モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

M・ポンティの『眼と精神』に始まる

2019年07月23日 | 「‶見ること″の優位」

「見ることの優位」は見ることの創造性をいうことに基づいていますが、
これからは“創造性”」ということに特に重点を置いて「見ること」のはたらきの内実を探っていきたいと思います。

私の場合は、その出発点となるのは学生時代に読んだ、フランスの哲学者メルロ・ポンティが晩年に著わした『眼と精神』という論文です。
この論文は絵画における“奥行き”表現を扱っており、それはたとえば次のようにアプローチされていく「見ること」の現象です。

「…もうひとつの次元(奥行き)を私に見せてくれるこの二次元の存在者、これは通路として切り開かれた存在者であり、ルネサンス時代の人びとが言ったように、窓である……。しかしこの窓は、結局のところ部分相互の並列、つまり高さと幅――それがただ違った角度から見られるだけのことだ――、存在(etre)の絶対的肯定性に開かれているにすぎないのだ。」

絵画的表現の大きな特徴として、遠近法とか明暗法と呼ばれる技法を使って空間の奥行き(3次元性)を表現することがあります。
言い換えると、平面(2次元空間)上に3次元空間を現出させるわけですが、これは絵画表現のもっとも大きな特徴とも言え、
作品評価の基準としても、奥行き(3次元空間)を感じさせるかどうかということが設定されます。

しかしそもそもなぜ2次元空間(平面)上に3次元空間を表すことができるのか、
人間の眼は平面状に空間の奥行きをなぜ見て取ることができるのか、
というか、それ以前に人間の眼は空間の奥行き自体を認識することがなぜできるのか、ということを問題にしてみると、
ふだん3次元空間の中を移動しているわれわれ人間としては、この世界に存在するためのあえて問うまでもない自明の前提であるだけに、改まって問われると答えようがない難しい問であることに気づかされます。
このような問いかけを擁した『眼と精神』を学生時代に読んだことは、私にとってそれ以降の自身の生き方やものの考え方を決定付けるような出来事となりました。



この論文においてはM・ポンティは、“奥行き”へのアプローチをとりあえず次のような文章にまとめています。

「このように考えられた奥行きを「第三の次元」などと呼ぶことはできない。何よりもまず、もしそれが次元といったもののひとつであるとしたら、むしろそれこそが第一の次元であることになろう。(中略)
このように理解された奥行きは、むしろいろいろな次元の換位可能性の経験そのものなのだ。つまり、すべてが同時にあり、高さ・大きさ・距離がそこからの抽象でしかない全体的な「場所」の経験であり、〈ものがそこにある〉という言い方で一口に言い表される〈かさばりというもの〉の経験なのである。」

さらに、「見る」とはどういうことかということについては、こんなふうに書いています。

「およそ目に見える一つの物、目に見える物としてのすべての個体は、次元としてもまた機能する。それらは存在の裂開の結果として与えられているからである。ということは結局、〈見えるもの〉の特性は、厳密な意味では〈見えない〉裏面、つまりそれが或る種の不在として現前させる裏面を持っているということだ、ということを意味する。」



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千利休と桃山期の造形

2019年07月10日 | 「‶見ること″の優位」

これまで西洋と日本の近・現代美術、および江戸期の美術のムーブメントを、「見ることの優位(創造性)」という観点から極く大雑把に見てきましたが、今回はそのシリーズの終着点とします。(次回からは、別な切り口での新たなシリーズの始まりです。)
で、トリはやはりなんといっても桃山期の美術・工芸であり、その大立者として千利休の登場ということになります。

私見では、俵屋宗達、長谷川等伯に代表される桃山期の絵画は日本近代(あえて近代とします)絵画の出発点であり、そして利休好み・織部好みに代表される工芸的造作物は、日本的なオブジェ造形の原点であると捉えられます。
今日の我々が言うところの“現代美術”は、日本においては実にこの利休の時代、すなわち16世紀の末期当たりから始まっている、というのが私の見方であります。
その舞台を設定し、演出していったのが信長・秀吉をはじめとする戦国大名の面々であり、京都・堺や九州の富裕商人たちであったわけです。
そしてそういった時代の中枢にあって、茶の湯という文化的な仕掛けを駆使して、大名・商人たちをコントロールしていった、いわば総合的なプロデューサーこそ、千利休に他ならないと考えることができます。



ここでは、その利休の“眼”とはどのようなものであったかについて、一言言及するにとどめることにします。
利休の茶の本質や美的洞察力の特性をめぐって、さまざまな文献がたくさんのエピソードを残していて、どこにその核心が求められるかは一概に指摘することはできません。
なのでここでは一言の言及にとどめるのですが、この意味で言えば、利休の“自然観照の深さ”ということが柱の一つとして挙げることができます。
そしてそれを鮮やかに切り取って、人為の空間(茶室や茶道具の造作)の中で披露することが利休的“おもてなし”というわけです。

