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中尊寺

2012年04月17日 | Weblog
松尾芭蕉「奥の細道」の折り返し地点でもあり、昨年新たに世界遺産に登録された、平泉の地にやってきました。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
  五月雨の降のこしてや光堂 
       (奥の細道より)

さすがにコピペですが(笑)中学の国語で学習した時は、序文とコレはしっかり暗記していました。しかし、今回久しぶりに思い出すとともに、この文には本当に平泉の風土・文化・歴史などが、そのものズバリ表されている名文でということが分かりました。

実際には、この文の逆から旅してきました。まず中尊寺に登り、光堂(金色堂)を目指しました。後段の字の文を小学1年生に分かるように書き下すと、「金色堂は500年も前の建物だからボロボロのはずなのに、外側におうちを建てたから1000年は光れるよ」となります(笑)芭蕉が約300年前の人で、藤原三代の栄華は800年前になるわけですが、本当にピカピカでした。

次に、金鶏山にある「平泉文化遺産センター」と言うところで、奥州藤原氏の歴史を勉強しました。「逆説の日本史」の5巻に超詳しくあったので、自分には復習程度の内容でしたが、その本でも唯一疑問だった「奥州藤原氏」とあの「藤原氏」との関係は、結局はっきりしませんでした。中央の権力争いに破れた藤原血族の一部が、「道の奥」に逃れて富を築いたのかな・・・と思ったのですが、本家の道長・頼道も僅か2代の繁栄ですし、盛者必衰とはよく言ったものです。日本で長く栄華を続けたいのなら、表に出ず暗躍するしかないのかな・・・?
義経をかくまった罪で、源頼朝と争うことになった4代目藤原泰衡が最後に決断した選択は、血を残すことではなく、名を残すことだったそうです。もし徹底抗戦になっていたら、ここまでの遺跡は残らなかったでしょう。無血開城に近い形で平泉の地を手にした頼朝がこの地に立った際、あまりのすばらしさに略奪を翻し、保護に徹するとともに、自らの鎌倉文化にも流用したとのことです。奥州藤原氏の血筋は絶えても、父祖がこの地で目指した浄土思想や文化が1000年続くように守ったのですね。その後東北地方は歴史の第一線から退きましたが、忘れかけられた500年後に一度松尾芭蕉によってクローズアップされ、さらに300年後の今、ピカピカに再現され、世界遺産登録によって再び「道の奥」に人を呼ぶ呼び水になっているところを見ると、まさにその時のそれは「歴史が動いた」決断であったと言えるでしょう。

日も暮れかけた頃にギリギリで毛越寺に入り、最後に源義経がこもったと言う高館にものぼってみました。流石に芭蕉が見たような景色は一望できませんでしたが、歴史の奥深さと、芭蕉の観察眼の凄さが垣間見えました。ただし、始終ぐるぐるしていた選挙カーの大音声演説合戦はその風情をふっ飛とばしていましたがね・・・orz

感動を 吹き飛ばしてや 選挙カー     (alpha)

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