鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

新春の京都三社と伊勢三宮(6)

2019-01-28 13:32:38 | 旅行

「新春の京都三社と伊勢三宮」が長くなったが、長くなりついでに伊勢神宮の存続の危機についても触れておきたい。

前回、伊勢神宮が祟神天皇の娘ヤマトヒメの時に創建されたと縷々書いてきたが、逆に存続の危機に見舞われた時代があった。

源平の争乱・南北朝の対立、そして戦国時代の混乱の中で、斎宮や遷宮制度が廃されることはあっても神宮そのものは守られてきたので、今日までつながる神宮の長い歴史があるのだが、実は存続の危機にさらされたのはその長い歴史から見ればつい最近の事に属する。

いわゆる「神道指令」である。

日本の降伏(9月2日)を受けて置かれた「連合国軍最高司令部」(GHQ)が神道指令を発したのは終戦の年(1945年)の12月15日だった。

神道指令は「神道分離令」というのが正確だが、政治と神道とを 分離せよというものだ。国家神道と軍国主義によって「現人神」視された天皇の、その祖先神たる天照大神信仰の原点が伊勢神宮であると知ったGHQは、伊勢神宮そのものを廃止したかったのである。

これに慌てたのが日本の神道界で、何とか阻止しようと考えを巡らせたのが、「伊勢神宮は宗教施設ではなく、自然そのものに神が宿るという日本人の考え方の象徴なのであり、いわば自然公園のようなものだから、廃止されたら国民からの大反発を招く」という、自然崇拝施設論だった。伊勢神宮(内宮)の参道や境内地の周辺には大人で三抱えもあるような杉の巨木が相当数林立しており、また周辺には池や照葉樹林の森もあり、宗教施設というより自然公園的な雰囲気がする。西洋の教会が樹木の生えていない市街地の真ん中の石畳の広場に屹立する石造りの大きな建物であるのとは全く対照的だ。伊勢神宮に限らず、多くの日本の神社仏閣では境内地が林か森のようになっているが、これが日本の「宗教施設」の他に例を見ない特徴だ。

 

GHQとしては1899年に制定されたハーグ条約によって、占領軍はたとえ被占領地であってもそこの文化・宗教等で伝統あるものには手を下さないことは心得ていた。

したがって、伊勢神宮を宗教施設だからという理由で廃絶しようという考えはなかったが、国民の天皇崇拝が軍国主義を助長したことは間違いないので、日本の軍国主義・全体主義の精神的支柱であったという理由からその大元締めの伊勢神宮の廃絶を目論んだのである。

しかしマッカーサーと会見した時に昭和天皇から「国民に罪はない、罰するなら私を」という真情を聞かされたり、国民の天皇への思慕の強さに、次第に、軍国主義と天皇崇拝とは必ずしも表裏一体のものではないことを理解しはじめ、これが翌年(1946年)6月17日の「天皇は極東軍事法廷で裁くことはない」というキーナン声明に現れ、結果として神宮の廃絶は沙汰止みとなった。

さらに翌年(1947年)の10月10日、同じキーナンは「天皇と実業界に戦争責任はない」との声明を発表し、天皇と神宮(それに伴って全国の神社)は完全に守られることになったのであった。


新春の京都三社と伊勢三宮(5)

2019-01-25 21:57:45 | 旅行

(4)では伊勢神宮の成立とその直前にあった崇神王権の大和への東征を述べたが、この崇神東征をもう少し詳しく述べ、さらにその年代の特定を書いておきたい。

私見では九州から大和への王権の移動すなわち東征(東遷)は二回あった。

一回目は南九州からの東征(というより移住)で、これが古事記に描かれた16年余りかかった「神武東征」。

二回目は今述べた「崇神東征」で、これは日本書紀に記されている3年余しかかからなかった東征であった。

崇神天皇のホームは北部九州で、崇神天皇は朝鮮半島南部の金海にあった伽耶国(倭人の国)を拠点にして海を渡り、北部九州の糸島半島(五十)に勢力を南下させた辰王(魏志韓伝)の後継者であった。(※故江上波夫東大教授はこの辰王を騎馬民族の首長とし、わずかな騎馬武者とともに対馬海峡を渡り、北部九州を席巻した挙句、大和へ侵入して新たな王朝を築いたとするが、辰王はけっして騎馬民族ではない。

