鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

蘇我氏と葛城氏(記紀点描㊴)

2022-01-14 12:51:42 | 記紀点描
【蘇我氏の本拠地は葛城か?】

蘇我馬子(?~626年。大臣在位572~626年)は姪である推古天皇より2年早く死んでいる(推古34年=626年)が、その2年前の推古32年10月に天皇家の直轄地のひとつである「葛城の県(あがた)」を推古天皇に所望して断られたという記事が見える。

馬子は断られたが、次代の蝦夷はどうやら葛城をわが手中に収めたようである。蘇我氏のコントロール下にあった欽明天皇系ではない宣化天皇の系譜につながる宝皇女が、実弟の孝徳天皇(在位645~654年)の後を襲って皇極天皇(在位642~645年)として皇位に就くと、これ見よがしに葛城に天皇まがいの宮殿を建ててしまう。

<この年、蘇我大臣蝦夷、おのが祖廟を「葛城の高宮」に立てて、八佾(やつら)の舞をす。(中略)また併せて180の部曲(かきべ)を発して、予め双墓(ふたならびのはか)を造る。ひとつをば大陵として大臣(蝦夷)の墓とし、もう一つをば小陵として入鹿臣の墓とす。>(皇極天皇紀元年)

という塩梅であった。

父馬子の墓はかの有名な「石舞台古墳」で、暴かれてしまい今に無様な、見ようによっては飛鳥時代の記念すべき巨石遺構として残されているが、蝦夷と入鹿の「双墓」というのはほとんど関心を寄せられていない。しかし近鉄とJR和歌山線の合流駅の吉野口駅(御所市古瀬)に近い所に現存するそうだ。

さて蝦夷が天皇の宮殿まがいの建物を建てた「葛城の高宮」というと、思い出すのが葛城ソツヒコの娘で仁徳天皇(在位推定396~427年)に嫁いだ磐之媛である。

磐之媛は嫉妬深いことで有名だったようだが、仁徳がイワノヒメが紀州に三綱柏(ミツナガシワ=神事に使う植物)を採集に行っている間に、かねてよりモーションを掛けていた八田皇女を後宮に迎え入れると、嫉妬に狂ったイワノヒメはミツナガシワをすべて海に投げ入れ、仁徳の居る難波高津宮を素通りして、船のまま木津川(山代川)をさかのぼり、筒木の岡に宮を建てて籠城(?)してしまう。

この頃、イワノヒメが葛城の我が産土をしのんで詠んだのが次の歌だとされている。

<つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 
我が家のあたり>(古事記によるが、書紀も漢字に違いはあるもののほぼ同じ)

イワノヒメの父は葛城襲津彦(ソツヒコ)であり、葛城を称しているからにはイワノヒメが詠んだように、「葛城高宮こそ我が家のあたり(近傍)」であり、その生まれ育った葛城をはるかに偲びながら筒木宮で亡くなっている(仁徳35年6月)。この時の心境は察するに余りある。

(※私見では仁徳天皇の在位は4世紀末から西暦427年(古事記の没年干支「丁卯の年」による)であるので、イワノヒメは370年代の生まれと考えられ、父のソツヒコは350年前後の生まれとしてよいだろう。)

馬子が所望した「葛城県」は、無論この「葛城高宮」を含むかなり広範囲な土地で、馬子はここが蘇我氏にとっても本拠地だったというのであるが、果たしてそれは本当だろうか?

