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漢字の許容範囲

2016年02月21日 | 私見
<漢字>学校も柔軟評価 とめ・はねで違いOK指針案
これ個人的にはどうかと思うのですけどねえ・・・

実は教師用の国語テストの回答にも、最初に「正答とする漢字」の許容範囲一覧がずらっと載せられています。大雑把に言えば、線がつく・つかない・出る・出ない・線の長さ・止め・はね・はらいなど、ある程度はOKとなっている印象です。しかし、やはり教える側としては、例えば「王」の真ん中の線は短く、「金」の真ん中の線は長くないと、やはり「教えたことが理解できていない」と判断して×にする所ですね。何故なら、この違いは書き順に端を発するもので、「王」は横、縦、横、横と書くので真ん中の横線は短くなりますし、「金」は左払い右払いの後で横、横、縦と書くので、真ん中の線は長くなるわけです。しかしテスト中、全員の書き順を1人ずつ見て回るのは不可能ですから、提出された文字を見て判断するしかありません。なので、やはり教えられた字形で正しく書けていることが、その字をマスターしている評価になるわけです。こんな感じで、教師はそれぞれの漢字を教えるときに止め・はね・払い、つく、出るまで全て意味をもたせて教えているわけで、その通りに書けないのは減点対象にせざるを得ないわけですな。この辺、かけ算の順序のやつと同様の問題をはらんでいるように思えますね。

もちろん行書体になると止めがはねになったり書き順すら入れ替わったりしますし、今小学校で習っている字のある程度は旧字体から簡略化されたものなので、「これが絶対的に正しい」と言い切れるだけの根拠はないわけです。かけ算だって、大人には乗法の交換法則が成り立つことは自明ですから、6×8が8×6でも「何が違うの?」と思うでしょう。しかし小学校の特に低学年は、そういう根拠とか定義が曖昧な状態から少しずつ固めていくしかないですし、ぶっちゃけて言えば正解の根拠は先生が握っているわけです。例えば先に挙げた乗法の交換法則で言うと、初出は小2の「かけ算九九の表」の学習の時に触れ、中1で整数の法則として一般化されますけど、実は高々2~3の例示だけで法則化しているに過ぎず、その時点では完全に証明できたわけではありません。本来乗法の交換法則の証明には「ペアノの公理」というものを学習し、それを元に数学的帰納法を使って証明しますから、最低でも高校数学レベルがないと「自明」だとすら言えないのです。中2の数学で証明問題を学習する際に口酸っぱく教えられると思いますが、「正しいことがまだ証明できていないものを使って証明してはいけない」というのが数学の世界や論理的思考の大前提であり、ではその概念がまだ難しい初等教育の時点で「証明」できないのに何故使って良いのかと言えば、それは結局「先生が正しいと教えたから」とか「教科書に正しいと書いてあるから」使ってよい、という根拠に帰着するしかありませんよね(笑)つまりここはもう信用問題なのです。

低学年の時期は「先生の言うことを正しく聞く」という最も大事なことを学んでいるので、親が「先生が間違っている」などとでしゃばってくると、子どもはどちらを信じればいいのか分からなくなり、将来どちらかに反抗するようになってしまうでしょう。文科省が今更言い出したわけは、おそらく保護者から苦情があったからだと推測できますが、大体そういう漢字に厳しい先生は今もう少ないですし、最近は同じ学年を何年も受け持つことは珍しいわけですから、1年間しっかりと基礎基本を教えてもらえるのだと割り切って見守ってやるべきだと思います。基準さえ揃っていれば贔屓とかじゃないですからね。

大体、1年生が「木」を「ホ」と書いたらやっぱり×じゃないのかなあ・・・つく・つかないの違いだけでなく、木の二画目は止めるしホはハネると教えるわけで、「明らかに違う字です」と強調しています。柔軟に書いたと言うより、それ絶対カタカナと間違えてるでしょ!?
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ヒトラー没後70年

2015年04月30日 | 私見
今日はヒトラーがピストル自殺して70周年になる模様です。

まあ日本も戦後70年ですから、今後も戦争がらみでは色々な70年が誕生して行くのでしょう。巷では終戦記念日に合わせて発表される安倍談話やアメリカでのスピーチの内容に国内外からああだこうだ言われているようですが、未来像を語ることこそあれ、いつまでも過去に執着させるのは結局どちら側にとっても良くないのではないかと思う今日この頃です。安倍首相も、約10年前の就任当時は「初の戦後首相」と言われ「戦後レジームからの脱却」を訴えたものの、根強く残る「お詫びと反省派」に押され、その時はまだうまくいきませんでした。しかし、今や戦後70年ということは、戦前世代の人口ももう2割以下であり、逆に大東亜戦争時に生まれていなかった日本人はもう1億人以上に上るわけです。数日前に大正生まれの国会議員はもういないと書きましたが、まだ9%いるらしい戦前議員というのも所詮終戦時はハタチ未満なわけですし、従軍経験者も存在せず、戦争時の政権や情勢を知る議員などは最早皆無なのです。気がつけば、軍靴も遠くなりにけり。学校では、戦争の話を聞く宿題を出そうとしても祖父母すら戦後世代と言う家庭が大半の時代なのです。そんな前世にも等しいことについてああだこうだ言い合うのは不毛な争いですし、やはりどこかでケリをつけていかなければなりません。世界の平均寿命が70歳という時代である今、戦後70年というのは過去との決別とするのには最善の選択なのではないでしょうか。

そんなわけでヒトラーについてです。今日の没後70年は、昨日たまたまレンタルDVDでヒトラーのテレビ映画2部作のを観て知りました。前半は「わが闘争」の内容で、後半は全権掌握と「長いナイフの夜事件」までで、まさに藤原道長の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という瞬間までを描いたものでした。日本人が監督なら間違いなくその後の戦線拡大と迷走、ナチス崩壊まで3部作で作って「盛者必衰の理を表す」としたと思われますが、この監督はココで留め置くことが「なぜ独裁者が誕生するに至ったか」を考えさせるのに最善だと判断したのでしょう。決して尺が足りなくなったとか面倒くさくなったわけではないですな(笑)当然ナチス礼賛の映画ではなく、その端々にヒトラーの狂気や異常性を忍ばせる演出がありましたけど、自分はそれよりも彼を狂気に走らせていった環境というか、時代背景の方に興味をもちました。
彼は自らが主張してきたドイツ民族主義の模範的存在などではなく、そもそも生まれはオーストリアで、その出生も実ははっきりしていません。婚外子だとか私生児だとかいう話から、実はユダヤ人の血が入っているのではないかという説が出てきたのは、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」に詳しいですな。まあ本人は名誉あるアーリア人だと思って苦しい生活をしている中で、ユダヤ人達が裕福な暮らしをしていることに反感をもったというのはその通りでしょう。その後第一次世界大戦が起こり、自らも参戦し、国のために戦っていたと思っていたら、当のドイツで戦争反対のストライキが起こって敗戦となってしまい、それを扇動した(と彼が考えた)ユダヤ人に対する憎しみを一層募らせたようでした。彼の「血」に対する常軌を逸したこだわりというのは、この映画や「わが闘争」を読んでもイマイチ説明できませんが、一国民として、虐げられていくドイツを見てわが身と重ね合わせ、自らが指導者として政界に出て奮起しようとする原動力としていった心情は十分理解できます。その後、ヴェルサイユ条約で科せられた理不尽な賠償額に溜まりかねた国民もまたヒトラーの唱える民族主義に乗っていき、後の躍進と暴走へとつながっていった・・・という内容でした。

