鴨着く島

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「押し羽振る」考(記紀点描㊶)

2022-01-26 10:02:16 | 記紀点描
【難波長柄豊崎宮の造営】

蘇我蝦夷・入鹿の誅殺(乙巳の変)後に皇極天皇の後を継いだ第36代孝徳天皇(在位645~654年)は「改新の詔」を出しているが、その中で京師(帝都)の建設も打ち出している。

それが具現化されたのが6年後(650年)の難波の「長柄豊崎宮」であるが、その帝都の正確な位置は分かっていない。

難波に王宮を築いた天皇としては仁徳天皇が名高く、その宮は「難波高津宮」で、この宮についてはおおむね現在の大阪城跡に重なる高台のようだが、その約250年も後になって建設された長柄豊崎宮の場所が分からないとは不思議である。

ただこの孝徳天皇の築いた宮について、万葉集にそれを詠んだ歌が載せられていた。これが参考になろうか。

この歌は万葉集の巻6,通し番号でいうと1062番の歌である。詠み人は田邊福麻呂という人物で、この人の歌集の中から21首を採用したというあとがきが付せられている。長歌だがさほど長いものではないので次に記載しよう。

<やすみしし わが大君の あり通ふ 難波宮は いさなとり 海片付きて 玉拾ふ ¹浜辺を近み 朝羽振る 波の音騒ぎ 夕なぎに 櫂の声聞こゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干のむた 浦渚には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響(とよ)む 見る人の 語りにすれば ²聞く人の 見まく欲りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れど飽かぬかも>

この長歌に対する短歌2種も紹介されている。 

<あり通ふ難波の宮は海近み 漁童女らが乗れる船見ゆ>
<潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴の 妻呼ぶ声は宮もとどろに>

長歌では単に「難波宮」とされているので仁徳天皇(在位推定396~427年)の「難波高津宮」と勘違いされやすい。しかし仁徳天皇時代では文字(漢字)が日本に入って来た極く初期(百済の王仁氏が持参した千字文や漢籍を最初に学んだのは応神天皇の皇子ウジノワキイラツコで、405年頃)であり、万葉仮名は生まれていなかったので、田邊福麻呂のこの歌が記録されることは有り得ない。

この長歌もだが、短歌2種に歌われている難波宮は間違いなく孝徳天皇の「長柄豊崎宮」である。その内容からは豊崎宮の位置がいかに海辺に近かったかが分かる。仁徳天皇の難波高津宮も海に近い位置にあったにしても高台であり、こんな海辺ではなかった。

それまでの宮は皇極天皇(在位642~645年)の「飛鳥板葺宮」であった。そこは大和という海に縁のない土地であり、かつ蘇我氏の専横とその誅殺という「血塗られた土地」でもあった。それを払しょくし、天皇親政の国家を打ち立てようとした孝徳天皇にとって難波は最良の土地であったのだろう(仁徳天皇も河内王朝と言われるように河内から難波を新国家の土台と考えていた。和風諡号に「徳」が共通しているのはそのためか?)。

しかしその構想は大和在住の豪族たちからすれば余りにも理想に流れ過ぎていた。皇太子であった甥の中大兄皇子(のちの天智天皇)は孝徳天皇の皇后になっていた実妹の間人(はしひと)皇后を引き連れて大和へ帰るという強硬手段に出た(653年)。孝徳天皇は翌年難波宮で崩御し、その後、下線2のように人が羨むような景色の良い長柄豊崎宮(味原宮)は打ち捨てられてしまう。

(※下線2の「味原(あじはら)」とは「あじ=鴨」の「原」ということで、宮近くの葦辺には鶴とともに多数の鴨が群れていたことを示す別称である。)

【羽振る(はふる)の意味】

ところで下線1の「朝羽振る」という用語だが、これを注記では「羽振る、は鳥が勢いよく羽を振る様で、力がみなぎる様子」と解釈し、この下線部を「海辺に近いので、朝になると鳥が羽を勢いよく震わせるように波がざわざわと音を立てるのが聞こえ、夕方に凪ぐ時は海辺近くを往く船の櫂の音が聞こえてくる」とする。

