か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

惚れたら負けるよ。  2

2013年07月12日 | 旅行

ショッピングモールはギンギンにクーラーが効いている。僕の家はエアコンがないのでこのモールにいると日本にいるより涼しい。日本では昼間、暇な時は近くのスーパーに涼みに行っていた。ところがこの頃渋くなってエアコン設定温度を上げてるようだ。生ぬるい風は要らん。家には水風呂がある。

台湾の昼間の室内はギンギンに冷えている。男たちの群れは草原の雄ライオンだ。なんとなく表情がどよんとして暇そうな人が多い。それに比してアジアの女はよく働く。よく働くのに何だあの肉は。一体いつ寝るのだろう。あの溶けたアイスのような腹には何が入っているのだろう。

ところが熱に病んだ街が目を覚ます時が来る。夜だ。

日本では何時であれ女子高生に声をかけると通報される。女子高生も商売がやりにくかろう。

ところがここでは涼しくなってからが勝負の時だ。アホは病気の巣のような不潔女子高生と汚いホテルでピストン運動しろ。話題と笑わすことにかけては自信がある。そう思って十分多くの中から選べる時、だれでも水準が高くなる。

時々教養をちらつかせ、今までのナンパ男とは違うぞ、と思わせておいてすぐまた下ネタに振り相手の「遊んでる度」をはかる。

ただ、忘れるなよ。美人はいつでもいい男の一人や二人、すぐ釣れるのだ。

遊んでいるつもりが遊ばれて、もはや何でも挟めるあの胸の谷間に惚れてしまっている。

親日は結構だ。だが、利害は同一ではない。反中共政策として親日政策は必要だった。毎年反日色を強める教科書をご存じか。韓国の反日思想は教科書とマスコミが作った。

霧社事件は10年前はほとんど知られてなかった。今、バカ以外は知っている。高砂義勇隊は。当時の教育における差別は。反日帝運動は終戦まで続いた。朝鮮どころじゃない日帝による弾圧の歴史だ。

胸の谷間には毒がある。

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太宰のカチカチ山      Wiki

ウサギを十代後半の潔癖で純真(ゆえに冷酷)な美少女に置き換えている。対するタヌキは、そのウサギに恋をしているがゆえに、どんな目にあってもウサギに従い続ける愚鈍大食な中年男として書かれている。

少女は敵討ちという名目で生理的嫌悪を感じているタヌキを虐待し、男はウサギの歓心を買いたいばかりに嫌われてもただ従い続ける。「惚れたが悪いか」と言い残して溺死して水底に沈む男を見送る美少女が、汗を拭いながら美しい風景に微笑を浮かべて終わる、と言う少女の純粋さゆえの悪意と恋する男の惨めさを描いた作品となっている。

 
 
 
 
 
 
 

惚れたら負けるよ。

2013年07月12日 | 旅行

台湾、福岡から飛行機で2時間、飯を食って映画を見て昼寝してちょうどいい。何より2300万の親日家がいる。霧社事件、尖閣?がたがた言うな。後先考えずその場その場で女性にモテればいい。なあそうだろ?

分かってはいるんだが、ほんわりあったかい風、夜には涼しい風。冷たい杏仁豆腐をガッツく僕を見つめるやさしい大きい目。つまようじを並べた原始人の目とは違う。何度来てもいいもんだ。

なあ、そこいらの奴。これで太ももがめいっぱい出て巨乳でいつも僕を心配そうに見る。僕が惚れないなんてありえないだろうが。旧字体(旧漢字)だ。ほとんど意味はわかる。僕は漢文の授業に感謝した。

韓国人のように大柄ではなくそれがまた男ごごろをくすぐる。巨乳という点では少し韓国に軍配が上がる。だが性格において断然韓国は負ける。控える、出しゃばらない、僕の知らないところではこっそり強く出て僕をカバーする。何よりも男を立てて花を持たせる。

そうされると僕も僕のできることは何でもしてこの人のためになることをしようと思う。二人きりになったとき短いパンツに隙間なんかあったりすると僕は鼻血が出て恥を書くのではないかと気が気ではなかった。ここで竹島や従軍慰安婦の話をするのが韓国人だ。萎えないはずなかろう。

みんな夜ふかしだ。昼間暑いからか。バイクを借りて水をかぶって走ったら寒かった。「台湾は『涼しい』までです。『寒い』はありません」、と言っていたが十分寒い。

桃園ホテルには夜中に着いた。もう時効だが、自転車を泥棒して町まで行った。そこでお友達になったのが上に書いた女の子たちだ。よく聞くと明日休みだそうだ。男二人女二人で食って遊んだ。みんな聞く。私なんか日本に留学なんてできないよね。これは、昔悪いことをした日本は私を留学させて当たり前だという韓国の原始人とは大違いだ。

僕は書道の筆を買いに来ていた。彼女らはよく覚えてくれていて僕にプレゼントしてくれた。南国でも沖縄と違い相手の話を正確に聞き時間にも正確だ。

その時間というものは非情だ。僕は最後に彼女らが働くお店に電話してお礼を言おうとした。空港からの電話が電話のうちで一番悲しいものだと思う。彼女は言った。「なぜ私に電話するの。遅れたら大変。もう行って。手紙書くから。」

「留学なんとかするから、連絡しろよ。」返事はなかった。

今思うと彼女らは無理してお店を休んだのだ。二人も休めるほど大きな店ではなかった。

自転車は元の場所に返し少しお金を挟んでおいた。

 
 
 
 
 
 
 

揚州、鎮江、金山寺。 2

2013年02月22日 | 旅行

そのお坊さんに案内されて屋根のないテーブルとイスだけの部屋に案内された。かなりの高僧らしく通る人がみんなそのお坊さんにあいさつしていった。最初は僕にあいさつしていると思ったが、そんなはずあるわけない。