葛城ソツヒコの事績とも照らし合わせる必要性を感じるので、以下に考察を加えてみたい。

【葛城襲津彦(ソツヒコ)の出自】

葛城ソツヒコは孝元天皇記によると建(武)内宿祢の子である。孝元天皇の皇子の比古布都押之信(ヒコフツオシマコト)が紀国造の祖であるウズヒコの妹の「山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)」を娶って生まれたのが武内宿祢であった。

ところが書紀の景行天皇紀によれば、屋主忍男武雄心(ヤヌシオシヲタケヲココロ)が「阿備柏原(アビノカシハラ)」に9年いた時に、紀値の遠祖ウジヒコの娘のカゲヒメを娶って生まれたのが武内宿祢だという。

私見では「阿備柏原」は大隅半島の「阿比の柏原」の生まれと考えている。「阿比」は「阿比良比売(あひらひめ)」の「阿比」で、「アビ」とは「鴨」のことである。(※家鴨と書いてアヒルと読ませるが、この「アヒ」は鴨の別名に他ならない。)

武内宿祢の父がヒコフツオシマコトかヤヌシオシヲタケヲココロなのか両者に発音上の共通点がないのが気になるが、今はこの点については、また別の機会に譲りたい。

さてこの葛城ソツヒコだが、父は武内宿祢であり、その系譜は葛城ソツヒコー〇(イワノヒメの兄)―玉田宿祢―円(つぶら)大臣―韓媛(からひめ)と続き、カラヒメは父の円大臣が雄略天皇に滅ぼされてから天皇に嫁ぎ、清寧天皇(在位480~484年)を生んでいるが、清寧天皇は皇后を娶らず、結局子供が無かったので葛城氏の系譜はここで終わっている。

蘇我氏の系譜と照らし合わせてみると蘇我稲目(推定500~570年)の父蘇我高麗(こま)の時代に当たるようだが、高麗は全く王権に関与していないし、葛城氏の系譜とクロスすることはないのである。蘇我氏と葛城氏は武内宿祢の血統であることは確かなのであるが、両氏の交流について史料上は全く見えていない。

だから蘇我馬子が葛城氏の本拠地である葛城県(あがた)が我が本貫の地であると言ったり、とりわけ「葛城高宮」との所縁の由来は不明とする他ない。(推古天皇32年条及び皇極天皇元年条)

もっとも葛城ソツヒコも実は葛城地方との所縁についてはよく分かっていないのである。武内宿祢は私見では南九州大隅半島の「阿比(良)」の柏原の生まれであり、神功皇后の時代に北九州で生まれたホムタワケ(応神天皇)を「南海経由で紀の水門」まで船行したからには南九州の水運を掌握していた。

応神天皇は武内宿祢にとっては孫の世代に当たっている。一方の葛城ソツヒコは神功皇后の時代から水軍を指揮して半島に渡る活躍を見せている。

ソツヒコの初見は神功皇后の5年(推定年371年)で、その3月に人質になっていた新羅の王子ミシコチホッカンを巡る騒動を解決するため半島に渡ったのだが、蹈鞴(タタラ)の津に軍を置き、新羅を攻めている。この時に捕虜として連れて帰った新羅人を「桑原」「佐糜(さび)」「高宮」「忍海(おしぬみ)」に住まわせている。

このうち「高宮」が注目に値する。あの「葛城高宮」のことだろうか。これによって、葛城ソツヒコが葛城の中心領域である高宮を手中に治めていたことは確実視されるのである。

もう一つソツヒコの存在が確からしいという証拠が同じ神功皇后紀の62年(推定年380年)の記事である。それは「百済記」の引用なのだが、この年に新羅からの朝貢がなかったのでソツヒコ(百済記では「沙至比跪」)を派遣して攻めたとある。

ソツヒコは、しかし、新羅の画策で美女二人をあてがわれ、新羅を討たずにかえって加羅国(狗邪韓国=金海市)を撃ってしまい、加羅国からの知らせに驚いた神功皇后は「木羅斤資(モクラコンシ)」を遣わして旧に復させた。この木羅斤資(モクラコンシ)こそが蘇我氏の系譜にある「満智(まんち)」の父ではないかと言われており、そうであればこの時に蘇我氏と葛城氏は所縁を得たということになる。

