鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

2020年という年

2020-12-31 23:30:29 | 日記
2020年(令和2年)も今日で終わる。

まさにコロナ禍の一年だった。正確に言えば2月からだったので11か月。

5月の連休明けに「緊急事態宣言」が解除になり、その1か月半後の6月19日には外出自粛も緩和され、県境をまたぐ移動がOKとなった。そして同じ時に、プロ野球などが無観客ではあるが開始された。しかし5月20日に甲子園の高校野球は中止となったままだった。

プロは金が回るが、高校野球では経済効果はないとの判断だったのか、いまだに釈然としない。今、第1波よりはるかに感染拡大した第3波の中でも各種スポーツが行われていることを思うと、甲子園でも無観客で開催すれば何のことはなかった。高校生のことを考えると残念至極だ。

夏からGO TOトラベルが始まり、経済を回そうとしたのだが、明らかに感染拡大の第3派に入っても「いけ、いけ、GO、GO」を変えようとせず、とうとう今日(12月31日)は東京での感染者が1000人を超えたてしまった。

小池都知事の「年末年始は家でおとなしくしてね」という願いも空しくなりそうだ。


この一年を振り返ると、どのメディアもコロナコロナで、ある意味コロナ様だ。テレビや報道でコロナ関連が半分を占めたと思われるほどで、こんなに番組構成の楽な年はなかったのではないか。

その一方でいつも秋はノーベル賞の話題で一色になるのだが、今年は日本人の受賞が無かったせいか、全く話題に取り上げられなかったのは不思議というより可笑しかった。

それでも小惑星リュウグウの土を持って地球に生還したはやぶさ2号の快挙があったのは嬉しかった。以前にもはやぶさ1号が小惑星イトカワから土壌のサンプリングに成功しており、これで日本は世界に先駆けて二度の小惑星離着陸とサンプリングを果たしたわけで、これはもうノーベル賞級の出来事だろう。


今日のNHK紅白歌合戦は無観客で行われたが、それぞれの出演者が自分の思いを語るといういつもの紅白では見られない楽しさがあった。

その中で特によかったのが、五木ひろしの「山河」、さだまさしの「奇跡2021~大きな愛のように~」、ユーミン「守ってあげたい」だった。

「山河」はこれが上手に歌えれば本望というような曲で、作詞は小椋佳、曲は堀内孝雄。

さだまさしの「奇跡~大きな愛のように~」の歌詞の中の「あなたは気付かなくても、いつでも隣りを歩いていたい」「あなたと同じ夢を見ていたい」などは恋人に対するというより、母親が子供を見守り、寄り添う姿に思えたし、ユーミンの「困る必要はないわ 守ってあげるから」とダブって聞こえた。

そうそう、初めて歌詞とともに聞いたスーパーフライの「愛をこめて花束を」。普段当たり前のように思っていた愛に気付かずに過ごしていたが、やっとそれに気付いたので感謝の花束をという内容なのだが、歌詞の中の「いつまでもそばにいてね」まで聞いていて、やはりこれも恋人ではなく、母への感謝・母への想いなのだろう。

母親の子供に寄り添う姿、無償の働き(世話)はまさにさだまさしの言う「大きな愛のよう」なのだ。母親の子供への愛は子供にとっては「神仏に勝る」という思いを新たにしてくれた。

鹿屋市でまたクラスタ―発生

2020-12-28 09:39:53 | おおすみの風景
一昨日の夜7時半頃、市内一斉の放送があり、鹿屋市長自らが新たにクラスタ―が発生したことを報じた。

市長によると、発生したのは中華料理店I(市長は店名を公表しているがここではイニシャルにしておく)で、24日までに14名が感染し、さらに昨日までに13名の感染が確認され、合計27名のクラスタ―になったという。

実はこの店は、鹿屋市の南部に属する我が家からは東南に2キロ余りしか離れておらず、その10日前に発生した鹿屋体育大学の学生クラスタ―は市の中心部より若干北寄りなので、鹿屋全域がウイルス汚染地帯になったと言っていいのかもしれない。

12月に入って忘年会の中止が相次いだが、この二例のクラスタ―は忘年会モドキの会食を強行したことによる感染爆発に違いない。前者の学生は責めたくはないが、後者の場合、会食の時期は発生一週間前の12月19日の土曜日頃と逆算できるので、政府が「5人以上の会食は自粛して」と声明を出した12月10日以降のイベントであり、これはどう見ても「大人げない」結果である。菅総理に倣って「深く反省」する他ないだろう(※まさか、総理もやっているから自分たちもという発想ではないだろうな)。

