モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――近松秋江(3)”妻”という社会的存在の形式を作り出す仕組みとの訣別

2024年04月25日 | 初期「私小説」論
(承前あている知り合いの男性に横恋慕され、遊女もどっちかといえばその男性に心惹かれていることで、主人公の“私”は嫉妬に狂ったり二人の言動に疑惑を持ったりする、そしてそれを隠そうとして虚勢をはったりすることを延々と書き連ねたりいるのは、手紙文学としての体裁を壊している、あるいは文学作品の構成として破綻しているといった批判をされてしまうのは、無理からぬところがあります。

構成的に破綻していることは誰の眼にも明らかであって、秋江もまたそれを認めるにやぶさかではなかったでしょう。
というか、秋江もそれは十分に分かっていたはずで、むしろこの展開は彼においては確信犯的に作為したものであると、私は考えます。
その理由は、第一にこの手紙は何のために書かれたのか、“私”の意図が不明瞭であることが挙げられます。
よりを戻したいと思っているのか、あるいは逆にきっぱりと最後の別れを告げて、新しい人生に踏み込むことを宣言しようとしてるのか、よくわからない、要するに不確定な精神状況を優柔不断に、ただぐだぐだと繰り言を述べているにすぎないということがあります。



二番目に、「別れたる妻」との関係ではなくて、それとは別なある決意が作者の心に宿されていて、それをこの構成上の破綻を通して表明しようとしているのでは、と思わせるふしが感じられるということがあります。
『別れたる妻~』が書かれた当時、作者の周辺にいる友人・知人からは、何かにつけて再婚を勧める言動が飛び交っていたようです。
その中で印象的なのは、秋江の実家の老母からも再婚話が持ち出されていたけれど、それを拒否して独りで生きることを、老母への手紙の体裁で表現した作品があることです。
そこに書かれていることから伝わってくるのは、上述のような「作者の密かな決意」といったものです。

『別れたる妻に送る手紙』の後半に書かれている遊女(名前は「みや」という)と“私”と、そして二人の間に割り込んできて「みや」を横取りしていく男性との三角関係をめぐる“物語り”は、作者における生き方の選択を表明することを目指して確信犯的に作為されたものであると私思うのです。
とするならば、「別れたる妻~」の「別れる」とは“妻”という言葉で表現される社会的な存在の形式あるいはその仕組みからの“別れ”ではなかったかと、私は問題提起したく思います。
そしてそれ以降、近松秋江は、女性への惑溺の中へと人生の歩みを進めていくことになるわけです。
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初期「私小説」論――近松秋江(2)明治男のダメさ加減を晒し出す

2024年04月18日 | 初期「私小説」論
近松秋江の代表作は『別れたる妻へ送る手紙』とするのが衆目の一致するところです。
比較的初期の作品で、これが文壇での評価を得たことで小説家としての地歩を固め、秋江文学の世界を築いていく大一歩となりました。
この作品のあとは『別れた妻』の系列をなす作品群が続き、さらに大阪や京都、鎌倉といった古都の花街を舞台にした遊女との情痴を重ねていく小説シリーズへと展開していきます。
そのほか、歴史小説や政治小説を試みた作品もあって多芸振りを発揮しますが、白眉はやはり『別れた妻』シリーズをもって嚆矢とすべきでしょう。

『別れたる妻へ送る手紙』は、7,8年間ほど連れ添ってはきたが、夫たる“私”は安定した収入も無く、妻は不安がって遂に家を出て行方を晦ます、その妻に送る手紙文で小説を構成した作品です。
この代表作のあと『疑惑』、『閨怨』(『別れた妻…』の続編)といった佳作が次々と発表され、俗に言う「寝取られ男」の惨めな心理や嫉妬心や猜疑心が有体もなく露呈されていきます。
『別れたる妻へ送る手紙』や『疑惑』では、それを凝縮して表現したような文章が見つからない(長めの文節ならありますが、ここに引用するには長すぎる)のですが、『閨怨』にはつぎのように述懐するシーンがあります。

(妻と住みなれた家を引き払うことを決めて引越しの作業をしていくシーンで)
「萎えたやうな心を我から引き立てて行李を縛ったり書籍を片付けたりしながら其処らを見舞はすと、何其につけて先立つものは無念の涙だ。
「何で自分はこんなに意苦地がないのだらう。男がそのやうなことでは仕方がない」
と自分で自身を叱ってみたが、私には耐力(たわい)もなく哀れつぽく悲しくつて何か深い淵の底にでも滅入り込んでゆくやうで、耐(こら)え性も何もなかった。」