ソツヒコは神功皇后から痛く叱責され、ついには大和に帰れず、「(沙至)比跪、免れざることを知りて、石穴に入りて死ぬといふ」(百済記)とある。しかしながら応神天皇の14年、16年及び仁徳天皇の41年にも登場し、最後の仁徳天皇41年(推定年415年)には紀角宿祢(きのつぬのすくね)が百済に行った帰りに一緒に帰国しているのが記事に見えている。

早くに死んだのか、半島のどこかで生き延びていて本当に仁徳天皇41年に帰国したのかの決定打はないが、いずれにしても葛城におけるソツヒコの影は薄く、娘の仁徳皇后イワノヒメが生まれ故郷の「葛城高宮」を偲びながら木津川ほとりの筒木の宮で亡くなった頃(仁徳天皇の34年=推定年410年頃)にはソツヒコが統治していた葛城県(あがた)は葛城氏の手から離れ、天皇家の所有(直轄地)になっていた可能性が高い。

ところで葛城ソツヒコはこの葛城県で生まれたのだろうか?

というのは葛城ソツヒコは余りにも対半島政策に駆り出されることが極めて多いからである。大和という海の無い地方に生まれ育っては到底考えられないほど、海を渡った半島との外交交渉の矢面に立ち過ぎるのである。

私は武内宿祢を南九州「阿比(鴨)の柏原」すなわち大隅半島の肝属川河口の生まれと考えるのだが、その子である襲津彦も南九州生まれとした方が半島との密接なかかわりから考えて整合性を得るように思われのだ。

第一に「襲津彦」という名だが、これは「襲(曽)の男王」という意味なのだ。つまり南九州を意味する「襲(曽)」こそが出自ではないかと思われるのである。

【葛城襲津彦と日向襲津彦】

「襲津彦」にはもう一人いて、その名を「日向襲津彦皇子」という。

この人物は景行天皇と妃の日向髪長大田根との間に生まれたとされる。景行天皇の男子だから「皇子」が付くが、名の骨格は「襲津彦」ということである。
 
第12代景行天皇は和風諡号を「大足彦(おおたらしひこ)」といい、子とされる13代成務天皇の和風諡号「若足彦(わかたらしひこ)」、そしてヤマトタケルの子とされる14代仲哀天皇の和風諡号「足仲津彦(たらしなかつひこ)」とともに、「足(たらし)王権」などと名付けられることもある。

景行天皇と成務天皇の時代を4世紀の第2四半期(320年代~350年頃)と私は考えてはいるが、景行天皇の実在については是としつつも、成務天皇の実在は薄いと思っている。武内宿祢と同じ誕生日だったことと武内宿祢が初の「大臣」に就任したことなどを考え合わせると、成務天皇は武内宿祢その人ではなかったかという考えが捨てきれない。

そして次代の14代仲哀天皇に至っては、半島南部の旧弁韓(のちの任那)の統治者であり、新羅(旧辰韓)と九州北部の倭人連合(大倭)との連携に釘を刺すべく、壱岐の女王出身の神功皇后(和風諡号は息長足姫で、息はオキと読まずにイキと読む)とともに狗邪韓国を出発地として九州島に侵攻して来たと考えている。

その一方で景行天皇は祖父崇神と父垂仁が残した北部九州倭人連合(大倭)を督励すべく、九州に派遣されていたことがあったのであろう。そのためいわゆる南九州への「クマソ征伐」が創作されたのだ。これが創作であるという根拠は、北方の蝦夷征伐には長々と「征伐の大義」が述べられているのに、クマソ征伐には全くそれが無いことである。

創作するにしても「南九州日向は我が皇祖の故地であり、そこに盤踞する化外の民クマソは征伐しなければならぬ」というような「大義」は書いておくべきであろう。それは露ほどもなく、ただ「朝貢がないから征伐する」というのである。景行天皇の「親征」などなかったと見るべきだ。

しかし景行天皇紀には親征の途中の日向で「御刀媛(みはかしひめ)」と出会い、豊国別皇子を産ませている。この皇子は日向国造の祖ということになっている。日向国造なのに豊国別という名が不審だが、最初の名は「日向国別」だったのが豊国別に変化した可能性は有り得るだろう。

