鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

チャイナクライシスは自業自得

2022-12-28 21:04:27 | 災害
中国では12月に入ってから徐々に新型コロナ感染が増え始め、ここへ来て浙江省はじめ大きな人口を抱える地方では連日20万から200万人が新規に感染しているという。

中国当局の発表では全国で2千数百人などと全くまやかしの数しか出していないが、実数はその900倍にもなっているという。

この急激な感染者の増加は厳格なロックダウンによる感染抑え込み対策が限界に来ていることを表している。

その突破口になったのが、上海など比較的自由な地域で起きた「ロックダウン反対」というデモだった。

その中には「習近平、辞めろ!」など過激な中央政府への反発攻撃があり、当局もこれ以上の強制的な抑え込みを続けるのは得策ではないと判断したようだ。

その結果、早急な緩和策がとられ、どこに行くにも必要だったPCR検査や陰性証明は要らなくなり、行動制限も大幅に撤去された。

それから3週間後の中国の感染爆発はすさまじい。英米のシンクタンクの推計ではすでに2億5千万人が新規に感染しただろうというのだ。

病院もパニック、火葬場もパニックというのが現状らしい。薬局では解熱剤がどこもかしこも売り切れ、昨日だったか一昨日だったか、中国からの留学生の女性が、実家の依頼で日本の薬局の解熱剤ほか大量の薬を実家に送ったという話が報道されていた。

思えばちょうど3年前の浙江省武漢では、とある病院の医師が「肺炎患者の罹患経路がおかしい。新型のものかもしれない」と保健当局に報告したのが無視され、その結果新型コロナの感染が止めどもなく広がり始めたのだった。

武漢の富裕層の一部が日本へスキー客として訪れた札幌で、小学生の何名かにうつし、小学生が感染者になったことから北海道では政府に先駆けて小学校を休校措置とし、さらに「緊急事態」を宣言しようかという動きになったし、同じようなことは豪華客船内でも起こり、また東京の隅田川の遊覧船でも起きてしまった。

それから1か月、大阪でもライブハウス中心に感染が広がり、ついに3月になって各地の学校での感染対策による休校や卒業式の自粛という事態にまでなった。この3月だったと思うが、あの志村けんや岡江久美子の呆気ないコロナ死が衝撃を与えたのも記憶に新しい。

これら世界的なパンデミックを起こした淵源である中国が、ついにロックダウン政策を放棄し、感染の渦に巻き込まれつつある。

回り回って結局発生源の所に戻って来たわけで、「自らがまいた種は自らが刈らねばならぬ」つまり自業自得ということになろう。

年が明けてから1月下旬に中国は「春節」を迎えるのだが、このまま「解放路線」が続いた場合、いったいどうなることやら、他国のことながら非常に気になるところだ。

日本政府は中国からの来訪客に備えて、航空路線を4路線だけに絞り、そこでの感染対策を徹底するようだが、果たしてうまくいくのか?

逆に日本から中国に旅行に行く人も増えるはずで、お土産に新型コロナの中国変異株など持って来なければよいがと切に願う。

クリスマス寒波到来(2022.12.25)

2022-12-25 22:02:28 | おおすみの風景
今朝の鹿屋地方の気温はこの冬最低の-3℃だった。

一週間前に強い霜が降りたのだが、その朝はちょうど0℃で、今日初めて氷点下の気温となった。

車のフロントガラスはもちろんだが、周辺の畑といい、我が家の菜園といい、霜がびっしりと付いていた。

高隈連山には、この間よりも雪が標高の低いところまで積もっているように見えた。


一週間前は山肌で白くなっていたのは、標高1182mの御岳の山頂部分だけだったのだが、今回は御岳から西(左手)に伸びる稜線はすべて真っ白になっている。

見たところ標高800mくらいまで積もっているようだが、その下でも雪は積もっているのだろうが、樹林が深いため遠くからは見えないだけなのかもしれない。

事実、今日は所用で都城まで行き、帰りに「鹿児島2022年考古発掘展」を開催中の霧島市の上野原縄文の森を訪れたのだが、その帰り道の国道504号線沿いの山道で日の当たらない道路沿いに点々と雪が残っているを見た。

