(株)カプロラクタム-blog

果たしてココは何処なのだろうか・・・
否!ココは(株)カプロラクタム代表取締役兼社員αのweblogである!

花巻

2012年04月15日 | Weblog
次の目的地は花巻市でした。

実はわんこそば発祥の地もこの花巻で、こちらで食べるのが通なのだそうです。前日も遠野から盛岡へ行く途中に通ったのですが、流石にチェックイン時間に間に合わないことと、腹いっぱいになった後1時間も運転できるかを考えた結果、盛岡での挑戦になった次第です。

そんなわけで、花巻と言えば宮沢賢治の故郷です。国語の教科書(光村図書)でも「やまなし」「雨ニモマケズ」が載っていますし、確か中学校では「注文の多い料理店」の英訳文を習ったと思います。図書館にも本が並び、低学年だと「セロ弾きのゴーシュ」高学年なら「銀河鉄道の夜」あたりは読んでいることでしょう。自分はまだ6年生のみ受け持っていませんが、いずれ宮沢賢治の作品に触れる時に、このイーハトーヴ(賢治の故郷の岩手県であり、理想郷の意)の世界を知っておきたいと思い、宮沢賢治記念館及び童話村に行ってきました。

自分は、宮沢賢治を童話作家及び詩人としてしか知りませんでしたが、その興味は多岐にわたっており、教育者として、農学者として、科学者として、宗教家として、また人類共通の言語であるエスペラント語に日本語を翻訳しようとした研究者として、幅広く活躍した人物のようです。ここまで来ると、本当は何がしたかった人なのか逆に分からなくなってきますが、その成果や作品を見る限り、極めて優れた感性の持ち主であったことがうかがい知れます。

併設された喫茶店&土産物屋。幸い命は無事でした(笑)

小岩井

2012年04月14日 | Weblog
3日目は中尊寺をメインに南下する旅にしました。

その前に盛岡付近で遣り残したことをやっておこうと思い、駅周辺へ。しかし6時台では観光案内所もやっていなかったので、おそらくあるであろう「わんこそばマップ」や「冷麺マップ」等は手に入りませんでした。その代わり、駅そばのような店に「じゃじゃ麺」があったので、これが最後のチャンスとばかりに食べることにしました。実は既にホテルで朝食を済ませていたのですが・・・本当、食べることに関しては豪華な旅ですね。まあ、駅そばだったからか、給食の「ソフト麺肉みそかけ」のような中途半端な味でしたが。

そんなわけで7時に出発。調べてみると、乳製品で有名な小岩井農園が30分ほどでいけることが判明。まだガソリンスタンドも土産屋も満足に空いていない時間だったので、とりあえずの目的地にと目指すことにしました。道中は、雪化粧した岩手山が非常にきれいでした。

一面、雪なんですけど・・・orz

農園へと続く一本道は、流石に道路こそきれいなものの、牧草地らしき一帯は一面の雪化粧です。どこかに牛が隠れていないか“黒”を探しましたが、どこもかしこも“白”ばかり。うん。岩手山はきれいだけど、これ絶対牧場的にはシーズンオフだよね・・・orz
冬季入園無料
気持ちが沈んでいた時にこんな看板が目に止まり、俄然テンションが上がりました。雪で花や牛が見られないとしても、タダなら問題ありません。元々そう長居するつもりもなかったので、牛乳やソフトクリーム辺りが賞味できればそれで満足です。運がよければ閉園中でも入場口前の売店とかで達成できるかな?と思っていたところにこの無料のお知らせは、まさに人間万事塞翁が馬。いや、牛を見に来たのだっけ?とにかくありがたい知らせでした。雪がまだ残る駐車場にたどり着き、「まきば園」の入り口を目指すと・・・

閉まってた・・・orz

看板を見ると、無料は無料でも9時開園とのこと。現在まだ8時前。事前情報では8時半には開くはずだったのですが、冬季は遅いのかもしれません。売店どころか自販機すら見当たらない有様。これはひょっとして、中の売店も冬季は閉まっているのでは・・・それ以前に、9時までここにいて、さらに園内を一周する時間は取れそうにありません。30分ぐらいウロウロして、牛を見つけて写真を撮り、戻る途中のコンビニで「小岩井牛乳」を飲んで、9時には盛岡IC付近まで戻ってきました。