細い木が生えていて中庭に椅子を持ち出したようで外界を遮断して気持ちいい。

僕はこの数年後ダライ=ラマと会うことになるが同じ緊張感だった。大抵だれにあっても緊張することもなく、たいしたことない奴だな、と思うことが多い。ところが学者と宗教家の本物に会うと自分の器の小ささに歯がゆくなる。

僕は聞いた。「社会との断絶の中で生きて修行して、それはよいとしても、社会に還元しないことには意味がないと思うがどうか。」

高僧は言った。「社会との交流は発想の一助になることは確かで断絶して生きているのではない。本質に到達していないのに何を還元するのか。」

僕。「本質の内容はさまざまであろうが、そもそも本質のありかをどこと考えるか。」

僧。「実体にはないと説くことが私の仕事と考える。」

僕。「実体にはなくてどこにあるのか。西欧ではやっと20世紀になって真理はモノにあるのではないということで哲学は決着した。」

僧。「それは私たちの考えと同一だ。」

大体の会話は以上のように進み、たがいにうち解けて写真に写った。ただ銀塩写真だったので僕のアルバムの中から出ることはない。

アホな本質主義はサルトルの「実存は本質に先立つ」ことの証明により粉砕される。だが仏教はすでに本質を「実体」という表現で強く排除していた。我執であり煩悩の原因である。サルトルに先立つこと2000年だ。

偉そうに例を出して恥ずかしいが。例えば、あなたは何か、の問いかけに即座に答えるのは困難だ。場合によっては日揮の社員であり家庭においてはパパである。また組合においては分会長かもしれぬし親から見ればあなたは息子だ。

つまりあなたの本質はあなたの中にはない。会社との関係によって社員という位置づけがなされる。家庭という関係においてパパという位置づけがなされる。つまり本質はあなたの中にはない。あなたが他との関係を持った時本質は生まれるのだから、本質はそのものの中にはなく関係の中にあると言えるのだ。

あなたはアプリオリに本質よりも先に存在している。本質はあとから関係とともにやってくる。

日本のニセ坊主たちの不勉強と集金主義により意味もなく分裂した「何枚だあ教」はカネを数える能力しかなくしている。

僧は僕を見送るとさっと自分の生活に帰った。振り返るとそこに姿はなかった。

Posted at 2013/01/21

揚州、鎮江、金山寺。

2013年02月22日 | 旅行

 

揚州の対岸にある鎮江。同様に物資の集積地、交通の要衝だったところだ。しかし、ここは揚州よりもはるかに多くの日本資本が進出している。

シェラトンだなんだとバカでかいホテルが多いがおしなべて下品だ。ま、商売人の出張に使うものだな。味も素っ気も品位も歴史も何にもない。会議室が広いぐらいで僕には関係ない。飯がうまくない。油の温度が低い。この頃できた安普請のホテルに五つ星がついている。だったら僕の自宅は七つ星だ。

七つ星なんてそんなはずないけど。揚州の隣のこの町は揚州飯店(ホテル)から日帰りでちょうどいい。泊まったり食ったりで楽しむ街ではない。僕にとって鎮江のポイントは金山寺だった。

ただ「お酢」が有名で味がまろやからしい。やず屋の黒酢のCMが撮られたそうでCM会社はいい場所をよく知っているなと思った。「西津渡古街」がその場所で小さく懐かしい夢で見たような場所だ。

金山寺はその近くにある。だが、どうせ黒酢や金山寺味噌狙いの人も多いだろうが、言っとくけどおいしくないし、「西津渡古街」に行っても黒酢はないし金山寺に行っても味噌はない。上海の免税店で日本製を買った方がうまい。

阿倍仲麻呂の歌碑もあったが最近建てたまやかしだ。行く必要はない。

あまり面白くない一日をすごし夕方金山寺の塔に登った。さすがにここはよかった。広くひらけた展望に、目を輝かして先進文物に触れ学習した遣唐使たちの姿を想像した。現実に見えたのは侵食する資本主義的生産様式、すなはち無計画な工場群だったが。

まあよしとしよう。資本主義はどんなに大きくなっても自転車だ。止まったら倒れる。

坂道を下って帰っていると下からお坊さんが上ってきた。僕はせめて記念にでもなればと思って、写真をとってもいいですか、と申し出た。お坊さんはどの観光客もそういうのだろう。ちょっとうんざりした表情を浮かべた。まずかったのだ。でも僕の心は、どうか分かって下さい、と願っていた。僕は写真を集めて喜ぶバカではありません、という気持ちでいっぱいだった。

お坊さんは言った。「写真は何にしますか。」僕は、「お話をしたいのでその記念にしたいのです。」と言った。すると「照片(写真)? 不行(ダメ).来(来なさい).」と簡単に言うとどこの者とも知れぬ僕を金山寺の奥につれていった。僕はそこで、金山寺味噌を食うよりはるかに貴重な経験をすることになる。

Posted at 2013/01/20
 
 
 
 
 
 

揚州。落ち着いた街のままでいてくれ。

2013年02月22日 | 旅行

街はいろんな原因で壊れていく。共産党が見栄を張ってやたらのっぽなビルを建てるとき痩西湖で漢詩を読むことはできなくなる。外資が従順さと低賃金を求めて日本の地方にある工業団地のようなそっけない工場を立てるとき街は壊れる。

でももっとも破壊力のある者は日本の無教養な年金旅行者どもだ。ロビーで大声を出す。犬を呼ぶようにガイドを呼ぶ。不似合いな自身の服装に気づいてもいない。そして究極はキンキンギラギラのホテルを好み少女を躍らせて泥酔するロリコン爺たちめ。