いかにもたよりない境涯をみじめったらしく嘆くばかりですが、しかし恨みつらみのようなことは書いていない。
それは男の沽券というものを保とうとして虚勢をはっているからで、そのことが更にさりげなく滑稽感を表出していく効果を出していきます。
そういったことを、秋江は“私”を語り手として、自分自身の体験(実際に、妻であった女性に離縁されている)にもとづいて書いているのが、当時の読書界に衝撃を与え、明治男性のプライドを大いに傷つけたのでした。

女性に対して男性は徹底的にエゴイストで、男の沽券でもって女性を支配しているように見せかけながら、実は小心で嫉妬深く、ある感情に捉われるとそれに拘泥して抜けられなくなり、ついには女性の足元にひれ伏しようになる、といった男性像を描いていくことが、女性に溺れていく男性の姿を描く情痴文学や遊蕩文学のように受け止められていったわけです。
そういったことから近松秋江は情弱小説家のように見なされたりしてるようですが、私の印象ではむしろ男性の本質ということと向き合い、その真実の姿を描くことに文学の使命を見出していった小説家であるように思われます。
私はそこに “ある戦い”のイメージを思い描いてみたいと思います。私小説家近松秋江の内部で密かに設定されていた、明治国家イデオロギー下での“男性社会”との戦いです。



ところで、『別れたる妻へ送る手紙』の後半は、独り身となった淋しさに夜ごと紅灯の巷をほっつき歩いているうちに遊行の町の女とめぐり合って、また性懲りもなく“男性の性”に向き合っていくような事態が始まっていくのです。
その場面転換は次のように書かれています。
「 処がさうしている内に、遂々一人の女に出会(でくわ)した。
 それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といへばお前(元別れた妻)には判断できやう。一口に芸者ではないと言つたつて――笑っては可けない。――さう馬鹿には出来ないよ。遊びやうによっては随分銭も掛る。加之女だって銘々性格があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。」

別れた妻への手紙にこんなことを書くなんて、普通に考えてありえません。(つづく)









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初期「私小説」論――近松秋江(1)“情痴文学”というレッテルの裏側で

2024年04月11日 | 初期「私小説」論
近松秋江は、日本の近代文学を集結した全集系の本で岩野泡鳴とか正宗白鳥なんかの名前と並んで必ず目に入ってくる小説家だけれど、
明治末期から大正期にかけての文学史においては、なぜかエアポケットに入り込んだような印象があって、なかなか話題には上ってこない作家ではあります。
しかし気にはなる小説家なので、このたび初期私小説を論じるために、読んで見ることにしました。
詠んでみると、これが面白い。
女性をたてて男性を必要以上に卑下する、軟派系の小説ですが、読み込んでいくと実に興味深い手応えを感じさせる文学です。

文学辞典とか人物辞典とかで一般向けに解説されたものでは、「露骨な愛欲生活の描写」とか書かれていて、遊郭の女性とかとの交情をモチーフにした作品が多くて、
大正期あたりの良識派とか有識者には顰蹙を買って、情痴文学だの遊蕩文学だのとレッテルを貼られたりしています。
私が長いこと読まずにいたのは、そういった先入観をもたされてしまったこともあるかもしれません。
しかしそれは表層的な見かけに過ぎなく、秋江自身は至って真面目な文学者であり、歴史や古典芸能や政治経済や世相など多方面にわたって関心を向けて自分の見解を書いているし、
文学自体についても文学史や世界の文学を視野に収めた、傾聴に値する評論・批評文を半生を通して書き続けています。

そういった文章は、1908(明治41)年から読売新聞の文芸欄日曜付録に月に1回書き始め、1942(昭和17)年まで続いた『文壇無駄話』というタイトルのコラム欄に掲載されていました。
秋江の全集では第9巻から第12巻までを満たしていて、明治末から昭和前期にかけての文学史の貴重な資料になっているのではないかと思います。



私もこのブログを書くためにときどき拾い読みをしているのですが、先日は「予の老農主義」と題した文章に出会って、思うところがありました。
そこでは、地方の大地主が製造工場などの会社事業に手を出して失敗し、家屋整理のために他村に所有していた田地を売りに出すと、小作農オ・自作農の小農家がいろいろ金策をして土地を買い戻していく、そしてそうやって私有の土地を少しづつ増やしていくということが話題とされていて、以下の文章に続いていきます。

