雲井坂を下り切ったところに吉城川が流れそこに掛かる「徳井橋」。『奈良坊目拙解』(1735年)の中で、村井古道(奈良の外科医であり俳人でもあった)は異説を展開する。雲居坂が北に下り平坦になるあたりで、吉城川が東から西へ流れる。この川にかかる従弟井(いとこい)板橋=現威徳井橋が轟橋だと主張。当時この辺りには旅籠が多くあり、300~400人が泊まれる宿舎もあった(街道資料1)。いまも老舗の醤油店が残っていたり、ほか小さいながらそれらしい二階建て建物が西側にぽつんぽつんと残る。そう思いながら歩くとそれらしく見える。しかし奈良への入り口「名所・旅籠、宿場通り」としての保存はもう難しい。