《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

旧街道・大和奈良街道2「亀の瀬の地滑り」

2016年01月13日 | Weblog

右手にある「亀の瀬地すべり資料館」は本日旧館日。
左側には「地下に広がる亀の瀬地すべり」の見学トンネルもある。
亀の瀬は「畏(かしこ)の坂」として万葉集にも登場するほど、地すべりが多く、恐れられてきた。
その一方で亀の瀬付近の道は、奈良と大阪を結ぶ重要な街道だった。
明治以前の地滑りの記録は残っていないが過去の調査から4万年前からあったと考えられている。
明治以降では主に1903年(明治36年)、1931・1932年(昭和6・7年)、1967年(昭和42年)に発生している。
昭和6年から7年にかけての地滑りは特に規模、被害が多きかった。JR関西線が完全復旧するまで3ヶ月かかった。


旧街道・大和奈良街道2「夏目茶屋の渡し」

2016年01月11日 | Weblog

国分寺方面から対岸の青谷青少年運動公園へは、歩行者専用のつり橋を渡る。
一度に通行できる人員は15名までと注意書きがある。
国道25号線が整備されるまでは、ここに「夏目茶屋の渡し」がありそれを利用して対岸まで渡っていた。
旧街道から北へこの「つり橋」を渡ると運動公園東側に青谷遺跡がある。
13×21mの石の基壇、回廊、築地塀跡が確認されており、建物は渡り廊下で繋がれていた。
瓦は平城京や難波宮と同じものが見つかっている。


旧街道・大和奈良街道2「河内国分寺跡」

2016年01月10日 | Weblog

国分寺は天正13(741)年、聖武天皇の勅願により設置された国立寺院で、僧寺と尼寺がある。
大阪府内には摂津と、和泉、河内の3国分寺があり、河内国分寺は亀の瀬峡谷の南岸の丘陵地に建立され、
塔の基壇が復元されている(河内歴史探訪の道より抜粋)。対岸には竹原井(たけはらい)の離宮があた。


旧街道・大和奈良街道2「分かれる意見」

2016年01月09日 | Weblog

松岳山古墳の石室内。四国鷲ノ山三石材を使用した石棺内側には鮮やかな朱が残っている。
鏡や装飾品、農機具、土器、埴輪などが出土している。石棺を覆う竪穴式石室の現状は不明。
被葬者については河内の有力首長(国立歴史民俗博物館の白石太一郎氏)と、
大和勢力の有力な一員とする(神戸商船大学・北野耕平氏)の意見に分かれている。