まあ、写真の通り、岩手山はどこまでもきれいでした。

わんこそば

2012年04月13日 | Weblog
無事7時前に盛岡に着き、夕食はわんこそばにしました。

2年前に東北踏破したとき、実は初めて踏みしめたとした岩手県で行ったことは、「SAで冷麺を食べる」に過ぎませんでした。自分ルールとしての「その地に行った」の基準は、その地の名所を見たか名物を食べたのいずれか(通り過ぎたはNG)だったので一応OKなのですが、少々寂しい踏みしめ方であったことには変わりありません。現に、これまで47都道府県のうち44(残るは茨城・大分・沖縄)まで踏破したわけですが、そのうち43までは語らせればその土地の思い出をそれぞれ最低10分はスピーチできるのに対し、岩手だけは「冷麺美味かった」しか語れないと言うことになってしまいます。まあ、遠野も岩手県なのでこれで十分なわけですが、やはり桃鉄の必勝法の1つでもある「盛岡わんこそば」を体験しないことには、岩手県を踏破したとは言えないでしょう・・・何が言いたいかと言うと、2年前から「わんこそば」が食べたくて仕方がなかったのです(笑)そもそもSAにわんこそばがあればこんな苦労はしなかったのですが・・・まあ、今から思えばこのシステムをSAで展開するには無理がありますね流石に。

そんなわけでホテルにチェックインし、近くのわんこそばの店を教えてもらいました。「東屋」という店で、「わんこそば」とググればwikiの次に出てくる有名店のようです。店に入ると、靴をしまうより前に「わんこそばですか」と注文を聞かれました。どうやら「わんこそば」の注文には、店側にも緊張が走る様子。かく言う自分も少し緊張してきました。一応、昼は気仙沼ラーメン一杯にとどめていたので、時間や腹具合は心配ないのですが、いつものクセで500mlビールをコンビニで飲んでいたことがどう出るか、心配になりました。席に着くと何故か新聞を渡され、「読んで待っていてください」とのことでした。客の待ち時間にまで配慮してくれているということでしょうか。その後、予約していたらしき2人組の20代ぐらいの女性が来店したところで、システムの説明が始まりました。

そもそも「わんこそば」とは、多人数の方を同時にもてなすために、蕎麦が延びない工夫と待たさない工夫を考えた結果、少量ずつ何度もおかわりをしてもらうシステムになったとか。当然形式はバイキングで、値段はいくら食べても一律3150円。ただし、お椀を重ねないのなら500円安くなり、逆に100杯食べたらオリジナル手形をサービスでくれるとのことでした。当然、この時点で目標は100杯に定まりました。1杯1杯の量はほんの1口で、15杯で大体1人前とのこと。ということは6人前半か・・・そして、最大のチャンス懸念材料は、どうやら隣のお姉さん方と一緒に挑戦するとか。それならば最初に挨拶した方がいいのか?でも万が一向こうも100杯を目指していて、僕が話しかけることでペースが変わってしまったら申し訳ないし・・・と考えた挙句、とりあえず勿体ないけど知らんぷりの方向でいくことにしました(笑)

「はいじゃんじゃん」「はいどんどん」「まだまだ」と、給仕のお姉さんがお椀に蕎麦を入れてくれます。一度に15杯持ってきて、3人で食べるので、5杯ずつ積み重なっていきます。この5杯のインターバルの間に、海苔やら刺身やらを食べて、口の中を整えます。何しろ蕎麦は常に同じ味なので、30杯ぐらいまでは一気にいけますが、この辺から味に飽きが来てしまうのです。ただ、まだまだ吸引力は衰えません。60杯を過ぎた辺りで、その吸引力にも少し陰りが見え始めました。隣のお姉さんの片方がこの辺で脱落。すると今度は15杯を2人で食べることになり、インターバルが7~8杯になってしまい一気にペースが上がった気になりました。80杯ぐらいにとろろを投入。一気にツルツルと・・・のつもりが、逆に重くなり苦しむ展開に。90杯からは最早気力。何とか100杯平らげて蓋を閉じました。

