モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

洲之内徹と日本のアート・ビジネスエリアの「見る力」

2019年03月28日 | 「‶見ること″の優位」

ここまでは、主として哲学者、詩人、美術批評家など、制作行為に自ら自身は直接かかわっていない立場の人の「見ることの優位」を見てきましたが、
今回は、やはり創作者ではないですが、美術品の売買という商行為に携わる立場での「見ることの優位」を見ておくことにします。

日本で言えば、東京都心の日本橋から京橋を通って銀座あたりまでの界隈は、昭和前期ごろから今日にかけて美術品マーケットの中枢を成してきたエリアで、
今日でも古美術商、近・現代美術品を扱う画商、画廊、業界ジャーナリズム関係者がひしめいています。
画廊、画商さんで老舗とされてきた階層に属する人々は、いわゆる“目利き”と評される人々が多く、
私も1970年代から90年代にかけて、一家言をもつ個性的な“目利き”の言葉に毎日のように触れて、刺激的な日々を送っていました。
(今は、この意味での個性的な人はずいぶん少なくなりましたが。)

この人たちの言葉は商行為の中で発せられるので、批評家や研究者が発する言葉のピュアさが乏しく、生臭さが先立って地味に響きます。
しかしよく聞いていると、単語を数語並べたような短い言葉の中にアートの核心を衝いているものが多く、
そして批評家や研究者からは決して聞かれないような表現を耳にすることも多いのです。
そういう人たちの眼力は、ヨーロッパやアメリカの同業の人たちとはまた異なった、
日本独自の美術文化を形成しているのではないかと、私は密かに思っています。



そういう人々の中から、ここでは20世紀の後半に活動して独自の存在感を放っていた洲之内徹という人のケースを紹介しておきましょう。
洲之内さんは1960年代の初頭から亡くなる1987年の間、銀座に画廊を経営して、無名のアーチストを次々と掘り出し、育てていったギャラリストとして知られる人です。
無名のアーチストを掘り出したり育てていったりするのは、まさしく“見る”ことの創造的なはたらきにほかなりません。
若年には小説家を志して芥川賞候補にも挙げられたぐらいの人なので、
その作文力を生かして『芸術新潮』に連載されたコラム「気まぐれ美術館」は、多くの読者を魅了し、何冊かの単行本にまとめられて出版もされています。
遺された文章の中から、洲之内さんの「見る力」の在り様を伝える文を2,3ピックアップしておきましょう。

「…今私が考えているのは、戦争が絵になるためには、絵としてのリアリティを持つためには、作者を内から支える戦争のイメージがなくてはならぬということ、まずそのイメージをしっかりと掴み、それを見失わないために、ひそかに苦闘を続けている若い井上(肇)さんの、画家としての誠実さということである。」
  (コメント)絵を見るということは、この場合で言えば、絵の中に「作者を内から支える戦争のイメージ」を見抜くことにほかなりません。それがなければ、絵を描くことの意味もなければ、絵を見る意味もないのです。

「絵をかいていて困るのは、そして、見るほうでも困る絵は、絵が早くできすぎてしまうのである。ほんとうはまだ描けてはいないのに、画面の上だけで絵ができてしまい、もうそれ以上描けなくなってしまう。何にも描けていないのにちゃんと出来上がっている絵ぐらいいやらしいものはない。」
  (コメント)「何にも描けていないのにちゃんと出来上がっている絵」ということは、絵に限らず、彫刻や工芸や、それから文学でも音楽でも、どんな表現分野においてもあることです。そして世の中はこの類のものに満ち溢れている。ちゃんと絵(表現、あるいは、もの)になってるかどうか、それを判断するのが鑑賞力というものです。

「その三十点あまりの作品を繰り返し眺めながら、こういう美しいイメージになって結晶している風土を、自分も行って、自分の眼で見たいとしきりに思った。」
  (コメント)そう思い始めると必ずその「風土」を確かめに洲之内さんは旅をしています。絵(表現、あるいは、もの)の美しさを支えるリアリティを自分の目で確認する、ということを怠らなかった人です。その旅や人間観察のエピソードが、洲之内さんの文章の素材を提供しています。そしてそれが彼の「見る力」を鍛えてもいるのですね。
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李禹煥の「見る力」