「そこで、さういう困らない半小作半自作農は、単に農事ばかりでなく、いろいろな土木工事に稼ぎに出たり、またいろんな家内の手内職の副業をしたりして、それによって得た労銀を貯蓄して置き、それを以て田地の売物が出た時に買ふのである。」(大正12年)

こういった叙述のなかの、「会社事業に手を出して失敗」とか「土地を買い戻し」とか「土木工事」とか「手内職の副業」といった言葉が、20世紀初頭の農村地帯に近代的な産業システムがじわじわと浸透していく有り様が感じられ、金銭の貯蓄や土地の買収にといった事柄に人々の心が傾斜していく時代の空気感がそこはかとなく感取されてくるではないですか。
私はこういった様相に、明治の国家体制と経済の施策により地方の自治意識が国家の意思の下に再編統治され、空洞化されていく流れのようなものを想像してしまうのですね。

自治の精神が奪われてしまったということは、地方の生活において、少なくとも次男以下の男性はやること(生き甲斐とすること)がなにもなくて、日々を空しく過ごしていくという境涯に甘んじることになります。
それでは身が持たないので都市に出て労働者としての生活にささやかな幸福を見出していく、あるいは芸術や芸能のスキルを身につけて、他人の目には一見“自由”と映るような人生を歩んでいったりするわけです。
しかし“自治の精神”を奪われているということは、本質的には「何をなすべきか」のヴィジョンが奪われていることには変わりない、と私は考えます。

なすべきことは何であるかが見つからない限りは、当面何をやっていくかといえば「“私”の欲望に従う」ことであり、一部の男性だけに実践可能なことですが、「“女”との遊芸にうつつを抜かす」ことであるかと思います。
かくして、文学の世界においても、明治末期から大正期にかけて“私”小説が勃興し、「“女”が書けなければ一人前の文士とは言えない」という日本文学独特の因襲が醸成され始めたのでした。











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初期「私小説」論――近松秋江(1)“情痴文学”というレッテルの裏側で

2024年04月11日 | 「‶見ること″の優位」
近松秋江は、日本の近代文学を集結した全集系の本で岩野泡鳴とか正宗白鳥なんかの名前と並んで必ず目に入ってくる小説家だけれど、
明治末期から大正期にかけての文学史においては、なぜかエアポケットに入り込んだような印象があって、なかなか話題には上ってこない作家ではあります。
しかし気にはなる小説家なので、このたび初期私小説を論じるために、読んで見ることにしました。
詠んでみると、これが面白い。
女性をたてて男性を必要以上に卑下する、軟派系の小説ですが、読み込んでいくと実に興味深い手応えを感じさせる文学です。

文学辞典とか人物辞典とかで一般向けに解説されたものでは、「露骨な愛欲生活の描写」とか書かれていて、遊郭の女性とかとの交情をモチーフにした作品が多くて、
大正期あたりの良識派とか有識者には顰蹙を買って、情痴文学だの遊蕩文学だのとレッテルを貼られたりしています。
私が長いこと読まずにいたのは、そういった先入観をもたされてしまったこともあるかもしれません。
しかしそれは表層的な見かけに過ぎなく、秋江自身は至って真面目な文学者であり、歴史や古典芸能や政治経済や世相など多方面にわたって関心を向けて自分の見解を書いているし、
文学自体についても文学史や世界の文学を視野に収めた、傾聴に値する評論・批評文を半生を通して書き続けています。

そういった文章は、1908(明治41)年から読売新聞の文芸欄日曜付録に月に1回書き始め、1942(昭和17)年まで続いた『文壇無駄話』というタイトルのコラム欄に掲載されていました。
秋江の全集では第9巻から第12巻までを満たしていて、明治末から昭和前期にかけての文学史の貴重な資料になっているのではないかと思います。



私もこのブログを書くためにときどき拾い読みをしているのですが、先日は「予の老農主義」と題した文章に出会って、思うところがありました。
そこでは、地方の大地主が製造工場などの会社事業に手を出して失敗し、家屋整理のために他村に所有していた田地を売りに出すと、小作農オ・自作農の小農家がいろいろ金策をして土地を買い戻していく、そしてそうやって私有の土地を少しづつ増やしていくということが話題とされていて、以下の文章に続いていきます。

「そこで、さういう困らない半小作半自作農は、単に農事ばかりでなく、いろいろな土木工事に稼ぎに出たり、またいろんな家内の手内職の副業をしたりして、それによって得た労銀を貯蓄して置き、それを以て田地の売物が出た時に買ふのである。」(大正12年)