何と隣のお姉さんの片方も堂々の100杯完食。記念写真を撮ってもらった後、ちょっとだけ談笑しました。初めに声をかけていたら後々恨まれる所だったなあ・・・危ない危ない。

認定証と100杯達成記念手形をもらい、一目散に宿へ・・・もう一つの名物、じゃじゃ麺なるものも食べたかったのですがとても受け付けず、また夜の盛岡散歩もトラベルラブ?もままならないまま、就寝と相成りましたzzz

カッパ淵

2012年04月12日 | Weblog
あるお寺の裏に流れている川が、いかにも河童が出てきそうな川であることから、観光名所となった模様です。

遠野駅から車で10分ぐらい走ったところに駐車場がありました。看板に書かれた文字を良く見ると「カッパ直売所」の文字が。
売ってるの!?
しかし残念ながらもう閉まっていた様子で、実際に自分で捕まえるしか道はなくなりました。お寺までは歩いて2~3分ぐらい。見た目は普通のお寺ですが、よく見ると狛犬が河童になっていたり、河童の石造が鎮座していたりと、中々趣向を凝らしたお寺でした。お参りした後、河童が出るという噂の小川へ。「かっぱぶちばし」から上流を見ると、確かに河童が出てきそうな雰囲気をかもし出していました。
橋を渡って遡上すると、何やらあって然るべきモノが・・・

釣れるの!?
曰く、「名人の釣竿なので触らないでください」とのこと。どう見ても本物のキュウリです。単に結んであるだけだけど、どうやって釣るのかな?つーか川の雪解け水に冷やされて、さぞかし美味しいのだろうなあ・・・味噌持って来ればよかったかなあ・・・などと、自身と河童を重ねながらしばし横で河童が出てくるのを待っていましたが、日も暮れ始め、これ以上いたら盛岡でわんこそばにありつけなくなる危機感が身を包んだため、惜しみながらもその場を後にしました。帰りに「かっぱぶちばし」からふと見ると、

・・・水面に映るあの影は・・・まさか!?

遠野

2012年04月11日 | Weblog
トンネルを抜けると、そこは雪国であった・・・

というわけで、陸前高田からは内地へ入り、普通に観光を始めました。といってもこの時点で既に2時を回っており、6時に120km先の盛岡のホテルにチェックインするためには1時間ほどしか観光できません。というわけで、ほぼ通り道にある観光スポットとして、遠野を選びました。

遠野は、河童や座敷童子、カマイタチなど、いわゆる妖怪伝説で有名なところです。妖怪と言えば境港が思い出されますが、ここはああいったお祭り騒ぎではなく、昔の自然や街並みを保存することで、あたかも本当に妖怪が出てきそうな雰囲気を演出しているようでした。ただ、そのせいか少々寂しげな所で、妖怪の銅像がバンバンあるのかと思っていた自分には少し物足りませんでした。
まず駅で情報収集。何故か「トピア」という、イオンモールのような建物の駐車場が「遠野市無料駐車場」として開放されていることを知り、そこに駐車しました。行く先々で駐車料金を別途取る様子だったので、この選択は正しかった模様です。3館共通券を買い、遠野市立博物館・とおの昔話村・遠野城下町資料館と見て回りましたが、如何せん時間もあまりなく早足で回った手前、また上記以外にあまりピンと来る昔話もなかったために、自分にはあまり心に残るものはありませんでした。時間があれば語り部に昔話を語ってもらうことも可能なようですけど、このご時勢に、お金を払って年寄りの話を聞くニーズが果たしてあるのかは、少々疑問です。正直言って、この遠野市の観光は失敗だったなあ・・・と、この時点まで思っていました。

車に乗るため再び「トピア」に行くと、食品売り場前のエスカレーターに「遠野市役所 エスカレーターを昇って右てす(原文のまま)」と書かれた看板が目に止まりました。どういう意味だろう?と昇ってみると、

ショッピングセンター内に市役所
手前までは普通に婦人服売り場、その奥には税務課・・・なんてシュールな光景でしょう。しかし、考えてみれば至極理に適っています。街に唯一といって良い総合ショッピングセンター内に市役所があれば、住民は毎日のように市役所を訪れるわけですから、地域住民との交流もできるし、地域に密着した政策も簡単にできることでしょう。また、観光客が市営の無料駐車場として停めたとしても、中がショッピングセンターなら申し訳ないのでお茶の1本でも買っていってくれる算段です。古き柵に縛られた街だとばかり思っていた遠野市は、かくも前衛的な街だったのですね。

見るところが違う?