品も何もありゃしない。

絶対ではないが比較的ましなホテルがある。フランスの優柔不断シラク前大統領も泊まった。胡錦涛主席や温家宝首相なども宿泊した。揚州迎賓館。痩西湖に近い。痩西湖は西湖ほど幅が広くないのでこの名がある。

朝ゆっくり歩いていると通学途中の小学生がひやかした。ガイドの女性は猛然と反撃し小学生を追っ払った。日本語を話すと日本人のような気がしてしまうがやっぱり中国人だ。このガイドさんとは仲良くなって、少しだけどビジネスを越えて心が通った気がしている。僕の独りよがりかもしれない。

彼女は僕の中国語の勉強にと本を買ってくれた。広い講堂みたいなところにつーんと本のにおいがした。書肆である。綺麗なところもあったがあえて安いからとここを紹介した。

悪いが僕は中国語を勉強する気はない。高校の時習った漢文を書いて韓国語の読みをつければ十分だ。時間になったのでガイドを帰し僕はひろばに人だかりがしているところに行ってみた。日本のチマキの3倍ぐらいある大きなチマキを食べた。

人だかりは移動サーカスだった。ついでに移動遊園地。チケットを買うにもチマキを買うにも悠然たる漢詩の世界はない。足が浮きそうになって後ろから手を伸ばし、なんか知らないチケットを買った。

ティーカップがぐるぐる回る奴だったがギアを見て乗るのをやめた。カップに対ししてギアが小さい。今にやるぞ。ま、知ったことではないが。

夜になって人が集まってきた。何があるのか聞いても要領を得ない。ただ、二階に飾られたクジャクの模型が羽根を開いたり閉じたりするだけだった。人々は心底楽しそうだった。

僕はこれに何を言うことができよう。僕らは次から次にくる光や音の刺激に神経が麻痺しているのかもしれない。ホテルに帰った僕は15分に一回、思い出したように上がる花火と歓声に、遠い日の花火を思い出した。

Posted at 2013/01/17

鑑真さん、行ってらっしゃい。ヨーグルト伝えてね。

2013年02月10日 | 旅行

彼、鑑真が鹿児島県坊津にいたるのは、ここ揚州大明寺を出て数度の失敗を経なければならなかった。失明していたという説が有力であるが少しは見えていたという説もある。いずれにせよ視力を落としていたのには間違いない。

日本からの留学僧たちの懇願に、心を決めた鑑真は男だった。これほど優秀な若者が命を賭して学びに来ている。鑑真は、帰られる可能性はほとんどなく、帰るつもりは全くなかった。

こいつらは教えがいのある奴らだ。そう感じたときすべてを投げうつ覚悟ができた。「得天下英才而教育之」(天下の秀才を集めて教育す。)と孟子は言ったが、鑑真もおなじ気持であっただろう。僕は仕事のうちでこれほど楽しいことはないと思う。

僕のようなとくにすぐれてはいない教師でも、教えていてワクワクすることがある。教えたいことが相手にきちんと伝わった瞬間はこちらにもテレパシーのように分かるものだ。

先生のおっしゃることはよく分かりました。もっと問題を出してください。と食い下がる学生。日本には10年ぐらい前までいた。韓国には今も多い。授業の後、列をなして質問をしていた学生たちがある日突然いなくなる。僕という人間は能力的に質問する価値がないと見られてしまったのだ。

反面その恐怖があるから楽しい。優れた生徒ほどバカと言われてもついてくる。本物のバカは言い訳が上手でプライドだけが高い。これは教師も同じで、教師同士で質問をするということはなかなかしにくいことだ。そこを乗り越え質問してくる人はよく分かっている人だ。分かったふりをする人ほどごまかし野郎で生徒がそれをよく見ている。

たとえアホみたいな問題でも、教室で一人残って歯を食いしばって僕の皮肉にも耐え、頑張る生徒がいた。僕は自分の彼女と遊ぶのに忙しかったので、その頑張り屋の彼女がその後どうなったか知らない。

ちょっと反省している。女と乳繰り合っている場合じゃなかったな。本当の人間の喜びを僕はあえて捨ててしまったんじゃないか。傲慢にも、朝鮮人に教えなくともやりたいことはたくさんあるとか思ってしまった。日本の高校でもせっかく日本有数の受験校に行きながらぜいたくなことに辞めてしまった。食えるからいいんだ。という言い訳はただの怠け心じゃなかったのか。

少しずつその気持ちが大きくなってきた。

日本にいてもこんな反省は絶対できない。清の康煕帝、乾隆帝がなぜ痩西湖を愛したか。ほとりで頭を抱え込んだときから、「おまえは人生に真面目であったか。」と言う声が絶えることはない。

すきな街揚州。よく考えた街、書けばたくさんありますが明るくないのでダイジェスト
Posted at 2013/01/16


物資は揚州に集まり世界に散った。

2013年02月10日 | 旅行

揚子江の対岸から揚州に入った。サメの骨格標本みたいに内部ががらんどうになっているフェリーだ。そのフェリーにはわずかな自動車と多くの自転車やバイクと、気違いになってしがみついている支那人たちがいる。

かつてここは日本の駆逐艦も遡上した、川というより完全に海だ。アメリカ海軍なら重巡も入っただろう。そこを30分以上かけてのんびり対岸の揚州に渡った。僕の一番好きな街揚州だ。

で、ここからすこし物理の話をしますので拒否反応の出る人は下のほうに読み飛ばしてください。ブリッジは入ることができなかったのでそこへ行く階段に腰掛けてどんな操船をするか観察していた。

一般に川は中央が深い。そうすると流速も早い。このように部分的に流速のことなる川を横切るとき目標に向かって一直線に船を動かすと膨大な距離と燃料の浪費になる。それは船に対して直線で対岸に近づいているが、河に対してはずいぶん無駄な軌跡を描いているのだ。川の中央ではほとんど船を上流に向けなければならない。船の推力成分のうち対岸に向かうベクトル成分はわずかなはずである。