ここで注目したいのは、第1次世界大戦から第2次大戦まで、僅か20年しか経っていないと言うことです。つまり1世代も交代することなく、例えばヒトラーのように1次の時に兵として戦った者が、2次では指導者の立場にかなりいたということです。敗戦国にとっては屈辱の20年だったことでしょうし、特に前線で活躍した兵士にとっては「倍返しだ!」などとメチャクチャやる土壌が整っていたと言えるでしょう。ドイツは結局負けてしまいましたが、江戸時代では関ヶ原の戦いで負け、ずっと虐げられてきた薩摩や長州が260年後に明治維新を成功させ、要職に就いたという事例もありますから、「やられた恨み」をいつまでも根にもっていると、次の行動を起こす原動力になり得てしまうのです。ちなみに安倍首相もその長州藩のあった山口出身の総理ですね。
転じて今の日本を見てみると、現状の朝日新聞を中心とする安倍首相をヒトラー視する情勢について、巷に溢れる「日本スゴイブーム」やヘイトスピーチ、左翼のテロ活動などを歴史の連続性の中で捉えれば、確かに民族主義や一部の人種への排斥運動にこじつけて見ることもできるでしょう。まあ、勝手に結びつけることは自由ですが、それらを首相自身が扇動しているわけではないですし、第一ヒトラーがどんどん暴走して言ったのもマスコミがあることないこと書きまくったことが原因の1つのようなので、首相への個人攻撃を余りにも執拗に行うのは、まさに歴史が示す「独裁者の作り方」そのものになってしまうのではないでしょうか。朝日などは早速第一次政権下での「やられた恨み」を昨年見事に返されてしまっていますしね(笑)権力監視の大義名分は良いとして、それを盾に単なる誹謗中傷を流布させることは人としてやっちゃいけないことですし、長い目で見れば逆効果になるってことを、マスコミも歴史からしっかり学ぶべきことでしょう。
アメリカの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」によって、現在の日本人はアメリカを中心とする戦勝国に対して全くと言って良いほど悪感情をもっていません。中国は別ですけどね(笑)つーか、そうでなくとも「水に流すこと」は日本人の美徳ですので、おそらく余計なことをしなくても結果は同じだったかもしれません。いずれにしても、先の選挙で再び与党が大勝しましたが、自民自体は議席を減らしましたし、公明や民主、何故か共産もジワリと議席を伸ばしましたから、独走が許されない状況にあるのは変わりありません。ナチスのように気に入らないと何度も選挙を繰り返し、議席を増やすようなやり方はもう不可能でしょう。そもそも自民党自体、軍事政権ではありません。これだけ情勢が違う中、未だに安倍首相をヒトラーだという人達は、はっきり言って不勉強にも程があります。平和平和とキレイゴトだけを唱えるのは簡単ですが、その平和を維持する努力を怠っては明らかに片手落ちです。「私は綺麗好きだからホコリには触りたくないわ」と言いつつ掃除を全くしないようなものでしょう。憲法前文にも「我らは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」とありますから、今話題の「国家安全保障基本法案」も、憲法が掲げる理想にようやく追いついたと言うレベルのものです。国際社会において、日本がしっかり自衛・自立しながら平和維持に貢献できる仕組みを作ること。これも今の教育に流れる「生きる力」の1つだとも言えるでしょう。平和平和だけ唱えて、誰かに殺されるまでいじめられたり、自殺に追い込まれたりするまで何もできない子どもばかり生み出すような教育はもう止めにしないといけません。自ら立ち向かうとか、強い者を味方につけるとか、色々手段はありますが、クラスや先生、世の中を味方につけて「いじめをなくそう」と運動できるようなバイタリティ(積極的平和主義)と最低限の護身術(自衛軍)、仲間が困っていたら助けてあげる勇気(集団的自衛権)を身につけることが、これからの子ども達や日本の未来のために必要なのではないでしょうか。

「やられた恨み」は水に流し、「平和の維持」のためにできることをしっかり考える71年目になって行くと良いですな。
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学力テスト1日遅れ

2013年04月27日 | 私見
新聞に解答が…そのまま1日遅れで学力テスト
今時の小6は毎朝新聞をチェックするのでしょうか?

小学校のテストは、基本的に業者から市販されているものを使いますが、クラスによってテストをする日はまちまちですし、極論すれば先にテストをした友達に見せてもらえば簡単に100点が取れてしまうわけです。しかし、はっきりいってそこまで考えている先生はもちろん、児童ですらいないでしょう。流石に同じ学年に双子がいるときはテストを“返す日”を調整したりはしましたけど、「テストをやる日は担任裁量」という考え方が小学校では一般的なのです。まあ行事の日程を決めるのは教務主任なので、今回は担任のポカで勝手に2日間にしたわけではなさそうですが、おそらく事前に新聞で問題を見た児童も特にいなかったのではないかと思います。当たり前ですが、事前に答えを知ってテストを受けても何の力にもなりません。中学校だと流石に生徒間でも情報が回りますし、成績が内心点に直結しますから、正論ばかり言っていられなくなり期末テストのように一斉に行う方式になるわけです。まあ6割平均を目指す中学校とは違い、小学校だとテストなんてほとんど90点以上で差がつきませんから、普段の授業態度とかノートとかの方がよほど理解度を測る指標になります。

だからと言って学力テストのように正答率4割の算数B問題が必要かといわれれば、自分はNOだと思っています。以前にも学力テストの問題点は指摘してきましたが、何か学力テストの問題が新聞に載ると、あのテストがセンター試験並みに子どもを選別する厳しいもののように見えてきてしまうのは気のせいでしょうか。今回のB問題も、振り子と言った中学の科学で学習する題材が含まれており、他の問題もおよそなじみの多い題材とは言えませんでした。もっと分かりやすく書くべきなのに突然会話文が挿入されたりし、国語力のない子はどこからが問題なのかすらも分からなくなってしまうのです。そもそも、中学のような「解答欄に記入するテスト形式」に小学生が慣れていないことを、誰も指摘しないのは何故なのでしょうか。はっきり言って、あのテストでは学力は見えません。『現場を知らない問題作成者の意図をどう汲み取って答えてあげられるか』つまり『大人の都合の良い解答が見つけられるか』を見るテストなのです。、

第一、学力を“上げる”ために学力テストを行ったのなら、フィンランドのように下位だった県にどんどん予算を回して底上げを図るべきなのですが、日本は上位の県に視察に行かせるなど、上位の県を潤す対策しかできていないのです。そんな学力を“見る”ためだけのテストを8年間も繰り返しているので、根本問題である「学力が8年間で上がったか」を論ずることもなく、テスト問題が子どもの学力を測るのに適切だったかを議論することもなく、都道府県ごとの順位の変動もほとんどなく、それらが問題にすらならないわけです。
ちなみに、自分は小学生の学力を“上げる”ためのテストは、平均9割のテストであるべきだと思っています。4月に年間の業者テストを選定するわけですが、大体その基準は『子どもにとって分かりやすい問題になっているか』に尽きます。最近は低学年が多いので、問題文が平易であるか(子どもになじみのない表現になっていないか)、解答に無理がないか、教科書と同じ形式の問いや図・挿絵になっているか、文字数などの制限がついて分かりやすくなっているかなどが判断材料になっています。はっきり言って差はつきませんが、100点がた易く取れるのは小学校ぐらいですし、100点をとって喜び褒められ認められた経験が次回の学ぶ意欲につながるのは、現場にいると火を見るより明らかです。
しかし現状は自民党政権に戻り、またも予算50億をかけて3年ぶりに同じ形式で全校調査に乗り出したわけです。毎年毎年同じ結果を“見る”だけだったら、流石にもう辞めるべきだと思います。少なくとも、前述の通り小学生のテストならせめて今後は最低でも平均8割以上になるように問題を作るべきで、過去数年間にわたって平均4~5割のテストを作ってしまった時点で猛省すべきだと思います。

