鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

佐渡金山を世界遺産に登録申請へ

2022-01-30 19:34:27 | 日本の時事風景
政府の諮問機関「文化審議委員会」が、佐渡の金山跡を世界文化遺産としてユネスコに登録申請する運びとなった。

佐渡金山は江戸時代に産出量が当時の世界一となり、そのうえ選鉱から冶金まで同じ場所で一貫して行われていたのも世界唯一と言って良いくらい画期的な金鉱山だったらしい。

佐渡金山のうち最大の相川金銀鉱山は江戸時代から昭和の終わりまで長期の採掘が行われていたという。

ただ戦前の早い段階で民間の三菱の経営になり、朝鮮半島出身の朝鮮人労働者が交っていたのが韓国側のクレームどころとなり、岸田首相も最初は事を荒立てないように世界遺産申請を見合わせていたのだが、ようやく前向きに取り組むようになったようだ。

佐渡の金山は江戸時代に罪人を送り込み、懲罰的な過酷な労働を強いて成り立っていた側面があり、そのことに関しては忸怩たるものを感じるが、明治以降、朝鮮が日本に併合されてから以降の金山労働者の待遇は、朝鮮人であろうと日本人であろうと待遇にはさほどの差はなく、まして「強制労働」など全くなかった。

韓国人がいまだに金山採掘労働の「強制性」を言うのは、おそらく終戦時のごたごたで満足に賃金が支払われなかったことからの逆恨みだろう。同じことは終戦時の日立などの賃金不払いに端を発するもので、当時は朝鮮出身者のみならず、日本人でも賃金支払いなどでうやむやになったケースはざらにあった。

今回このような韓国サイドの一方的なクレームに耳を貸さず、世界文化遺産に登録すると決めたことは素晴らしいことだ。

鉱山では以前に世界遺産に登録された「石見銀山」があるが、今度の申請に当たって佐渡金銀山を石見銀山に合体させて登録してもよいのではないかという意見もあったらしいが、やはり佐渡金山の単独登録がふさわしい。


金と言えば、「黄金の島ジパング」が想起されるが、この風説を披露した探検家マルコ・ポーロの時代に金の産出で名を馳せていたのは東北地方であった。

宋時代の中国に留学した僧が筆談で「日本の奥州には黄金が産出する」と言ったのが尾ひれが付き、「日本は黄金の国だ」と広まったのをマルコポーロが聞き及んだのが始まりだが、実は日本列島では時代をもっとずっとさかのぼった8世紀にすでに奥州では金が発見されていた。

発見したのは、白村江の戦役以前から日本に人質として来ていた百済義慈王の子「善光」のひ孫「百済王敬福」であった。その時敬福は陸奥守を担っており、時あたかも聖武天皇が東大寺に大仏を建立しつつあって、大量の金箔を必要としていたのを知っていた。

天平21年(749年)4月、敬福は陸奥の小田郡で採取された900両(約90キロ)の金を都に届けた。これに感激した聖武天皇(在位724~749年)は元号を「天平感宝」と改元し、さらに7月には「天平勝宝」としている(『続日本紀』天平21年4月条および7月条)。

この聖武天皇の感激は越中国司だった大伴家持にも伝えられ、家持は次の有名な歌を詠んでいる。

<天皇(すめらぎ)の 御代栄えむと 東なる みちのく山に 金(こがね)花咲く>(万葉集第18巻 4097番)

聖武天皇は大仏の完成を見て、皇位を娘の阿部内親王に譲位した。これが孝謙天皇(在位749~758年)である。

因みに、この功により、百済王敬福は従五位上だった官位が7階級特進して従三位に昇進している。

なお、敬福の曾祖父の善光は舒明天皇時代に兄豊璋とともに大和へ人質として来ていた。しかし662年に兄は百済再興のため向こうへ渡ったが、本人は日本に残り難波に安堵の地が与えられ、祖先をそこに祭った。今も「百済王神社」がある。

(※「西の正倉院」のある宮崎県美郷町には神門神社があるが、祭られているのは大山祇命と百済禎嘉王である。禎嘉王の遺品と言われる鏡24面が収蔵されている。ただし、禎嘉王は義慈王の子の善光の系統ではなく、百済滅亡後に亡命し、日向に漂着した王族ということになっている。)