ここで船の燃料と軌跡と二つの話があるので軌跡に限る。川に対して最小の軌跡を描くよう操舵するのが合理的である。

川は水である。つまりニュートン流体である。つまりせん断力はせん断力からの距離に比例して小さくなるから、深いところは早く流れる。

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船はいったん目的地のある対岸と逆方向に上流へ進んだ。そこは流れがゆるやかだからだ。そして無理をせず流されるまま下流へ向かった。わずかにエンジンをまわし目的地のはるか下流についた。そして流れの緩やかな船着き場に向かった。

船は大きなエス字を描いて川を渡った。陸地にたいしては大きなロスのように見えるが時間から言っても燃料から言っても距離から言ってもこのエス字が一番合理的だ。

船員はつまらなさそうに操船を続けた。この船員はもっと称えられなければならない。合理的な曲線を描きつつ方程式を見出すのは日本の高校生には無理だ。どんなに数学ができてもこのグラフの概形は書けない。日本のような教育をしてチイチイパッパお遊びしましょの数学ゴッコでは絶対解けない。

船員は経験的に学びとっただけだろう。ただ、ぼくは連想してしまった。数学オリンピックでいつまでたってもブザマな成績しかとれぬ日本の学生の哀れさよ。周辺に広がる学問に興味を向けるゆとりも能力もないからだ。中国の子供はまず紙拾いから始める。それを綴じてノートをつくり日本なんかに負けるもんかと頑張っている。

日本人は与えられた問題を上手に解こうとする。そんなやつどの会社にもいらない。与えられない問題には見向きもしない。どうして飛躍的、革命的製品が登場しようか。

Posted at 2013/01/14

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・孫文、郭沫若、大日本帝国の懐は深い。

2013年02月10日 | 旅行

シャングリラ ホテル 杭州の写真

シャングリラホテル(トリップアドバイザー提供)

現代の偏狭無学の愛国者たちには信じられないことだろう。帝国は、敵あるいは敵になりそうな者まで優秀であれば無条件に内地への留学を許した。そのころの日本人は一高がどれほど狭き門か、海兵が、陸士がそうであるかよく知っていた。

そこで一般の日本人は、自分たちが逆立ちしても通らない学校にやすやすと合格し留学する朝鮮人や支那人を尊敬した。九州、とくに福岡佐賀に関係した中国人に孫文、郭沫若(かくまつじゃく)がいる。九州大学は簡単に入学できる大学で、とくに文科系は3次募集までして全員を合格させても定員に満たない状況だった。ところが、医学部だけは例外だった。現在も東大理Ⅲに遜色ない。

四川省生まれのある男がまさにやすやすと九大医学部に合格した。彼の興味は多岐にわたり、白亜の塔に籠る気はさらさらなかった。祖国の危機を感じると急いで帰国し蒋介石とともに闘う。しかし国民党のでたらめな軍規と蒋介石の反動的姿勢に愛想をつかせ、南昌蜂起に参加し毛沢東とともに闘う。蒋介石のしつこい性格を知っていた彼は、危険を感じ再度来日し千葉県に身をひそめる。

帝国は鷹揚だ。そのころすでにこの小帝国は大陸の一角に食いつき日の丸を立てていた。いわば敵の子分に逃げ場を提供したのみならず研究の場まで与えた。蒋介石が刺客を送る恐れがあるので彼は一時佐賀県の古湯温泉に避難した。古湯温泉にお礼に書を残した。住民はそれを石碑にした。戦後日中友好協会の名誉会長になった彼は再びこの地を訪れる。中国古代史の研究、詩人、翻訳、戯曲「屈原」、内戦、文化大革命。彼は万感胸に迫りその碑を見ただろう。「日中友好」

彼は200年、300年分の人生を生きた。郭沫若その人である。

孫文については「一兆円ください」のタイトルで書いていますのでそちらも読んでください。

「杭州飯店」と入口にあるのは彼、郭沫若の字だ。このホテルはニクソンも来た。マンデラさんも来た。ニクソンは実は派手なことが嫌いだ。中国はよくホテルを選んだ。杭州香格里拉飯店(杭州シャングリ・ラ・ホテル)。

日本人はベッドだけの部屋に将棋盤程度のテーブルがあると満足する。モーテルばっかり泊まっていると精神を病むぞ。

ここのVIPルームに泊まれ。世界一働く国民はこれくらいいい目にあっていいはずだ。ケバいモーテルのニセ大理石に喜ぶな。腐敗したジャンクフードを食うな。世界一の国民は世界一くつろごう。

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。

Posted at 2013/01/09

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・組織は腐る、かならず腐る。

2013年02月10日 | 旅行

なぜ学校は大事なことを教えなかったか。組織は腐る、という大事なことを。たとえば国鉄時代。国鉄マンになろうと思った人の心がすべて腐っているわけではない。しかしなってしまった人の心はすべて腐っている。一つや二つの例外をあげるのではなく本質的に反論できる人はかかってこい。

僕が若いころ、僕に不愉快な思いをさせた国鉄の窓口の奴はまだ生きている。さあ死ぬ前になんとか言ったらどうだ。不要な人間をゴロゴロ抱えて組織を守る。それを腐るというんだ。

この不愉快な思いをさせた国労は国鉄清算事業団の中に押し込められ死んでいった。つけを国民にまわし草取りをして風呂に入りカネをもらうのは泥棒だ。朝鮮人でもそんなことはしない。

ちょっとそれに近いのをここ杭州で見た。まあ日本に比べたらかわいいもんだ。

僕を含め乗客はすでに飛行機に乗りこんでいた。上海行きのその飛行機が12時を10分ぐらい過ぎたその時、管制官は食事の時間だと言って仕事を辞めてしまった。しばらくして自転車に乗った制服がやってきて口げんかをはじめたのだ。