いずれにせよ、今回の失態は、そんな現場の厭“政”的な意識が見え隠れしているのは気のせいでしょうか。
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ケイドロ論

2013年04月11日 | 私見
地方に寄ってはドロケイとかドロ巡とかいいますが、警察役の鬼が泥棒役を捕まえる遊びについての考察です。

現在行っているケイドロは、警察が泥棒を捕まえ、牢屋と呼ばれる決められた場所に全員を捕まえたら終了となります。しかし、泥棒は捕まっていない仲間の泥棒が牢屋に助けに来ると逃げられるようになっており、逃げ切れたら泥棒側の勝利となります。タッチした後、警察が牢屋まで連れて行くかどうかや、牢屋に行く途中で助けられても逃げていいか、捕まったフリをするはどうかなど、細かなルール設定の違いもありますし、もちろん牢屋が運動場に円を書いただけのような360度開けた場所か、壁際の辺にあるか角にあるかによっても難易度が変わります。また、逃げられる範囲も広ければ広いほど泥棒に有利であると言えるでしょう。時間制限もまた関係してきます。そういったルールや環境の違いによって、警察と泥棒の比率を考えないといけないのですが、一般的に行われているケイドロの場合、「警察の勝利=全員捕まえた」という結果で終わらずにゲームを終了してしまう場合がほとんどです。自分は、これが教育上好ましくないのではないかと考えています(笑)

仮に1クラス40人でやるとした場合、例えば1人が警察で残りが泥棒であれば圧倒的に泥棒が有利ですし、逆に警察が39人であれば確実に勝てるでしょう。しかし、流石に警察に勝たせたいからと言っても後者の比率では子ども達も絶対納得しないでしょう。やはりゲームですからある程度の公平性は必要です。前述の通り、細かなルールや環境設定によっても変わるのが難しいところですが、理論上はこの1人警察から39人警察までのどこかに「丁度良いゲーム性で遊べる比率」が隠されているはずです。単純に半分であれば苦労はしないのですが、実際、半々でやってみるとやや警察が有利なようで、4分の1でやってみると明らかに泥棒が有利になりました。つまり理論値は25~50%のどこかにあるようですね。欲を言えば、休み時間の20分間ギリギリかかって全員捕まえられるのが理想ですが、さすがにそこまできっちりした数値は出ないでしょう。とりあえず3分の1より少し多い程度(35~40%)がいいのではないかと結論付けました。

しかし、今年3年生でやってみて、大きな要素を1つ見落としていたことに気付きました。
個人の力量
中学年にもなると、すでに身体能力にかなりの差が出てきます。ルールや環境設定は所詮定数ですが、人員は変数そのものですので、個々の能力まで加味して理想値を見つけることはまだまだ時間がかかりそうです。

まあ、普通に50%にして終わったらまたやればいいだけの話ですけどね(笑)
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プールカード論

2012年07月23日 | 私見
本来は書くべき内容でないと承知しつつも、堪えきれないので愚痴ります。

夏休みが始まり、プール開放が始まりました。
体育担当として、プールでは事故がないよう、プールの安全には細心の注意を払っていると自負しています。
土日にも学校に行って塩素濃度を測っていますし、1年生が帰った後は6時間目とかにも極力プールに行くようにしてきました。夏休みも、プール当番は輪番制ですが、土日も含め、開放日は出張がない範囲で毎日見ようと思っています。
ところが、夏休みプールを終えた後、保護者の祖母を名乗る人物から電話がかかりました。
要約すると、こういう内容です。

「プールカードの印がないからといって、プールに入れなかったのはおかしい」

学校の事情に詳しくない方もいらっしゃると思うので、少し説明します。
学校では、「プールカード」と言う、プールに入るための許可書があります。
朝、保護者が子どもの体調を見て、「入水を許可します」と印を押します。
登校後、教師が子どもの健康観察をし、「入水を許可します」と印を押します。
この2つがそろって初めて、子どもはプールに入れるわけです。
担任印は、学校に来てから体調を崩したり、プールに入れないような怪我をしたりした場合もあるためであり、通常は保護者印があれば押すので、問題は保護者印です。
1学期のプール指導でも、2~3日に1回程度の頻度で印鑑が押していない場合がありました。
そういう場合は「プールに入れません」「学校から連絡もしません」という決まりになっており、保護者には事前に周知しています。当然、夏休みも同様です。
断っておきますが、これは本校独自の決まりでなく、軽く「プールカードに印」でネット検索をする限り、全国的にそうなっているようです。

何故そういう決まりなのかと言うと、大きく2つの理由があります。
まず、印がないということは「保護者は許可していない」ということであり、同情して入れてしまい、万が一事故が起きたときに、責任は100%学校にあることになってしまいます。「お役所仕事だなあ」と思われるかもしれませんが、最後にものを言う「証拠」は、印のある証明書だというのは社会の常識であり、日本の伝統的な文化でもあります。これは何も学校に限ったことでなく、締め切りを過ぎたら不可、記入漏れ、印忘れは不可というのは社会に広く浸透した常識ではないでしょうか。学校だけが例外と言うことはありえません。厳密に解釈するなら、学校の施設は関係者のみが使えるわけですし、何らかの許可がない場合は不法進入になるでしょう。特にプールでの活動は、大きな事故や死に直結する可能性のある活動であり、我々も単なる授業の1つでなく、事前に承諾書や既往症を調べたり救命講習を受けたりするなど、それなりの覚悟と責任をもって臨んでいます。そんな中に、許可されていない子を入れるわけにはいきませんし、その子の対応のために、泳いでいる何百人の子どもを放って電話連絡をするなんてことはもっとありえません。僅か数人の楽しみよりも、何百人の命の方がずっと重いからです。もっと言えば、プールではゴーグルですらも「自分で直す」決まりとなっており、監視をする先生に直してもらってはいけないことになっています。それくらい安全管理に厳しい体制をとっているということをまず理解して頂きたいです。