陸前高田

2012年04月10日 | 震災
三陸海岸北上の路は、陸前高田市までにしました。

2日目の宿は盛岡だったので、場合によっては釜石市や宮古市まで北上することも可能だったわけですが、時間的な制約と、地図上から垣間見える山越えオーラと、そろそろ被災地に居たたまれなくなってきたことから、高田松原の「奇跡の一本松」を最後にすることにしました。

南三陸町や気仙沼市の南側もそうでしたが、ここ陸前高田も集落一体が壊滅した地区です。道路から山を見渡しても、本当に何もありません。その道路より、さらに海側に面していた1本松。これより10kmまで津波が押し寄せ、戻った後にさらに高い第2波、第3波まできても、持っていかれなかったまさに奇跡の松の木です。既に根っこが塩害でやられており倒れる寸前とのことですが、ブルーシートにくるまれながらも何とか立っていました。

傍まで行こうとも思ったのですが、道がどうつながっているかも分からない状況で、重機が入っている所は立ち入り禁止になっていて良くわかりませんでした。何もない分、この1本の存在感が増していて、復興のシンボルにしたいという気持ちはよく分かりました。

この木が寿命を全うするまでに、復興が進めばよいのですが・・・

気仙沼

2012年04月09日 | 震災
南三陸町の次は気仙沼に向かいました。

ナビに気仙沼駅を指定して、30分無料の間に観光案内所で情報収集をしました。気仙沼市は結構高低差があり、この駅の辺りまでは津波が来なかったとのことですが、南にあった駅は完全に流され、ネットで津波にのまれ、火の海に包まれていたあたりは壊滅状態だったそうです。地図に津波が来た辺りまで線を引いてもらいましたが、渡された地図には、よくある観光マップのおよそ半分辺りに新しい海岸線のようなものが浮かび上がっていました。

丁度食事時だったので、是非名物のフカヒレが食べたいと思い、ラーメン屋のメニューにあった「フカヒレラーメン2000円」を注文しようとしたのですが、震災の影響でフカヒレが獲れていないらしく、魚のツミレが入った「気仙沼ラーメン」を食べました。とりあえず土産のフカヒレスープぐらいは駅売店で購入できたものの、1年ではまだ当然、産業の完全復帰とまでは行かない模様です。

船が陸にあっては無理だなあ・・・orz

縮小しすぎたので巨大さが分かりにくいかもしれませんが、船手前のスクリューがおよそ2m、真ん中辺りにある白い立て札がおよそ1mで、その右にあるのが見物の乗用車です。通り過ぎる時はまさに見上げるような巨大船でした。船が打ち上げられている光景は実はそう珍しくなく、名取市では数10隻単位で田畑に点在していたり、南三陸町では防災庁舎の近くの建物の2階に引っかかっていたりするのを見ましたが、これだけ巨大なものを、数100mは離れているであろう場所にまで運ぶ津波の威力は凄まじいものだと改めて感じました。一旦陸に上がってしまったからには、また海まで運ぶにも一大事でしょうしね。

何やらこの船をこのまま復興のシンボルとして保存し、周辺を公園にする計画もあるそうですが、そんなことより先に、フカヒレのためにも産業を復興させる方に税金を投入してください。

瓦礫

2012年04月08日 | 震災
漂流がれき、北米海域に4万トン 来年到達、環境省予測
津波と言うのは、打ち寄せた後は必ず引きますから、海に流れた分も相当あるのですね。

今回の旅では、相当至る所で瓦礫を見るだろうと覚悟して行ったのですが、思ったより見なかったのが意外でした。前日触れた南三陸町は、数千の家屋が跡形もなくなったわけで、当然一体が瓦礫だったはずです。海岸の道から山まで見渡せること、山道沿いに仕分けされてきれいに積み上がっていたことを見ると、大部分は、この1年間できれいになったということだと思います。そう考えると、以前触れたとおり、「何もない」というのはむしろ復興の兆しであると見えてくるわけですね。