それにしても新型コロナウイルスの感染力は強い。このウイルスの大きな特徴は感染しても本人が無症状な場合が多いことと、症状が表れるにしても一週間も先になることだ。感染者本人が気付かぬその間に、多くの人にうつしてしまうというのだ。

通常のインフルエンザだと感染して3日目には高熱を発症するので移す可能性がかなり低いが、このウイルスは相当手強いウイルスだ。あまり推理したくないが、どこかの国でそのように遺伝子操作をしていたなんて気にもさせられる。

折しも昨夜9時からのNHKスペシャル「謎の感染拡大 ~新型ウイルスの起源を追う~」を視聴したが、この新型コロナウイルスはすでに2019年の10月中には人への感染が始まっていたらしく、ただその時期から通常のインフルエンザも始まっていたので区別がつかなかったようなのだ。

その時期に「世界軍人競技大会」なる私としては初耳の軍人競技会が中国で開催されていて、アメリカから参加した軍人の何人かが感染したらしく、ただ、その時には新型コロナウイルスによる感染症とは思われていなかった。ところがこれを逆手にとり、中国が新ガチャウイルスの発祥地だと米国などから責められた際に、中国のスポークスマンが「とんでもない。10月の軍人競技大会の時にアメリカから持ち込まれたのだ」と言い放ったが、あれが全くの虚偽だったことも判明している。

発生源は中国であることははっきりしているが、中国内のどこかというと、以前にSARZという名のコロナウイルスが広州で発生し高い致死率を示したあと急速に終息して感染爆発の事なきを得たが、この広州の山岳地帯は感染症ウイルスを持つ動物たちのホットスポットと呼ばれ、ここに生息するキクガシラコウモリを宿主とするウイルスは新型コロナウイルスの遺伝子と96パーセント合致しているそうだ。

このキクガシラコウモリの検体が武漢ウイルス研究所に運ばれて研究対象になり、採取保管していたウイルスが新型になってから何かの原因で漏れ出し、人へ拡散したというのが真相のようだ。

新型のコロナウイルスによるものだと最初に発表したのは、広州市の遺伝子解析会社で、12月26日のことだったことも分かっている。この情報は実は中国当局もメールなどで把握したが情報操作により肝心な部分が削除されている。しかし最先端の削除復原技術によって、そのメールの削除部分が復元され、12月26日には当局の知るところとなったことが赤裸々になった。

問題は新型コロナウイルスによる人への感染がかなり進んでいたにもかかわらず、中国当局が素早い手段を採らなかったことにあるのだ。その時点で世界に正しい情報を発信し、武漢を完全封鎖すれば今度のような世界への爆発的感染は防げたか、各国もそれなりの対応をする時間があっただろう。責任は中国当局にあるのだが、彼らは一切責任を取ろうとはしないだろう。

人々がインフルエンザとは違った症状でころころと死に始めた12月下旬には何の対策も採らず、一か月後の1月23日にようやく武漢を完全封鎖したが、その間にいったいどれくらいの武漢人を含む中国人が海外に行ったかも判明している。

日本には44万、ヨーロッパには39万など大量の海外旅行者がいたのである。その内の何パーセントが武漢人かは分からないが、日本でクルーズ船は別にして最初に感染者が出たのは、武漢からの団体旅行を乗せたバスの運転手と女性ツアーコンダクターだったし、また札幌で早い時期にスキー場経由で感染した小学生も、おそらくは武漢からのスキーツアー客によるものだろう。

春節という中国最大の年中行事の前後には中国国内で億単位で人が移動するのだが、近年は豊かになった中間層までが海外旅行をするようになり、このことがまた大きな感染ルートとなってしまったのだろう。新型コロナ感染が下火になってもワクチンが行き渡らなければ、海外旅行客の受け入れはすべきでない。当分の間、インバウンドよさらば、だ。

今のところ世界の感染者数は8000万、死者数は180万。感染者数は世界人口70億の1パーセントを超えた。死亡率は最初期の5~6パーセントから2~3パーセントへ下がっているのは医療体制・治療方法が整ってきたからだろう。それでも変異種が見つかっているのでうかうかしてはいられない。