もう一つは、「印を忘れたら入れない」という罰を受けることも、教育の一環であるということです。人間は、何度も失敗し、痛い目を見て、やっと成長できるものです。小さいうちなら、尚更そうです。学校で起こる失敗なんてものはたかが知れていますし、責任を問われるようなものも滅多にありません。そうした守られた環境の中で、「次は失敗しないぞ。」と思うためには、(体罰はダメですが)多少の罰(懲戒)はあって然るべきです。10数回あるプールの、たった1回入れないだけのことで成長できるなら、これほど効果的な学習はないでしょう。
確かに押し忘れたり、日付を間違えたのは保護者の責任であり、子どもが罰を受けるのは可愛そうという見方もあるかもしれません(自分は断じてそうは思いませんが)。しかし、1年生ならまだしも、2年生以上なら自分のプールカードの今日の日付が分からないということはないでしょうし、その確認を怠った本人の責任もないとは言えないと思います。もし親が間違えたとしても、押してもらった後で見て「今日は○日だよ」と言ったりすれば済むわけですし、極端な話、自分で押し直すぐらいの知恵は必要でしょう。小学生なら、もうそういうことができる年齢に達していると思います。ただ、1年生はまだ10より大きい日付や曜日の漢字が読めないので、うちの学級では「次にプールのある日」に毎日○をつけて渡すようにし、それでも忘れた場合は、やはり入らせませんでした。ここでも「お役所仕事だなあ」と思われるかもしれませんが、忘れ物など、本人の基本的生活習慣に関わる問題は、本人が気付き、変わらなければ改善されることは絶対にないのです。そのために、「その日1回プールなし」という微罰により、懲りる必要があるというのが教師の考えです。そうすることで、次の日からは絶対忘れなくなるでしょう。もちろん、プールから上がった子どもを炎天下にさらしておくことはなく、日陰や校舎内の涼しいところで待つように指示をしてます。何故すぐ帰さないかというと、1人で帰すことは今のご時世では基本的にありませんし、その子が帰ったことによって一緒に来た友達が1人になってしまうのも困るからです。まあ、その子は勝手に帰ったそうですが・・・

事実としては、保護者は印を押したけれども、押した日にちが違っていたと言う、よくあるケースでした。普通はここで終了ですし、保護者からの電話は「自分が一番悪いのは分かっていますけど」という姿勢で、「せめて一報欲しかった」という、まあ納得できる内容の電話でしたが、その直後にかかってきた問題のクレームの主がその子の祖母からであり、こうした学校の立場と言うものを全く意に介さず、ただただ我が子(孫)可愛さの一心で電話をしてきたわけです。「子どもが泣いて帰ってきた」「楽しむためにプールに来たのに、印がないだけで入れないなんて可愛そうだ」「先生なのに、そういう子の気持ちが分からないのですか」・・・正直言って、こういう部外者の電話が一番タチが悪いです。こちらの言い分や対応した経緯などは全く聞こうともせず、1時間半ほど自分の主張をまくし立て、プール当番、体育主任(自分)、生徒指導、校長と順番にお叱りを受けました。あと、市教委にも電話をしたらしいですが、この辺、やはり学校のことを知らないなあと思いますね。・・・「ルールよりも子どもの気持ちを大切にしろ」なんて、「人を傷つけてはいけない」というルールよりも、子どもの「友達をいじめると楽しい」気持ちを大切にしろと言っているのと同じだと思うのですが・・・極論ですか?まあ、そういう対応をしてしまった某学校がどういう風になったかは言わなくても分かると思いますが。ルールの破れは秩序の乱れであり、「あ、印がなくても入れるのか」と子どもが思ってしまったら、最早歯止めがかかりませんよ。1人ならまだしも、10人以上電話して印を押しに持ってきてもらうのを待つうちにプールが終わってしまい、今度は電話した順番にまでクレームがつくことまで目に浮かびます。子どもは悪びれもせず、明日もまた忘れてくるでしょう。入れてよかったと喜ぶ子どもと保護者。成長できるチャンスを逃したことを悔やむ教師。・・・どちらが真に子どものことを思っているでしょうか?

いずれにせよ、自分は「子どもの気持ちが分からない先生なら今すぐ辞職してほしい」とまで言われてしまい、子どものことを真に思うからこその措置だったと冷静に説得する気力も失い、突っ立ったままそのおばあちゃんの苦言を聞き流す羽目になりました。唯一「子どもの安全を第一に考えています。」と主張できたことは良かったと思いますが、今からでももう一度電話したい気分です。
自分もおばあちゃん子なので、どうしても“孫が一番かわいい”になってしまう気持ちはよく分かりますが、子どもを偏愛するあまり、周りが全く見えなくなり、猪突猛進に行動を起こすことが、長い目で本当にその子のためになるかと言うことを考えれば、絶対に良い方向に働くことはないでしょう。おそらく孫や娘に泣きつかれて「正義は我に在り」という誤った義憤にかられたのでしょうけど、この電話によって孫がプールに入れなかった現実が変わるわけではなく全く意味がないどころか、長い目で見るとこの安易な行為によってその子が失ったものは非常に大きいと思います。困ったら何でも親が解決してくれ、自分は決して悪くないと甘やかされて育った子どもが果たして明日から変われるのか。もっと言えば、そういう家庭で育った子どもが将来どんな大人に成長するか、考えるだけで恐ろしいですな。まあ、そうした色々な価値観をもつ家庭の子でも、教師ががんばれば真っ直ぐな人間に育てることができる「教育」の存在は大きいですね。

キリがないのでこの辺で。
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いじめと報道

2012年07月15日 | 私見
学校関係者として、学校寄りの立場で今回のいじめ事件に触れたいと思います。

滋賀で起きた事件は、当事者のみならず、教育長や警察まで巻き込んだ騒ぎになっています。もちろん、いじめを肯定する気持ちは毛頭ありませんし、真相を解明し「同じ悲劇を繰り返さない」ために、直ちに考えられる限り最善の手立てを余すことなく打つべきであると考えています。しかし、その考えとは裏腹に、今のこのいじめ報道の有り様が、「同じ悲劇を繰り返すため」に行われているような気がして、悪寒を通り越して虫唾が走る思いでいます。

自分は2008年の記事でも述べたとおり、「いじめによる子どもの自殺数は、30年間ほぼ横ばい」という統計数値を根拠にスタンスを取っており、今回のケースもその一端であると捉えています(繰り返しますが、だからといっていじめを肯定しているわけではありません。)では、何故今、こんな大騒動になっているのでしょうか。事件があったのは昨年のようですが、じゃあ一昨年はいじめによる自殺がなかったかというと、過去の報道を調べる限り小学生と中学生の自殺がありましたし、その前の3年前にも高校生が自殺に追い込まれています。もちろん、今回のように「いじめによる自殺」と認知されてこなかったケースも多々あるでしょう。そういうのもひっくるめた自殺の統計は、本当にここの所ほぼ横ばいなのです。成人も含めた自殺者は年々増加傾向にありますから、自殺者数における児童生徒の割合は、年々減少しているとも言えます。
記憶に新しい岐阜県瑞浪市で起きた自殺を含む、文部科学大臣が緊急の手紙を配布するという事態にまで至った2006年には、既にいじめの定義が「一方的・継続的・深刻」から「本人がいじめと感じた」に変わっています。つまり、今回のケースで「いじめがあったか」を判断するのは本人であり、本人に近い関係者なわけで、決して学校が断定する問題ではないのです。つまり、マスコミが「いじめがあったか」と学校に聞くこと自体が間違いで、聞くまでもなく「いじめはあった」と言えるわけです。一般的な認識は「いじめはあってはいけないもの」かもしれませんが、「いじめはあるもの」という認識が現在学校にはあり、数ある雑多な仕事の中でも最優先で対応していかなければいけない事柄です。そもそも、「いじめがあった」ら即担任の責任だと結論づけるのは、極論過ぎるとさえ思っています。

