鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「総合的、俯瞰的に・・・」②

2020-10-29 21:36:38 | 日本の時事風景
菅首相の所信表明演説後の衆院代表質問で、通常国会の論戦が始まった。

野党が手ぐすね引いていたのが、例の日本学術会議の6名の新会員の任命拒否問題であった。

菅首相は相変わらず、「総合的・俯瞰的に」を繰り返していた。その真意は「特別な意見や出身」などに偏らない人選(推薦)がなされていない—―ということらしい。

そして必ず持ち出すのが、「学術会議会員は10億円の予算のついた特別公務員である」という文言で、さればこそ政府側の任命権が優先するわけで、そのことに反対するのであれば日本学術会議の改革をしなければならない、と考えているようだ。

政府から金を貰っているのに何をがたがた言ってるんだーーという乱暴な考えだ。

しかし、もし日本学術会議が公的機関でなく政府の予算がつかない民間の機関だったら、政治家は誰も見向きしなくなるだろう。「言わせておけばよい」「彼らの勝手でしょ」となるにちがいない。

乱暴な考え方ついでに、私は参議院も大いに改革してもらいたいと思っている。よく言われる「衆院のカーボンコピー」なのが現状、というよりそもそもの衆院と違って解散がないという成り立ちから言って参院は特殊である。

戦前の貴族院からの衣替えなので、議員には「人気者」か、何らかの「功労者」的な人が選ばれる傾向が強く、議員が取り組むべき政治・政策からは乖離しているきらいがある。

この参議院議員には歳費(年俸)として1500万円余りが支給されるうえ、政務調査費や交通費、それに公設秘書が付くから、2500万ほどの年間維持費が支払われている。また不逮捕特権もある。

参議院も3年ごとの半数改選という選挙はあるが、衆議院の方に議決の優越権があるためタイムリーかつ独自の政策論議を期待することができず、選挙民の関心は非常に薄い。そんな250名もの議員は要らないだろう。

こういう参議院は不要だという声は多い。では無くしてしまうのか。

私は無くす代わり、各都道府県の知事経験者や議長経験者を任命して文字通りの「参議」とし、原則「固定給なし」で、国会審議と各種委員会などへの出席に対する「日当」(費用弁償)と交通・宿泊費のみの支給にすればよいと考える。

各都道府県から二名ずつで94名だが、他に各省の事務次官経験者から10名ばかり選任し、衆議院での審議のお目付け役としての参議院になればよいと思う。そして大いに政策論議をしてチェック機能を果たし、国民に開示すべきではないだろうか。

いつまでも日本学術会議任命問題にこだわらず、「大局的な」論議をしてもらいたいものだ。

核兵器禁止条約と日本

2020-10-26 11:02:20 | 専守防衛力を有する永世中立国
ノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン「ICAN」が主導した核兵器禁止条約が、最近、中米のホンジェラスが承認したことで、条約成立の基準である50か国承認となり、国際条約として締結された。発効は来年1月からだという。

アメリカの前大統領オバマ氏がプラハで11年前に宣言した「核廃絶」がようやく実を結んだともいえる。

日本は例の「アメリカの核の傘による抑止力で他国から攻撃されない」という論法で、批准どころか条約締結のための会議をボイコットして来た。

今度新たに就任した岸防衛大臣は「核の保有国がいきなり核を廃棄するのは無理な話で、この条約は有効性に乏しい」という見解を示した。

政府は「核廃絶への取り組みは年々独自に行っている。やり方が違うのだ」というようなスタンスだ。

確かに日本政府は国連演説などでは常々「核廃絶に向けた取り組み」を唱えて来ているが、核の戦争抑止力も同時に考えているので、すぐに廃絶はしなくても「唯一の被爆国としては訴えることにやぶさかではない」くらいなノリでしかない。

すべては強固な二国間軍事同盟関係を結んでいるアメリカへの忖度から発しているのだ。

国連憲章上、二国間軍事同盟は第2次大戦の苦い経験から禁止されるはずのもので、日本は1952年4月発効の旧日米安保が10年の期限が切れる際に廃棄せず、今度の防衛大臣の祖父・岸信介首相がさらなる10年間の新安保を結び、その後は毎年自動更新し、実に60年の長きにわたって結ばれ続けている。