CAたちも自分たちの仕事を早く終わらせたいためにさんざんわめいていたが、乗客のことはすっかり忘れている。昼になれば何人でも腹が減る。分からん奴らだ。

さらに数年前の話だが、待合室に時刻表がなかったので心配に思っていた。定刻は分かっているが出るのかでないのか、遅れるのかが分からない。すると自転車に乗った係員が黒板をぶら下げてきてその乗ってきた自転車に建てかけた。多分解放前からの物だろう。これでマルクスレーニン主義を講義したんじゃないか。読めなかった。

人民解放軍がいたので一緒に写真を取ってくれと頼んだら僕に解放軍の帽子をかぶせてくれた。写真を送ろうと言ったら怒られるから辞めてくれと言い軍用の飛行機に乗りこんで行った。軍はこのようにゆとりがあったが警察は厳しかった。

飛行場の周りを歩くとスクランブル用のミグが待機していたので写真を取った。警官がすっ飛んできてなんやら文句を言った。そのミグたるや旧式で遊園地でガキを載せて回っていそうな代物だ。国家の秘密とか言った。ばか。そんならお粗末な飛行機がばれるのが困るので国家の秘密なんだろ。でも飛行機に乗ってから撮るのは自由だからあとは飛行機からにしてくれと言って足早に立ち去った。

警官も無駄にエネルギーは使わんようだ。道路をはさんで菜館(レストラン)があったので入ってみた。コーヒーだけでもOKだったのでしばらくゆっくりした。そこには思いもしないチャイナドレス。僕は有り金すべてを取り出して、どうせやくざに巻きあげられたかもしれないカネだ。一番美人を呼んで「決して支配人に渡すなかれ。従業員で平等に分配せよ」と紙に書いてこっそり渡した。

一人分でも年収分はあったと思う。何回も確認したのにその美人は迷わずカネを支配人に渡した。支配人は僕の席に来てどういうことか尋ねた。僕はもう帰国するのでカネはいらないので記念品と思ってみんなで分けてくれといった。ホントはお前の取り分なんか渡したくなかったのに。

支配人の嬉しそうだったこと。民間人は腐らない。規則だ書類だ言うまえに、ちゃっかりいただけるモノはいただこう。そうだ、その融通性が腐敗を防ぐ。支配人はどうでもよかったが。

Posted at 2013/01/08

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・原理主義林彪はぼける前の毛沢東に消された

2013年02月10日 | 旅行

ちょっと歴史の話をしますから興味ない方は20行ぐらい読み飛ばしてください。

林彪は、北伐戦争と南昌蜂起を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。日中戦争期には平型関戦役の勝利にも功績があった。

革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。やがて林彪は中国の副主席にまで上り詰めるが、アメリカ帝国主義のいちづけにおいて長年の戦友たる毛と対立する。林彪はソ連修正主義ともアメリカ帝国主義とも戦えという考えだ。中国人民の革命精神の前にはなにも障害はないという原理主義を展開した。

威勢のいい原理主義にはバカがあおられて舞い上がるが問題は成果である。負けては元も子もない。

林彪はソ連に亡命を図るがモンゴル上空で墜落死する。米ソ二正面作戦は無理だと判断した毛はアメリカと妥協する。アメリカ帝国主義を張子の虎だと非難する北京放送はその日のうちに態度を変え、国交回復の祝賀キャンペーンを始めた。まず対ソ、ダマンスキー島国境紛争の解決を図る。一番驚いて理解できなかったのは佐藤栄作だ。

そのあと、林彪となぜか孔子に対する批判が熾烈を極めた。批林批孔だ。

生前林彪は杭州に自分の隠れ家をつくった。林彪の地下別荘といわれるものだ。

毛沢東を打倒して自ら中国の大統領になることを企んでいた林彪は、起こるかもしれない戦争のために自分の杭州にある別荘の下に大きな防空壕のような施設を建てた。

地下別荘と言っても地上にはホテル並みの施設があり、実際林彪は戦後そこで療養している。

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僕はそこに泊まった。西湖の西側にある。2階建ての落ち着いたホテルになっている。何十回建てだと高いのを競うのはバカが高いところに行きたがるのと同じだ。朝、2階から眺めると太極拳をしている人がいた。暗い売店や廊下に姑娘だけはごろごろいるがHYATTにいるような話しやすい人はいない。なんか警戒心を感じる。

日本の田舎者は歴史的意味を考えずただただ豪華さに酔う。そしてこんな古びていても歴史的価値のあるものを一顧だにしない。僕は外に出て太極拳をしている人のそばでまねごとをした。ずーっと無視されたままだった。

市内のホテルはたいていすぐ横が駐車場になっている。豪華なクルマの周りには明らかにやくざと分かるのがたむろしている。庭なんてゆとりはない。

かかわりあうと命がない。ここは中国なのだ。日本や韓国ではない。ところが僕は失敗した。ホテルの入り口に黒いマントを着て立ちはだかっている人がいた。滑稽でもある。みんなの邪魔になっているからどけと言った。若い時は怖くなかったけどこの頃は怖い。

その男はさっとよけた。これが危ない。チンピラはリトマス紙のようにその時反応するが、プロはエネルギーを使わず能率よく巻き上げる。

僕は空港へ逃げた。黙っておくべきだった。

Posted at 2013/01/05

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・完全に僕の負けだ。

2013年02月10日 | 旅行

杭州近郊の水真珠の養殖場を訪ねた。ちょうど茶畑の一部に小屋を建てお茶の販売場と展示場をつくっていたように、真珠も同様になっていた。

入ってもいいのかなという感じで恐る恐る中に入ると、変形小豆のような水真珠を売っていた。全く興味はなかったが御婦人には宝石のようなものらしい。でもとやかく言ってはいけないな。じゃああんたの腕時計はどうなんだと言われるとぐうの音も出なくなる。

