(株)カプロラクタム-blog

果たしてココは何処なのだろうか・・・
否!ココは(株)カプロラクタム代表取締役兼社員αのweblogである!

けんぼうは1年生

2012年04月30日 | 心境
子どもに絵本を読み聞かせしていて涙が出たのは初めての経験でした。

この絵本は岐阜県出身の岸 武雄さんという方の作品で、作中に伊吹山が登場し、30年前には全国読書感想文コンクールの課題図書にもなった名作です。自分も1年生の時に初めて学級文庫にあったのを読んで、軽くトラウマになった本ですが、不思議とその後も図書館でこの本を見かける度に手にとって読んでいた覚えがあります。あと、あるページから後ろを読まないようにしていた記憶も・・・教員になってから、低学年を受け持った年には必ずこの時期にちゃんと全部読み聞かせをすることにしていますが、今年は妹の子が3才になったからか、年を喰ったからか、2度目の1年生だからか、3年生で亡くなった教え子の学年が6年生になったからか、もうボロボロでした。何人かつられて泣いてくれたことが救いかな?

「おとうちゃーん」
お父さんの帰りを待ち、駆け寄ってくる3才のけんぼう。
小さいけんぼうのためにも、長生きしなくてはと心に誓うお父さん。
しかし、それから間もなくして、けんぼうは交通事故で亡くなってしまう。
3年が経ち、お父さんはいつもの帰り道にふと思う。
けんぼうが生きていたら…「もう1年生だなあ」と。

岸武雄さんは今年亡くなったそうですが、あと半年生きていたら100歳だったそうです。つか99歳でも大往生ですね。やたらと交通事故が多かったこの4月、先人の如くには生きられなくとも、親より早く死ぬ不幸だけはもう二度と味わわせたくないと、この本を読む度に決意を新たにします。

見通し

2012年04月29日 | Weblog
そんなわけで、今年も1年生となりました。

自分もこれで教員10周年を迎えたわけですが、同じ学年を2回連続で受け持つのはこれが初めてです。そのお初が1年生であったことも驚きですが、さらに驚くのは、今年1年間の「見通し」がずば抜けていることです。今までに持ったことのある学年や、同じ学校の2年目以降は、少なからずこういう気分をもつわけですけど、やはりどうしても忘れていることや知らないこともあるわけで、「同じ学年の2年目」の“先見の明”は、その比ではありません。「次に掃除当番を決めて、次に日直を決めて」というレベルではなく、「今日は雨だから手に何か持たせて帰すと必ず1人は転んで5針縫うから、本袋はランドセルに突っ込む。」「明日は公園に行くから、朝早く行ってゲートボールしているご老人達にお帰り願う。」「ひらがなプリントの“て”の次に“そ”は無理。“ろ”を挟むべき。」というレベルの見通しの上に生活できるのです(笑)・・・分かってもらえるかなあ。

自分は人事に口を出さない主義なので、叶わずとも一応学年の希望を聞いてもらえる所を毎回「一任」で出しています。市内の普通の小学校には、中学校経験のある「高学年専門」の方と、「低学年専門」のオバチャンとの棲み分けがあり、自分みたいに「どこでもいいよ~♪」という教員がいないと回らない現状がどこでも少なからずありますので、好きに使ってもらっています。1年生は早帰りが多く、主だった行事も少ないため、基本的にオバチャンに人気が高いわけです。男性である自分が昨年度持てたのはもう1生に1度の幸運だろうなあと張り切って勤め上げたわけですが、本当にまさかの展開でした。当然子どもは違うわけで、全く同じと言うわけにはいきませんけど、去年の「見通し」があることが、これほどありがたいと感じたことはありませんね。昨年以上に張り切れそうです。

まあ、だからといって主任級の校務分掌を2つも3つも被せてくるのはどうかと毎年思っていますが・・・orz

アナログ完全終了

2012年04月28日 | 震災
被災地を回りながら、期せずしてアナログ放送の完全終了に立ち会うことになりました。

岐阜に住んでいると既に過去の話ですが、20011年7月24日に終了したアナログ放送が、ここ被災地では2012年3月31日まで続いていたわけです。朝のニュースで正午終了を聞いて、「まだやっていたのだなあ」と思いました。