余りに長いものだから米軍駐留は無くてはならぬ、というか、沖縄県民以外の国民にとっては空気のような当たり前の存在でしかなくなってしまった。

現国連の成立理念から考えると、日米軍事同盟(新安保)は異常なのである。集団的自衛権とは別物だからだ。

二国間軍事同盟を結んでおいて、集団的自衛権もへったくれもないのだ。事あるごとに「集団的自衛権」を持ち出して「安全保障法制」を成立させた安倍首相は、そのことを本当に理解していたのだろうか。

今度の核の問題では、北朝鮮の核保有について、父親の金正日の時は核査察を受け容れたが、息子は全く受け付けないでいるので、アメリカも強硬姿勢を見せていたのだが、トランプ大統領に代わってからは独自の劇場型外交により、いったんは融和に動いた。

北への攻撃をも辞さない強硬派のボルトン安全保障担当補佐官がトランプに解任させられ、金正恩は大いに安堵したはずで、その機をとらえて安倍首相が独自に拉致問題解決に向けて大きなシグナルを金正恩に送ればよかったのだが、そうしなかった。

これもアメリカへの忖度のなせる業だ。3日前だったか、拉致被害者の横田恵さんのお父さん・滋さんが亡くなって催された追悼式に安倍さんも参列していたが、例のごとく「進展を見なかったのは断腸の思い」と語ったが、内心は「トランプに忖度し過ぎて何もできなかった」と思っているのではないか。

「強固過ぎる日米同盟」はもうここらで終わりにして、日米は真に対等な世界の中の「通常な二国関係」に築き直すべき時だろう。

その時、日本の不甲斐ない「対米忖度外交」は無くなり、独自の平和外交を推し進めれば、世界中から賞賛されるだろう。

(※日米安保が無いとどうしても安らかに眠れない人は、アメリカへの移住をお勧めする。)

ところで世界の核保有国は米露を筆頭に英、仏、中、北朝鮮、インド、パキスタン、イスラエルの9か国ということだが、不思議なのは中国である。

中国が核保有国になったのは1972年に国連加盟して中華民国に変わって常任理事国になってからだが、何回かは核実験をしたという報道は見たものの、その時アメリカなどが強く非難したというような論調はついぞなかったことだ。

共産党の独裁国家が核兵器を手にしたら、困るのは自由圏のアメリカのはずではないか。常任理事国だから良しとしたのだろうか。或いは米中間で密約があって、北朝鮮と軍事同盟を結ばなければ核保有は大目に見る—―というようなことだったのか。

とにかく不可解な中国の核保有である。

日本はこうした軍事大国とは一線を画し、軍事によらない平和外交を展開すべきだ。世界はそれを待っている。

邪馬台国問題 第4回(「史話の会」10月例会)

2020-10-21 11:11:04 | 邪馬台国関連
魏志倭人伝読解の3回目を史話の会の10月例会(10月18日)で行ったので、以下にその概要を。(※会場は鹿屋市東地区学習センター)

まずは【前回までの要点】

邪馬台国問題の中心課題は、何と言っても邪馬台国(女王国)の場所である。

朝鮮半島の魏の植民地「帯方郡」から女王国までの行程記事を正確かつ素直に解釈していくと、畿内説が成り立つ余地は全くない。

そのカギを握るのが、①水行1000里とは距離の単位で表記された所要日数1日のことであり、②伊都国は福岡県糸島市ではなく、佐賀県唐津市(末盧国)から東南に延びる松浦川流域にあった「イツ国」である、という二点である。

このことから帯方郡から朝鮮半島南部の「狗邪韓国」(現在の金海市)までが水行7000里であるから、所要日数は7日。ここから朝鮮(対馬)海峡を対馬へ水行1000里(所要日数1日)、壱岐へ水行1000里(所要日数1日)、そして九州北岸の末盧国(唐津市)へ水行1000里(所要日数1日)。

以上から帯方郡から末盧国までは1万里であり、所要日数は10日と判明する。この1万里は、女王国に属する21国の羅列の最後に、南部にある狗奴国の国情を記載したあと、「郡より女王国に至るや、万二千余里。」と記されたうちの1万里のことで、そうすると残りの二千余里で邪馬台国に到達するわけである。

