モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

桶谷 寧の黒茶碗・井戸茶碗

2012年02月25日 | 桶谷寧の国焼き作品





今回は桶谷寧さんが焼いた黒織部茶碗と井戸茶碗です。
桶谷さんといえば、当ブログでもすでにご紹介しているように、
曜変天目茶碗や油滴天目、禾目天目、柿天目などの天目系のやきものを
現代に再創造した陶芸家です。天目系は中国の古典的なやきものですが、
この黒織部茶碗、井戸茶碗は桃山時代(西暦1600年前後)に焼かれた
いわゆる「国焼き」といわれるやきものです。

中国古陶磁を再現した人が今度は日本の古陶磁の再現? と思われるかもしれませんが、
桶谷さんによれば、どちらも同じ窯で、似たような焼き方をしてできるということです。
中国の古典的なやきものでも、日本の伝統的なやきものでも、
国宝クラスの評価を得ているやきものの本質は同じだというのが
桶谷さんの考え方ですが、それを実践で証明してみせているのですね。

数年前に世田谷区用賀の静嘉堂文庫美術館で曜変天目茶碗が一般公開されたとき、
桃山期の長次郎(楽茶碗の創始者)の黒楽茶碗や瀬戸黒茶碗が同時公開されており、
私は桶谷さんと一緒に見てまわりました。若い時分にも見たことがありますが、
何十年ぶりかで見て、その圧倒的な存在感に溜息をつく思いでした。
そして桶谷さんの黒織部茶碗というのが、長次郎や桃山期の瀬戸黒茶碗と同質のものであって、
そういう「黒」を焼ける桶谷さんと時代を共有していることの幸せを感じたものであります。

井戸茶碗について言うと、その侘びた味わいは経年変化の結果と思われていますが、
これも桶谷さんの説では、焼かれた当初からこういう色合いだったということです。
私は桃山期の数寄者の美意識からして、桶谷さんの説を支持したいと思います。
侘びた色合いと見えるのは高温焼成によって引き出されてくる土の色を表わしており、
それは自然界が人間の視線に対して秘めている色の本質であるというふうに私は思います。
つまり、常温下での経年による古さびた色ではなく、土が変容して露わになる、
生々しい自然の色であるということです。
そこに井戸茶碗のリアルな、そして人為を超えた美しさがあるわけです。

茶を喫するのであればこういう茶碗で、というのが私の願望です。
やきもののやきものたるゆえんということを探っていくならば、
最終的にはここに行き当たると私は思っています。


桶谷さんの作品は〈「かたちの会」コレクション〉のサイトでも展示中。

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「かたちの会」会誌No.09発行

2012年02月12日 | 「かたちの会」関連


「かたちの会」会誌No.09を発行しました。

今回の内容は、「アートでおもてなし展」に出品された作品から、
特にいい制作だと思われたものをピックアップして紹介するものになりました。
このブログで紹介する作家と重なっていますが、会誌では写真を大きく見られます。

メディアではほとんど話題に取り上げられないような作家ばかりで大変地味ですが、
そういうことには関係なく、伝えるべき仕事はきちんと記録しておくという考えで、
今後やっていくことにしました。

発行日は2月1日で、ちょっとおくればせですが、お知らせしておきます。


「かたちの会」会誌のご案内はこちら
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井上まさじさんの「気の絵画」

2012年02月04日 | 井上まさじの絵画





写真の作品は細いペンで同心円をフリーハンドで描いています。
線と線の巾は1mmぐらいです。
画面の全体に黄色、白、水色の大小のドットが散らばめられていますが、
これは同心円を描くよりも前に散らしたものです。
つまり、線を引いていく手の動きがドットのところで一旦切れているわけです。
とりわけ画面の端っこ(エッジ)の処理が素晴らしく、とてもきれいです。



上の作品のディテール(中心とその周辺)



上の作品のディテール(作品のエッジ)




以前に紹介した井上まさじさんの絵は、直径1mmぐらいの丸を
やはり細い線で紙の左上の隅っこから右方へ、そして一段が終わると下の段に移って
同じように機械的に描いていくという描き方の絵でした。
こういうのを果たして絵といえるのかどうかということが、いつも問題になるわけですが、
私が思うに、絵であるかどうかということは実は重要な問題ではなくて、
ただその画面を見ていて、いつまで見ていても見飽きないというところで、
「これは一体何なんだろう」と思ってしまうところが大事なところだということです。

なぜ見飽きないのかというと、一見機械的に描いているように見えて、
決して機械の仕事のように単調無味なのではなく、
線が密な状態で濃く見えるところと、線がこころもち疎な状態で
薄く見えるところがあって、全体としてはひとつの大きなゆらぎというか、
うねりのようなものが見えているわけです。
そのゆらぎ、乃至うねりが見ているうちに動いているように感じられることもあったりして、
そういった生理的な錯覚のようなことも含めて、
私は井上さんの絵を「気の絵画」と解釈したりもしています。

「気」という現象を、私は物質の世界の、物質と物質が出会って醸し出してくる
非物質的(に見える)現象、というふうに考えるのですが、
井上さんの「絵を描く」という営みは、
人間としての生命活動が物質的現象(自然)との境界をなくして、
一体化していく姿のように見えてくるのです。
このひたすら同心円を重ねていっただけの絵画が、
曼荼羅のように、あるいは宇宙の形そのもののように感じられてくるのは、
有情・無情の境を取り払った精神の世界が表わされているからであると私は思っています。


井上まさじのサイト
「かたちの会コレクション」も見てください。


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