2019年03月18日 | 「‶見ること″の優位」

「“見る”ことの創造性」は、「“作る”ことの創造性」に対峙することとして考えられるわけではなくて、
むしろ、“見る”ことなしに“作る”ことはありえない、というか、
“見る”ことが“作る”ことの土台をなしているということを言おうとしています。
“見る”という土台なしに“作る”ことの優位に浸ろうとしている人の創るものは、
経験的に言って、浅薄ですぐに見飽きてしまうものが多いように思います。
逆に言えば、そのように感じられる作品に対すると、この作者はものを見てないな、と思ってしまうということです。

その意味では、優れた作品を作る人は“見る”ことにおいても一級の洞察力を持っている人が多いということが言えます。
今回は、創作者としての活動を「見る力」という観点から捉えてみることを試みてみます。
サンプルとして、日本における戦後のアヴァンギャルド美術界でひとつのムーブメントを起こした「モノ派」という一群のアーチストの中から、
その運動の先頭に立って牽引していったと目されている李禹煥(リー・ウーハン)の場合を取り上げることにします。

「モノ派」というのは、1960年代後半あたりから登場してきた一群の若手アーチストたちの創作活動をひっくるめて称したムーブメントです。
その名称から想像されるように、「モノ」をそのまま提示するような表現方法を特徴としていました。
グローバルな視野の中に置くと、世界の現代美術界で当時ミニマル・アートと称された潮流の日本版という見方もできます。
ミニマル・アートは一般的に、「造形の材料として採り上げられたモノを極力手を加えることなく、色や形も最小限にまで切り詰めて、“ひとつの物体”として提示するような表現方法」というふうに説明されます。
モノ派はしかしミニマル・アートの単なる亜流ではなくて、日本というローカルな場においての必然性を伴った造形表現として、オリジナルな特徴を有した活動であったと評価してよいでしょう。



その独自性というのは、ミニマル・アートのイディオム(idiom)やマナー(manner)を日本の美術表現の風土の中にどう取り込みえているか、というところで判断できます。
そこのところで李禹煥のものの見方というものが重要な役割を果たしています。
このことを李独自の「見る力」の特性の観点から見ておきましょう。

李の「見る力」の特性は、次のような彼自身の文章に端的に表明されています。
「…高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、白いカンヴァスの空間がバイブレーションを起こす時、人はそこにリアリティのある絵画性を見るのだ。そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも関係を保ち、絵画性の余韻は周りの空間に広がる。
 この傾向は、彫刻において、いっそう鮮明である。たとえば、自然石やニュートラルな鉄板を組み合わせて空間に強いアクセントを与えると、作品自体というより、あたりまで空気が密度を持ち、そこの場所が開かれた世界として鮮やかに見えてくる。」(「余白の芸術」より)
このような空間受容感覚の表明に東アジア的な造形表現の伝統を感じ取ることは極く自然なことです。

しかし李の「見る力」の創造性はこの先にあるわけで、そうでなければ同時代のアーチストたちを巻き込んでいったラジカル性が説明できません。
それは、以下のような文に書き表されています。
「…見ることの神話と表現のトリッキーな仕組みを知る。その具体例が高松次郎や関根信夫らの作品である。そういうものから影響され、メビウスの輪を平面化したような試みを1年ほど続けた。それをやっているうちに、視覚のズレの現象に気づく。ゴムのメジャーをつくって、それを引張り重い石で圧さえておくと、距離にズレ感が生じるというような、こうして美学的見地よりも、認識論的構造性を重視する態度を強めた。
 トリックからズレへの過程で、作品の反復性や関係性を見出し、さらに表現の非対象的世界としての場の問題に進んだ。石と綿の組み合わせから、石とクッションとライトと空間との対応関係にいたり、その一方「点より」「線より」の差異と反復の絵画を試みながら、次第に無限としての場所的な展開を探っていった。」(「起源、またはモノ派のこと」より)