外に出て湖のような養殖場を眺めていた。女の買い物とは男を待たせるためにするものだ。この悟りに到達するには多くの時間と無駄な争いが必要だった。いくらなんでももう悟った。

子供たちと遊んでいるとやや大きな少年が来た。日本で言うと小学六年生ぐらいだ。自分の父親がこの水真珠の養殖場を経営していること。ときどきする手伝いがとてもきついこと。水質が悪化していつまでやれるか分からないこと。などを話してくれた。話し好きな少年はほかにもたくさん話したが僕には聞き取りができなかった。

少年は僕の手を取って水ぎわまで引っ張って行った。そこにある細いロープを引っ張ると15センチぐらいの貝が10個ぐらい上がってきた。沖の方には本格的ないかだを組んで商売用の養殖がなされている。多分彼の父親が子供の遊びと練習を兼ねて少しまねごとをさせているのだろう。

僕はその貝をよーく見るふりをして「分かった分かった」というジェスチャーをした。少し思ったのは、こんな大きな貝を育ててあんな小豆のようないびつな真珠しか取れないのか、ということだ。カネを払うから文句言うな、と中国人を見下して日本の年金爺婆たちは変形小豆を買いあさる。

売店に積み上げられた水真珠を見るとそれを取り出す作業の膨大さに目がくらむ。

突然、少年はその大きな黒い貝をそこらの石で割りだした。よーく探すと中から水真珠が出てきた。僕が何も買わず売店から出てきてうろうろしたり子供たちと遊んだりしているので、貧乏な人と思ったのかな。

少年は取り出した真珠を僕にくれた。そして別の貝を僕に差し出し僕に割って取り出せと言った。配慮だ。僕がもらってばかりでは遠慮するから僕に作業させて取り出させるように考えたのだ。

僕は断った。ちょっと生臭かったのであんまり触りたくなかったが、一番の理由は少年が大事に育てている貝をここで何匹も殺したくなかった。しかもその成果たる水真珠は僕がもらって帰ることになるなんて。

写真を撮って住所を聞こうとしたが少年は言わなかった。その代わり売店の名刺を持ってきた。それでは少年は、僕の手紙を読んだお父さんからしかられることになる。「うちの真珠を何で勝手にやったんだ。」後日僕は写真だけ送った。返事はないので多分着いたと思う。

僕は交換に僕の持っているクロスのボールペンをあげようとした。ネームも入っていてちょうど記念にいいと思ったのに、少年は頑として受け取らなかった。

僕は交換をしようとした。ところが、中国人の少年は友情の伝達をしようとしていた。

こんな場合はあなたは一方的にただ受け取っていればいいのです、という言葉の光を少年の目の中に見た。

Posted at 2013/01/04

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・杭州望湖(ぼうこ)賓館。錯乱した九州国際大学は静かにしろ。

2013年02月10日 | 旅行

杭州望湖賓館にするかマルコポーロホテルにするかHYATTにするか思案したが、望湖の名に惹かれてここにした。窓から西湖が広がる方がいいようだが、どうせ昼間はあちこち動き回っているし夜は飲み食いに景色を見る暇もなくときは過ぎる。

ホールに行ってサカリのついた犬のようにチャイナドレスによだれを流す。腰まで切れあがったスリットに僕はちょっと鼻水が出そうになると鼻血じゃないかとドキドキした。ここまできて恥かいたらどうしよう、なんて。
とっくの昔に料理なんてどうでもよくなっている。

ホテルは一流ばっかりだが値段はパック旅行じゃないから高くない。しかも街中の代理店でDiscountできるのでこれが一番助かる。バスが来たぞ、出発するぞ、と、どことも知れずひきずられた生ごみみたいについていく日本人は哀れだ。

福岡からクルマで一時間ぐらいで佐賀空港に着く。上海線は信じられない料金になった。駐車場はタダだし、なんと佐賀から上海まで3000円。当時、僕は30万ぐらい払った。100倍損をした。ただカネ持ちは損をしない仕組みになっていて、座席のゆったり感、最新の映画があって
、胃から食物が逆流しそうになるCAはいない。

何事も値段分だな。上海から杭州の航空便は逆の意味で楽しい。乗りこむとCAが客席に座ってコーラを飲んでいた。綺麗だから我慢したが、日本のコネで入ったブスならパラシュートをつけて放り出せと思っただろう。ブラウスをスカートに押し込みながらトイレから出てくるCAなど書いたらきりがない。どうぞ行かれた時のお楽しみに。

僕は夜の散歩が好きだ。しかもその時は散髪に行こうと思った。MIT出身をしきりと自慢する九州国際大学の教員にロビーであった。日本人同士だったので酒に誘うと真顔になって辞退した。言った言葉がこうだ。

「殺されますよ。」

大学教授ですらこんな認識なんだな。そりゃ100回に1回は何かあるだろ。日本でも同じじゃないか。彼の頭の中は、日中の人民は相互に深く憎しみ合い杭州の人間は日本人を殺すチャンスを狙っている、ということで凝り固まっていた。MITで何をしてきたのかな。

兵は残虐行為をする。必ずする。それを餌に突進させる。強く正しくかっこいい皇軍はどこにもいない。祖国解放に燃える国民党がどこにいたか。新4軍の軍規は厳正であったか。

問題は戦後の後知恵で学校でウソを吹きこむことだ。韓国は「帝国の残虐行為」をキチガイのように教えた。中国は軍国主義と人民を峻別して教えた。

真っ暗な中、ホテルで借りた懐中電灯を頼りに床屋についた。椅子に座ると鏡と僕との間に自転車が置いてあった。お茶を飲みながら僕は眠ってしまったようだ。杭州の人はやさしい。起こさないでくれた。その上なぜか決してお金を取らなかった。

