モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

永福門院(玉葉集・風雅集)の観照の深さと止観

2020年11月28日 | 「‶見ること″の優位」
龍樹の唱える一二支縁起は、十二支の相互的な依存関係によって出来事が生起するということを主張し、
“十二支の相互的な依存関係”を時間的な前後関係(過去→現在→未来)や因果関係の枠組みの中で捉えず、
その実体は“空”であるというということを表明しています。

ということは、“空”の状態は無時間的だということが含意されていることになります。

つまり、たとえば座禅の修行を積み重ねて遂に“空”の状態に入ることができたとすると、
そこでは時間の感覚が無くなっているとか、超えられている、という状態が生じているということです。

天台止観や摩訶止観では、座禅の目指すところは“三昧”の境地であることが書かれていますが、
“三昧”というのは、世俗のレベルの理解では「忘我の状態になる」とか「時の経つのを忘れて」といった意味に受け止められているところからも推測されるように、
時間感覚が否定乃至超えられている状態を表す仏教用意語です。

ここからも、“空”の状態は無時間的であるというふうに了解することができます。



当ブログはここ3回ほど、「見ることの優位」あるいは「観照」の問題から離れて哲学談義のようなことを書いてきましたが、
何が言いたいのかというと、古典和歌、特に勅撰和歌集の掉尾を飾る玉葉集や風雅集の“観照”の深さということです。

たとえば、上記二つの和歌集の看板スターである永福門院は、古典和歌の究極と思われるほどの質の高さに達しているのですが、
次の和歌が伝えている自然観照の質というものが、どういう性質のものであるかということを突き止めてみたいと、切に思っていることが初発の動機です。

花の上にしばし移ろふ夕づく日入るともなしに光消えにけり

一見したところでは自然の移ろいを詠んでいると受け止められますが、
その移ろいの現象の深みに「永遠」ということが忍ばされている、
「光消えにけり」というのが自然の摂理の永遠性として詠(なが)められているような、そういうニュアンスが表された歌です。

たとえて言えば、夕刻の日の光が徐々に薄らいで闇が寄せてくるある時間の幅が、
一枚の絵画の中に表現されているような、そういう描写力です。

国文学者の小西甚一はこの歌について以下のように書いています。

「それは物理的にゆっくり消えていったはずだが、その消え切る微細な瞬間を、話主は突然に感じ取ったのである。
この把握は、微妙であると共に、鋭い。」(『日本文芸史』)

続いてこの“鋭い”感じについて詳細な分析が記述されていきます。

「この鋭さは、禅のものである。禅、とくに臨済禅では、表現の鈍さを嫌う。
同じような内容を言っても、日常意識の破られかたが痛烈なのを高く評価する。
それは、禅の語録に見られる巨師たちの問答が、切るか切られるかの白刃を交えるような緊迫感に充ちていることからわかる。
日常意識が鋭く破られるとき、不思議境としての性質が強くなるのも当然であって、後期の玉葉風にそれが現われている。
光線の扱いかたとか、時間の流動相とか、色彩の豊かさといった類の思議境について玉葉風を分析することが従来の立場だったけれども、
それだけでは玉葉風の真価を問うわけにゆかないはずである。」(『日本文芸史』)

小西は、中世の歌詠みたちは、少なくとも新古今集以来はみな天台宗ないし禅宗の止観の訓練を積み重ねているとして、
その止観によって得てきた観照力で自然の景物・現象を見ている、といった趣旨のことを書き、玉葉集・風雅集の和歌の世界を高く評価しています。

止観の修行は“空”の境地や洞察眼を養っていくかと思いますが、
そのようにして達せられる“空”の境地や“眺め”のはたらきは、
自然の移ろいをいわば“無時間”的な出来事として、“永遠”の相で観照するという、
そういう眼力ないし精神的境位を詠み人たちに授けていったのではないかと私は考えています。
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龍樹『中論』の十二支縁起が説く相互依存的な世界

2020年11月18日 | 「‶見ること″の優位」

「時間の前後関係とか因果関係を伴わない出来事」という観念は、龍樹の『中論』理解への道をつけてくれました。

『中論』が提示しようとしているヴィジョンは十二支縁起ということですが、
それは煩悩に囚われて苦しむ世界を「無明-行-識-名色-六処-触-受-愛-取-有-生-老死」の十二の支分の縁起関係で説明しようとするものです。

すなわち「無明によって行が生じ、行によって識が、識によって名色が、名色によって六処が、六処によって触が、蝕によって受が、受によって愛が、愛によって取が、取によって有が、有によって生が、生によって老死が生れる」というふうに説明されます。