ただし、本当に「何もない」わけではありません。建物はなくても基礎は残っていますし、地面は所々陥没して水が浸っているし、砂地を少し掘ってみれば、金属片や文房具、子どものおもちゃなどがわさわさ出てくるからです。南相馬市の防災庁舎でも、周りを歩いていたら何かに躓いたので掘ってみたら、何と壊れた電子辞書が出てきました。まるでドラクエの「穴を掘る」感覚で出てきたのに驚きました。これ1つにしても、誰かにとっては必需品だったか、入学祝いなど思い出の宝物だったかもしれません。自分にとっては瓦礫でも、持ち主にとってはそうじゃないかもしれないということを、改めて考えさせられました。

瓦礫と一言に言っても、所有権があるものや、このように大事なものが混ざっている限り、簡単には処分できません。処分してほしいものも、処理能力を超えるものは如何ともしがたいでしょうし、各地の受け入れ態勢も整っているとはお世辞にもいえません。ここでさらに漂流ごみの処分まで考えると、気が遠くなりますね。何年もかけて少しずつ処理していくしかないのでしょうか・・・。

穴掘って埋めるとか、そんな某国の潔さが羨ましい限りです。

南三陸

2012年04月07日 | 震災
2日目は石巻を通過し、南三陸町へ出ました。

松島を後にして海岸線を北上しながら、本当は火の海となった気仙沼市を目指していたのですが、ふと「天使の声」が気になり、検索すると南三陸町の防災庁舎であることが判明。しかも、休憩していた地から気仙沼市までのほぼ通り道にあることが分かったため、早速ナビ様を頼りに向かうことにしました。

山を抜けてまず目にしたのが、きれいに仕分けされた瓦礫の山。金属・車・タイヤ・布類などがきちんと分けられて積み上がっていました。瓦礫と言うと何もかも混ぜこぜのイメージだったのですが、1年でここまで分けるまでに至ったのか・・・と思いました。
次に目にしたのが、プレハブでできた商店街のような地区。実は空港付近でも見ていたのですが、立ち寄ったのは初めてです。食べ物屋だけでなく、電気屋・花屋・石屋に至るまで、一通りがそろっている感じでした。傍の高台には仮設の建物や新しい一戸建てが立ち並んでいたので、そこに住んでいる方達のライフラインが全てそろっているのでしょう。隣には「南三陸合同庁舎」と書かれた3階建ての建物があり、窓は全て破損。その3階の窓と天井との間に、「津波到達地点」と書かれたプレートが貼ってありました。まだずいぶん山の上のはずなのに・・・当然、役場の機能は果たしておらず、完全な廃墟です。裏には今度こそ混ぜこぜの瓦礫の山。しかし、全然嫌な匂いはしませんでした。

「ここが防災庁舎なのかな?」と思いつつもう1度検索してみると、どうやらそことは違う感じでした。ナビでも他に出なかったので、とりあえず海まで出ようと車を進めると・・・

見つけるのは至極簡単でした。山を降りて三角州になっている部分に出た途端、眼前にすぐ海、そして見渡す限り何もない土地に、ポツポツと建物の跡と、プレハブのコンビニ等の店があるだけだったからです。橋も流されてありませんでした。いくら漁村といっても、町役場のある地区がこんなに何もないはずがありません。しかし、鉄骨でできた3階建ての庁舎がこの有様なのですから、木造の民家などはおそらくひとたまりもなかったのでしょう。

寸前まで「早く高台に避難してください。」と叫び続けた遠藤さん。この付近の建物はほぼ全て津波にのまれ壊滅状態だったにもかかわらず、1万7千人の住民のうち、最終的な犠牲者はわずか数百人だったとか。一体、何千人がこの声に救われたのでしょうか・・・命を懸けて職務を全うしたのに、恨まれたり訴訟を起こされたりする事例もある中、日本にとって本当に大切なのは、このような他者に対する感謝や思いやりの心なのではないでしょうか。現地で目の当たりにし、この題材は「天使の声」と呼ぶには生々しく、道徳の教材にするには重々しすぎますが、是非とも彼女の命の叫びはいろいろな形で後世に語り継いでいきたいと思いました。