蘇東波      望湖楼

黒雲翻墨未遮山    黒雲 墨を翻して未だ山を遮らず
白雨跳珠乱入船    白雨 珠を跳らせて乱れて船に入る
巻地風来忽吹散    地を巻き 風来って忽ち吹き散じ
望湖楼下水如天    望湖楼下 水 天の如し

西湖に船を浮かべて酒を飲んでいたのだが、雨に降られてしまった。
「黒い雲がまるで墨をぶちまけたようにひろがって
まだ山をおおってないなと思っていると、それも束の間
きらめく雨粒がまるで真珠をばら撒いたように乱れ飛んで
船に降り込んできた。
大地を巻き上げるような勢いで大風が吹き寄せ
あっという間に雨や雲を吹き払うと
望湖楼のもと、湖面は天空のように青々と広がっている」

Posted at 2012/12/30

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・杭州、龍井茶(ロンジンチャ)を飲みながら

2013年02月10日 | 旅行

船頭が西湖の中の島に着けた。とたんに怒号と罵声の渦巻く悲しい喧騒が聞こえてきた。ジュース代が違う。バスが出るぞ。集合は何時ですょ。いろんな国の言葉が飛び交う。台無しだ。そんなに混乱といがみ合いが好きなら日本にいればいい。

船頭にすぐ船を出すように言ってほかに静かな島はないか聞いた。船頭は絶好の場所がありますよと言って、あまり人の行かないような島に連れていった。なぜ最初っから来なかったのか。マージン、マージン。枯れ葉が道いっぱいになっていて人が歩いていないことが分かった。20mほど行くと5m直径の広場があり隅っこにコーヒーショップがあった。

気分を立てなおしながらお店に近づいた。売店のおばさんが荷物をとられないようにしろとジェスチャーで示した。まさか。ここで盗賊は出ない。安心してテラスでコーヒーを飲みお茶を飲んだ。すると広場の広葉樹の隅からサルが狙っていた。イライラしたのでおばさんの許可を得て棒を持ち向かって行った。サルの動作は早く上に行き枝を振って僕をバカにした。

おばさんも彼女もそれを見て笑った。サルさえいなければ一日中いてもいいところだ。建物の中はレトロなモノにあふれ僕好みのいすやテーブルだった。ポコンと開いた広場は日の光を十分に受け古いコーヒーショップにその光は導かれていた。

湖上には直線道路ができていて電動バスが走っている。自転車も電動だ。水上も大きな船は電動だ。あほだな。電動は無条件にエコだと思う愚かしさよ。

龍井茶を求めて茶畑のありそうなところをクルマでうろついた。買ったはいいがまあ試飲してごらんというので飲んだがひどくまずかった。夜全然眠くならなかった。あれはお茶じゃなく覚せい剤だ。子供が遊んでいたので一人一人写真をとってやった。これは送り返されてこないので多分着いたと思う。子供はいいな。中国が憎い人は子供も憎いのかな。ゲームをしたり体操をしたりした。

茶畑の一部に小屋が建っていてお湯を沸かしてお客さんにふるまうようになっていた。台所を覗くとやかんに直接電熱線をつないで簡単に絶縁したものがあった。ワイルドです。そのやかんの写真撮ったら茶摘みのおばさんや小娘が笑った。道端まで転がり出て笑った。

彼女らにとっては日本は地球の反対側の国のようなもんだ。そこからわざわざ来てやかんの写真を撮る。面白いかもしれぬ。

僕は旅行案内書を書いているのではない。西湖の島がどこなのか。茶畑は。茶摘みの小娘はどこにいるのか。子供たちはどこか。それは自分で探すべきだ。

杭州にいるとき一度も雨が降ったことはなかった。杜甫は落ち着いた雨の景色と自分の心情をかさねて上記の歌を詠んだ。

 

   春夜雨を喜ぶ  杜甫

  好雨 時節を知り
  春に当たりて 乃(すなわ)ち発生す
  風に随いて 潜(ひそか)に夜に入り
  物を潤して 細かに声なし
  野径 雲 倶に黒く
  江船 火 独り明らかなり
  暁に紅の湿れる処をみれば
  花は錦官城に重からん

Posted at 2012/12/27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さあ、胡弓を聞こうじゃないか。・・・杭州、西湖(さいこ、せいこ)

2013年02月10日 | 旅行

杭州は僕のお気に入りの街だった。合計すれば少なくとも一カ月以上いたことになる。その杭州も日本軍は8年占領していた。嘉興にいたっては12年間の占領だ。ほぼ朝鮮支配の3分の1の期間だ。ところが人々は、飯(カネ)をくれるなら支配者はだれでもいいと考えている感じをうけた。

意外だろうが、上海以外では中国人の愛国心のなさに驚く。軍閥だ国民党だ共産党だ日本軍だ。こりゃ普通分からなくなんねえかい。僕は杭州や嘉興の普通の人の考えに同意する。日本では、グダグダ言うまえに、高速道路はタダにしたのか、児童手当は、天下りは。日本はウソつきが政治をしてひどい目にあった。こんなのが入れ替わり立ち替わり打ち上げ花火のようにスローガンを掲げて人民を利用しようとする。政権を信じなくなるのは当たり前だろ。安倍を信じるネトウヨが哀れだ。

中国の普通の人々をほめる気はない。政権がでたらめでもそれは自分がでたらめであることの言い訳にはならない。不誠実さは韓国人に負けていない。ということは世界最高だ。それでも自分のおかれた位置を把握し何とか状況改善の努力をしようとする姿を大勢の人に感じた。