李は自らの創作を「あるがままをアルガママにズラす」という言い方で象徴的に表現しますが、
一見シンプルなこの言表の中に、「制度化した視覚をズラす」というような批評性が秘められていて、
それが1970年代以降の現代美術の一ステージを切り開いていったのでした。
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岡倉天心と柳宗悦の「見る力」

2019年03月08日 | 「‶見ること″の優位」

目を日本に転じましょう。
とりあえず明治期以降の日本の美術シーンで、「見る力」が新しい造形表現の創造に寄与した出来事としては、
日本画、岡倉天心が創設した日本美術院の活動と、昭和初期に柳宗悦が提唱し実践化していった民藝運動が見過ごせません。

岡倉天心は英語で書いた『茶の本』の著者としてよく知られています。
ほかに『東洋の理想』『日本の目覚め』といった著書があります。
1890(明治23)年から1898(明治31)年の間、東京美術学校(現・東京藝術大学)の初代校長を務め、辞めた年に日本美術院を発足しています。
日本美術院の中軸をなしたのは横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の東京美術学校を卒業した新進画家たちです。

彼らは天心の指導のものとで、日本画の革新に挑んでいきます。
新しい表現方法としては、「朦朧体」と呼ばれたものがよく知られています。
ものの形を表す輪郭線を消す、あるいは極力少なくして、朦朧とした雰囲気で空間を表現する方法です。
言うならば、日本画の最大の特徴というべき線描を否定した描法なので、
当時の画壇では顰蹙を買ったり悪評をこうむったりしていました。

天心のヴィジョンにおいては、日本画表現を近代化するために洋画的な表現
(西洋のリアリズムでは、自然界には線は存在しないとされる)を取り入れていこうとしたわけです。
しかしそれだけではない。
空間の朦朧とした表現は、実は東アジア絵画の古典(たとえば中国の南宋時代の水墨画が代表的)にもその名作が多数認められるように、
伝統が踏まえられているわけです。
天心が志したのは東洋と西洋を融合させた造形表現であり、そこに日本画の未来を見据えていたのでした。
それが天心の「見る力」の内実でした。



柳宗悦が民藝を発見するのは20世紀初頭、日本軍部に統治されていた朝鮮半島で李朝時代の陶磁器や漆器、家具などの工芸品に出会うことによってです。
それは、柳の中ではそれまでの西洋近代のロマン主義や個人主義的な芸術観からの一大転換でありました。
しかし単に柳とその周辺の関係者、あるいは日本という国の中だけのローカルな現象に留まるものではなく、
グローバルな視野においても、造形表現分野のまったく新しい――西洋近代の芸術観一辺倒を否定する――発見であったわけです。
民藝的作物の特徴を柳は、「無欲、無名、雑器」などといった言葉で表しますが、
そこには実は、人間が成しうる造形表現の普遍的な美しさというものが見透されていたのだと私は思います。
それが柳の「見る力」であり、「見ることの優位」を裏付けるものと言えるでしょう。

柳宗悦をリーダーとして民藝運動を推進していったのは、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ、芹澤銈介といった人たちが中心でした。
後には人間国宝に指定されるほどの業績を残したこれらの人たちを引っ張っていった力はどういうものだったでしょうか。
ただ単に「個人的な欲望に汚されず、いいものを作っていきましょう」だけでは人はついていかなかったと思います。

柳は河井寛次郎に向けてこんなことを書いています。
「真に美しい作物の殆ど凡ては作者が知れない。(無名の工人たちは)何かに頼る他力の道を歩んでいたに違ひない。安泰な易行の道を選んだからこそ、あんなにも無造作に美しい品々が出来たのである。ここで吾々は問題にぶつかる。自力の吾々と他力の品物とが向ひ合ふ。何か是を結ぶ道はないものか。此のことをもっと君と話し合ひたいのだ。」

民藝的精神の造形を実現する条件を「自力の吾々と他力の品物とが向ひ合ふ。何か是を結ぶ道」に求めていく、
ものを創る人々にこのことを呼びかけていったことが、彼らに使命感を自覚させることになったようです。
この使命感をものづくりの指標として設定することで、民藝運動を実現することができました。
柳の「見る力」はそういうところまでフォローしているわけです。





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