そして無明が消えれば行が消え、行が消えれば識が消え、……となって煩悩の苦しみから解放されていくわけです。


その説明が「……によって~~が生まれ」という文型で説明されるので、
そこに時間的順序や因縁による生起(因果関係)をも読み取ってしまいがちです。

しかし『中論』の冒頭では因縁による生起とか時間の順序関係とかは否定されている、
それにもかかわらずこの一二支縁起で時間的な順序関係や因果関係が再び持ち出されているのはどういうことだろうと、思ってしまいます。

そこが『中論』の最大の躓きの石であり、誤解の源となるようです。



中国語訳でも「生」という漢字を使っているし、サンスクリット語原文でも「生まれ」を意味するbhava(生れること)という単語が使われているので、
「……によって~~が生まれ」としか訳しようがないようにも思われます。

しかしbhavaという単語を改めて英訳辞典で確認してみると、coming to existenceとかbeing, state of beingといった英語に訳されている、
これをよくよく検討してみると、「存在に至ること」とか「存在している状態」というふうにも解釈できて、
必ずしも時間的順序関係が含まれていると考えなければいけないということはなにのでは、というふうにも考えられます。

つまり、「……によって~~が生まれ」は時間的な順序関係や因果関係が表明されているのではなくて、
それらを伴わない“出来事”、言い換えると現代物理学が発見した無時間的な相互作用による“出来事”として解釈することができるのでは、ということです。

かくして、龍樹『中論』が提示する一二支縁起の「……によって~~が生まれ」の連鎖作用は、
無時間的な相互作用のヴィジョンとして捉えられることが、少なくとも私の中では納得されてきました。

つまり一二支縁起は、現象世界は十二支の相互的な依存関係によって生起するのであり、
その実体は“空”であるという龍樹の主張が理解されてきたということです。



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時間的な因果関係を伴わない〝出来事″

2020年11月07日 | 「‶見ること″の優位」
アラン・バディウの主著『存在と出来事』のタイトルに含まれる〝出来事″という言葉(概念)の内容について、
前回紹介した引用文では、次のように記述されていました。

「自分自身に属さないという特性(-(β∈β))をもつ多性(集合・筆者注)を通常の多性と呼び、自分自身に属するという特性(β∈β)を出来事的多性と呼ぼう。」

「自分自身に属するという特性(β∈β)」というのは、意訳するならば〝自己言及的構造″を表していて、
数理論理学的には集合の無限的な拡大化ということを示唆します。

つまり、集合βから新しい集合が次々と生まれ出てくるイメージであり、
それが〝状況″の中から不可測的に発生してくる〝出来事″という事態であるというわけです。

バディウの定義を正確に理解しようとすると大変難解なことになりますが、
私たちの経験的世界においては、出来事は不測の事態として発生するという性質が認められることは確かですから、
とりあえず雰囲気として上記のように掴んでおきます。


ところで論理学というのは無時間的な関係性を探り出していく推論の学ですから、
〝出来事″といっても、私たちが通常にイメージする場合は時間的な進行を無意識のうちに前提していることが多いですが、
ここで言及する〝出来事″は時間的な因果関係の中で捉えられる事柄ではありません。

つまり時間的な表象を伴わない出来事であるわけです。

しかし、時間的な表象を伴わない(言い換えれば因果関係ということを伴わない)〝出来事″という事象を
私たちは具体的にイメージすることができるでしょうか?



ここで話は現代物理学の分野に繋がっていきます。

カルロ・ロヴェッリというイタリア人の理論物理学者は、物理学の理論を一般の人向けにわかりやすく解説した本が世界的なベストセラーになったりしています。

昨年は『時間は存在しない』という本が日本でも出版されました。

「時間は存在しない」ということについて私は個人的にある思考実験を通して確信するに至りましたが、
〝時間″ということが現代物理学ではどこまで解明されているかという興味から、この本を読んでみました。

この本の中で次のような文節に出会いました。

「…根本のレベル(素粒子、光子、重力量子といった「空間量子」が相互作用しているレベル・筆者注)におけるこの世界は、時間のなかに順序づけられていない出来事の集まりである。
それらの出来事は物理的な変数同士の関係を実現しており、これらの変数は元来同じレベルにある。
世界のそれぞれの部分は変数全体のごく一部と相互に作用していて、それらの変数の値が、「その部分系との関係におけるこの世界の状態」を定める。」

この文節の中に〝出来事″という言葉が二回使われています。

そしてこの場合の〝出来事″は、「時間のなかに順序づけられていない」とか
「物理的な変数同士の関係を実現しており」(変数同士の関係は時間的な関係を含まない・筆者注)
というふうに規定されています。

「空間量子」の相互作用から生まれてくる空間は、時間の変数を使わずに記述できる、ということが言われています。
それが「時間は存在しない」ということの物理学的な意味であるわけです。

この本には、「時間はどのようにして生れてくるか」とか「時間と呼ばれる現象の本質は何なのか」といった問題にも一つの解答が提示されていますので、
興味のある人は是非読まれるとよいと思います。
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