自分にも、今の学校に来た年に申し送りで「いじめ」が数件あるクラスであると伝えられ、細心の注意と対応をしたつもりでしたが、根絶には至らず次学年に上げてしまったと言う苦い経験があります。「あの学級は先生だから受け持てるよね」という同僚の一言に、どれだけ救われたか分かりません。毎日朝食は喉を通らず、休みたい・辞めたいという気持ちにも襲われる中、合格点は出ないにしても担任交代に至らず皆勤で努め上げたことは、今でも教師という職に対する自信につながっています。一方で今のクラスでは、2年連続の1年生ということもあり、人間関係も全て統制が取れ、完璧なる手回し根回し見通し安全確認の下で、毎日非常に楽しく過ごしています。同じ1年間。給料も同じ。もし自分が先生だとしたら、どちらのクラスを持ちたいでしょうか。同様に、荒れた学校とそうでない学校、選べるとしたらどちらに行きたいでしょうか。・・・自分は、この10年間次の年の学年や勤務校の人事に口出ししたことも、断ったこともありません。教師という職に携わる以上、やはり「自分が持たなくても誰かが何とかしてくれる」という姿勢は、逃げでしかないと思うからです。いじめを見て見ぬ振りをするのと同じです。特に体育教師であればなおさら困難校へ回され、毎日指導に追われてやりたいことのできない鬱積した日々であったことに想像は難くありません。対応については拙さが漂いますが、学校には地区によって独特の特性があり、人事についてある程度希望も拒否も出せる状況で、「自分が何とかしてやろう」という思いがなければ、おそらくその学校で勤務することもなかったでしょう。この点に関しては、少なくとも特筆に価すると思います。あと、いじめが発生し、エスカレートする原因に、担任の対応不足があることも否定しませんけど、モンスターとも蔑称されて久しい一部の保護者の教育観や、テレビのバラエティや報道にも見え隠れする「いじめは楽しい」価値観から来るとしか思えない表現などについても、少なからず触れるべきだと思います。そもそも教育基本法にある通り、「教育とは“人格の完成”を目指し、父母その他の保護者は、子の教育について“第一義的責任”を有する」のであり、本来、このように“教育”してしまった責任は家庭にあるにも拘らず、担任以上に前に出てこない加害者の保護者に対しては、憤りすら感じます。親ですら自分の子に責任がもてないのに、どうして「等しく普通教育」を行っている学校が誹謗中傷の的になるのか、理解に苦しみます。さらに言えば、まず「うちのバカ息子がとんでもないことをしてかして誠にすいませんでした」の一言がないがゆえに、責任転嫁の迷走に陥っているという分析を、誰もしていないことにも大きな疑問を感じます。

今回の報道により僕が一番危惧するのが、「自殺すれば社会がいじめっ子に対して制裁を加えてくれる」といった間違った認識を、いじめに悩んでいる子どもがもってしまうことです。それは自殺の後押しにつながり、押しているのはマスコミであり、煽っている全ての人達と言うことになります。今回の件は校長なり教育長なりが責任を取るとしても、万が一“次”に同じことが起きたら、マスコミはちゃんと責任を取るのでしょうか。「自殺が相次ぐ」という表現に、後押しされてしまった悲しい事例も過去には何度か見受けられますし、今回のキーワードにもなっている「葬式ごっこ」自体も、1980年代に初めて起こり、マスコミが取り上げて以来、各地でまねをする「負のブーム」となってしまったという事例があります。自分も子どもの頃、何かのマンガで「友達の机の上に花瓶を置く」という表現を見たことがあります。そもそも今回の事件が去年の話なのに、何故今になって騒いでいるのか・・・いろいろ理由はあるのかもしれませんが、自分には、昨年は震災と原発の報道で忙しかったからとか、ここの所いじめ自殺報道の扱いが小さかったからとかの、マスコミのメシの種的な都合としか思えてなりません。

こうしてマスコミで報道された後に類似事件が多発すると言うことに、一体何回繰り返せば気がつくのでしょうか。バラエティでも報道でもインターネットでも、とにかく表現者が「いじめ」を食い物にするのだけは止めてほしいです。
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TNP

2011年12月05日 | 私見
TPPにお株を奪われ、共倒れで流行語大賞からも外れましたが、算数的な見地から一言申し上げます。

言うまでもなくTNPは「低燃費」の略です。低は低い。燃費とはさらに燃料消費率の略。一般的に、リッター15km走るうちの車と、リッター27km走るらしいTNP車では、後者のほうが低燃費と評価されます。
しかし、数値の上では明らかに27も走る車は15に比べて「数値が高い」という評価であることは明白です。つまり、これはKNP即ち「高燃費」なのではないか、ということです。ちょっとぼかした言い方になりますが、仮に「燃費が良い」という評価ならまだ分かります。でもそれならTNPでなくRNP(良燃費)であるべきではないでしょうか。

そもそも何をもって燃料消費率とするかに問題があります。日本では「1リットルあたりの走行距離」が燃費ですが、欧州では「100km走行できる燃料」でもって燃費とするそうです。この場合、数値が低い方が「燃費が良い」ことになり、TNP=RNPとなります。つまりTNPの発想は欧州発であり、日本式の燃費にはなじまないわけですね。

「給油量と走行距離は果たして比例するのか」を飲み屋で議論するうちに、こんな訳の分からない結論に至りました(笑)
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学力テスト採点

2011年10月27日 | 私見
全国学力・学習状況調査の採点をしました。

昨年度から抽出になり、指定にならなかったところは自校で採点し分析してもらうという形になったようです。基本的に4月に行うようですが、今年は震災の影響で今まで実施が見送られていました。
ということは、この問題はほぼ5年生終了レベルで解く問題だと言うことです。半年たてば当然その分勉強も進むはずですから、純粋に昨年度と比較と言うことはもうできませんね。まあ、折角予算を出して問題を作ったのだから、やらないともったいないし稼げない(?)と言ったところでしょう。
しかし、それでも予算不足だったのか、回答を記入する元データが作りかけで、各校で自分で作れと言われました。しかも、全ての回答に対しいちいち○×や誤答の類型を打っていたら日が暮れるので適当に関数を入れて作り直したら「作成データの形式が変更されていて読み取れません」とか出て、もう一回手打ち式に作り直す羽目になりました・・・orz

というわけで、準備から一波乱だったわけですが、自分は算数のB問題の採点を任されました。例年、平均点が4割という、本当に小6対象に作ったのか疑わしいテストです。テストには、俗に小学校80点、中学校60点、高校30点(笑)と言う「合格ライン」がありますが、そういう意味では高校並みの試験の作り方をしていると言えるでしょう。
ココからは私見が混ざりますが、採点していて、こんな時期に算数に対して壁を作ってどうすると言いたくなりました。問題を見てもらえば分かりますけど、こんな問題は活用でもなんでもありません。第一、問題文が長すぎます。しかも、出題者の意図を推量し、汲み取って回答しないと正解になりません。数学的な思考力や表現力よりも、何が書いてあるかの読み取りや、作者の気持ちの理解、要点をまとめるといった力が必要な、まるで国語のようなテストでした。以前に朝日新聞に出題者らしき人物のコラムが載っていて、「良い問題の素材が見つかって嬉しかった。」「こんな問題も解けるようになってほしいという願いで作った。」と書いてあって愕然としました。どうやら、あれは小学生の立場で作られたものでなく、「ぼくの作った良い問題できるかな?」といった、出題者のエゴが丸出し作られたもののようです。3年間も小学校のテストで平均40点そこそこが続いて、普通なら「こんな低い点数しか取れないテストは、児童の学力でなく学力を問う問題自体がおかしいのでは」という指摘があって然るべきだと思うのですが、この期に及んでこんな記事を載せるぐらいですから、全く反省はないようです。