牡蠣

2012年04月06日 | 震災
1日目の宿は松島の山側にある旅館でした。

正直、松島で宿が取れるか、ちゃんと営業しているのかはちょっと心配していたのですが、流石にこの辺りまでは津波も来なかったようです。海側でもほぼ通常営業していました。ただ、夕食もつければよかったのですがつけなかったので、海まで降りて飯屋を探すことにしました。
寒い&開いてないorz
多分、歩く方向を間違えたのだと思いますけど、夜6時半の時点で開いている店がほとんどありませんでした。唯一やっていたのが牛タンの店でしたが、昼に食べたばかりですし、どうしても海の幸が食べたかったため、寒空の下1時間ぐらいさまよい、ようやく料亭らしきところにたどり着きました。

今回の旅は、地元に金を落とすことも目的の一つです。このメニューは店で一番高い海鮮丼(2800円)に、生牡蠣と焼牡蠣(時価)をプラスしました。オマケでもう一つ牡蠣の酢味噌をつけてくれました。時価なんて、初めて自分で注文して食べたような・・・ちなみにどちらも1つ250円でした。焼牡蠣はまだしも、生牡蠣は岐阜で頼むと3~400円取られるので、十分お得な気分を味わいながら美味しくいただきました。

牡蠣と言えば広島が全国シェア50%を占めていますが、2位である宮城から稚貝をもらって養殖しているケースも多く、「宮城の牡蠣が日本一」だという情報を、10年前に来た時に露店のオッチャンから仕入れていました。こちらは個人で養殖を行っている方が多く、実際に牡蠣に携わる漁業関係者の数は宮城の方が多いそうです。それだけに1年前の震災の影響は深刻だったことでしょう。10年前は確か150円ぐらいで食べさせてもらえたと思うので、一刻も早い復興を願っています。

お土産に復興Tシャツやずんだもちなんかも買ったのですが、もっと直接的に「牡蠣募金」とかもあってもいいなあと思いました。

大川小学校

2012年04月05日 | 震災
1日目、松島を素通りしたわけは、大川小に行きたかったからです。

震災後、悪い意味で日本一有名な学校になってしまった、全校児童の7割が亡くなった学校です。地図で確認すると、他にも海岸近くの学校は多いのに、何故ここだけ・・・と思い、石巻の有料道路出口から川沿いに向かいました。

実はココに来るまでに通った所は松島を除いてほぼ内陸だったため、木々の乱れや瓦礫の山、仮設住宅などは目にしましたが、壊滅状態になった地区はまだ見ていませんでした。そのような地域も、1年経ったことでずいぶんと良い方向に変わっているだろうとも思っていました。半ば半信半疑のまま堤防を南下(東下?)していくと、ふいに道がガタガタになりはじめ、次第に見える景色がみるみる砂地化していきました。堤防はかろうじて通れるものの、すぐ下の道はほとんど無舗装のような状態で、ナビがさしていなければ道だとは信じられないような感じでした。そもそも、川から山までに舗装もなく建物がまばらにしかないということは、よほどの田舎でもありえません。明らかに津波の爪痕が、1年経った今でも残っていると言うことです。そこにあったはずの家や人はどこにいってしまったのだろう・・・そんなことを考えながら車を進め、ナビが大川小と指した地点にたどり着きました。

堤防にかかる橋から降りると、本当にこの学校、というか、学校だった建物以外に何もない光景が広がっていました。入り口前には校名が刻まれた壁の1部と母子の像に、大量の献花と千羽鶴、束ねられた卒塔婆が。2階建ての校舎に加え、円形の教室に、児童の絵で囲まれた壁面、その後ろの多目的広場のような場所等、非常に近未来的な新しい作りであったことが分かります。プールもできたばかりだったとか。今では瓦礫が詰まり、教室も壁がなく、渡り廊下は折れて倒れ、体育館らしき場所は跡形もなくなくなっていました。震災後の写真や映像からは、大量の土砂や瓦礫に覆われていたと思うので、むしろ1年でここまできれいになった、ということなのでしょう。実際、ダンプが数台、ひっきりなしに出たり入ったりしていました。それでも子どものものと思われる靴や教科書、オモチャがまだ散乱していたり土に埋まっていたりしました。本当に、なくなったものが多すぎて、言葉を失う光景でした。