自然の造作のことを表す言葉に“造化”というのがありますが、造化に対してなるべく人為の手を加えない、すなわち“あるがまま”ということが尊重されますが、しかし他方で、利休は随分と大胆なこともやったり、仕掛けたりしているのです(梅の花を水盤に散らしたり、露地の朝顔の花をすべて切り取って床の間に一輪飾ったとか)。
人為を突き抜けた果てに出会った造化の“あるがまま”なんですね。

利休が創案したとされる楽茶碗の形が、無作為と評されたり織部の沓形茶碗と対照させて「静的」と評されたりしますが、その造作は一筋縄のものではありません。
むしろ、一見無作為で静的なそのたたずまいの中に織部的なダイナミズムも包蔵され、ある種の無限感を生み出しています。
ここから日本的造形のあらゆる展開が繰り広げられていくように感じられるのです。
この意味で、利休が創案した筒型茶碗は、オブジェ的造形の原点と見なすことができるのですね。
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小堀遠州と寛永の視覚

2019年07月01日 | 「‶見ること″の優位」

江戸時代初期の寛永年間(1624-45)は、徳川政権下では三代家光が将軍を勤めていた時代で、文化的にもひとつの盛り上がりを見せていました。
工芸・美術分野では、本阿弥光悦、野々村仁清(陶芸)、狩野山楽・山雪(日本画)、岩佐又兵衛(日本画)、久隅守景(日本画)、千宗旦(茶道千家三代目)、小堀遠州、といったあたりがよく知られているところかと思います。

この時期は戦国時代の下克上の世相も過去のものとなって、世の中が少し落ち着いてきだしたころで、京都の天皇家では後水尾天皇が譲位して後水尾院となり、寛永文化の華開かせる活動に精力を傾注していった時代です。
その特徴を言うならば、公家、武家、商家、諸学問、臨済系仏門、茶数寄といった諸領域の人々が行き来して醸成していった総合的な文化所産、というところにあるかと思います。
この意味では、美術とか文学とか茶道とか宗教文化など特定の分野のものが突出的に豊穣なる果実を創出したということではなく、様々な分野で盛り上がりを見せたり、あるいは新風が吹き込まれていったりしたことに特徴が認められます。
そういった総合性を象徴的に表しているのが、桂離宮や修学院離宮に遺された庭園と建造物といえるでしょう。

寛永文化の総合性を醸成していったのは、主として京都に居住する文化人を核とする大小の文化サロンであり、そのネットワークの中枢をなしたのが後水尾院とその正妻の東福門院であったわけですが、総合プロデューサー的な役割を担った人としては小堀遠州が挙げられます。
遠州は徳川幕府下にあっては大名であり、また城や御所などの建造物を改修する作事奉行を勤めたりしてます。さらに茶人、作庭家、書家などマルチタレント性を発揮し、生け花や諸工芸にも影響を及ぼしました。



遠州の事蹟を挙げていくときりがないように思われるほどですが、そこには一貫した美意識が伺われます。
それを後世の人は“きれいさび”と称し、現代にまで言い伝えられてきています。
“きれいさび”は寛永文化の造形物のビジュアルな特徴としても云いえるカテゴリーで、
そのために、遠州の影響力が広範囲に及んでいるようなイメージが定着してきたようです。
たとえば、桂離宮は小堀遠州が設計したと思い込んでいる人は特に年配者には多いのではないでしょうか。(実際は、遠州のアドバイスを受けているかもしれないが、設計・造営は別な人によるものとされています。)

茶道文化の研究者 熊倉功夫は著書『後水尾天皇』の中で“きれいさび”について、「遠州個人の独創的な好み(というよりは)宮廷文化と遠州の茶の美との共通性であり、時代の好みのそれぞれの表現であった」とし、さらに次のように説いています。
「茶の点前に使う茶巾の扱い方を記した文章で茶巾の使い方が「なるほどきれいだ」と嘆声をあげ、さらに、茶巾をたたむとき輪のようにふくらませて置いたところが「いかにも伊達なり」というわけだ。このような点前の繊細な箇所にまで鑑賞の眼が届くようになるのもこの時代の特徴で、「きれい」とか近世独特の「ダテ」という言葉で表現される美こそ遠州の“きれいさび”であった。」

サロン的ネットワークの中で醸成された「点前の繊細な箇所にまで」届いていく“鑑賞の目”こそが寛永文化の総合性を生み出したのであると、私は思っています。



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