月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

抗がん剤治療2クール目投与

2016-06-20 | 癌について
2クール目投与の日。
11時〜の予定だったのに、薬剤の到着が遅れているとかで、お昼を食べて、ようやく始まったのが2時過ぎだった。
おかげで夜8時半までかかった。

今回は点滴のルートをとるのが上手な先生で、失敗もなく痛みもなかった。
やっぱり人による〜!
前回は一度失敗するし、とても痛かったのだ。
指名制なら次回も今回の先生を指名したいよ。

母と姉が来てくれた。
姉が先に着いたのだが、私の頭を見るやいなや、
「あぁ〜!かわいそうに〜!」
と叫んで泣き出したのでびっくりした。
先に伝えて写真も送ってたのに。

私と姉は決して仲良し姉妹ではない。
でも、嫌いとか憎んでるとかっていうよりは、あまりに性格や好み、考え方が違いすぎて、付き合えない、というだけなのだ。
なので、ほとんど連絡もとらないし、会うことも少ないが、こういう感情はさすがに湧くようだ。

でも、戸棚にしまっていたウィッグを見せて、「人毛やで」と言うと、「絶対どこかの貧しい国の貧しい女の人のやで!こわっ!」と言った。
「でも、めっちゃキレイじゃない?」と言うと、「そりゃ、貧しいからパーマもかけたことないからね!」と鬼の首をとったように言う。

これが私の姉らしさ。

そして、最近新しく決まった仕事先の話を延々してくれた。
面白いので書きたいが、長くなるので割愛。
そのうち母が来て、母も私の頭を見て、かわいそうに〜と言ったけど泣きはしなかった。
姉はまた泣いていた。
貧しい女性の話など忘れたかのように。

さらに、ひとしきり自分の話をして満足したのか、点滴で私が朦朧とし始めたら、明らかに無口になってぼんやりしだした。

……退屈してる!!

「あの、姉ちゃん、退屈やろうから、もういつでも帰ってくれていいからね。ありがとう」と言うと、表情がパッと明るくなり、
「そう?じゃあ帰ろう」と何の未練もなく、さっさと帰ってしまった。

これが姉。さすがだ!!

母もとにかくしゃべりたいようで(うちの家族はみんな自分がしゃべりたい)、私が眠くてふらふらなのに、いつまでもしゃべっていた。
さすがに限界になったので、少し寝るね、と言って寝た。
一時間くらい寝たようで、起きると母は私の持ってきた本を読んでいた。
お水など入れてくれて、何かと世話を焼いてから帰っていった。
しゃべるの以外は本当に助かる。感謝!

そして、また点滴しながらの食事。
1クール目もそうだったが、嘔吐がなくて本当にラク。
もちろん、点滴の中にも吐き気止めが入っているし、内服薬も飲んでいるので、その効果なのだが。
吐かなくてもむかむかする人はいるようなので、私は何ともなく、ご飯も食べられてよかった。
抗がん剤を打ちながらもりもり食事!

そのあとは、夫が会社帰りに寄ってくれた。
しゃべりたかったが、激しい眠気で言葉が出ない。
1クール目はこんなに眠くはなかったのだが、今回はとにかく眠い!
夫が帰ったらすぐに寝てしまった。

私がブログを書く理由

2016-06-20 | 癌について
どうしてブログに病気の詳細を綴り始めたのかと友に聞かれて答えた。

理由はいろいろある。

一つ、いろんな人に状況を聞かれるのだが、1人ひとりに返信するのが大変なので。

一つ、単純に自分の記録として、後で振り返るため。

一つ、私もいろんな見知らぬ人の体験ブログで情報を得られたことがありがたかったので、検索でここにたどり着いた人にとって参考になればという想いから。

ブログを書く理由はそんなところだが、最初は病名なども隠してオープンにしなかったのに、赤裸々に書き始めた理由はまた違う。

それは、簡単に言うと、吹っ切れたからだ。

手術前は、子宮や卵巣を摘出することに大きな拒否反応があった。
これは女性ならほとんどの人がそうだろう。
また、これがもし胃ガンで胃を少し切除します、というものだったとしても、「恐怖」は変わらない。
初めての全身麻酔、手術。
痛みは?苦しみは?本当に治るの?
様々な不安で、冷静に自分の状況を書けるような精神状態ではなかった。

でも、手術を終えたら、女性ならではの拒否反応というところは全くなくなっていて、自分が子宮や卵巣を取りました!ということは米粒ほどもダメージを受けていなかったのだ。
本当にこれは不思議なことで、それは、ガンという病気が、そんなセンチな気持ちなど簡単に凌駕してしまうような、恐ろしいものだと実感したからだと思う。
体の中から恐ろしいものがなくなった!
その喜びのほうが大きすぎたのだ。
もうあんな怖い想いはたくさんだった。