そこでこの項の最初に挙げた「日向襲津彦」だが、父は景行天皇、母は日向髪長大田根(媛)という。母の名に日向が冠してあるのは無論ヒメが日向(古日向)の生まれであることを示すとともに、「髪長(かみなが)」は「神長」(かみおさ)でもあるから、古日向では並びなき巫女的な女王であった。

景行天皇の子ではないことは先の御刀媛に産ませた子が「豊国別皇子」と「皇子」が付されていることから推察される。要するに天皇の子ではないということである。

では誰の子か? 私は武内宿祢ではないかと思う。その日向襲津彦が南九州鴨族の一員として、航海に習熟し、半島へ、あるいは紀の水門へと船足を伸ばすことが可能になったことで、大和への足掛かりを求めた時に、かつて父の武内宿祢がそうしたように、紀の水門(紀ノ川の河口)から紀ノ川をさかのぼり、奈良県五条市のあたりから陸路で葛城地方に入ったのであろう。

葛城地方は南九州に由来する鴨系の大社が林立しているように、南九州とは縁が深い地である。そこを本拠地とした時に、名を日向襲津彦から「葛城襲津彦」に変えたのではないか。

こう考えると、葛城襲津彦が神功皇后の5年に脈絡なしに突如登場し、しかも人質だった新羅王子を向こうに届けるなどという大役が回った理由の説明がつく。紀の水門から南九州に回り、そこで南九州鴨族の交易船に乗り換え、北上して半島に行ったのではないかと思うのである。

【葛城の鴨系大社群】

葛城地方には上で触れたように鴨を冠する大きな神社が3つもある。

『延喜式』の「神明帳」によれば、①鴨都味波八重事代主命神社、②高鴨阿治須岐託彦根命神社、③鴨山口神社がそれである。それぞれ読みと祭神を挙げると、

①かもつあじなみ・やえことしろぬし命神社。祭神は八重事代主命。
②たかかも・あじすきたかひこね命神社。祭神は阿治須岐託彦根命。
③かも・やまくち神社。祭神は大山祇神。

①と②の神社の祭神は出雲系の神である。するとどちらにも「鴨」が付くことに違和感を感じるはずである。

両神社のホームページを参照してみると、どちらも弥生中期からの遺跡が発掘され、当時から祭られていたという。②の「高鴨」神社の場所が最初期の中心地であり、のちにやや低湿な①の鴨都味波神社のほうに移り、コメ作りに励んだという。

ところで①の方を神社サイドでは「味」を省略して「鴨都波」とし、「かもつば」と読むのだが、これは『延喜式』の「神明帳」を無視している。「味」を入れて「かもつあじなみ」と読むべきである。

そう読むことで②の「あじすき(阿治須岐)」の「あじ」に通うのだ。「あじ」とは「鴨」のことに他ならないので、①と②の神社名が生きてくるのである。

祭神はたしかに出雲族の神であるが、祭る由縁が神社名で示されている。オオクニヌシが葦原中国を皇孫に譲って出雲に引っ込んだ一方で、息子の事代主は「海中に没して消えた」(古事記には「その船を傾けて、逆手を青柴垣に打ちなして、隠れき」とある)のだ。

このことは事代主の海中逃避、すなわち「亡命」を意味しているのだろう。その行き先が南九州だった可能性が考えられる。神武東征の時に海上で出会った「塩土翁(しおつちのおじ)」は事代主だったという説もあり、オオクニヌシの子の事代主は海路についてもよく知っていたようである。

鴨族と出雲族の関係は相当古くからあったと思われる。

3つ目の「鴨山口神社」は祭神が大山祇(おおやまつみ)といういわゆる山の神であり、皇孫二ニギが高千穂から薩摩半島南部へ移動した時に「阿多地方」で「カムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)」に出会い結婚したのだが、その父が大山祇(大山津見)であった。