それでいて、その問題が作りこまれているかと言うと、決してそうではありませんでした。例えば年号を答える問題では、1990年のみを正答としていますが、引用したグラフには1990年(平成2年)と書いてあるので、平成2年でも正解のはずです。しかし、そう回答した子は「その他の回答」つまり×になってしまうのです。あと、「どんな図形か、辺の長さと言葉で答えましょう」とあるから、「辺の長さが全て等しい四角形(正方形)」と回答した子が非常に多かったのですが、模範解答は「1辺が7cmの正方形」で、それ以外を認めていません。問題の意図から正方形であることは明白なので、せめて「図形名と、辺の長さ(何cmか)を答えましょう」となっていれば、分かった子はもっといたと思います。音符の問題では、比を使って解いた子もいましたが、説明が類型にないので×。輸出した台数が多いわけは、どう見ても「どちらも50%を超えているから」なのですが、ちゃんと年と割合を記述しないと×だそうです。それなら、ちゃんと「年と割合を示してわけを書け」とするべきでしょう。こんなレベルで「良い問題ができた」と喜んでいる出題者のオナニープレイに付き合わされる小学生が可愛そうです。

活用力を問うなら、それこそそういう算数的な素材を自ら探し、自ら問題にして解くぐらいでないといけません。それではテストとして成立しないと言うのなら、輸出のグラフや観覧車の設定だけ示して、「今まで習った学習を使って解ける範囲での問題を作れ。」「その回答を友達に説明できるよう記述せよ。」とするべきです。その上で、作成問題の基準をを「比や割合を扱ったものなら10点」「図表から読みとるものなら5点」「加減算は1点」などと明示するなど、難しい問題を作った方が点が高いと言うようにすれば済む話です。

・・・まあぶっちゃけ、採点が地獄過ぎたことによる愚痴です(笑)
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わが意を得たり

2010年12月16日 | 私見
強引な勧誘によるマンション購入被害増加 ターゲットは30~40代のサラリーマン
やはり、社会問題になっていたのですね。

「断り続けると暴力・脅し・耐久戦にもつれる」が普通に行われ、契約せざるを得ない状態に陥れ、契約して実際に損をしても、当然の如く何の救済もないとか。以前勧誘された時に考えていた矛盾がズバリ的中した模様です。まあ、自分はまだそこまでの被害には陥っていませんが、その後も電話が事あるごとにかかってくるため、出た人に切ってもらう対策に出ると、今度は郵便作戦に出た模様です。封筒のまま捨てているので何が書いてあるかは知りませんがね(笑)

こういう電話は自分だけでなく、本当に色んな先生にかかっているようです。会議中に呼び出されることもしばしばで、ここまでくると業務妨害以外の何物でもありません。マジでマンション投資系の会社名を全てブラックリストにして電話の前に貼っておこうかな・・・
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マンション詐欺

2010年11月21日 | 私見
最近、マンション投資の勧誘が増えてきました。

大抵は電話口で直球「マンションのオーナーにならないか」と勧めてきます。会社もマンションがある都市も違うようですが、こんな電話が自宅にも職場にもかかってくるのです。教員は「職員録」のようなものを作るので、そういった名簿を入手して手当たり次第にかけているのでしょう。基本的には3言目以内に「マンション」の言葉が出るので、その時点で断るようにしていました。

しかし、先週かかってきた電話はかなり悪質でした。年金が増える、保険にもなるといったことは言うのですが、一言もマンションと言う言葉を口にしませんでした。丁度年末調整の時期だったので、てっきり個人年金のことかと思ってしまい、話だけ聞いてみようと思ったのが運の尽き。職場で会う事にし、名刺を見て初めて「やられた」と思いました。以下はその手口を紹介します。
・新聞やスポーツに広告を出している→安心できる会社だと信じさせる
・やたら自分ことを話す→さりげなくこちらの年齢や収入、家族構成を聞く
・共済組合(年金)の現状を説明→将来を不安にさせる
・安定した老後を過ごすために必要なお金をシミュレート→危機感を煽る

・・・こんな感じで、自社商品のアピールに入りました。その他、○○学校の先生も今日契約してきた、○○学校の先生とはいま商談中といった情報も、安心を与える手口の1つですね。実際、自分の場合は現時点で安定した老後に必要だと言われた3千万くらい貯金があるので、それこそこういう詐欺に引っかからない限り老後に危機感をもっていないのですが(笑)こうなった以上はその仕組みというか、手口を聞いて勉強する時間にするしかないなと割り切り、そのまま聞いていました。

簡単に言えば、借金してマンションを買い、それを人に貸し、家賃収入でローンを返せばその後は丸々家賃がもらえますよ、といったもののようです。以下、メリットやリスク回避として説明されたことを羅列します。
①家賃収入でローンが払えるため、経費はほとんどかからない。月々5千円程度管理費として払うだけだから年金積み立てと換わらない。
②ローンを払い終われば30年後には月々7万円の収入になり、一生続く。
③資産になるので、生前も死後もお金に困ったら最終的に売ることも可能。
④経費をマイナス計上できるので、確定申告の時に税金が安くなる。
⑤大都市で立地条件がよく、少子化でも人気が衰える心配がない。
⑥入居率が現時点で常に95%を超えている。
⑦会社を分けているので、万が一会社が倒産してもマンションは潰れない。
⑧万が一借り手がつかない場合、9割まで家賃を保証する(オプション加入)
⑨万が一返済前に死亡した場合、その後の支払いはチャラ(保険会社が払うから)
⑩万が一返済前に収入がなくなった場合、一定期間支払い免除(これも保険)

・・・正直、話を聞いていて加入したくなってしまう気持ちもよく分かりました。実質ここまで2時間もかかったのですが、隙のないトークと言うか、こうした相手が納得するように図や式や言葉を使って分かりやすく説明する能力というのは、是非今の子ども達につけさせたい力ですねぇ(笑)こういった方向に才能を伸ばしてもらっては困りますが・・・まあ、自分は数学科なので、いくら筋道を立てて説明していても、肝心の根拠がないことを信用するわけには行きませんから、一通り説明が終わり、見積もりを見せてもらった時点できっぱりと断りました。

「十分分かってもらえなかったようなので、明日また来ます。」
うぜえorz
先週は懇談も東海数研もありましたし、12月始めには授業公開もあってめちゃくちゃ忙しい時期に、ただでさえ2時間も無駄にした上さらに時間を作れるはずがありません。それ以前に、めちゃくちゃトイレに行きたいのですが・・・さらに30分食い下がられ、忙しくて無理かもしれないがと断りを入れ、一応次の約束をして帰ってもらいました。

実際忙しかったので翌日電話が来た時点で断ることができましたが、その後ネットで調べてみて、同じような被害にあっている人が多いことが分かりました。契約してからでは遅いこともあり、自分の場合は2時間半を無駄にしただけですんでまだ良かったかなと思いました。ブログのネタにもなっているしね(笑)

次に、今回の話で自分が信用できなかった、矛盾を感じた点を挙げようと思います。

・わざとマンション投資であることを電話口で言わない。

この時点ですでに致命的なわけですが・・・契約はまず信用が第一。相手をだまして会う手法は独断なのか、会社ぐるみなのか・・・いずれにしても、用件を正しく伝えないのは議論のテーブルに乗せる以前の問題です。信用のない相手の会社や勧める商品が信用に足るわけがありません。なので自分は名刺をもらった時点で態度を決めました。
・必ず儲かるような話しぶり。その利益率が単純計算で10倍の儲けは常識的にありえない。