帯方郡から唐津市の末盧国まで1万里であり、ここからあと2000里余りで邪馬台国なのであるから畿内説は、まずここで脱落するほかない。

さらに帯方郡からの行程記事の最後に「南、邪馬台国に至る、女王の都する所。水行10日、陸行1月。」と記載されていることを勘案すると、この「水行10日」は上記の「帯方郡から末盧国までの水行10日」と同値であり、したがって「水行10日、陸行1月」の残りの「陸行1月」というのは、末盧国から陸行で1ヶ月のところにあることを意味する。

要するに、邪馬台国は九州北岸の末盧国(唐津市)からは徒歩の行程で行き着く所にある—―と言っているわけで、畿内説はここでも否定される。

前回の最後に書いたように「邪馬台国が九州にあった2~3世紀当時、畿内にも何らかの王権はあったのだから、倭人伝に拘泥することなく調査研究するべき」なのである。

邪馬台国は九州島に求める他ないとはいっても、九州説は多岐多様にわたり、収拾のつかない様相を呈しているが、その元凶は「伊都国=糸島市」説である。

これは畿内説でもそうなのだが、糸島に眠っていた弥生甕棺王墓の豪華絢爛な副葬品に幻惑され、「伊都(いと)国は糸(いと)島で決まり!」という比類なき先入観が研究者を襲ってしまった。

その結果、糸島なら壱岐から直接船を着ければよいという中学生でもわかりそうなことを考慮せず、末盧国の唐津で船を降り、わざわざ「東南陸行500里」を歩かせるという珍道中を構想してしまった。(※ここでダジャレではないが、まさに「イトおかし」だ。)

さらにその挙句、唐津市から糸島市へは「東南」ではなく「東北」なので、「魏志倭人伝上の方角は東北を東南としてあるから、90度反時計回りに読み替えるべきだ」として、そのあとに記されている方角を「南なら90度反時計回りの東に変えるべし」と投馬国も邪馬台国も九州北部から東へ東へと道程を取らせ、堂々と畿内に所在地を持って行ってしまった。

九州説もこの「伊都国=糸島市」という幻惑から逃れられず、結局、第一奴国、不彌国、投馬国がとらえきれずに終わっている。邪馬台国も「投馬国から、南、邪馬台国に至る水行10日、陸行1月」と解釈しているので九州内のどこにも比定できないままである。

末盧国(唐津)から東南へ松浦川沿いの隘路を行けば、距離・方角共に無理のない比定地がそこにあるというのに、先入観というのは恐ろしいものだ。


以上が前回までの復習。以下に今回のあらましを書いていきたい。

今回は、「倭人の風俗」を描いた段落で、海人族の「黥面(げいめん)文身(ぶんしん)」という内陸の中国人から見たらびっくりするような風俗から描写が始まっている。

倭人伝の本文で漢字600字ほどで記録されているが、ここではすべては取り上げず、特に大事な部分だけを抽出して解釈を加えたい。


まず「黥面(げいめん)文身」だが、これは海中に潜るとき、サメなどの害から身を守るために施したのが始まりで、当時でもすでに「飾り」(おしゃれ)化している向きもあったようだ。中国の伝承でも、夏王朝代の少康王の息子が会稽に封じられた時、自ら文身したというから、中国大陸でも南方の海岸地帯では同じ風俗があった—―と書いている。

衣装は男子は長い木綿を頭に巻き(鉢巻)、広幅の布を体に巻き付けていた。女子はいわゆる「貫頭衣」で、長い髪を頭に纏めていた。

産物に「米・麻・桑・絹・布」があり、「牛馬・虎豹」などはいなかった。木弓を使い、矢には竹・鉄・骨が使われていた。

身体には「朱丹」を塗っているが、これは中国で「白粉」(おしろい)を塗るのと変わらない。

人が死ぬとお棺に入れて葬るが、直葬であり、槨はない。ただ埋めて土を盛り上げるだけである。(※土饅頭=円墳はあった。)

航海では「持衰」(じすい)という名の不可解な人物を乗せて行く風習がある。乞食同然の姿で同船するのだが、航海がうまくいけば褒美を与え、途中航路が荒れたりすると「持衰」のせいだとして殺さんばかりに罰を与える。(※「持衰」に邪気を吸い取らせるということのようである。)