実際はカーナビもホテルや飲食店のテレビもデジタル化されていたので、正午を境に劇的な変化があったわけではありませんでした。地震などで壊れてしまったなら買い替える理由にもなりますし、むしろこの8ヶ月遅らせた意味があったのかは疑問です。

・・・というわけで、一ヶ月にも渡った東北慰問記もコレにてネタ切れです(笑)

一ノ蔵

2012年04月26日 | 震災
この東北旅行では、「一ノ蔵」というお酒を飲んでいました。

上記リンクを見る限り、こちらの酒蔵も震災で相当の被害が出た模様です。電気もつかない中、皆の力で片付けて僅か1ヶ月で復興を成し遂げたそうです。1年経って、町並みに変化がない地区は不覚にも「それほど被害がなかった地区だったのだ」という印象をもって旅していましたが、建物自体は無事でも当然震度5以上のクラスの地震は建物の内部はぐちゃぐちゃになりますから、津波が来なかった地区でも、地震により大きな危害が出たところは非常に広範囲にわたって存在したわけです。やっときれいに片付いたところでまた余震でビンが割れて・・・の繰り返しの中、よくぞ立ち直ったものだと思います。初日にコンビニで買って車に置き、4日間宿でちびちびと飲んでいました。非常に美味しかったです。

さらに仙台空港で限定酒らしきものを見つけたので、最後にお土産にも買って行きました。「復興応援ボトル」ということで、売上金は全額寄付されるとのこと。でも、これ自分は1550円払って相応の対価を得ていますから、寄付するのは売り手側ですよね。喜んで買ったけど、本当に応援したことになるのかな?

2012年04月25日 | 震災

昨年の漢字騒動で一気に安い言葉に成り下がってしまいましたね。ちなみにこれは松島で買った絆Tシャツです(笑)絆は最早商売道具?

岐阜県の教員の中?では、県外交流といって、宮城と鹿児島の教員と、毎年一定数の人事交流があるそうです。鹿児島は昔、岐阜県南西部の木曽三川分流工事の際に、私財を投じて尽力した薩摩義士という存在がありますから、岐阜にしてみれば多大なる恩のある県であり、鹿児島にとっても恐らく忘れ得ぬ特別な県なわけです。しかし、宮城はというと、実は良くわかりません。可能性として、岐阜市のシンボルに織田信長が治めた金華山という山がありますが、その山にまつわる伝説に、あるドラ息子が家を追い出され、放浪した末に宮城県の金華山にたどり着き、そこの石を無断で持って帰った所、父親に怒鳴られてその石を裏に投げたところ、翌日そこに山ができていたという伝説があり、そういう縁なのかな?と思っています。ちなみにこれは金華山が火山でなく、土地が隆起してできた山であることから、ある日突然出現したみたいな言い伝えからできた伝説ではないかと考えられます。あと、金華山の別名を一石山と言い、山の神様の怒りを感じたその息子は、その後はマジメな青年になったとさ・・・というオチですが、それはまあどうでもいいか(笑)宮城側にメリットがないのでこの説は微妙ですが、まあとにかく交流があるのは事実です。

そんなわけで、7年前に岐阜に交流でみえていた宮城の先生と、幸運にも飲む機会を得ることができました。そういう人事のお約束か、戻られてからは教頭先生になったそうですが、震災に遭い、1ヶ月ぐらい何の情報もない中、電気も水道もガソリンもない生活を強いられていたそうです。幸い先生の勤務校は内陸地で津波の被害を受けず、また家族親族も全員無事で避難生活の必要まではなかったそうですが、岐阜に来る前にみえた名取市の小学校と連絡を取り、一時的に校舎を貸して一緒に勉強をしていたそうです。震災後の1ヶ月間は、自分の生活で精一杯で、とてもじゃないけど回りに気を配れる状況じゃない中、前任校にまで救いの手を差し伸べていたとは・・・毎日報道漬けになり、呑気に安否確認サイトで何回か名前をググっていた程度だった自分はなんて幸せだったのだろうと思いました。当事者の話を聞いて感じたのは、何とか自分達で立ち直ろうという「地元」のエネルギーです。逆に、「外側」の人間である自分に何ができるのか・・・恐る恐る尋ねてみた所、「7年も経っているのに、こうして俺を忘れないでいてくれたことが一番嬉しい。」という答えでした。一緒の学校だったときの先生からも何人か電話があったらしく、嬉しそうに話してくれました。家族を失い、悲しい思いをされている方も、こうした遠方からの励ましの声や支えなどが力になっているのでしょう。また、こちらの方でも同規模の地震が想定されているわけで、そのときには是非この震災を教訓に、1人でも多く生き延びて欲しいと、逆に言われました。