それはまるで、深海魚のようにただ口をあけて努力もせず、いい話をじっと待っている韓国人よりは希望がある。

上海の影響がだんだん強くなってきてその分嫌いになってきたが、ゆっくりと時間が流れ、国家権力を信じない人たちがいる。僕は彼らの味方だ。

あ、また前置、ながすぎた。

そんなに旅行ばかりしてからけんはいったい何をしているんだ。と言われそうだ。やや大きな御世話だが、それに対する僕の言葉はこうだ。不愉快をこらえいくばくかの収入を得る、それは早死にや病気や自殺に一目散に駆けて行っている。不愉快なところにしがみつくほかない人間に高い給料を払うはずない。離れられないのは弱虫だからだ。たまの休みのオイル交換を楽しみに生きるしかなかろう。いなくてもいいような人間は貧困から脱出できない。

仕事が楽しいという人にも言いたい。そんならなぜ女房と結婚した。女房は大迷惑だ。仕事と結婚しろよ。

というような鼓動を早める話とは隔絶して西湖の船は湖面を滑った。櫓をこぐ人が櫓を止めて時折胡弓を弾く。対岸がかすむ広い湖面に波はない。湖の深さはわずか3m。長さ5メートル程度の平底の船に茣蓙が敷いてある。人間はニュートリノをいろいろいじって過去に行こうとしなくてよい。彼女に膝枕をしてもらい船底に寝そべると、両舷が風を遮断して胡弓の調べだけの世界が広がる。たやすく千年の過去に行ける。

今日は小倉の街まで病気見舞いに行って、帰りは直方(のおがた)という町にあるAEONで杭州定食というのを食べて来たばかりだ。1300円もしたので二度と食べない。エビが山盛りになっていたのでいやおうなく運河のエビ地獄を思い出した。

下馬飲君酒 問君何所之
君言不得意 歸臥南山陲
但去莫復問 白雲無盡時  王維

馬を下りて君と酒を飲む 「どこに行くんだい」
「うまくいかなかったんだよ」 「南山のふもとに帰って落ち着くつもりだ」
「ただ去るだけさ、もう聞かないでくれ」 白い雲が尽きることなく流れる

多分うまくいかなかったのは科挙の試験でしょう。僕たちはたいていこの「君」のようにうまくいかない方の人間なんですよね。最後の白雲に希望を感じます。専門外ですので誤りがありましたらご容赦ください。

Posted at 2012/12/27

隋の煬帝(ようだい)、江南江を開鑿す(掘った)・・・蘇州~嘉興  2

2013年02月10日 | 旅行

尖閣尖閣と揉めている中、わざわざ中国の話題なんぞ取り上げおって、と不愉快さを感じる低能は、無心に上海ガニを食べに上海に行く能天気よりたちが悪い。何回言っても分からんな。今こそ中国をその広さと時間軸から正確に知らねばならない時だ。

で、長くなるまえに本題。

船着き場と言っても石段だけで、そこに運河いっぱいの船が来た。娯楽のない田舎だ。僕が乗客と思っていた人はほとんど見物の人たちだった。乗りこんだのは7,8人で、ちょっと身なりもよくバスや鉄道の喧騒を避けて来られる時間的にも金銭的にもゆとりのある人たちだ。

エンジン音からして50?程度だ。のろい。堤防の上の姑娘(クーニャン)が自転車で追い越していく。手を振るとほとんど全員が手を振り返してくれる。手を振らない娘は恥ずかしがっているのだ。男はどうだか知らない。僕が手を振らなかったから。そんな無駄なことはしない。

3ノットぐらいで船は進んだ。煬帝の乗った「龍船」と大差ない。煬帝は全工程を行ったはずだから何カ月もかかっただろう。すぐ日は暮れて川辺に海老採りの仕掛けが目立ってきた。仄かなろうそくを四角に紙で囲ってある。僕の乗った船はキラキラ電飾の動力船だ。引き波で壊れてしまう仕掛けもあるそうだ。とくに今は日本人が乗る大型船が高速で通行するようになり、巻き起こす波で運河が壊れているという。

1500年間一度も壊れなかったものを壊して中国を感じるんだな。冥土の土産にするんだったら何をしてもよかろう。

もうエビはいらん、と思ったが3m直径のアルミの盆の上にざるで湯がいたエビを持ってきて中央の1mぐらいの盆にのせた。山盛りだ。僕は3匹でいい。ところっが500匹はある。剥いた皮はと聞いたら、そのままテーブルの上におけと言った。食傷するとチャイナドレスたちはそのテーブルを抱えて船尾に行き、思い切って残飯を運河に投げ込んだ。

なるほど。リサイクルのエコだな。これはいい。日本では牛乳パックに血眼になり普通ごみの中に牛乳パックがあったら人殺しでもしたように怒り狂うババアがいる。そんな人は早く土に帰ってほしい。節約したいなら瓶のデポジット制にしろ。

することがないのでみんなとマージャンをした。少しルールが違ったが数字のプロが負けるわけにはいかない。酒も入り勝ったか負けたか分からなくなった。翌日は二日酔いで遅く起きる。しばらくするとエビが出る。顔は美人だがやる気のないチャイナドレスたち。少しはメニューを変えろ。客が食っていようが手をつけていなかろうが時間が来たら運河に放りこむ。

美人だから我慢するが公務員制度とは人間を腐らせる制度だ。日教組、国労、全逓。日本のブスどもは穴を掘って埋めなければならない。

今写真を眺めながら思い出している。姑娘にもチャイナドレスにも写真を渡す機会はなかったので全部僕の手元にある。どの一人を嫁さんにしてもいいレベルだ。

船は迷路のようになりだした運河を縫って進んだ。到着は遅れた。あたりまえだ。距離を速度で割れ。途中の嘉興についたときですら四日後の朝だった。

もう我慢の限界だ。その時の僕はほとんど立って歩くエビになっていた。エビは嘉興で降りた。

Posted at 2012/12/25