「羽振る」は実は崇神天皇10年の「武埴安彦と吾田媛の叛乱」事件の時に使われている(崇神天皇紀10年9月条)。

この叛乱の首謀者である武埴安彦と吾田媛を、私は南九州から大和に入った最初の王朝「橿原王朝」の血統と考えており、橿原王朝樹立の120年ほど後(270年頃)に北部九州から大和入りした崇神王権(「大倭」王権)への抵抗が反乱の真因だとする(詳しくは「二人目のハツクニシラス崇神王権の東征(記紀点描③)」で述べている)。

この首謀者二人は崇神軍に敗れ殺害されてしまうのだが、武埴安彦勢力が敗れるシーンに「羽振る(はふる)」が使われているのだ。

<ヒコクニブク(崇神軍の将軍)、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。その軍衆、おびえて逃ぐ。すなわち追ひて川の北に破りつ。而して(埴安軍の)首を斬ること半ばに過ぎたり。屍骨さわに溢れたり。故に、その所を名付けて「羽振苑(はふりぞの)」といふ。>(崇神紀10年9月条)

この記事によれば、ヒコクニブク(崇神)軍がまず敵の大将武埴安彦を討ち取り、その後総崩れになった埴安彦軍士を多数討ち取ったが、死体をそのまま打ち捨てていたためにそこを「羽振苑」と名付けている。

この時の「羽振る」は注記には「ハフルはもと放擲(放り出す)の意」とある。だからこの部分は「殺された兵士の沢山の死体を捨ててそのままにしておいた」という意味であり、「はふる」の転訛が「ほうる」だろうと思わせる解釈である。

この「羽振る」の原義から考え、上の項で見た長歌の下線1の「朝羽振る」に適用すると、これは「朝を放り出す」とは解釈できないだろうか。

どういうことかと言えば、波の音が耳について朝が朝ではなくなる、つまりおちおち寝ていられないという解釈ができないだろうか。要するに「朝のまどろみが捨て去られる」となろうか。「朝羽振る 波の音さわぎ」はけっして「朝に鳥が羽をばたつかせるような勢いで、波が騒がしい」という無粋な現象ではないと思うのだ。

そう捉えないと、下線2のような「海辺に近い景色(環境)の良さを聞いた人々が、ぜひ行って見たいものだと言う」という好奇心は湧かないだろう。「朝の眠りを覚ます心地よい波の音が聞こえてくる」という意味だと思うのである。千鳥や鶴の鳴き声とともに耳朶をゆする波の音は子守歌に違いない。

【押し羽振る――御宝主(みたからぬし)】

ところで、同じ崇神天皇の時代に次のような不思議な出来事があり、ここにも「羽振る」が出てくるのだ。

崇神天皇の60年7月に天皇は群臣の前で次のように言ったという。

<「武日照(たけひなてる)命の、天より持ち来れる神宝を、出雲大神の宮に蔵すといふ。これを見ま欲し。」すぐに武諸隅(たけもろすみ)を遣わして献らしむ。>(崇神紀60年7月条)

ところが出雲の当主で神宝を管理している出雲振根(いずもふるね)はたまたま筑紫(九州)に出かけており、その代わり留守を預かっていた弟の飯入根(いいいりね)が、神宝をその弟ウマシカラヒサとウカヅクヌに命じて崇神のもとへ献上した。

筑紫から帰って来た出雲振根はたいそう立腹し、代理人であった弟の飯入根を殺してしまう。それをウマシカラヒサとウカヅクヌが大和に訴えたところ、朝廷はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣して振根を誅殺する。

神宝の正統な管理者である振根が殺されたことで、出雲人は恐れをなして出雲大神を祭れなくなってしまった。

その時に朝廷に丹波の住人で氷香戸辺(ヒカトべ)というおそらく女性の首長もしくは巫女が次のように申し出た。

<己が子に小児あり。而して自然(おのずから)に言へり。

――玉菨鎮石(たまものしずめいし) 出雲人の祭る 真種の甘美(うまし)鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝 御宝主 山河の水泳る御魂 静挂かる甘美御神 底宝 御宝主――と。>