辰王は魏志倭人伝によると中国大陸の殷王朝の末期に朝鮮半島に逃れた「箕子(キシ)」の40数代後の「準王」の後裔で、最初、北部朝鮮の楽浪から濊(ワイ)にかけての地域を支配していたが、秦末(紀元前220年頃)の混乱に乗じた衛満(エイマン)の侵入によって半島北部から南下して馬韓に身を寄せ、その後は倭人に支えられて辰韓を建国した。

しかし今度は魏の末期に大将軍・司馬懿の半島侵攻に遭い、朝鮮南部の韓の地から海を渡って糸島半島に本拠地を移した。その経緯を物語るのが崇神とその子垂仁の和風諡号である。どちらも糸島を意味する「五十」を含んでいる。

朝鮮半島で倭人の血を交えているから大陸の殷王朝の末裔と言ってもほぼ倭人となっていた崇神は、その後さらに北部九州に拡大して「大倭」(北部九州倭人連合)の棟梁となり、司馬懿の子の建国した晋王朝の支配した朝鮮半島からの海を渡っての攻撃の手が伸びるのを恐れ、北部九州から安全な大和への東征を決行した。

やや長くなってしまったが、以上が魏志倭人伝に加えて魏志韓伝をも精査して見出した二回目の東征(崇神東征)の概要である。

この東征により南九州由来の橿原王朝の後継である「武埴安彦・吾田姫」王権は滅ぼされ、神武以前に大和入りしていた「カモタケツヌミ」は京都(山城国)まで移動を余儀なくされたのである。

さてこの崇神東征の年代だが、崇神天皇は九州邪馬台国(私見では八女市)の卑弥呼が亡くなり、後継の「台与(とよ)」が後を継いだ頃に大和入りしたと考えられるので、西暦250年代だろうと思われる。

さらに、では最初の「神武東征」(私見では神武の子とされるタギシミミの移住)はというと、これは魏志倭人伝に書いてあるように「倭が大いに乱れて何年も戦いあって混乱したが、卑弥呼が擁立されてようやく収まった」とある140年代から180年代の初期の頃、すなわち140年代と考えている。

崇神王権は「大倭王権」とも言い換えられるが、それまでアマテラス大神を「同床共殿」で祭っていたのが出来なくなり、よそから来たがゆえに大和の土地神である「大和大国魂」も祭ることができなくなって「民の中から反乱を起こすものが現れる」事態を招いたわけである。

その結果として、ヤマトヒメはアマテラス大神(八咫鏡)の最良の捧持場所を求めて行き着いた先が伊勢の地であり、そこに創建されたのが伊勢神宮であった。


新春の京都三社と伊勢三宮(4)

2019-01-24 08:47:26 | 旅行

伊勢神宮の成立は(3)で書いたように、推定4世紀の半ばに垂仁天皇の皇女ヤマトヒメが現社地を見出したのだが、そもそも神宮の御祭神である天照大神(を映した鏡)をなぜ大和王権の中枢部で祭り続けなかったのかーーという疑問を起こしたことはないだろうか?