そのあたりは504号線ではかなり標高の高い所で、おそらく500m程度はあるだろうと思われ、そうであるならば、高隈山山中でも同じ標高ならば当然積もっているはずだ。

そう考えると、今度の雪では標高約1200mある高隈山系の上の部分の半分以上が雪に埋もれたことになる。

なぜこんなに詳しく積雪の状況を書くかというと、去年はほとんど降らずじまいだったからである。

去年は一度も高隈山が白くなったことはなく、桜島でさえ初雪が1月の下旬だった。

そういう年は極めて珍しく、自分の記憶では、鹿屋に住居を構えた20年前以降初めての経験だったように思う。

そんな場合必ず言われるのが「地球温暖化のせい」だが、今年は例年程度に年内に初冠雪を見ることになり、ほっとしている自分がいる。

ただ一説によると、地球全体としては温暖化の傾向はますます進み、一見当たり前の冬の寒さが訪れることはあっても、それは一時的なもので長続きはしないらしい。

この地球温暖化を軽減するということで「脱炭素社会」を目指す政府は「原発の60年を超えるリユース」を言い始めたが、放射性廃棄物の問題と天災多発の日本列島の弱点を無視した妄言のように思われる。

日本のように森林の卓越した環境にある国は、実は森林が多量の二酸化炭素を吸収してくれている。よく「○○工場が毎年○○トンのCO₂を輩出しているから削減目標を○○トンにしなさい」ということが言われるが、その排出量は日本国内では森林が吸収しているのだ。

日本は明確にそれをアピールすべきで、もっと世界の森林量を増やすよう働きかけるべきではないか、と思うのだ。

北部九州の「大倭」から畿内の「大和」へ(古代史逍遥-3)

2022-12-22 16:32:01 | 古代史逍遥
奈良県の「大和地方」と言えば、古代王権の揺籃の地であり、また絶対王権を巡る争乱の地でもあった。

【大和(やまと)の語源】

この「大和」だが、この名称の謂れについては分かっているようでよく分かっていない。

そもそも「やまと」が先か、漢字の「大和」が先なのか。

日本語(倭語)の地名なら、まず倭語で「やまと」という呼称があり、その後に漢字が取り入れられて地名を漢字で表記するようになってから「大和」を当てるという時系列になり、「やまと」が先ということになりそうである。

しかしそうなるとなぜ「やまと」を表記する漢字に「大和」があてられたのか、が問われなくてはならない。

そこで地名学者などが唱える説を見ると、おおむね「山の麓」説もしくは「山の入り口」説が大勢を占める。

ところがこの説は陳腐過ぎる。なぜなら「山の麓」にしろ「山の入り口」にしろ、このようなものは奈良県の中央部のみならず、全国到る所にあるからだ。そんなどこにでもあるような地名を王権発祥の地でありのちに日本史上並びなき権力の中枢であった地方に名付けるとは思われない。

まして「山の麓」「山の入り口」という「やまと」からは決して「大和」という漢字表記は生まれない。

「やまと」は実は邪馬台国畿内説を唱える人たちは「やまたい」から「やまと」に転訛したと考えている。行程論的に畿内説は絶対あり得ないのだが、「邪馬台国は大和にもともとあった。その証拠に<やまたい>から<やまと>へと連続しているではないか」と考えるのは一理ある。

私も「やまと」という呼称の淵源は邪馬台国の「やまたい」にあったと考えるのである。

ただし、私は「やまたい」を「あまつひ」から来たと考えている。

邪馬台国女王ヒミコの属性を私は「アマツヒツギのヒメミコ」と捉え、「天津日継ぎの姫御子」という漢字を当てている。天なる日(アマテラス大神)を「継ぐ」ほどの霊力をも身に供えた姫なのがヒミコであったろう。

これをローマ字で表すと「amatuihi-tugi-no-himemiko」となり、この倭人の発音を聞いた中国人使者が、「yamatuhi-tugi」と頭音に「Y」を付けて「やまつい」と転訛したものと考えるのである。

そして「やまつい」が彼らの「漢音」によって表した時、「邪馬台(国)」となったのであろう。

つまり「天津日継のヒメミコのおわす国が我らの国である」という倭人の自国の呼称に対して中国の使者及び史官が示した反応が「邪馬台国」という表記だったのである。

【二つの「大倭国」】

「大倭」(タイワ)は魏志倭人伝に登場する名称である。その部分を抜き出すと、

<国々に市有りて、有る無しを交易す。大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国之を畏れ憚る。>

