点から神や人間の意味を問うていこうとしているようです。
この意味では、“観照”の問題をめぐっては、中世キリスト教世界はほとんどグレー一色の世界のように印象づけられてしまうのです。

以上、アウグスティヌスの“見ること”(すなわち“観想”)について、簡潔に要約しているような文章が
『告白』の一番最後に語られていますので、紹介しておきましょう。
「それゆえ、私たちがあなたのお造りになったものを見るのは、まさしくそれらのものがそのように存在するからですが、それらのものが存在するのは、じつはあなたがそれらのものを見たもうからなのです。また私達は、自分の外部においてそれらのものが「存在する」ことを見、心の内部においてそれらが「善い」ことを見ますが、これにたいしあなたは、「造られるべきだ」とみたもうたまさにその場において、それがすでに「造られてしまっている」のを見たもうのです。」


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プロティノスーー自然、観照、一者

2020年04月07日 | 「‶見ること″の優位」

西洋の古代の哲学者で、プラトン、アリストテレスに並ぶ存在となると、私などはプロティノスという人を思い浮かべます。
3世紀のイタリア半島(ローマ帝国時代)で活動した人で、プラトンの影響を受けた哲学を構築して“新プラトン主義”と呼びならわされ、やがて迎えることになる中世キリスト教の神学や哲学に影響を及ぼしていったとされています。
“新プラトン主義”という名指され方から推測されるように、
プラトニックなイデア(観念)論を、主体・客体の二元論的な観点からの認識と、
それらが一体化して根源的にして普遍的な存在者たる“一者”の認識に至る階梯の中に捉え、
主体・客体の他、質料と形相、感性と知性、善と悪などの二元論を克服していくヴィジョンを提示した哲学とされています。
また二元論の克服過程を通して真・善・美を一体的なものとして描出していくことを、哲学的営為の最終目標に設定していました。



私にとってプロティノスの興味深いところは、まさに“観照”という行為を哲学的思惟の中軸をなす活動として評価している点です。
しかも観照の主体を単に人間だけにではなく、自然界の動植物も観照しているというふうに考えているところが面白い。
『自然、観照、一者について』という論文はプロティノスの代表的な著作の一つとされていますが、
その中から二、三文章を引用して、そのユニークな考え方を紹介したいと思います。

「この世のなかのものは、理性的な生きものばかりでなく、理性をもたない生きものも植物の生命も、またこれらをはぐくむ大地も、すべてが〈観照(テオリア)〉を求め、これを目指している。」

「自然は、観照作用であり観照の対象であり、ロゴスであるということ、まさにそのことゆえに、製作(ポイエーシス)するのである。したがって自然による製作は、われわれに観照作用として示されるのである。」

「認識の主体は、対象を明確に認知すればするほど、これとの一体化の傾向を強めていくのである。つまり、(一方は認知するもので、他方は認知されるものだというように)認識の主体と客体が二つに分かれている時には、この二つはそれぞれ別のものといえよう。したがって、そこに、いわば並立の関係が成立し、まだ、この〈一対のもの〉は近い関係にあるとはいえないのであって、このようなばあい、魂の中にあるロゴスは、まだ何も活動していないと見てよいだろう。」

「観照が自然から魂へ、そして魂から知性へと上位の段階に移行するにつれて、観照と観照をおこなうものとの関係もますます緊密化し結びつきを強めていく。そして、賢者の魂の段階で、認識の客体は主体と同一化の方向をたどり――というのも、その認識客体は知性の方を志向しているからだが――知性の段階にいたると、いまや明らかに認識の主体と客体は一体となるのである。ただし、この一体化とは、賢者のすぐれた魂のばあいのように、両者が緊密な関係にあるという意味で言われているのではない。本質において、すなわち、「在ることと直知することは同じである」という意味で言われているのである。というのも、そこには、もはや異なった二つのものがあるわけではないからである。もし、そうでなければ、そのうえさらに、異他の分別をつけることのできない或るものがなければならないことになるだろう。」

後半二つの引用文は、認識(観照)作用における主体と客体への二元論的な分化と、
それらが“知性”の段階で同一化していく、というヴィジョンを描写しているのですが、
この図式はプロティヌス以降のいわゆる“西洋的思惟”の特性を端的に表していると思います。
主観・客観の二元論をデカルトから始まる近世・近代の西洋的な思惟の特徴として論じられているのをたまさかに見かけますが、
その発祥は3世紀のプロティノスあたりまで遡っていけるわけです。
そのように捉えると、いわゆる“西洋的思惟”とされてきたものの古代から現代に至るまで一貫して貫かれてきたシステムを、
“観照”という観点から記述していくことが可能ではないかという気がしてきたりするのです。
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