5千が7万なので、定年後30年生きるなら単純に14倍、平均寿命の20年でも10倍弱です。実際は電卓のようには行かないことも説明がありましたが、それでも何倍も儲かることを前提に話が進んでいました。比較対象が株式投資で、それより安定して儲かると言われても株自体がハイリスクですから、当然このプランにも相当のリスクがあるはずです。それをさも軽げに言うのはどうかと。
・金額がマイナスになるような話になると途端に曖昧になる。

利益はしっかり電卓で計算して見せてくれるくせに、税金にしても、保険にしても、維持費にしても、具体的な費用についてはほとんど教えてくれませんでした。④のように「税金は安くなります」と言われても、正直全くピンときません。そもそも安くなるのは期限付きのようですし、今まで払っていなかった税金を払うことになるわけで、安くなることはありえないでしょう。確定申告という余計な手間が増えること自体もマイナスですね。「少しかかりますが・・・」と言われた⑧⑨⑩は、つまり5千で済まないぞ、ということを暗喩していますね。月数万の出費になる危険性もあると感じました。
・そもそもなぜオーナー制なのか

実際アパート経営をしている親戚がいるのですが、とりあえず建てて、入居者を募って、家賃収入で借金を返せるのが20年ぐらいと言っていました。条件は同じではありませんが、当然入居者がいないとその分遅れますし、修繕にもお金がかかります。そういったリスクがあるから、部屋ごとに管理権を譲って、入居者リスクと修繕リスクをオーナーに丸投げしたのがこのマンション投資という商売なのでしょう。身入りは減りますが、企業側にリスクはほとんどありません。月5千円を100部屋でやれば年間600万にもなるわけです。①②のようなシステムは、カモを増やして手広くやればやるほど儲かる商売。現に、この会社はこれで年間4億の収入があるらしいです。まさにギャンブルとかでおなじみの、主催者が儲かるシステムですな。
・資産価値について

車でも、買った時は200万だったとして1年ごとに50万ずつ下がり、4年も乗ればタダ同然の価格で下取りにだすことになります。それと同じで、マンションも新築の頃は良いでしょうけど、年数がたつにつれて間違いなく価値は下がるでしょう。30年ローンを払って、仮に20年儲けさせてもらって、その後売った所で元の2000万では絶対売れないでしょう。つまり③は成り立ちません。この辺りを錯覚させる話術は巧みですが、⑤⑥のような状態が半世紀も続く保障なんてどこにもないのですね。第一、そんなに人気があるのなら他の企業もどんどんマンションを建てて儲けようとするでしょうから、供給が需要を追い越すのも時間の問題でしょう。あと、先程述べた維持費についても総額では相当かかります。自分の持ち家ならしぶしぶ直しますが、このオーナー制というのは自分が住むわけでないので、全く実感の湧かない投資だということが一番の問題なのかもしれません。
・月額が電話の時(3千)と話し始め(5千)と契約時(7千)とだんだん増えた。

これも言語道断なのですが、少額であると安心させておいて、気づかないうちにじわじわと上げていく詐欺の常套手段です。さらに、この月々の金額の他に、手付金として250万ほど見積もりに上乗せされていたのも見逃せません。そもそも月5千円程度集めるだけでは本当に管理費とトントンでしょうし、別会社と謳う勧誘会社自体の儲けが計上できないはずです。おそらくこの手付金が勧誘業者の資金となるのでしょう。つまり、契約をして最初にもらうものをもらってしまえば、あとは3千でも7千でもどうでもいいのでしょうね。別会社だし。従って、⑦は倒産によるオーナーの損害を防ぐと言うより、先に利益を頂いてあとは責任逃れをするためであると考えられます。

以上のように、話を聞いた上で自分が出した結論は、「余りにも虫の良過ぎる話。高リスクの可能性が高く、1秒でも早く断るべき」です。実際は、教員のマンション経営は増えているようですが、所得になる以上は地方公務員法第35条「職務専念義務」に違反している恐れもあるので、十分吟味されたほうが良いと思います。
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渋滞対策

2010年05月06日 | 私見
このGWはいつでもどこでも渋滞みたいなことを言っていましたが、自分はそれほど感じませんでした。

でも、ニュースや今日の子どもの日記を見る限り、名古屋方面、高山方面ともにひどい渋滞だった模様です。子どもは後ろで寝ていれば良いわけですが、運転する方はそういうわけにもいきません(笑)まあ、当然最初から渋滞は予想していましたから、できる限りの対策をとった結果、2400km中の渋滞区間をわずか25kmに抑えられたわけです。
では、その対策を紹介します。

①狙いは北陸道
高速道路は、基本的に大都市に向けて伸びています。なので、大都市を避けるルートを選択すれば、遠回りでもリスクを避けることができるのですね。実際に岐阜からだと千円で行くには郡山を通るしかないので、必然的に北陸道を選択することになったわけですが、中央道も東京への迂回ルートとして結構混むため、この選択は大正解だったといえるでしょう。桃鉄の中のような話ですが、この選択の如何でリアルでは何時間も違うわけです(笑)

②深夜に距離を稼ぐ
日中起きて夜に休むのが人間。だから深夜に移動するのがベストです。理屈では分かっていても、実際に行動できる人は少ないのでしょう。特に家族連れには負担が大きいですし、車から見ていても夜はほとんど遭遇しませんでした。行きは午前1時に出発し、ノンストップで新潟まで行き、郡山に7時半に着きました。流石にそこからは混んできましたけど、休憩しながらその土地の名物を食べることもできたので良かったな?やはり長距離を走るのは夜に限ると思います。流石に帰りは眠かったですけどね。

③渋滞時には休憩を多めに
休むと余計に混みだす気もしますが、事故や落下物なら休んでいる間に取り除かれるでしょうし、多分自然渋滞の場合でも早めに休んだ方が良い気がします。トイレ前にあった落下物の表示が、トイレ後に消えていたこともありました。ただし、混んでいないPAやSAに入るのがミソですね。渋滞でイライラ、駐車場探しでイライラは最悪のルートです。

④キープレフト
渋滞時は、人間に心理として速く進みたくて右側に行きたくなりますから、意外に左側の方が速かったりします。右側に車が移動し、さらに休む人は左側からいなくなっていくので、必然的に左側にいた方が車の量が少なくなるわけですね。そうでなくとも右側は前が見にくく、渋滞の先が予測しにくいのでイライラしますから、精神衛生上、自分は渋滞が始まると左側に移動するようにしています。同じようなことを酒田市で見たテレビでも言っていたので間違いないでしょう(笑)

⑤混む道は下道で
最早高速ではありませんが、最悪の状況が予想できるのならまだ下道の方が自由に休憩・抜け道を選択できるので、一般道を走った方が良いでしょう。自分は行きの東北道で帰りの死亡フラグを垣間見たので、秋田市から新潟までずっと日本海側の一般道を走ってきました。確かにこっちも市内の道は一部渋滞しましたけど、所詮タダなので諦めもつきますし、ナビ様のお陰で多少抜け道を進むことができたと思います。まあ、思いっきり迷い込んでUターンした道もありましたけどね(笑)