逆に困ることは、1にマスコミ、2にお金だということでした。お金はまあ納得ですが、大川小などは、しばらく誰も取材に来なかったくせに、1周年を前にマスコミがどどっと押し寄せてきて、学校近辺は満員。遺族が撮影されないよう一時的に避難していたという話も聞きました。静かに弔うことすらさせてもらえないなんて・・・ヤツラは何か楽しい記念日と勘違いしている様子だったそうです。多分これから毎年そうなのでしょう。そこまでひどいとは・・・思っていたけど(笑)やはり、相手の気持ちになって考えるという常識が、今のメディアには圧倒的に欠けていますね。

今回の旅で、安っぽい言葉だけの絆でなく、本当の絆を結べたような気がしました。

宮城ラーメン事情

2012年04月24日 | Weblog
話は10年前に溯ります。

当時大学4年生だった自分は、ゼミの合宿で千葉に行った際、教授から「はい帰りの電車賃ね。解散!」と1万5千円渡されて駅に置き去りにされたことがあり、迷った挙句、その金で青春18切符を購入し、さらに宮城の大学に行っていた友人に「夕飯おごるから1晩泊めてくれ」と頼み、思い付きのみで仙台まで言ったことがありました。まあそれが前述の松島クイックターンにつながるわけですが(笑)ちなみにその友達と牛タンを初めて食べたのもこの時です。

そんなわけで、宮城の知り合いの先生と2時間ほど話して別れた後、何故か宿とは反対方向の電車に乗せられてしまったので、途中気付いて降りた駅からまた仙台駅まで歩くことにしました。といっても一駅か二駅なのですが、歩きがてら小腹が空いたので、ラーメンでも食べようとアーケード街に迷い込みました。

ラーメン屋がない・・・orz

薄々感付いてはいました。と言うか、10年前にも仙台で「ご当地ラーメン」を探した時既に「仙台にはご当地ラーメンがない」という結論に至っていたわけです。しかし、流石に10年も経ち、その間ラーメンの平均値段が150円ほど上がり、つけ麺ブームも通り過ぎたわけで、何かしらの変革があるだろうとささやかな期待を寄せていたのですが、10年経っても現状が変わっていなかったのには驚きました。

岐阜で言えば、とりあえず駅周辺に10軒はガチですし、少し離れたところにも2区画に1軒はあります。それが、ココでその頻度以上に登場するのが牛タン専門店であり、次に何故かギョーザ専門店が多く、どれだけラーメンをディスれば気が済むのかと思うほど、ラーメン屋に辿り着きませんでした。前回牛タンセットが「飲みの〆」と書きましたが、比喩でなくまさにその通りなのです。さすが米どころ・・・まあ、タンは基本米国産でご飯も麦飯なのですが。
自分は週1コンマいくつの頻度でラーメンを食べていますし、ラーメンのメッカに旅行すれば、それこそ1日3杯やハシゴはデフォルトです。それが、今回の旅行で食べたのは気仙沼ラーメン650円のみ。

しかも、気仙沼には申し訳ないですが味はオマケで平均点です。魚のすり身でなくフカヒレだったらまた別かもしれませんけどね。

結局1時間ほどさまよって、ようやく1軒だけ見つけてありつけました。630円でしたがこれも可もなく不可もなくという味。誰か仙台で一旗上げてみようというラーメン屋はいないのですかね。「牛タンラーメン」で十分人は来ると思うのですが。

牛タン

2012年04月23日 | Weblog
今回の旅では、牛タンを都合3回も食べました。

仙台の牛タンと言えば有名なので、説明は要らないかもしれませんが一応。基本この辺で「牛タン」と言えば、焼肉で言うと「前菜」に相当する、平べったいアレなわけですけど、仙台の牛タンは「メインディッシュ」もしくは「飲みの〆」に相当する、非常にアツイ存在感を秘めた食べ物です。自分は10年前に1度来た際に食べましたが、後にも先にもあんなアツイ牛タンにお目にかかったことは一度もありませんでした。