周りを一周した後、裏山へ行ってみました。小道をはさんだすぐ裏にあり、数分とかからない場所です。運動場正面の山は落石防止のためにコンクリで塗り固められ登ることはできず、多くの児童が避難中に通っていた川に近い方の斜面はかなり急で、とても登れそうにありませんでした。必然的に運動場より奥側から登るしかなく、一番緩やかそうに見えた道なき道を、一気に100歩ほど駆け上がり、木に赤い目印がしてある所までたどり着きました。ここまで波が来たということか、または犠牲者発見の印か・・・いずれにせよ、助かるにはここに登るしかなかったとしても、30代で普通の体力をもつ自分が息せき切って登った場所以上の高さまで、小学生の児童100人や、避難してきたお年寄りまでを全員上げる姿は、到底想像できませんでした。もし「高台に行けば助かる」と言う前提があって、近くの高台がすぐの裏山と10分歩く堤防の橋付近という2つ選択肢があったら、自分も迷わず橋を目指したでしょう。自分の地元では、春休みの生活を書いた文書に「川で遊ばない」という一文がありますが、おそらくこの山も「子どもは遊ばない」山だったのではないでしょうか。それ以前に、この辺りはもともと「津波が来ない」と想定されていた地区です。学校だけの悲劇がクローズアップされがちですが、ここは集落単位、町単位で全部流されており、もっと判断力や行動力のある大人も、経験の深い地元の住民も、同様に命を落としているわけです。いろいろな考えはあると思いますが、自分はこの地へきて、もし自分が当事者だったとしたら、おそらく成す術がなかっただろうな・・・と感じました。

学校によっては、もっと海岸に近いところで、家に連れ帰った2名の家庭のみが犠牲になり、校内に避難していた子は全員助かったと言うところもあったと聞きました。家に連れ帰ろうとする多くの親を説得して、学校に残したことが命運を分けたと言う、大川小とは反対のケースです。じゃあその学校は判断がよかったと言えるのかと言えば、絶対そんなことは言わないでしょう。2名守れなかったことは、当然悔やんでも悔やみきれませんし、助かった子ども達の中に親御さんを亡くしてしまった子もいるわけです。天災を前に、人間はどうすることもできない・・・これだけは、いくら技術が進歩しても変わらないのかもしれません。

松島

2012年04月04日 | 震災
仙台市内で牛タンを食した後、とりあえずの目的地を松島にしました。

一応、飛行機とレンタカー、宿を決める旅にしたので、一泊目を松島にしていたわけですが、それ以上は特に決めていませんでした。松島は大学時代に1度行ったことがありましたが、当時は青春18切符の旅行で昼には出ないと東京に戻れないと言うことで(笑)観光フェリーと牡蠣だけを堪能して戻ったと言う地です。何より、松尾芭蕉の「奥の細道」において「松島の月まず心にかかりて…」とあるように、松島の夜をまだ体験していないと言うのが心残りになっていました。だから何故昼から行く・・・と言う感じですがね(笑)

まあ、結果的にはこの時ほぼ素通りしたわけですが、見知った地が震災を経てどうなったかを見るのもこの旅行の目的の一つであるわけです。三陸側で過去に行ったことがある場所といえば、ここと八戸しかありませんが、流石に青森までは辛いので、最初に寄ったこの松島の無事が確認できた時点で、1つ目の目的を達成しました。

じっくりと観光したのは2日目のことです。10年前に行っていなかった瑞巌寺や松島博物館、福浦島などの周辺巡りをし、ついでに奥松島まで行くことができました。

松島4大景観の1つ、富山(とみやま)からの景観です。こうしてみても、「どこが被災したのだろう?」と思うほど綺麗なものですね。前述した通り、これが地元の方やボランティアの方の努力の賜物だと分かったのは、遊覧船乗り場の待合室に飾ってあった、復興の様子を撮った写真を見たときでしたが、山の方はまだしも、道路沿いはかなり浸水したらしく、1年前はかなり大変だったようでした。つか、今は「○○は大丈夫だったのか」という視点で観光に来る人も多いと思うので、もっとこういう写真がいっぱいあっても良いと思うのですが、地元にとっては早く忘れたい過去なのかな?とも思いました。