後は、ゆっくり走るというのも対策の一つなのでしょうが、飛ばし屋の自分には選択できません(笑)
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いじめ調査

2008年11月24日 | 私見
平成19年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」が発表されました。

自分は特に、いじめの調査結果に関心をもちました。19年度は、前の年に比べると確かにいじめの件数は減っているようです。しかし、この調査は大きく10年ぐらいの周期でいじめの定義を見直し、その直後は非常に高い数値を記録するものの、毎年沈静化していく“N型”(一気に増えて、徐々に収まって、一気に増える)の結果を辿っています。つまり「いじめ自体の件数」よりも、「いじめを問題と見るか」の度数を計るのに適したグラフであると言えるでしょう。

岐阜県では、2年前の平成18年度に瑞浪市で中学生の自殺が起こりました。文部科学大臣が子ども達やそれに関わる大人達に向けて、初めて手紙を書いたと言う事例として記憶に残っている方も多いと思います。奇しくもそれ以前にまとめられた「17年度の県内のいじめの件数」は350件ほど。全国平均と同じぐらいの割合のいじめしか報告されていませんでした。しかし、その次の年(18年度)の調査は7500件と、定義が変わったことを踏まえても20倍以上の増加となり、件数と比率はともに全国ワースト3となりました。さらに今回(19年度)の調査は8200件と、件数ワースト3、比率ではついにワースト1となってしまいました。

自分の学級でも毎日こうした問題の種は尽きないので、もしかしたら本当にいじめの数自体多いのかもしれません。しかし、一方で8000件もあったよと報告し、一方で100件しかないよと報告している県があると言うのは、余りにも差が激しいと思います。ちなみに、今のいじめの定義は「学校内外を問わず、仲間から心理的・肉体的な攻撃を受けて、本人が苦しんでいる」です。17年度以前にあった「一方的・継続的・深刻」という言葉は外されています。岐阜のように学級1人(3%)は多いにしても、どこでも学年1人(1%)ぐらいは絶対あるような気がするのは偏見ですかね・・・?
県教委は、あえてワーストの汚名を着てでも、いじめに警鐘を鳴らし続けるスタンスのようです。

いじめによる子どもの自殺率というのは、この30年ほどほぼ横ばいのはずです。しかし、マスコミが忘れた頃に騒ぐから、地元で起きたからでなく、自殺まで思いつめる前にいじめに気づき、どれだけ対策が打てるかが勝負なのだという気持ちで、アンテナを磨いていきたいものです。
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懲罰

2008年11月01日 | 私見
罰に「愚か者の誓い」 中学教諭、忘れ物で生徒に書かす
忘れ物など、基本的生活習慣に関する問題行動は、懲りないと直りませんよ。

自分も忘れ物は毎日チェックし、保護者に分かるようにしています。それでも、忘れた事を良いことに仲の良い友達と机をくっつける口実にしたり、その時間中ずっと伏せていたりする子には、「愚か者」と書かせるかどうかは別にして、何らかの罰を与えないとと考えるでしょう。教師が対策に乗り出す時、そこには常習性や意識の低さ、態度の悪さなど、問題の深刻さが必ずあります。忘れ物は誰もがするものですけど、同時に忘れ物をなくす努力だって誰もがするものです。そうでないと、社会的な自分の立場を危うくしかねませんからね。しかし、子どもにはそこまでの責任はありません。そうなると、やはり罰でもって自己を見つめていく機会が必要になるわけです。

さて、こうして記事になるほど騒がれたことで、生徒が忘れ物をしなくなれば良いわけですが、果たしてどうでしょうか?自分は、子ども達がこの記事を読み、「忘れ物ぐらいで重過ぎる罰を与える先生は悪い先生」→「忘れ物は罰を与えられるほどではない」→「忘れ物はしても良い」という思考が働いてしまうのではないかと心配になりました。教委も、マスコミも、記事に対し「忘れ物はいけないが」という一文句を添えるべきだったのではないでしょうか。また、こうした投書をする以上は、本人も我が子に対し忘れ物指導を徹底し、自らに非のない状態に改善させて然るべきです。学校では、往々にして子どもの姿を通じ親の姿が見え隠れしますから、こうした機会をもって自己を見つめ、是非子どもに返していって欲しいと思います。

先月は自分のクラスでも問題が多かったので、保護者に連絡することも多くありました。「迷惑をかけてすいませんでした。」と謝る方ばかりだったので、正直ホッとしました。中には、「うちの子は悪くない。先生の指導が悪い。」と逆にこちらが叱られるケースもあるからです。自分もまだ20代ですし、親の気持ちもまだよく分からないのですが、そういう保護者の所の子に限って同じような問題行動を繰り返すのは、やはりその子のみの問題とは思えないのです。我々教師は誰に何と思われようが、子どもが良くなってくれれば構わないと思っているので、納得できないことがあれば直接言ってもらって結構ですし、対応の不備についてはいくらでも謝ります。しかし、経緯や意図をはっきりさせないまま、対応だけを問題視しクローズアップするのでは、本質的な解決になっていかないのではないでしょうかね。

相当に偏った意見ですが、間違っても、教師がこの記事に懲りてマトモな生活指導ができなくなることだけは避けたいものです。
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専門家

2008年10月14日 | 私見
<発達障がいの子育て支援>身近に専門家を
まあ、自分もそんな計算に入っているのかな?

自分のクラスには、通級児童こそいませんが、よく見ると漢字が異様に覚えられなかったり計算が極端に遅かったりと、学習障がいの片鱗を見せる子がチラホラといます。他にも、注意欠陥や多動でないかなと疑わしい子も何人かいます。この子達には、診断はつかないでしょうが、自分がほんの少しの配慮をすることによって、皆と普通に学習することができているわけです。

障がいによってできないことを叱っても、それが自信喪失や、いじめに繋がってしまうこともあります。こうした“2次的な障がい”を回避するには、教師の価値観を変えていかないといけません。できなくて一番困っているのは当の本人ですから、できないことを頭ごなしに叱るのではなく、なぜできないのかをしっかり本人に寄り添って探り、徐々にステップアップできる課題を見つけるなど、一緒に解決できる方法を考えることが大切なわけです。

これからは、一人一人が専門家と呼べるくらいの努力が必要になるでしょうね。
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注視・追視

2008年08月07日 | 私見
妹の家に遊びに行きました。

お宮参りの後、赤ちゃんに会いに行くのはコレで2回目です。ほぼ1週間に1回のペースですね(笑)
前回も思いましたが、1週間会わないと本当にどんどん大きく、重くなっているのがよく分かります。まさに「男子三日会わざれば刮目して見よ」の言葉の通りだと思いました。今回は、顔を30cmくらいに近づけて左右に動かすと、しっかりと目で追ってくれました。これは!?と思い、カラフルなガラガラを振りながら動かすと、それもちゃんと追いかけています。しかも、目だけでなく据わっていない首まで動くのです。音無しでもちゃんと追いかけましたが、別の白いガラガラでは全く反応を示しませんでした。これは、音だけでなくしっかりと「色彩」を認識できている証拠です。お宮参りのときは全く反応を見せなかったメリーゴーランドのおもちゃ(?)も1週間前から不思議そうに見つめていましたし、その頃から注視する力が育ってきていたと考えられます。となると、図と地の区別がつき始めたのはいつになるのだろう・・・?

養護学校でこうした力を育ててきたので、ちょっと分析的に赤ちゃんを見てしまうのは職業病ですな(笑)
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