三密を避けるのは無論だが、寒さに向かって免疫力を高めるために柑橘類を多く採り、また、歩いたり、庭仕事をしたりして体を動かすことが大切だろう。
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邪馬台国問題 第6回(「史話の会」12月例会)

2020-12-27 09:36:16 | 邪馬台国関連
今月は、先月の第5回で提示した邪馬台国論における持論の中の中心的なテーマ5つ(邪馬台国位置・投馬国の位置・伊都国の位置・イキマの意味・大倭の意味)のうちの「伊都国の位置」を取り上げる。

伊都国とは帯方郡使が邪馬台国を訪問した際に、九州島の末盧国(唐津市)に上陸したあと、末盧国から東南に500里歩いた先にある国で、ここには外交施設のようなものがあったらしく、必ず宿泊する所として描かれた国である。戸数は1000戸の小国であった。

この伊都国を「イト国」と読み、同じ音価から福岡県の西部海岸沿いに位置する糸島市に比定されているのだが、次の2点からこれに対しては大きな疑問がある。

まず第一点は、末盧国は佐賀県唐津市に比定されるのだが、ここから徒歩で行くとすると方角は東南ではなく東北になること。

これについては誰もが気付いているのだが、糸島市(旧前原町)で発掘された三か所の弥生王墓(甕棺墓)の副葬品の余りの豪華さから、「帯方郡からの使いが留まる(宿泊する)場所としては最適だ」として、方角を無視してしまうのである。

次に第二点。もし糸島市が「伊都国」であるのなら、壱岐の島から唐津に行かずに糸島へ直接船を着ければいいだけの話であって、何もわざわざ唐津で船から降りて福岡県と佐賀県境の山が海に迫った難路を歩く必要があるのか、という点である。

現地に行ったことのない人でも九州の地図帳を開けば、唐津市から東隣りの浜玉町までは虹ノ松原などの見える平坦な道だが、そこから福岡県境に近づけば急に山が海岸に迫り、県境を越えて二丈町に入ってもずっと同じような難路である。こんな大変な道をなぜ貴重な魏王朝からの下賜品の数々を背負って歩かなければならないのだろうか。

以上の2点から「伊都国」が糸島市ではないことは明らかだろう。

(※以上の第一点について、唐津市からだと東北になるのでなんとか東南にしようと、唐津市よりかなり北にある呼子町辺りを末盧国と比定する人もいるが、そうすると確かに最初の行程は唐津への東南陸行になるが、しかし唐津からはやはり東北は東北であり、総合的に見て東でしかなく、東南陸行から逸脱する。第一、上の第二点目の疑問のほうはますます大きくなるのだ。やはり呼子などで下船せず、直接糸島に船を着ければよいだけの話である。)

糸島市では、ほとんどの邪馬台国論者が「伊都国は糸島で決まり」というものだから、かなり前に「伊都国歴史資料館」なる施設を建設してしまっており、私が訪れた時に資料館の職員の方に「末盧国は唐津市ですよね。唐津からだとここは東北にあたるんじゃないですか?」と、直接「ここは伊都国ではないでしょう」と言うのを避けて訊ねたことがあった。

すると職員は気まずそうにして口ごもり、「そう考える人もおりますよね」と返したのだった。私はそれ以上訊ねることはしなかった。しかし伊都国の是非云々を考えずとも、この資料館に展示されている「弥生王墓」からの副葬品の量と質には圧倒されること請け合いである。一見の価値は十二分にある。

ただしこの豪華副葬品を伴った王墓群は時代的には2世紀以前に属し、魏志倭人伝上の邪馬台国時代より100年以上前の時代の物である。

また糸島は古代には怡土郡であったので、「イト」という音価がずっと使われていたと思われがちだが、実は日本書紀の「仲哀天皇紀」と「筑前国風土記逸文」には「イトではなくイソである」と書かれているのである。

この「イソ」の語源だが、両書によれば仲哀天皇がここを訪れた時に土地の豪族「五十迹手(イソトテ)」がまめまめしく、いそいそと世話をしてくれたので、感心した天皇が「お前は伊蘇志(いそし)き男であるから、この地を「伊蘇」と名付けよ」と言い、その名が付いたとある。

以上から、糸島はもと「イソ(五十)」だったことが分かる。

また豪族「五十迹手」が言うには「自分の祖先は韓国の意呂山に天下りました」とあり、このことから「五十(イソ)」の名を持つ二人の天皇「第10代崇神天皇=ミマキイリヒコ五十(イソ)ニヱ」とその次代の「第11代垂仁天皇=イクメイリヒコ五十(イソ)サチ」はここの出身だったとも判明するのである。