肝心の松島の月は写真こそ撮り忘れましたが、きれいな三日月に金星と火星が伴って、とても幻想的でした。ただしやたら寒く、店もほとんど閉まっていたので、夕食にありつくのが大変でしたが・・・orz

東北無料化終了

2012年04月03日 | 震災
通行量4~5割減 東北の高速道有料化初日
今回の旅行では、この終了になった無料措置をフルに活用させてもらいました。

空港のレンタカー屋で「いつでもどこでも無料ですよ。」と言われても実は半信半疑だったのですが、空港から仙台市ぐらいなら払っても数百円なので、試しに乗ってみた所、無事0円が点灯しました。そこから石巻までの道中や、盛岡-宮城-福島あたりの大動脈は、とりあえず乗って、渋滞だったら降りて、観光して乗って・・・など、本当に自由気ままに使いましたね。

思えば千円高速だったときは、「いかに無料区間を乗り続けるか」が勝負だったので、岐阜から1200kmノンストップで青森まで行ったわけですが(笑)この方法だと、例えば今回立ち寄った中尊寺だったり、盛岡のわんこそばだったりは、一旦下りてしまうとまた千円課金されるため、不可能だったわけです。とにかく東北に入ってしまえばどこへ行っても無料である今回の措置は、まさに観光のためにあるといってよい措置でしょう。最終日である1日は使えませんでしたが、4日間でおそらく1~2万程度は得したのではないでしょうか。ここまで高速で行けば往復2万+ガソリン代+6時間のロスを思えば、飛行機で行ったのも正解だったと思います。

最終日である31日に、思い余って無料最南端である水戸まで行こうかと思いましたが、仙台から4時間かかると知ってやめました。飲みの約束と渋滞情報を入れていなかったら行ったかもしれませんが・・・これでしばらく茨城県とは縁遠くなりそうですね。

ドラクエGoogle

2012年04月02日 | 時事
いきなり横道に逸れた更新で申し訳ない(笑)

現在、googleマップを見ると、世界地図をドラクエのマップ風に見ることができるそうです。エイプリルフールのネタの一環だそうですが、特筆すべきはその作りこまれた世界観。普通のgoogleのように、世界地図単位から、町単位まで縮尺を変えることもできるようです。つい冒険してみたくなりますね。
エイプリルフールネタは、NHKが北朝鮮の国営放送を真似る宣言を出して顰蹙を買ったようですが、才能の無駄遣いというか、誰も傷つけない笑いを提供するgoogleは流石だなあと思いました。

あれ?韓国が町に・・・上海は城なのに何故?

東北慰問の旅その5

2012年04月01日 | 震災
無事帰りました。

昨夜は、1年前から安否が気になっていた宮城の知り合いの先生と連絡をとって、色々と話を聞くことができました。詳しくはまた後述しますが、これで完全に満足してしまい、本日は10時45分のフライトのところ、8時に空港入りして優雅に朝食をとり、最後に海だけ見て帰ろうと海岸まで行ってきました。

黒い砂浜
津波の時に「黒い水が来た」という表現があったのを思い出し、その名残かな?と思いました。まあ、自分は海のない県で育ったので、砂浜と言っても別にいつも白いわけではないのかもしれません。砂鉄かアスファルトか・・・そんなことを考えつつ、寄せては返す波を撮っていると、不意に大波が来て、見事に靴が水浸しになりました・・・orz

波を見る際、今までの経験と、周りの状況から総合判断し立ち場所を決めるわけですが、「まさかここまでは来ないだろう」という場所まで、波は簡単に超えてくるものなのだということを痛感しました。また特筆すべきはその速さ。「ヤバイ」と思って後退したのに、その数倍の速度で襲ってきました。まさに想定外。津波の被害に遭われた方も、同じ思いだったと思います。同じと言うには申し訳ない共感を得て、びしょびしょの靴のまま東北の地を離れました。

福島沖でM5・9、楢葉・富岡町で震度5弱
仙台空港は震度4・・・幸い、数分レベルのタッチの差で空の上でした。確か旅行前夜も5弱の地震があったような・・・旅行中、全く揺れを感じなかったのは非常に幸運だったのかな。

この後も、時事を混ぜつつ旅行記を続けます。