それなのに、1ヶ月後に告げられた「転移の一歩手前」という診断。
あんな初期のガンだったのにどうして?という気持ちで、簡単には受け入れられなかった。
でも、今度は「手前」という言葉にすがる。
手術前に、「初期のガンだから、取れば大丈夫」という言葉にすがったように。
あくまでも「手前」であって、「転移」はしていない。
あくまでも再発予防だ。
今なら3回だけど、再発したらそんなものでは終わらないし、どんどん転移する可能性も大きい。
いろんなことを天秤にかけて、いろんな情報を集めて、夫と話し合って、抗がん剤治療を受けることにした。

「選択」は苦手。
でも、選択したからには、その道をしっかりとした足取りで、立ち止まることなく進みたい。
そんなとき、私を支えてくれるのは、夫であり、友達であり、書くことだった。これまでもずっと、いろんな場面でそうだった。
だから、後ろを見ないよう、足を止めないよう、崩れてしまわないように、書いていこうと思った。
入院中も、仕事ができないときも、不安に押し潰されそうなときも、書いていればやり過ごせる。
そして、私の状況や気持ちを、大切な人たちにも共有してほしい。これは、私の勝手な気持ちだけど、ブログなら読みたいとき、時間のあるときに、負担なく読んでもらえるし、いちいち返信する手間もないはずなので。
さらに、最初の方に挙げたように、同じ病気の人が、少しでも役立つ情報を得たり、気持ちが楽になったりしてくれたら、こんなに嬉しいことはない。

この間会った高校時代からの親友二人に、「強いなぁ」と言われた。
尊敬の気持ちで言ってもらった。
「強さ」というのは私の人生におけるテーマであったように思う。
ずっと強い人間になりたかった。
それは、強い人間は本当の意味で優しいと思うからだ。
じゃあ、私はこの病気をきっかけに、少しは強く、優しい人間になれたのかなぁと思って嬉しかった。

ただ、こうしてブログに書くということ自体は、決して強さからのものではない。
私は彼女たちと違って、「書くこと」を味方につけている。
自分の状況や感情を言葉に変換し、人に伝えていくことへのハードルがとても低い。
15年以上もこうやって赤裸々日記を綴っているのだから、そのハードルを乗り越えることは容易かった。

それに、こうして仕事意外の文章を毎日書いていると、「書くこと」と再び親密になってゆくのを感じる。
言葉が自由に操れる。
随分近くまで戻って来てくれたように思う。
それもよかったのだ。
手術や治療のことをここに毎日書いていこうと決めなければ、毎日何も書く話題がない。
今は本当に治療とだけ向き合う毎日だから。

先日、たまたま自分の過去のブログを読んだら(このブログの中でよく読まれているページのランキングに上がっていたので)、こんなことを書いていた。

夫にこんなことを言っていた。
「私はずっと書くことに救われてきたから、親友みたいなものだ。だから、私は書くことを止めない。親友を裏切ることはできない」と。
夫は「なんかカッコいいな」と言っていた。

これを読んで、自分でもカッコいいなと思った(笑)。
そうやんなぁ、親友を裏切ることはできないよなぁと思った。
いつもいつも弱い私を支えてくれて、救ってくれた。
書くことがあったから、仕事でもたくさんの人と出逢い、つながり、私の小さな世界は広がった。
子どもの頃から引っ込み思案で臆病者だった自分が少しずつでも、無理矢理でも、人前に出られるようになり、日本中を飛び回れたのも、書くことのおかげ。
大人になるとケンカっぱやくて、傍若無人で、常識のなかった私に、常識をたたき込んでくれたのは、社内報を10年作っていたときの仲間(きぬちゃん)だった。
あの人が辛抱強く、私を切らずに10年使ってくれたのは、私の人間性なんかではなく、ただ「書ける人」だったからだ。
そうでなければ、私など実績もない、ただの夢見るフリーターみたいなもんだった。
夢見るフリーターを「フリーライター」に成長させてくれたのは、あの10年であり、あの人だ。
そのチャンスを形にしてくれたのが、書くことだった。

いつもいつも私を救ってくれた親友を裏切ることなどどうしてできる?
今、たぶん人生で一番過酷な試練がやってきている。
そんな時、この「書くこと」という「親友」を頼らないわけにはいかなかった。

私がブログに書き始めた理由は、いろいろ挙げたけど、本当のところはそれが一番大きいのかもしれない。
そんなに辛いなら、そんなに不安なら、私を頼ってよと、そんな声が聞こえたのだ。
今も病院で、家族も友達もいないけど、こうして書いているだけで、ホッとする。満たされる。

内容が病気関係のことばかりにも関わらず、夫が「最近のかおりのブログは文章がキラキラしてる」と、とても楽しみにしてくれているのも、私とこいつ(書くこと)の距離がまた近づいてきた証拠だ。