伊都国資料館の2キロほど北東に高祖山がそびえ、その山襞の中に「高祖神社」という何かの祭りで有名な神社があるが、この神社の祭神は「高磯姫命」(タカイソヒメノミコト)といい、まさにこの地が「イソ」(高は美称、姫は言うまでもなく女神の意味)であったことを教えている。

だから「伊都国歴史資料館」は「五十(イソ)国歴史資料館」とすべきなのである。そして豪族「五十迹手」が自ら語ったように、先祖が韓半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の出身なのであるから、おそらく祖先が同族だった上記「五十」をその名に持つ崇神天皇・垂仁天皇の事績をも取り入れて欲しいものだ。また、糸島市の北岸の志摩町には秀麗な山容の山「可也山」(カヤサン)もあるから、彼我の海を介した交流を探るべく魏志倭人伝のみならず「魏志韓伝」の内容も考慮すべきだと考える。

以上から「伊都国」は「イト国」と読んで糸島市に比定するのは誤りであると結論できる。この結論に立つと、これまでさんざん無理・無茶な解釈がなされて来た行程論における矛盾はすべて解消され、邪馬台国畿内説は全く成立せず、九州説においても統一の道筋が出来上がる。これまで伊都国を糸島市に比定したことでいかに多くの行程解釈に誤謬が発生して来たかを思うと愕然とする。糸島市を伊都国に擬したら邪馬台国には永遠に辿り着けないのである。

それでは「伊都国」をどう読み、またどこに比定したらよいのか? 

まず読みだが、私は古事記の神々(伊都之尾羽張=いつのおはばり、伊都之男建=いつのおたけび、伊都之竹鞆=いつのたけとも・・・など)の読み方に注目して「伊都」を「イツ」と読む。

「イツ」とは上記神々の名称から分かるように「厳格な・威力のある」という意味の「イツ」である。この属性を持った国が「伊都(イツ)国」ということで、これに関しては位置の比定のあとで触れることになる。

さて魏志倭人伝によると、唐津市の末盧国に上陸した後は東南に陸行(徒歩)500里で「伊都国」である。唐津市から東南というと、松浦川を遡行することになる。そう大きな川ではないが平野部を過ぎるといきなり谷間を縫うような川である。隘路も隘路、かつ水が岩を絡む谷川沿いの道は難渋を極めたに違いなく、ようやく上流部に差し掛かるとそこにちょっとした盆地がある。

そこは今の東松浦郡厳木町。この町の読みは「きゆらぎ」と読み、他では全く見られない読み方の町の名である。私はこの「厳木」を「イツキ」と読む。「厳」を「イツ」と読むのは安芸の宮島にある「厳島神社」の例があり、そうすると「木」と併せて「厳木」は「イツキ」となる。すなわち「伊都城」(イツキ)である。

したがって戸数千戸とされる小国「伊都(イツ)国」は「厳木町」に比定してよいことになる。

自分は以前に書いた『邪馬台国真論』の中で、「伊都国は厳木町から峠を越えたところにある多久市か、まだその先の小城市ではないか、ただ厳木町も捨てがたい」というように書いたのだが、今やもう伊都国は「厳木町」でよいと考えている。

ではなぜこのような山中の厳木町に伊都国があったのだろうか。

これについてはかなり長い考証が必要なので、ここでは詳しくは書けないが、先月の第5回で述べたように北部九州倭人連合である「大倭」との戦争によって敗れたために、それまで吉野ケ里を含む佐賀平野全域を領土とする大国だったのが、「改易」されてこのような山間の小国になってしまったのだろうとだけ、ここでは述べておく。

また、倭人伝では伊都国の官(王)を「爾支」(ニキまたはヌシ)と言ったと書かれているが、私は「ヌシ」説を採用し、この王の称号は「大国主(オオクニヌシ)」を連想させ、「九州北部倭人連合(大倭)」によって敗れたのちに、王族の多くは厳木町ではなく出雲に流されたのではないかとも考えている。「イズモ」は「イツナ(伊都国)」の転訛と考えるからである。


外観完成の片屋根倉庫(2020.12.24)

2020-12-25 09:25:03 | 日記
12月8日に柱建てから屋根乗せ(棟上げ)まで行った片屋根倉庫は、昨日24日までに壁を張り、戸口の扉2枚を作製して取り付け、さらに防腐・防虫剤(ブラウン)を塗って外観はほぼ完成した。