1日目、情報収集も兼ねて仙台駅にやってきたので、さっそく牛タンが食べられる店を探しました。駅の中に、ラーメン街ならぬ「牛タン街」があり、昼時だったため超満員。しかたなく隣のショッピングセンターの地下街にあった店で食べました。

初めて見た方は、コレが牛タン!?と思われるかもしれませんが、仙台ではコレが普通です。麦飯とテールスープが基本セットになっています。

コレは3日目に入った焼肉店で頼んだ牛タン。安物ですが、カルビのような扱いのようでした。焼肉店で頼んでも、こちらとは見た目が全く違いますね。

4日目に、宮城の知り合いの先生に連れて行ってもらった、牛タン発祥の店らしい「味太助」。残念ながら食べた後に思い出して撮ったので、食べかけですが(笑)味は1日目に食べたところよりさらに美味しかったです。

さらに家族のお土産にも買ったので、計4回食べることになりました。もうこれで10年分ぐらいは食べたかな・・・

山元

2012年04月22日 | 震災
南相馬市から戻る途中、山元町の山下駅という所へ行ってみました。

国道よりも海側にもう一本道があるとナビが示していたので、何度か行ってみたのですが、完全に工事車両専用の道のようになっていたので遠慮して戻ってきました。舗装もままならず、おそらくあったであろう街路樹や建物が全くといっていいほどなくなっていたからか、ものすごい海風が吹き荒れていました。山元町付近でもう一度挑戦した際に、この駅舎だった場所を発見しました。

ホームとトイレ以外は跡形もありませんでした。左側に見える赤い立て札には、「直線日本一」と書かれていましたが、真偽のほどは確かめようがありません。何しろホームの長さしか線路がなく、ホームから1歩出るともう何もありませんでしたから。自分の歩幅で237歩、およそ140mほどの短い路線になっていました。また、ただでさえ海風が激しいところに、遮蔽物が全くないと来て、立っていても吹き飛ばれそうな風が吹き荒れていました。

常磐線のこの辺りで、地震により電車が脱線し、立ち往生したもののたまたま乗り合わせた警官の誘導により、津波が来る前に避難して乗客が全員助かったと言うニュースがありました。本当に何もないところだったのですが、震災前の写真等を見ると、線路の両脇には家がずっと立ち並ぶ、それなりの駅前住宅地だったわけです。そこの住民の多くは、避難指示に従わずに600余名が命を落としてしまったとか。確かに海岸からは1km以上ある場所なので、気持ちは分からなくはないですが、旅行者が助かり、住人の長年の経験が仇となるとは皮肉なものです。

20分ぐらい風に当たって去ろうとした時、マイクロバスが団体さんを連れてきました。電車がなくなったから代替バスなのか・・・それにしては周囲数百mほど家らしきものはないし、皆微妙に笑顔だよな・・・まさか僅か1年で被災地観光ツアーなるものが既に登場しているのか!?東北恐るべし・・・

南相馬

2012年04月21日 | 震災
南下の旅は、南相馬市内にある、原発20km圏の立ち入り禁止区域で終わりました。

放射能について、以前にも一度触れましたが、「地元」と「それ以外」の人の感覚に、大きな隔たりがあることが行ってきて分かりました。ここから先は「地元」の人の感情を害す表現になってしまうかもしれませんがすいません。

例えば岐阜に住む我々にとっては、福島県を含めた東北・関東辺りまでを丸々“危険”だと思っている節が少しあります。僕が今回東北へ行ってきたと話すと、「放射能は大丈夫なの」と冗談っぽく聞いてくる先生もいましたし、震災後、東京の大学に入学が決まった息子を辞めさせようか考えていた先生もみえたからです。しかし実際「地元」東北や関東の人たちは、当然そんなこと全く気にせずに生活しているわけです。
ところが、そんな東北に住む知り合いの先生に、飲みの席で「福島に行ってきました。」と話すと、一瞬顔をしかめたのが分かりました。宮城の人にとっても、福島は“危険”という認識なのかな、と想像するのには十分でした。しかし実際「地元」福島の人たちは、全く気にせずに生活しているわけです。