以上の4つの短文のうち、2番目にあるのが「大倭」(タイワ)である。

前の2文を解釈すると、「女王国に属する国々には市場があり、有るものと無いものとを交換している。(その市場を)大倭に監督させている」となる。

この大倭を「倭の大人」と解釈する向きがほとんどだが、それなら「倭之大人」と書けばよく、著作者の陳寿がたった2文字を惜しんで「倭の大人」とすべきところを「大倭」にしたとは思えない。私は女王国とは別の「大倭」という国を連想した。

3文目と4文目は、その「大倭」が女王国以北の国々に「大率」なる「武力装置」を置いて威嚇していた――と解釈する。

要するに、女王国は当時、「大倭」という国家(群)の支配下にあったと考えるのである。その内容が、女王国にあった官名は第一位が「伊支馬(いきま)」、第二位が「彌馬升(みましを)」、第三位が「彌馬獲支(みまわき)」、第四位が「奴佳てい=革ヘンに是(なかて)」であったが、このうち第一位の1等官は「生目」と読み替え、江戸幕府でいう「大目付」、つまり監督者と思われる。

ということは、女王国は当時、大倭なる組織によって監督されていたことを意味する。その大倭こそが北部九州においての一大勢力で、具体的に言えば現在の福岡県糸島市に本拠地を構えた「五十(いそ)王国」であった。この五十王国の盟主が第10代とされる崇神天皇である。

そして皇子の第11代垂仁天皇は和風諡号「イクメイリヒコ・イソサチ」で、「イクメ」は「イキメ(生目)」であるから、垂仁天皇はまだ父の崇神が糸島の五十王国に王宮を構えていた頃に、「生目」(伊支馬)として女王国に赴任していた可能性があると考えている。

糸島にあった「五十(いそ)王国」が発展して九州北岸の国々を傘下に入れて作った連合が「大倭」であり、これを私は「九州北部倭人連合」と捉えたのである。

この九州北部の「大倭」が登場するのが、『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」で、その序文には次のように九州北部に「大倭国」があったことを記している。その箇所を抜粋すると、

<(神武)東征の時、「大倭国」において漁夫に見(まみ)ゆ。>

神武東征を既定の事実としており、その東征の節に「大倭国において潮路をよく知っているという漁夫(シイネツヒコ)に出くわした」というのだが、この「大倭国」を「大和国」と解釈することはできない。なぜなら「大和国」には海がないからである。

二つ目の「大倭国」については序文の後の方で、

<シイネツヒコを以て「大倭国造」となす。>

ともう一度登場する。この「大和国造」がのちの「大和国」を表しているのは明らかであるが、では「大倭国において漁夫シイネツヒコに出くわした」とある「大倭国」とはどこの国だろうか。記紀の神武東征説話にはサオネツヒコという別名で登場するが、大分県(豊後・豊前)と愛媛県(伊予)の間に所在する「豊予海峡」が該当する。

この豊予海峡に近い国と言えば、それこそが北部九州倭人連合の「大倭」である。

この大倭(タイワ)と伊都都比古(いつつひこ)が率いる厳奴(いつな)とが佐賀平野から筑後川流域の肥沃な地帯を巡って戦い、結局、厳奴の方が敗れて主だったものは「出雲(いつな→いつま→いづも)」に流さた。そして一部のものは厳木町という佐賀平野の西の隅に押し込められたのだが、私の考える魏志倭人伝に記載された「伊都国(いつこく)」なのである。

【「大倭」から「大和」へ】

「海路を案内しましょう」と言って神武東征の船団の前に現れたシイネツヒコ(サオネツヒコ)は豊予海峡から北上した先の大倭国(北部九州倭人連合)の国人ではなく、古事記によればヒコホホデミの孫だという。

それだとヒコホホデミの孫である神武とは世代がピタリと合致する。そのシイネツヒコの案内で瀬戸内海を東に向かい、ついに畿内の前哨に位置する難波に到達した。その後はナガスネヒコの攻撃にあって南へ大きく迂回し、熊野から陸路を奈良南部の宇陀から飛鳥地方までを攻略しつつ、橿原に都を樹立する。

そして道案内の功により、シイネツヒコは「大倭国造」に任命されたという。

この「大倭国造」は「大和国造」と同義だが、九州北部にあった「大倭」が「倭」を「和」に換えられて、そのまま奈良県大和地方の地名に横滑りしたことになる。

いわゆる「地名遷移」の一形態だが、「倭」と「和」の違いがあり、この違いは単に「倭」は縁起の良くない卑字だから吉祥字の「和」に代えたというだけではなく、実は上記のような歴史的な意味を持っている換字なのである。