壁の一部は屋根材と同じポリカーボネイト製の波板にした。そしてその上の6尺以上の部分は五分板を使って打ち付けた。板の片方の端を三角形の形になるように斜め切りをするのだが、これがなかなか面倒だった。

扉にもポリカの波板を使った。いま奥に見えている扉は北側で、ほとんど風の当たらない所なので真ん中に横板を1枚張っただけのシンプルな作りであるが、反対側の南側のはさらに横2枚、縦1枚を加えて丈夫にしてある。

先日、工事中の写真をラインで東京に単身赴任中の息子に送ったところ、「風で飛ばないだろうか」と心配とも何ともつかない返事を寄こしたが、「(風が)吹いてみなければ分からん」と返してやったのだった。

たしかに風速50メートルというのが直撃すれば危ういだろうが、この倉庫の位置は我が家で最も風の当たらない西側で、隣家と境界に立ち並ぶヒトツバ(高野槙)が西風除けになってくれるので、まずその心配はない。

ただ問題は南側で、台風の際に東風から南風に移動した場合、2時間も3時間も南から吹き付けられたら屋根と扉がやられるかもしれない。その時には無論強風対策は万全にするつもりでいる。

さてあとは内装だ。ここは、半分は農作業や庭関係の道具と肥料などを入れ、残りの半分は大工用の工具類を置き、作業テーブルを取り付ける予定だ。これから使い勝手のいいようにぼちぼち手を入れていく。

11月の半ばに柱建て用のコンクリート基礎を作り始めてから、ほとんど雨が降らなかったので、作業にとっては実にラッキーだった。日に日に仕上がって行くのを眺めると充実感が湧いてくるが、齢70にしてこれがおそらく最後の大工仕事だろう。

「年寄りの冷や汗」はあったが、何にしろ怪我がなくてよかった。

コロナ感染第3波は収まらず

2020-12-22 14:44:46 | 日本の時事風景
新型コロナウイルスの感染第3波が容易ならざる状態になっている。

感染者の数は全国で20万を超えた。2月の最初期の感染から約6か月かかって5万人に達したのが8月で、その後は5万人増やすのに1か月半、1か月、そして直近ではわずか20日と増える期間が短縮されている。

このまま行けば正月を迎えるころには、患者数が25万人に達する可能性がある。寒さのせいで重症者も多いようだ。

政府はようやくGO TO トラベルの一時停止を決めた。遅きに失したかもしれない。

武漢で世界で最初の感染が確認されたあと、ややしばらく放っておかれたため年明けの1月の半ばには抜き差しならぬ事態になってしまい、慌てた中国政府は1月23日に武漢への完全封鎖策をとり、1500床とかいうバラック造りの救急施設を構築して世界から「何て大袈裟な」というような好奇の眼で見られたのだが、それが功を奏して8万数千人の感染者(死者は約5千)でほぼ終焉した。

私は東京などもそれに近い策を採るべきだと思っていたのだが、幸いにもというか不幸にもというべきか、日本では北海道と東京以外の感染者が欧米に比べて極端に少なかったため、ロックダウンなど論外とされた。

その挙句に、6月19日からは他府県との往来を自由化し、さらにプロ野球なども無観客試合ならOKとなり、苦吟する欧米を横目に「自由化路線」を走り出したので、旅行先として人気のある沖縄県ではあれよあれよと言う間に感染者が増えて行った。

その頃から夏休みにかけて第2波がピークを迎えたわけだが、ピーク後も感染者数の高止まりは続いていて、9月の4連休をきっかけに10月半ば以降は今見る通りの第3波に入ってしまった。

ただ心配していたインフルエンザとのダブルパンチが全くなく、これはうれしい誤算だったと言える。

最初に感染者数が20万を超えたと書いたが、実はあの武漢のロックダウン中に向こうの発表する毎日の感染者の増加数の大きさを見ていて、私は「2月末には20万くらいに増えているだろうな、可哀相に」などと思っていたのだが、あに計らんや、8万でストップしてしまった。(※8万でストップしたままの報道には眉唾だったのだが、どうも本当らしい。)

共産党一党独裁の国ならではの「全集中の」施策だったろう。一党独裁は困るが、「国民の命と暮らしを守る」のが使命であることを、常々話の枕に使っている菅総理にも「全集中の対策」が求められているのではないか。