車で南相馬市内に入り、驚いたのは、「あと○kmで立ち入り禁止区域」という看板が並んでいるにも関わらず、近所の人は誰も防護服どころかマスクすらつけていなかったことです。国道沿いのコンビニや外食の店も普通に営業していましたし、マンションには普通に洗濯物が干してありました。ここで、「驚いた」という表現を使いましたが、正直言って、ここまで来て実際に見るまで、自分もこの辺りは流石に”危険”だと思っていましたから、この“普通”の状況に逆に驚く始末だったわけです。認識を改めながら進んでいき、立ち入り禁止場所を視認して、Uターンしました。

この場所から約20km先が福島第一原発です。この時点で1時40分過ぎだったので、ナビによるとあと30分ほどの道のりのようです。ついでにもう一本別の細い道で行ってみたら、そこは道だけ封鎖されていたものの、監視している人影は見当たりませんでした。徒歩で入ろうと思えば入れそうでしたが、流石にそんなことはしませんでした。

おそらく、この辺りに住んでいる方にとっては、あの立ち入り禁止の向こうが“危険”であるという認識なのでしょう。しかし、4月の現時点で南相馬市の立ち入り禁止はほぼ解除されていますから、この日に入れなかった所からさらに数kmまで入れるようになっているはずです。で、だからといって人が戻るのかどうか・・・それは、新たに解除された「地元」の人と「それ以外」の人が同じことを考えたとき、答えが真っ二つに分かれてしまうのではないでしょうか。この状態が「感覚の隔たり」だと思うのです。
(岐阜人)東日本は危険→(東京人)東北は危険→(東北人)福島は危険→(福島人)南相馬は危険→(南相馬人)原発周辺は危険
・・・この感覚の恐ろしいところは、根拠を伴っていないことにあります。

何故そうなってしまったかの大きな原因は、テレビやネットもひっくるめたメディアの情報発信のあり方にあるのは間違いありません。宇宙服のような防護服に身を包んだ一般人が家に帰宅する映像を何度も見せられれば、そこは宇宙のような「異界の地」に思えてきてしまいます。そして、自分の「地元」が安全であると言う実感から、勝手に「異界の地」を想定してしまうと言うわけです。
しかし、放射能と言うものは、低レベルであればあるほど、距離が遠いほど、浴びる時間が短いほど、人体の影響は少なくなるものであり、数値で測ることも一応可能なわけです。自分は福島に行く前の一関の宿でラジウム温泉に入りましたが、ここで1時間湯船に浸かって浴びた放射能の方が、おそらく南相馬市内にいた1時間で浴びた量よりもはるかに多いと思います。しかも、それでもまだ福島第一原発直下に比べたら、月とスッポンの生き血のヘモグロビン1個ほどの違いがあることでしょう(笑)数値で示され、基準がはっきりしていれば、心配する必要など元来ないのです。まあ、数値がいい加減だったり、基準が曖昧だったりしているのも問題ですけど、それでも何かに理由をつけて“危険”だと考えたくなる気持ちは、実は誰にでも少なからずあるものです。

要するに、この「感覚の隔たり」の犯人は、放射能ではなく、“ケガレ”の思想なのではないかと言うことです。元は神道の概念の1つで、究極的には死のケガレ、血のケガレなど、キレイでなく、人が敢えて避けたくなるものの総称を指します。例えば歯ブラシや箸は、仮に最新技術を駆使して完全に洗浄したとしても、他人の使ったものを使うのはどうしても抵抗があります。歴史的には、“ケガレ”は差別と結びつき、2000年前に天下を取った農耕民族である弥生人が、狩猟を生業としてきた縄文人への差別から始まり、今の同和問題にまで続いているという説もあるほどです。子どもの感覚でも、「エンガチョ」と言う形で広く浸透しています。物理的な汚れでなく、内面的かつ永続的なものなので、簡単にキレイにすることができない、非常に始末の悪い思想です。
それと同じように、聞きなれない「放射能」というものが、今回新たな“ケガレ”として、我々日本人の深層意識の中に刷り込まれてしまったのではないでしょうか。目に見える数値は出なくとも、目に見えない何かを恐れて、必要以上に避けようとしている現状を見ると、今後何十年かして原発周辺の放射能が落ち着いたとしても、「地元」の人以外の人が住みだすかどうか、疑問が残ります。