要するに、(1)北部九州の大倭(北部九州倭人連合=盟主は糸島を本拠地とした五十王国の崇神王権)が畿内に東征を果たしたがゆえに大和地方が「大倭国」となり、その大倭という漢字はのちに「大和」に換えられたこと。

(2)その読みについては、九州の女王国(盟主はヒミコ)の倭人呼称「アマツヒツギのヒメミコの国」が、中国の使者および史官(陳寿)が「ヤマツイ国→ヤマタイ国」と表記したのをそのまま取り入れて「やまと」にしたこと。

以上の二つの歴史的な事象から「大和」が生まれ、かつ「やまと」というこの漢字にしては不可解な読みが付けられたのだろうと考えるのである。

※(1)については私見の「二つあった神武東征」に詳しい。
※(2)について中国人が名付けた「ヤマタイ」が「やまと」になるはずがない、と思う人も多くいるようだ。だが今日では日本をジャパンと呼ぶケースが増えているが、このジャパンの語源は宋の時代に中国を訪れたマルコ・ポーロが日本のことを中国人が「リーベン」と発音したのを「ジパン(グ)」と書き記したのが西洋で一般化し、今現在はジャパンとして国際的に定着したもので、そのことを思えば、「アマツヒツギの国」から中国音で「ヤマツイ→ヤマタイ」が倭語に取り入れられ「やまと」になって定着したとして何の不思議もない。















amatuhi

高隈山初冠雪(2022.12.19)

2022-12-19 21:22:18 | おおすみの風景
昨日今日と冷え込みがきつく、庭の野菜や車に霜が降りた。

車のフロントガラスが凍るのは今年3回目だが、このところ「クリスマス寒波」とよく言われる年末に近い頃の寒さに近い日々が続いている。

上空には大陸から張り出して来た雪雲が日本列島を北西から覆い、昨日は薩摩半島や霧島地方で初雪が降ったそうだ。日中でも気温は3℃くらいにしか上がらなかったと聞く。

大隅半島は薩摩半島からの冷たい吹き出しが少し遅れてやって来るのだが、両半島の間にある錦江湾(鹿児島湾)の温かい海水の影響からか、その冷たさがやや緩和され、薩摩半島に比べれば雪や氷は少ない。仮に薩摩半島側で年間に10日の降雪があったとすれば、大隅半島側では5日という塩梅である。

今朝の新聞の一面には桜島の初冠雪がカラー写真で載せられていたが、初冠雪らしからぬ結構な雪の量のように思われた。

昨日は都城に親類を訪ね、その帰りに霧島神宮まで足を延ばし参拝して来たのだが、底冷えのする寒さで、手水舎の水が暖かく感じられるほどだった。

今朝の寒さからして高隈山に冠雪がありそうだと思い、我が家の北300mほどの畑地帯にいてみたら、案の定、きれいな冠雪がを観ることができた。


昨シーズンの冠雪は1月の後半だったと記憶しており。それに比べると今年は一か月も早いことになるが、去年が遅すぎたのである。おおむねクリスマス寒波の年末に近い頃には雪が降るのが恒例だ。

右手の風格ある山頂が「御岳」で、標高は1182m。その左手の尖がった峰は「妻岳」といい、1145m。山頂部は畳10畳くらいしかない。こんなにも先鋭な峰になぜ「妻」が付くのか不思議だ。

その穿鑿は置くとして、高隈山はもともと山岳仏教(修験道)の霊地であり、かつては祓川の上流部に五代寺とい真言宗の寺があったのだが、明治維新時の「廃仏毀釈」によって廃寺となった。今でも寺の跡地には大きな金剛力士の石像が残されている。

祓川という川の名も、その流れに身を潔斎したことに因んでいる。

ただし、山岳信仰の対象としての里宮「瀬戸山神社」は当時のまま建立されていて、2月の例祭時には秡川一帯の氏子たちによって勇壮な棒踊りが奉納される。春を告げる祭りだが、コロナ禍でここ2年ばかりは行われていないようだ。来年こそは通常の奉納がなされるよう期待したい。


はじめに43兆円ありき

2022-12-17 11:16:16 | 日本の時事風景
12月10日にようやく旧統一教会をめぐる信者2世や家族の救済法案が成立したかと思えば、翌日からは「防衛費増額5年間で43兆円」が一面トップを飾った。