「とても小児が言えるような内容ではありません。何かが子どもに憑いてこう言わせているのでしょう。」と氷香戸辺(ヒカトべ)は結論付けている。ただ氷香戸辺(ヒカトべ)自身、その意味するところは把握できなかったようである。

この不思議な歌を岩波文庫本『日本書紀(一)』の注記では次のように解釈している。

「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御霊。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。」

注記では水底にある宝の主とは「鏡」であるという。そうすると最初の「玉菨鎮石(たまものしずめいし)」(玉のような美しい藻が生えている水底に沈んでいる石)も「鏡」ということになる。石が鏡とは何とも解せない話である。

しかもその見事な石(鏡)が「押し羽振る」(力強く活力を振るう)という状況が想像できないのである。そもそも立派な鏡を水の底に沈めるだろうか。水の底に沈めてそれを立派な神の形代として祭るとはどういうことだろうか? 鏡は青銅製だから鉄よりは錆びにくいが、それでも水の中に入れたらたちまち輝きは失われてしまうではないか。

したがってこの解釈は次のようでなければならないと思うのである。

「玉のような水草の中に沈められている石を出雲人が祭っている。その石は本物の見事な鏡さえ葬ってしまうほどの素晴らしい神なのだ。水の底にあるのは神宝中の神宝だ。山河の水が掛かるところある神霊、沈んでいる素晴らしい神。水の底にあるのは神宝中の神宝だ。」

要するに、水の底の石は本物の鏡さえ(要らないと)放り出してしまうほどの宝。鏡より大切な宝――と言っているのである。

水の底に沈められている石がどんな石なのかは不明であるが、とにかく宝の中の宝というほど価値のあるものなのだろう。

ただ石そのものなのか、それとも何か石組の中に納められている宝物なのか。

ここでふと思い出されるのが、筑紫(九州)の志賀島で見つかった「金印」である。あの金印の刻字は「漢委奴国王之印」で、漢王朝に朝貢した九州北部の奴国王が漢王朝の藩屏に連なる証として貰ったものであった。

その大切な金印がなぜ志賀島の海辺の「石囲い」の中に納められたのか。

ちゃんと「石囲い」をしたということは、奴国王が北部九州の勢力争いの中で不運にも没落し、いったんは北部九州を離れざるを得なくなったがゆえに誰にも分からないように海岸べりの、満潮になれば水没するような場所にわざと隠し、再起したらまた取りに来るつもりだったのではないか。

その奴国王こそが出雲大神ことオオナムチ(=大奴持ち=大国主)を祖神とする国王であり、北部九州における崇神王権(五十王権=大倭)との戦いに敗れ、出雲に流された一族の王だったのではないか。

崇神王権は奴国王が西暦57年に漢王朝から金印を授かったことを聞き及び、奴国王が流された出雲に金印があると睨み、その金印を差し出させるべく使者のタケモロスミを派遣したのだろう。

この派遣は出雲王権内の不和を招くという結果になったが、結局は鏡以上の「神宝」は見つからなかった。

次代の垂仁天皇時代にも天皇が物部十千根を派遣し、出雲に行って調べてさせたとあり、余ほど出雲の神宝中の神宝を手に入れたがった(垂仁紀26年8月条)ようだ。今度は物部十千根が首尾よく「これこそが神宝です」と持ち帰ったらしいが、また偽物の鏡を掴まされたのではなかったかと思われる。

鏡より大事な神宝中の神宝の金印は志賀島の海岸べりに眠っており、天明4(1784)年の発見を待たなければならなかったのである。

(※崇神60年に崇神天皇が出雲の神宝を探させた時、神宝の管理者で当主のイズモフルネは筑紫(九州)に行っていて、使者と会わなかったのだが、もしかしたらフルネは崇神からの使者派遣を察知し、「金印」を持って故地である筑紫に行き、志賀島の海中に石囲いを作り、そこに金印を隠匿したのかもしれない。)