まあ、日本人の良いところは「水に流す」即ち「禊(みそぎ)」をすることでその“ケガレ”を払いますから、そのうちすっかり忘れて何事もなかったように日常生活を行いだすかもしれませんが。

名取

2012年04月20日 | 震災
塩釜の後は、再び南下を始めました。

名取市は仙台空港のある市で、当然行きにも通ってきたわけですが、その時は全く土地勘が働かずに素通りしていました。しかし名取市閖上地区と言えば、その仙台空港から車で10分ほどの所にあり、かつ東日本大震災の津波到達の様子がNHKで30分ぐらいにわたって放映された所でもあり、人口の1割がなくなった地区でもあり、また自分の震災関連の記事に度々登場する「宮城の知り合いの先生」が、過去に赴任していた学校がある場所でもあります。

この辺りはずっと平野が続いており、津波も数kmに渡って押し寄せてきたそうです。建物があったのかなかったのか分からないような更地が見渡す限り広がっており、また所々に転々と漁船が打ち上げられていました。その数は、一瞥しただけも数隻を数えたので、その総数はおそらく2桁か、場合によっては3桁に届いているのかもしれません。

この前日にその先生と連絡が着き、7年ぶりぐらいに話をしました。本日この学校に寄るつもりだということも話したので、一応関係者の許可?を得たつもりになって伺った次第です。当然、うちの学校であれば、正門は休日であれば基本的に閉められ、「関係者以外立ち入り禁止」と張り紙がされているわけですが、ここにはその門自体がありません。また、学校を囲んでいたであろう樹木やフェンスもほとんどなく、敷地であったことを示すコンクリートも所々削り取られていました。やや遠慮がちに敷地内に入り、また誰かに咎められれば早々に退散するつもりで歩を進めました。

しかし、そんな心配は全く無用でした。と言うか、学校の建物自体がもう機能していなかったからです。正面玄関は開きっぱなしで窓ガラスは割れ放題、通用口?は扉すらありませんでした。校内は泥と砂がまだ残り、教室内にもなにもない、完全な廃墟と化していました。まあ、当然机いす等はあったでしょうから、既に片付けた後だということでしょう。注意深く見ると、1階の壁には泥の後が生々しく残っており、その汚れの到達点は首の高さを超えていました。津波の予想時刻を30分ほど越えた頃、校庭に津波が押し寄せ、体育館に移動していた100余名がまた一斉に校舎を駆け上がったそうです。最大では2階まで波が来たそうで、たまたま職員室や校長室は2階にあって無事でしたが、当然水も電気も使えません。ただ、トイレに「流す際はバケツの水を使ってください」の張り紙が残っていたので、しばらくの間、決して少なくない数がこの環境下で避難生活を送っていたのでしょう。

校庭には、「チビッコ丸」という舟の遊具がありました。「学校の中に舟があって、皆が遊んでいた。」と、宮城の先生が7年前に話してみえたのを思い出しました。漁業が盛んな地区なので、学校のシンボルだったのでしょう。しっかりと固定されていて無事流されずに済んだようですが、まさか学校付近にまで同じように舟が転々と地面に乗っかることになろうとは・・・

そのうち、体育館に人が入っていくのが見えました。支援物資の供給とか、もしかしたらまだ身元を捜す伝言板などがあるのでは?などと思いつつ、恐る恐る覗いてみて驚きました。一面のダンボールの山。支援物資ではなく、地元で見つかったであろうアルバムや写真の山でした。ボランティアによって洗浄・整理され、名前が判明しているものは50音順に並び、その他は手がかりの情報のメモと共に、ずらっと並べられていました。しかし、その方達の熱意に感嘆したものの、フルネームまで分かっているのにも関わらず、1年経っても持ち主が取りに訪れていないことに違和感を覚えました。子どもの七五三の写真や、結婚式、卒業アルバム、旅行の記録等々、皆命の次に大切なもののはずです。まさか1年経って、ココにそういったものが集められ、50音に分けられている情報を知らないわけはないでしょう。と言うことは、逆にその思い出を受け取り、かみ締めるのが辛い状況に苛まれているか、もしくは受け取り手がすでに存在しないということなのか・・・この裏には、仏具や位牌に加え、ランドセルや上靴・鍵盤楽器等もたくさん置いてありました。こちらも当然名前が判別できるものが多かったのですが、50近いランドセルの引き取り手が今だないというのは、新しいランドセルを手にしたからもう必要なくなったのか、津波を思い出すから心情的に受け取れないのか、または県外に引っ越して簡単に取りに来られないか、そのいずれかに違いない・・・と自分に言い聞かせたものの、もう1つの可能性がどうしても頭から消えず、無性に悲しくなりました。