大和地方にはこのような「山口神社」が多いが、葛城のこの「山口神社」には「鴨」が冠せられているのが他の山口神社と違う点だ。そして、この付近の大字地名が「櫛羅(くしら)」であり、同時に小字が「湊」というそうであるが、「櫛羅(くしら)」は大隅半島内部の「串良」が想起され、海の片鱗もない葛城地方に小字「湊」があるのも海の民南九州との所縁を感じざるを得ない。

【山城国風土記逸文】

葛城地方と南九州との近しい関係は『山城国風土記逸文』からも類推される。

山城国風土記によれば、京都の賀茂(鴨)神社の由来を大略次のように書いている。

<「賀茂建角身(かもたけつぬみ)命」は最初「日向の曽の高千穂峰」に下り、その後神武天皇以前に大和の葛城山に移り、しばらくして山代国の木津川に臨む岡田の賀茂を経て木津川を下って乙訓郡から鴨川をさかのぼり、久我(くが=今の下鴨神社の地)に到って定着した。そこでそこに賀茂建角身を祭る神社が造られた。それが賀茂社である。>

日向の曽の高千穂の峰に下ったのは皇孫ニニギノミコトだが、南九州の鴨族の伝承でも祖神は高千穂峰に降臨したようである。しかし逆に言えば、この鴨族の祖が高千穂の峰に天下ったという伝承が先にあり、皇孫の高千穂降臨説話が生まれたと言えなくもない。

ともあれ、伝承ではこのタケツヌミが南九州から大和の葛城地方に移動したと言い、それを文書化したのが「山城国風土記逸文」であった。けっして南九州の風土記による我田引水的な造作ではないという点に着目すべきである。京都で最も由緒のある下鴨神社の成り立ちが南九州からの移住者が元になっている――というのはその意味で第三者的な客観性があるとしてよい。

葛城地方の鴨系大社3社の林立は南九州に出自のある鴨族と、神武東征以前に大和地方に居住していた縄文系の出雲族(三輪山をご神体としていた)とが融合した証拠である。武内宿祢の子である「日向襲津彦」が紀の水門(紀ノ川河口)から紀ノ川をさかのぼり、五条から北へ峠を越えたところが葛城地方であり、そこに難なく本拠を構えたのちに「葛城襲津彦」と名を替えたのであろう。

【結語】

蘇我氏も、もとはといえば武内宿祢の子孫であり、大和では葛城地方に隣り合った蘇我川流域を所領としていた。しかし雄略天皇(在位457~479年)の時代に前代の安康天皇の暗殺(西暦456年)を巡って葛城襲津彦の曽孫の円大臣(つぶらのおとど)が攻め殺されたことにより葛城氏は没落の憂き目にあってしまい、葛城地方は天皇の直轄地となっていた。

葛城襲津彦が新羅などから連れ帰った渡来人を使役して美しい田園地帯としていた葛城地方を目の当たりにして、蘇我馬子が我が所領にしたいと推古天皇に申し出たのは、父祖が同じ武内宿祢であったという由縁があったというべきだが、しかし、葛城高宮は葛城氏の本拠地ではあったが蘇我氏の本拠地ではなかったのである。

※なお、葛城高宮は第2代綏靖天皇(和風諡号カムヌマカワミミ)の「葛城高岡宮(高丘宮)」と重なる。綏靖天皇ことカムヌナカワミミ(推定在位200~210年頃)は神武こと南九州投馬国王タギシミミの系譜であり、古日向(南九州)からの移住者の受け入れ場所としても機能していたに違いない。

のちに葛城襲津彦がまだ古日向にいた時分の名乗りの日向襲津彦として葛城地方に入った西暦350年頃になると、高所の葛城よりまだ御所市街地に近い低湿地の方の米作りが大きく発展し、葛城の段々田はやや荒れていたのではないかと思われる。襲津彦はそこに新羅からの帰化人を多数住まわせたのだろう。