大和王権にとって最も大切な最高神が「日の神:天照大神」であるならば、王権の内部で捧持し斎きまつるほうが、より王権の神聖かつ権威存続の上で都合がよかったはずである。


それなのによりによって、ヤマトヒメは捧持しながら数か所の祭祀地を転々とした挙句、大和からは直線で東へ80キロも離れた地に祭ることになったのだろうか。


そのことの発端となった事件が、日本書紀の祟神天皇紀に見られる。


祟神天皇(第10代)の6年の条にはこう書かれている。


〈前年から国内に流行性の疾患がはやり、民が多く死んだ。そして6年になると百姓が流亡しはじめ、中には叛逆するものも現われ、天皇の権威をもってしても治めるのが困難になった。そこで天皇は早朝から夕方まで神祇を祭るのに専念した。


これより以前、天照大神と倭大国魂(神)を宮殿の内部に祭っていた。しかし、両神の神威が大変に強く、内部に祭っておくことが畏れ多くなった(適当でなくなった)ので、天照大神を皇女の一人であるトヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託し、笠縫邑にて祭らせ、また倭大国魂(やまとおおくにたま)は同じく皇女ヌナキイリヒメ(沼名城入姫)に託したが、ヌナキイリヒメは髪が抜け落ち、痩せてしまって祭ることができなかった。〉


ここでは天照大神のほかに大和の大国魂(土地の最高神)の祭られ方が記されているが、このようにいわゆる「同床共殿」(神と同じ床建物を共有すること)が忌避されるようになった様子と、トヨスキイリヒメとヌナキイリヒメの対応に雲泥の差があることが見て取れる。


前者は今日でも天皇のお住まい(皇居)の中に天照大神(を映した鏡)は祭られず、遠く伊勢神宮に祭られているので、違和感はない。


古代において天照大神の鏡(八咫鏡)に関しては、奈良時代までの天皇の宮殿は即位ごとに、また同じ天皇の時代にあっても数か所の新宮殿の遷移が普通であった。しかしそのたびに天照大神を遷座して祭ることが多大な負担となったので宮殿に同床せず、伊勢の地一箇所に永久に鎮まることが最良となったのだろう。


むしろ後者の大和(倭)という土地の最高神「倭大国魂」を祭った(あるいは祭ろうとした)祟神天皇の皇女ヌナキイリヒメが「髪落ち体痩せ」て祭ることができなかったことの方に疑問が湧く。


なぜなら、祟神天皇は大和に入った神武天皇から数えて10代も後の天皇であり、何を今さら土地神「倭大国魂」を祭ったら祭った姫が「髪落ち、体痩せ」て祭ることができなくなったのだろうか。


それ以前の10代の間、ずっと大和に王権を築いていたのであれば当然最初の神武天皇かそれまでの天皇の代に鎮められていてしかるべき「倭大国魂」のはずである。古代でも中世でも土地神を丁重に祭るのは、その土地に入って生活を築く上で必須のエチケットのようなものなのである。


それなのに10代も経過した後の祭主たるヌナキイリヒメが祭れなかったということは、この祟神王権が当時の大和にとっては外来の王権であったことを示唆してはいないだろうか。


また同天皇の7年条には、ヤマトトトヒモモソヒメと三輪山の主神「オオモノヌシ」との聖婚譚が記されているが、この話も大和王権の成立初期にとっくに祭っていてしかるべき三輪の土地神の説話でなければならないのに、何を今さらこの天皇の代の話として書かれなければならなかったのか。


これら祟神天皇の5年から7年にかけての記事から読み取れるのは、祟神天皇は当時の南九州由来の大和王権にとっては異質の外来王権であったということである。だから皇女ヌナキイリヒメや大叔母ヤマトトトヒモモソヒメが祭るのに難儀をしたり出来なかったりするのだ。


ではどこからの王権であろうか。それは祟神天皇と垂仁天皇の和風諡号に使われている「五十」(いそ)が示唆している。「五十」は仲哀天皇紀と筑前風土記逸文にある「五十迹手(いそとて)」という首長の故地である糸島半島(糸島市)で、ここを基点に北部九州全体に勢力を伸ばした王権である。


この王権の東遷こそが日本書紀に描かれた3年余で大和を征服した「大倭」(魏志倭人伝)王権で、この「大倭」(大いなる倭国)が奈良時代開始の頃に佳字化によって「大和」となったと考えている。