1年生を教えていると、新しいランドセル1つに子どもがどれほどの喜びと期待を抱いているかが良く分かります。10年後でもいいから、必ず名前の主に取りに来てほしいなあと思いました。

塩釜

2012年04月19日 | 震災
4日目は、一関から一気に南下しました。

実はインターに入った時点でまだ行き先を決めていなかったわけですが、東北無料を生かして郡山方面から水戸まで攻めるプランをギリギリまで迷った挙句、東北慰問と言うコンセプトを思い出し、ふいに仙台空港方面へ行く方に曲がり、塩釜市へ行くことにしました。
とりあえず駅を目指し、観光案内所で目的地を物色。ちなみに塩釜市もかなり高低差のある土地らしく、港の辺りは大変だったようですが駅の辺りは無事だったそうです。ただ、やはり海端の道は街路樹が全て同一方向に曲がっていたり、所々砂地があったりと、被害の大きさが見え隠れしていました。また所々に瓦礫が積み上がっていました。
高いところから市内を一望できる場所を探し、塩釜神社を目指しました。

どこから登るのだろう・・・orz

もらった地図には駐車場の表示がなく、入り口までは来たのに付近をぐるぐるまわってもそれらしい駐車場は見当たりませんでした。かなり大きな神社なので有料無料は別にして全くないはずはないし、とりあえずコンビニに停めてナビで情報収集をし、もう1度それらしいところを回っても良くわかりませんでした。3周目にしてようやく駐車場への登り口を発見。道路工事中の交差点で見落としていました。まさかこんなところでも震災の影響を受けるとは・・・orz

桜はまだですね。春は遠い・・・

喪中コンビニ

2012年04月18日 | 震災
中尊寺より、3日目の宿の一関市へ抜ける途中で遭遇しました。

黒いセブンイレブン
日も大分陰っていたので、一瞬見間違いかな?とも思いましたが、Uターンして確かめに行くと、確かに見慣れた看板が見慣れぬ色をしていました。写真では分かりにくいかもしれませんけど、隣のエネオスの鮮やかな色を見れば、逆光や黄昏時であることを差し引いても、あの色彩でないことは一目瞭然です。

京都などで、景観を意識してコカコーラの自販機がわざと茶色くなっているようなことはよくあります。しかし、仮に中尊寺の近くだからといっても、わざわざ真っ黒にする必要はないでしょう。これはもしかして喪に服しているのかな?とも思いましたが、この辺りは津波とは無縁の地域であり、それほど被害が出たようにも見えませんでした。
陸前高田より内陸に入り、盛岡からここまで観光しつつ南下してきたわけですけど、どうもこの内陸部は、東日本大震災を観光の呼び水としか捉えていないような印象を受けました。実際はこの辺でも震度6前後の揺れが頻発しているわけで、昔の基準で言えば3割程度の建物が倒壊しているはずなのですが、今は視認でなく機械で震度を測るため、おそらく目に見える被害はほとんど出なかったか、出ても1年でほとんど直してしまったのでしょう。そのことを悪く言うつもりは毛頭ありませんが、実際に見てきて、陸側と海側に、同じ「がんばろう東北」でも温度差があるように感じました。

内陸では、横断幕や立派な看板に「がんばろう東北がんばろう岩手」「がんばっぺ宮城」など、キャッチコピーのようなものが印刷されているものを良く見かけました。確かに見栄えや聞こえはいいのですが、海沿いでは、立て看板もしくは木片に、手書きで「ご支援ありがとうございます」「がんばります。また来てください。」等と書かれているものが多く、むしろこちらが萎縮してしまうような内容でした。どちらが本当に支援を必要とし、また心からの言葉であるかは、言うまでもありませんね。南三陸町にあったミニストップは仮設のプレハブコンビニでしたが、色はいつもの黄色と青でしたし、こんな地でセブンイレブンがあえて喪中にしている意図がどうにもつかめませんでした。

後で調べたら、黒いセブンイレブンは単なる景観対策だったようです。じゃあエネオスはいいのかな?