来年度の防衛費総額が6.8兆円に膨らんだのはその増額を見越してのことだろうか。

いかにも唐突である。外交はまだしも、こと防衛という軍事事項については対米忖度が重きをなすのが日本だ。

この数字は、防衛費をGDPの2パーセントにし、アメリカの同盟下にあるNATOの各国の水準に合わせたものだそうだ。

アメリカに対して防衛省は「お説のように防衛強化します。これこれの防衛装備を購入し、配備します」などと申し入れていたが、このところの円安で、ドル換算して申し入れたのが軒並みに円表示では高額になってしまったということだろう。

したがって防衛費は結果として前年度比で1.6倍に嵩上げされたというわけである。

いずれにしてもトランプ元大統領のあの日本への「日本が攻撃を受けたら、アメリカは日本を守るのに、アメリカが攻撃を受けても日本は、守りに来ない。何と不公平な安全保障条約なのだ!」という発言にビビった安倍政権が、例の対米忖度によって日本の攻撃力をアップさせ「米軍の盾となる方向に舵を切った結果」が今になって現れているのだ。

中国と北朝鮮が真の敵と考えているのはアメリカであって、日本ではない。そのアメリカをおもんぱかって「中国は敵だ」というのは現実を見ていない。いったい日本から中国へ何社が製造やサービス業に行っているのか。もう日本の経済は中国の経済活動を抜きに語れなくなっている。相互依存もいいところなのだ。

ただし「政経分離」の原則は堅持されなければならないが、それぞれがそれぞれによいところを認め合って国交を維持しなければならないし、これまで様々な軋轢や無理解があったにせよ、曲がりなりにも経済交流は活発に続いており、相互理解も徐々にではあるが深まっている。

その中国に対して敵意をむき出しにしてきたのがアメリカだ。2010年に日本のGDPを凌駕してアジアトップ、世界でも米国に次ぐ経済力を持つようになった。フアウェイ(華為)などによる高度技術移転問題もあってアメリカ当局はより一層の警戒感を隠そうとしない。

そのいわば「矢面」に立たされているのが日本の立ち位置だ。 

アメリカが中国に対して敵意を剥き出せば剥きだすほど、日本の防衛力は嵩上げされてくるのは、日米同盟のためである。先に触れたようにアメリカがもし中国か北朝鮮に仕掛けられたら、日本は「防衛力強化3文書」に記載のある「反撃能力」により、アメリカを守るために「米軍の盾」となる役割が求められるようになった。

毎度おなじみの自民党政権首長(総理大臣)の「日米同盟のさらなる強化、これまでにない一体化」などという言葉は、まるで日米同盟を語る際の箴言と化したが、そもそも戦後に英米を中心に策定された「国連憲章」では「二国間の軍事同盟」は定義されていない。

日本の場合、国連創設の当事者である米国と戦い、敗戦国となったため、やむを得ずしばし占領された。しかし日本が国民主権となり、公正な選挙によって国会及び行政府が運営されるようになった時点で、占領者は引き揚げる定めになっていた。

しかしながら惜しむべきなのは、朝鮮動乱の勃発であった。共産軍による支配下の増大が引き起こした戦争だったが、これに鑑みて日本への連合国軍による占領はなくなったものの、アメリカ単独の駐留(安保条約では占領ではなく駐留)は継続してしまった。

1951年9月のサンフランシスコ平和条約締結と同時(というか引き換え)であった。

それ以降、米国の警察官的な役割(ベトナム戦争以下、アフガン戦争まで)に従い、米ソの冷戦下にあってはなおさら必要とされた。

そして1991年のソ連邦崩壊後のデタントは日米同盟の見直し、つまり同盟解消のチャンスだったのだが、自民党政権にとって日米同盟は日本の安全保障の「錦の御旗」と化していたから、何の疑問も抱くことはなかった。

すでに日本は対米2国間同盟(安保)に加えて、日豪印米の多国間協定を結んだのであるから、対米関係は清算すべきである。アメリカとの軍事同盟を結びながら他の国と2重の軍事同盟関係を結ぶことを、おかしいとは思わないのだろうか。

防衛費43兆円計上により「更なる日米同盟の強化」を図ろうとしている岸田政権は、そのことに思いを致し、考え直すべきだ。