この新王権である祟神王権の大和への東遷により、滅ぼされたのが祟神10年条にある「武埴安彦」と「吾田姫」の王権であり、また垂仁天皇5年条にある「狭穂彦」「狭穂姫」の王権で、追い出されたのが神武天皇より先に大和葛城に入っていた「カモタケツヌミ」だろう。


カモタケツヌミ王権は葛城から、木津川中流の岡田に移動し、伏見あたりから鴨川をさかのぼって最終的には久我の山基、すなわち現在の下鴨神社(賀茂御祖神社)を中心とする京都市街地の北部に移動した(移動を余儀なくされた)のであろう。


※因みにトヨスキイリヒメは天照大神を笠縫に祭ることができたことからすると、外来王権である祟神天皇の本当の皇女ではなく、私はこのヒメこそ卑弥呼の後継者である「台与(とよ)」であろうと考えている。卑弥呼は「ひのみこ」であり、日を祭る斎主でもあったことからして後継者である台与(とよ)も当然日の神を祭ることにおいて不足はなかったと思われるのである。


トヨスキイリヒメという和風諡号からして、「とよ(豊)の城(宮殿)に入った姫」と読み取れ、これは私見での八女邪馬台国に、南から狗奴国が侵攻した際に敗れて逃れた先が今日の大分(豊国)であり、おそらく宇佐神宮の中殿の女神「ヒメノ神」はこの「トヨスキイリヒメ」だと考えてもいる


新春の京都三社と伊勢三宮(3)

2019-01-22 13:56:51 | 旅行

二日目は伊勢。

伊勢で詣でるのはもちろん伊勢神宮の内宮と外宮だが、今度のツアーは二見ヶ浦の興玉神社を参拝してから本宮に向かうという「正式参拝」だった。

興玉(おきたま)神社に祭られているのは、猿田彦大神・ウカノミタマ大神・ワタツミノ大神。猿田彦は高天原から天下ったニニギノミコトを先導して南九州(古日向)の「笠沙の宮」に案内した国津神で、「道開き」「道案内」などの功神として崇敬を集めている。

昔は伊勢神宮参拝の時には、必ずこの二見ヶ浦でみそぎをしてから出向いたものという。今日のツアーではここに詣でるだけで、その点は省略されている。興玉神社参道入り口。年に3回の「大注連縄張り神事」で有名な夫婦岩は写真の右手の海中にある。

興玉神社の参拝を済ませた後、次に向かったのは外宮。

二見浦からは6キロほど内陸に入った外宮は、丹後の与謝宮に祭られていたトヨウケノ大神を伊勢に勧請するようにとのアマテラス大神の命により当地に遷宮されたとの伝承を持つ。

伊勢神宮(内宮)の現社地は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメがアマテラス大神を祭るのによい場所を求めて諸国を転々とした後にようやく発見された(?)霊地であり、それが史実とすれば4世紀半ば頃のことで、外宮の建立はそれから100年余り後の雄略天皇の時代とされている。

いずれにしても伊勢のこの地は、陽光にまた海の幸・山の幸に恵まれ、さらに黒潮を動脈とする海上交通の要衝(敷波寄する国)でもあり、大和国家の最高神(日の神)を祭るにふさわしい土地柄だろう。

内宮はさすがに正月を過ぎたこの時期でも、一般や団体の参拝客が引きも切らずに訪れていた。

私が神宮(通常、現地では伊勢神宮と言わずにただ神宮というそうだ)を参拝するのは今度で4回目で、直近がもう25年も前になる。それでも宇治橋からの参道のたたずまいは昔とちっとも変っていないのが、ありがたい。

5年前の「式年遷宮」によって向かって左のエリアに新しい社殿が建てられていたが、ここでも参拝をするためには人の後ろに並んで待つ必要があった。

内宮本殿を参拝した後は荒祭宮(祭神:アマテラス大神の荒御魂)を経て宇治橋に戻ったが、途中で目にした「御稲御倉神社」(みしねみくら神社)は稲魂を祭る神社というより倉庫だが、いわゆる棟持ち柱のある高倉で、これは2000年前(弥生中期)という鹿児島県鹿屋市の王子遺跡で出土した高倉(住居)址と同じ構造だ。