中尊寺

2012年04月17日 | Weblog
松尾芭蕉「奥の細道」の折り返し地点でもあり、昨年新たに世界遺産に登録された、平泉の地にやってきました。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
  五月雨の降のこしてや光堂 
       (奥の細道より)

さすがにコピペですが(笑)中学の国語で学習した時は、序文とコレはしっかり暗記していました。しかし、今回久しぶりに思い出すとともに、この文には本当に平泉の風土・文化・歴史などが、そのものズバリ表されている名文でということが分かりました。

実際には、この文の逆から旅してきました。まず中尊寺に登り、光堂(金色堂)を目指しました。後段の字の文を小学1年生に分かるように書き下すと、「金色堂は500年も前の建物だからボロボロのはずなのに、外側におうちを建てたから1000年は光れるよ」となります(笑)芭蕉が約300年前の人で、藤原三代の栄華は800年前になるわけですが、本当にピカピカでした。

次に、金鶏山にある「平泉文化遺産センター」と言うところで、奥州藤原氏の歴史を勉強しました。「逆説の日本史」の5巻に超詳しくあったので、自分には復習程度の内容でしたが、その本でも唯一疑問だった「奥州藤原氏」とあの「藤原氏」との関係は、結局はっきりしませんでした。中央の権力争いに破れた藤原血族の一部が、「道の奥」に逃れて富を築いたのかな・・・と思ったのですが、本家の道長・頼道も僅か2代の繁栄ですし、盛者必衰とはよく言ったものです。日本で長く栄華を続けたいのなら、表に出ず暗躍するしかないのかな・・・?
義経をかくまった罪で、源頼朝と争うことになった4代目藤原泰衡が最後に決断した選択は、血を残すことではなく、名を残すことだったそうです。もし徹底抗戦になっていたら、ここまでの遺跡は残らなかったでしょう。無血開城に近い形で平泉の地を手にした頼朝がこの地に立った際、あまりのすばらしさに略奪を翻し、保護に徹するとともに、自らの鎌倉文化にも流用したとのことです。奥州藤原氏の血筋は絶えても、父祖がこの地で目指した浄土思想や文化が1000年続くように守ったのですね。その後東北地方は歴史の第一線から退きましたが、忘れかけられた500年後に一度松尾芭蕉によってクローズアップされ、さらに300年後の今、ピカピカに再現され、世界遺産登録によって再び「道の奥」に人を呼ぶ呼び水になっているところを見ると、まさにその時のそれは「歴史が動いた」決断であったと言えるでしょう。

日も暮れかけた頃にギリギリで毛越寺に入り、最後に源義経がこもったと言う高館にものぼってみました。流石に芭蕉が見たような景色は一望できませんでしたが、歴史の奥深さと、芭蕉の観察眼の凄さが垣間見えました。ただし、始終ぐるぐるしていた選挙カーの大音声演説合戦はその風情をふっ飛とばしていましたがね・・・orz

感動を 吹き飛ばしてや 選挙カー     (alpha)

前沢牛

2012年04月16日 | Weblog
3日目のメインである中尊寺の前に、前沢町に寄りました。

めあてはもちろん前沢牛です。若いブランドのようですが、近年日本一にも何度かなっている、今日本で一番アツイブランド牛の1つであると言えるでしょう。飛騨牛至上主義の自分としては、敵を知るためにまず前沢牛の成り立ちを知るところから始めなければいけません。そんなわけで平泉前沢ICで下車し、一路「牛の博物館」へ。牛の剥製やら化石やら、何故かクジラの化石やら、あまり美味しくなさそうな展示物を見た後、併設しているレストランにて「前沢牛サーロインランチ4980円」を頼みました。

流石最高級。
味は申し分ありません。ご飯や前菜が食べ放題なのもありがたい限りで、十分満足できました。ただ、如何せん100gでは「肉を腹いっぱい食べた」という感じには足りませんでしたね。懇意にしている飛騨牛精肉店で同じ値段出せば、同じA5級でも軽く倍は食べられます。まあ店の相場はこんなものですし、結局肉は自宅で焼いて食べるに限ると言うことかな。

それにしても贅沢な旅だ・・・つか、本当に慰問になっているのか!?