こういった叙述のなかの、「会社事業に手を出して失敗」とか「土地を買い戻し」とか「土木工事」とか「手内職の副業」といった言葉が、20世紀初頭の農村地帯に近代的な産業システムがじわじわと浸透していく有り様が感じられ、金銭の貯蓄や土地の買収にといった事柄に人々の心が傾斜していく時代の空気感がそこはかとなく感取されてくるではないですか。
私はこういった様相に、明治の国家体制と経済の施策により地方の自治意識が国家の意思の下に再編統治され、空洞化されていく流れのようなものを想像してしまうのですね。

自治の精神が奪われてしまったということは、地方の生活において、少なくとも次男以下の男性はやること(生き甲斐とすること)がなにもなくて、日々を空しく過ごしていくという境涯に甘んじることになります。
それでは身が持たないので都市に出て労働者としての生活にささやかな幸福を見出していく、あるいは芸術や芸能のスキルを身につけて、他人の目には一見“自由”と映るような人生を歩んでいったりするわけです。
しかし“自治の精神”を奪われているということは、本質的には「何をなすべきか」のヴィジョンが奪われていることには変わりない、と私は考えます。

なすべきことは何であるかが見つからない限りは、当面何をやっていくかといえば「“私”の欲望に従う」ことであり、一部の男性だけに実践可能なことですが、「“女”との遊芸にうつつを抜かす」ことであるかと思います。
かくして、文学の世界においても、明治末期から大正期にかけて“私”小説が勃興し、「“女”が書けなければ一人前の文士とは言えない」という日本文学独特の因襲が醸成され始めたのでした。











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初期「私小説」論――葛西善藏(8 最終回)狂気をめぐる2つの文章

2024年04月05日 | 初期「私小説」論
後半生の善蔵を悩まし続けた、得体の知れない亡霊・夢魔につきまとわれるという“病気”をめぐって、その見えざる精神の格闘に踏み込んでいくことは私の能力ではとてもなしえません。
ここでは、『弱者』からもうひとつの文節と、更に二十世紀のフランスの哲学者によるもう一つの文章とを並列することを試みてみたいと思います。(葛西善藏の文章には現在差別用語に指定されている言葉が使われています。ここでは原文のオリジナリティを尊重してそのまま掲載します。)



(夜になると庭の黒い繁みの中の黒い亡霊に悩まされるという錯乱気味な妄想を叙述する文のあと、)
自分は気違ひに丈はなり度くない。自分はどんな病気で死ぬことも、止むをえないことだとは思つてゐるが、気違ひで死ぬこと丈はいやだと思つてゐる――これ丈の自分は、自意識を持ってゐるつもりだ。ほんとに神経病になるものは、さうした神経病的兆候についての自覚が鈍いものらしい。自分は、そんなことはない。頭痛についても、不快感についても、麻痺感についても、全体としての神経が鈍つてゐるとは考へない。だから、神経衰弱ではあるんだが神経病ではないんだ――かう思ひ込んできてゐたことが、この瀬戸物の割れた堆積を見たときには、自分は悪寒と同時に、シーンとした淋しさと、訳の分らない涙の湧いてくるのを防ぐことが出来なかった。自分の神経が真に犯されてゐるとしたならば、之程悲しいことはない。中庭から覗かれる狭い空を眺めて、自分は呆然とした無力な気持で、突立つてゐた。…(葛西善蔵『弱者』より)


 精神疾患の穏やかな世界の真ん中で、現代人はもはや狂人と交通していない。一方には、狂気の方へ、医師を代表に送り、病気の抽象的普遍性を通してしか関係を許そうとしない理性の人がある。他方には、秩序、身体的および精神的拘束、集団の匿名の圧力、周囲との一致の強要といった、おなじように抽象的な理性を仲立ちとしてしか相手〔理性の人〕と交通しない狂人が一している。共通の言語はそこにはないというか、もはやないのである。十八世紀末における精神疾患としての狂気の成立は、対話の決裂を確認し、分離をすでに確定的なものとみなし、狂気と理性とのやりとりが行われていた。不完全で、固定的な統辞法を欠く、片言ともいえる言葉のすべてを忘却の中へと沈めてしまう、狂気についての理性のモノローグである精神医学の言語は、そのような沈黙の上にしか築かれえなかったのである。(M・フーコー『狂気の歴史』より)


葛西善藏の項は今回でいったん終わります。
次回からは、近松秋江を論じていきます。






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