自然の風物では、海産の真珠・青玉があり、樹木などは中国の南部と共通している。はじかみや①橘、山椒、薄荷などを産するが、利用はしていない。

卜(うらない)は鹿の骨を焼いて行うが、これは中国で亀の甲羅で占うのと同じである。

大人と出会うと下戸は手を叩いて敬うだけで、中国のように跪拝はしない。

人々は②長生きで、100年生きる者もいる

尊卑の差はあるが、お互いに信頼し合っている。租(税)や賦(出役)があり、租を収める大きな建物もある。


・・・以上が倭人の主な風俗・風習である。

晋の史官だった陳寿が記録したように、邪馬台国のある場所は南部中国の「会稽」や「朱崖」と風物が似ているようである。また海人族らしく「文身」(入れ墨)をして素潜りで魚や貝類を採取しているとも書いている。これらも文身の面影をその名に伝える胸形(宗像)族や安曇(あずみ)族のいたのが九州であるから、九州説にはもってこいの描写である。

ただ、上の説明の中で下線を引いた「①橘」と「②倭人の長生き」について若干のコメントを加えたい。

「橘(たちばな)」は一般的には日本書紀の「垂仁天皇紀」に登場するタジマモリが、常世の国に10年かけて採取し、垂仁天皇のもとに献上した(が、垂仁天皇はもう他界していた)「非時香菓」(ときじくのかくのこのみ)こそが橘だとされているが、倭人伝の記述からは橘はすでに九州に自生していたようなので、「ときじくのかくのこのみ」は橘ではないだろう。

自分としては常世の国の支配者である「西王母」から見て、桃の実ではないかと思っている。

また、「倭人の長生き」だが、記述からは8,90年は生き、中には100年の者もいる—―という記述はそのまま受け止める。

これを〈倭人の2倍年歴説〉を持ち出し、「倭人は稲の植え付けから収穫までを1年、収穫後から次の春までをまた1年と数えるから、100年とは50年のことだ」と唱える向きがあるが、正史である魏志倭人伝は皇帝を筆頭に中国大陸人に読ませる文書なのであるから、年数については中国の年歴で記すはずで、この100年は文字通り今と同様の100年でよいのである。


(邪馬台国問題 第4回 終わり)

夏の名残と深まる秋

2020-10-19 09:42:25 | 日記
一昨日(17日)は初めて日中の気温が20℃を下回り、半袖で出かけたら肌寒かった。今日もどんより曇り空で、20℃を下回りそうだ。

新聞報道では昨日の鹿児島県伊佐地方の最低気温が10℃を切ったらしい。いよいよ紅葉が始まるレベルの寒さになって来た。

こちら大隅地方では、9月の10号台風が去ったあとの9月15日前後に、一日だけだったが最低気温が15℃を下回り、それまで続いていた夏日が和らいでホッとしたのを覚えている。そして20日過ぎには咲く時期を寸分違わない律儀な彼岸花が咲いて、秋の到来を感じさせてくれた。

その後も夏日らしい夏日は10月に入ってからは一日か二日で、そのまま過ごしやすいこの頃を迎えている。

我が家の庭では夏の花であるマリーゴールド、セロシア、コリウスなどがまだ旺盛に咲いている。また、ポーチュランカと鳳仙花のこぼれタネ咲きも見られ、一見すると秋の気配はないように見える。
しかしその一方で柿は色づきを深めている。


裏庭に植えてある秋花のホトトギスはすでに満開になった。

30坪ほどの菜園では9月の上旬に蒔いた大根や春菊、高菜などが間引き菜で食べられるようになった。また苗を定植した白菜はもう大きな葉を広げて隣り同士が窮屈そうな塩梅だ。間引きを兼ねて、もう一畝に移植しようかと考えている。


寒さに向かうと気掛かりなのがインフルエンザの流行だが、今年はコロナ禍対策がインフルエンザ対策にもなっているからだろう、例年に比べていまのところほぼゼロに等しい発生だそうだ。うれしい誤算だ。

また、真夏のマスクが高齢者の熱中症の爆発的増加を引き起こしはせぬかと心配したが、多かったことは多かったろうが、学校の部活動などでよく起きる「集団的熱中症」同様、さほどのニュースにはならなかった気がする。「冷感マスク」が功を奏したか・・・。

自分としては有難いことがあった。それは花粉症である。例年9月の半ばからの約一ヶ月はイネ科の仲間であるススキの類が穂を出して花粉を飛ばすのだが、それに結構反応し鼻詰まりなどで寝苦しかったりするのだ。