南九州とのつながりはここでも見て取れる。(残念なことに写真を撮るのを失念していた)

宇治橋まで戻ったところで、三重県松坂市在住の親類と落ち合い、昼食時の自由散策2時間が設けられていたので、久闊を詫びつつ昼食を共にした。

 


新春の京都三社と伊勢三宮(2)

2019-01-18 13:51:50 | 旅行

(1)で詣でた三社のうち、下鴨神社(加茂御祖神社)について、当地の古地名である山城国を冠した『山城国風土記』(逸文)を取り上げて南九州とのかかわりを述べておきたい。ここは南九州の古代を考えるうえで非常に重要な所である。

この風土記には、「可茂社」(かもしゃ)という項立てがあり、それには以下のように書かれている(解釈文)。

〈可茂社(かものやしろ)、可茂と称えるいわれは、日向の曽の峰に天下った神、すなわちカモタケツヌミノミコトが、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の御前に立って、大和国の葛城山の峰に宿り、しばらくしてそこから移って山城国の岡田の賀茂に行き、さらに山代川(木津川)を下って鴨川と桂川の合流地点から北上し、久我国の北の山基に鎮まった。その時からここを可茂と言うのである。〉

カモタケツヌミが曽(南九州)の峰に天下り、その後、神武の東征に先立って大和葛城山に移り、さらに岡田の賀茂(木津川の中流)に移動し、最終的に京都の現在地を含む「久我の国」に到達したという一種の「民族移動」を描いている。

細かく見ていくと「日向の曽の峰への天下り」「神武東征に先立つ大和への移動」など、記紀には無い描写がある。これをどう解釈すべきだろうか?

まず、日向の曽の峰への天下りであるが、これは天孫降臨神話のニニギノミコトの日向高千穂への降臨と重なる書き方だが、降臨したのがカモタケツヌミだったというのである。

(1)でも述べたように、カモタケツヌミは本来カモタケツミミであり、ミミとは南九州(古日向)の異称「投馬国」の王であったから、カモタケツヌミが南九州の曽の国へやって来たこととは符合している。

またカモ(鴨)は鴨族であり、水運を行う航海系種族であるから、九州島から船出して畿内に到る事は可能であったことと符合し、またタケは「武・建」で、国生み神話で南九州の熊曽国を又の名「建日別」としていることとも符合している。

以上からカモタケツヌミが南九州(古日向)に勢力を張っていた人物であったことは認めてよい。

次に、その人物がのちの「神武東征」に先立って南九州を離れて大和国葛城地方に入っていた、という点だが、京都産業大学の学長を務めた古代史の所功教授などはこの部分について「確証はなく受け入れがたい」旨を述べている。

葛城地方には「鴨都波八重事代主神社」(祭神コトシロヌシ)や「高鴨神社」(祭神アジスキタカヒコネ)など出雲系の神々の大社があり、所教授はここからの移動については認めていて、結局、下鴨神社に祭られているカモタケツヌミ(御祖)は出雲(葛城)系だろうとしている。

しかし出雲系の神々であればなにも「鴨」を冠する必要はなく、平安時代に入ってから地名に二字の佳字(漢字)を付ける際に、上賀茂神社は鴨をやめて「賀茂」という佳字に変えているのに、なぜ下鴨神社はそうせずに「鴨」のままだったのかの説明がつかない。

おまけに下鴨神社の脇を流れ京都の中心部を潤す京都のふるさとの川と言える鴨川も「鴨」のままである。京でありながら、より雅な「賀茂川」としなかったのはなぜなのか?

ここに鮮明な「鴨」こだわりがある。その理由はカモタケツヌミは「鴨族」の王であり、しかも南九州の鴨族の王であったという歴史を忘れてはならぬということだろう。

山城国風土記の逸文はそのことをちゃんと書いていてくれた。