月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

難解な呪文と狂気から生まれる文学

2013-01-21 | 
土曜の夜、夫と外食していた時に、黒田夏子さんの話になった。
先日、芥川賞を最高齢(75歳)で受賞された方だ。
テレビのニュース番組でお見かけしたが、上品で知性の感じられる素敵な女性という印象を受けた。
「すごいなー、75歳で芥川賞か~」と、最初はそのくらいの興味で見ていたのだが、ある報道で彼女は携帯電話はもちろん、電話が嫌いで、連絡手段は「ハガキ」だと伝えているのを聞いて、俄然興味が深まった。

だって、ハガキって・・・!

おそらく急用の時は家の電話を使用しているのだろうけれど(まさかかけかたを知らないということはないだろう)、急を要するような事柄でなければ「ハガキ」で連絡をとるのだろう。
時代錯誤も甚だしく、なんて素敵なんだろうと思ったのだ。

夫も「この人の書くものには興味がある。読んでみたい」と言っていたが、私もその「ハガキ」の一件でものすごく読みたくなった。
実際、読んだ人の話を聞けば、まるで長い呪文のように難解な文章で、読んでも読んでも意味がわからないのだとか。
何度も今読んだばかりの文を読み返してしまい、なかなか先に進めないそうだ。
ハガキの件といい、文章の難解さといい、現代のニーズを全く無視しているのが気持ちよい。

私は文学部の国語国文学科というところを出ているが、近代文学の講義のときに教授が言っていたことを思い出した。
その頃は、吉本ばななが流行っていたのだが、教授は別に吉本ばななさんをバカにするというわけではなく、「あの文章は読みづらい」と言ったのだった。
1作でも読んだことがある人ならわかるだろうが、簡潔で読みやすい文章である。それこそ、小説など読んだことがなかった人でもすぐに読めてしまう。それなのに教授は「読みづらい」というのだ。
理由は、「毎日毎日、明治から昭和初期の難解な文章ばかり読んでいると、かえって単純な文章のほうが読めなくなるんです」とのこと。
なるほど、そういうものなのか。と妙に納得したものだ。

そんな昔のこと(もう20年も前だ!)を思い出しながら、最近の自分を振り返ってみると、大学時代のように難解な文章を読むということがなくなっていることに気づいた。
だんだん単純な文章へ、読みやすくて早く読めるものへと移ってきたように思う。
脳というのは使わないとバカになる一方で、当時は古文もすらすらと読めたのに、今では現代語訳なしでは読める自信もない。

そこで、黒田夏子さんである。
そんなに難解で「呪文のよう」とまで言われるものなら、なおさらチャレンジしてみたい。
いつものように電車の中で読むのではなく、休日のお昼間にコーヒーでもそばに置いて、5時間くらいかけてゆっくりと、じっくりと1文1文を読み解くように読んでみたい。
今回の芥川賞は「元・文学少女」のハートに火をつけてしまったのである。
(読み終えたら、感想をアップします)


さて、芥川賞関連でもう1話題。
昨夜、たまたまテレビをつけていたら「情熱大陸」が始まった。私はあまりこの番組を観ることはないが、取り上げられていたのが昨年の芥川賞受賞者である田中慎弥氏だったので、なんとなく見ているうちに最後まで見終えてしまった。

田中慎弥氏といえば、あの石原氏に対しての「もらっといてやる」発言で一躍有名になった作家さんである。
キャラ的にとてもパフォーマンスでやっているとは思えない人だったし、ああいうタイプの人は嫌いじゃないので、本も読んでみたいなと思っていた。でも、書店で手にするたびに、なんとなく陰気なタイトル(例えば「共喰い」とか)に読む気が失せ、これまで読まずにきた。
なので、未だにどんな作品を書くのか知らない。

では、なぜ「情熱大陸」を最後まで見てしまったかというと、最初のほうをちょっと見ただけで「狂気」のようなものを感じたからだ。それに惹かれた。
彼は山口県下関で育ち、高校を卒業してから、ただの一度も就職をしたことがなく、アルバイトすらせずに親のスネをかじりながらただひたすら小説を書き続けてきた。
最初に賞をとったのが、32歳。10年かけて執筆したという「冷たい水の羊」でデビューした。
その後、様々な文学賞を受賞し、芥川賞の候補にもなりながらもなかなか脚光を浴びることはなかった。
あの「もらっといてやる」発言はインパクトはあったが、本人はそれで注目されようなんて気持ちはなかったと思う。

三島や谷崎、川端を尊敬しているとか、源氏物語を5回も読んだとか、仕事もせずにただ小説を書き続けているとか、パソコンも携帯も持たずに「鉛筆」で原稿を書いているとか。こちらも黒田夏子さんに負けず劣らず時代に逆行している。
まるで昭和初期の文学青年のようだ。
私が学生時代に憧れた、かの時代の文学青年が平成の世に生きている!(これで結核でも患えばカンペキな文学青年である)

ひたすら小説を書き続けてきたわけだが、彼の場合、売れない芸人やミュージシャンが「夢」を追い続ける、というのとは全く違う。「夢」という言葉すら不似合いだ。
この人は何かになりたくて、何かを目指して小説を書き続けているわけではなく、本当に「書くしかなかった」んだな、と感じた。
その「書くしかない」という陰気で鬱陶しいほどの不器用さに、どこか親近感を覚えた。

いわゆる「天才」という部類の人とは違う。
たぶん、彼は凡人だ。
凡人が何かを成し遂げようと思ったら、そこには「狂気」が必要だ。
その「狂気」は持とうと思って持てるものではない。おそらく、本人はそれが「狂気」だなんて思ってもいないだろうし。

最高齢受賞、最年少受賞、若い女性のダブル受賞など、最近の芥川賞はどうも「話題性」を自ら作ろうとしているように思える、と夫は言った。
そうかもしれないけど、それはまあそれでいいんじゃないの?と私などは思っている。
誰にも興味をもたれないよりは、文壇が賑わえば、また良いものも生まれてくるのではないだろうか。

とりあえず、「abさんご」を読んでみよう。
難解な呪文が自分にはどれくらい解けるだろうか。