まだ夏の余韻が強いこの時期に、一人だけマスクをして外出するのは、いつもならためらわれたのだが、今年は「堂々と」着用することができたので、その分、アレルギー反応が抑えられたわけである。

新型コロナ感染は東京を中心に収まる気配がないが、この分だとインフルエンザの発生は相当抑えられるのではないか。そうだとしたら朗報だ。「コロナ禍転じて何とやら」になればよい。


旧国鉄・志布志駅

2020-10-13 14:16:23 | おおすみの風景
志布志市文化会館で「よみがえる志布志線・大隅線の歴史」展が開かれているというので行ってみた。

旧国鉄・志布志駅は、かつて大隅半島の鉄道の一大拠点だった。

国鉄志布志線・日南線・大隅線の3線が交わる要衝で、ここから鹿屋駅を経由して大隅半島周りで日豊線・国分駅につながり、北に向かえば岩川駅・末吉駅経由で西都城駅へ、東に宮崎県串間駅方面へは風光明媚な日南海岸を右手に見ながら南宮崎駅に至る。

文化会館に問い合わせて主催者の一人、旧国鉄職員で現在は志布志市SL保存会会長のM氏にお会いすることができた。

ちょうど今日は、保存会活動の中心活動である鉄道公園に保存してあるSL「C58 112 」機関車の清掃作業日だったので、蒸気機関車を間近に見ながら話を聞くことができて、運がよかった。
この蒸気機関車「C58 112」号はM氏と同じ昭和14年生まれということで、愛着一入だそうだ。しかし昭和50年に全国の蒸気機関車はすべて現役を引退した。
 M氏はその頃から保存会活動を始めたようで、昭和62年3月に志布志線・大隅線が国鉄民営化の流れの中で廃線になると、これが志布志町に寄贈された機会に鉄道公園への保存を働きかけ、実現した後、保存会でもう30年以上清掃活動を続けている。

鉄道公園のある場所は旧国鉄時代の機関区に当たるヤードで、機関区の二階建ての比較的大きな建物と転車台や機関車車庫などが、錯綜する線路群の中にあったそうである。(※機関区・保線区・車掌区の三区を持っているのは大隅半島部では志布志駅だけで、最大500名の職員を抱えていたというから、町としては一大産業だった。)

鉄道公園から東200~300m先に、現在のJR志布志駅があるが、今の駅は保線区と車掌区、それから当時のプラットホーム群を過ぎた先に当たるそうで、かつての利用者から見た旧志布志駅は現在の駅前から延びる直線道路の上にあったことになる。

昭和62年頃まで当地にいて鉄道を利用し、その後就職や進学で志布志を離れ、久々に帰って来た志布志人にとっては、まさに「隔世の感」だったろう。現在のJR志布志駅。かつての駅入り口は北向きだったのだが、今は西向きになっている。唯一残された日南線はここから真東に走って行く。
 今は無人駅なので、ワンマン路線バスのように乗り込んだ車内の自動切符を受け取り、降りる時に運転席の近くに据え付けられた料金箱に、車内に表示された金額を切符とともに入れてゆく。

大隅半島部に残された唯一の鉄道が日南線(志布志~南宮崎)で、無人駅とはいえ駅舎の一角が志布志市総合観光案内所(観光課)になっているから職員らしき人たちがかなりいたので聞いてみると、朝夕定期的に利用している学生(高校生)はたった一人ということであった。

たしかに日南線沿いの高校と言えば串間高校か日南(飫肥)高校で、宮崎県立だから鹿児島県からは無理で、ただ日南に私立日章学園というのがあることはある。たった一人でというのは寂しいが、おそらく日章学園の有名な野球部か何かを目指したのだろう。


「線路があればこの機関車を動かすことができますか?」という問いに、M氏は、「それは無理でしょう。手入れしていたとはいっても外観だけで、中身(部品)までしていないから・・・」とやや寂しそうだった。

それでも頂いた資料の中にあったように、――SLは「昭和の文化遺産」としていつまでも残しておきたいし、鉄道が志布志にとってどんな役割を果たしていたかに関心を持ってもらいたい—―という気持ちでこれからも保存活動を続けるようである。

25名ほどの保存会のメンバーはM氏の80歳をはじめみな高齢者に属しているが、この活動はやりがい(きれいにする、みんなでやる、無理がない、達成感がある)という点ではピカいちではないか。いつまでも続けて欲しいものだ。