鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

水換え後の池と菖蒲

2022-05-29 10:49:11 | 日記
昨日の午後、半年ぶりに池の水を総取り換えした。

だいぶ緑藻が濃くなってきていたのと、秋から冬にかけての落ち葉類が底に溜まり、汚泥化していたようなので、思い切って底まで総浚えをしてみた。

案の定、底の汚泥はわずかだがアンモニア臭が感じられ、これ以上気温が高くなり水温も上がって来たら、池の金魚たち5匹に悪影響が出ると思われた。

半年前はメダカも10匹くらいはいたのだが、掻き出した池の水の中にメダカの目の字もなかったのは残念だった。また底の泥溜まりの中にトンボの幼虫のヤゴがいるかもしれないとも思ったのだが、それすら見つけられなかった。

メダカにしろヤゴにしろ、彼等の生育環境にとって我が家の池はちょっと汚れ過ぎたていたのだろう。もう少し早い水ぬるむ時期に、水の半分でも換えておけばよかったと悔やまれる。

それでも透明度を増した池の水を見ると、心が和む。


金魚5匹の内、どうやらメスが2匹はいるようだ。つがいで追いかけ回す姿が見られる。

去年の秋に鉢植えだったのを池のほとりに地植えにした菖蒲が一輪咲いた。和名あやめ。同種のカキツバタも庭にあるが、向こうは水際でなくともよく育つ。紺色より白味の強い小ぶりな花をすっくと咲かせる。

庭の花ではキンギョソウが盛りをすぎ、それに代わって紫陽花が目立つようになった。またサフランモドキが思い出したように、キンギョソウの間に顔を出したりている。

花壇よりも庭では庭園樹が若葉・青葉のシーズンとあって、繁り具合が見事だ。だが何本かの木は一目で繫り過ぎているのが分かる。

池の水を母屋近くの水道から引いたホースで入れている間、時間があったので、大きくなり過ぎたマテバシイの枝おろしをしてみたが、30分ほどで軽トラック一杯もの剪定くずが出てしまった。

一輪車に3台くらいな物なら、我が家で処分できるが、こうなると専門業者を頼まねばなるまい。シルバー人材センターなら木っ葉くず類を引き取って細断し、腐葉土化する設備があるからそこに頼んでみようか。自分も会員だし、腐葉土はよく利用している口だから。

上野原遺跡の年代観

2022-05-25 09:54:23 | 古日向の謎
今朝の新聞によると、霧島市(旧国分市)の上野原にある「上野原遺跡」に関して、その年代が約1000年繰り上がった(古くなった)そうだ。

これまでは集落跡も遺構も9500年前とされていたのだが、これらが10500年前のものということになった。

そして日本はもちろん世界でも最も古い「壺型土器」はこれまで7500年前とされていたのが、これらは8500年から8800年前に繰り上がった。そうなると世界で最も古い壺よりも2500年から3000年古い時代に上野原では壺が作られていたことになる。


この二つの壺は同じ場所に対になって縦に埋められていた。口縁が円形なのと正方形なのとの違いがあり、何かの祈りのために並んで埋められたと言われている。また、下部には若干の煤がついており、火にかけられた可能性が高い。8500年前の力強い作りの完形土器であり、これだけでも世界遺産級だ。

べらぼーな話である。

しかし残念ながら、上野原遺跡は7400年前とされる「鬼界カルデラ噴火」による火砕流と火山礫・火山灰によって壊滅したのであった。

この鬼界カルデラからの噴出物による壊滅は、前からそう説明されていたのだが、その実年代が考古学会でも定まらず、6400年前とか7400年前とか遺跡の説明会などで両説が飛び交っていたのだが、ここへ来て7300年前と確定された。

その確定は放射性炭素(C14)が試料中にどのくらい残っているかで判断されるのだが、さらに加速器質量分析装置によって精密に測れるようになり、ここ2,3年の研究により、今回発表の年代観を確定したという。


2年ほど前に上野原縄文の森で貰って来たパンフレットの中の一部。タイトルは「アカホヤ火山灰(約6400年前)以前土器」となっているが、今度からは「(約7300年前)」となる。また左手の二つの角筒形と円筒形のスマートな土器は11000年前に、右手の壺型土器と鉢型土器は8500年前に書き換えられよう。(※アカホヤ火山灰とは、鬼界カルデラ噴出由来の火山灰のことで、「色が赤(オレンジ色)の灰」という意味で、南九州では普通に使われる用語である。)

今さらながら上野原遺跡をトップとする南九州各地の早期縄文遺跡・遺物の古さと稀少性には驚かされる。

県内では縄文早期あるいは草創期の土器が、かなり広い範囲で確認されている。先日このブログで紹介した「ホケノ頭遺跡」(錦江町田代鶴園)の岩本式土器群もそうだし、お隣りの宮崎県三股町でも農道の整備工事中に前平式土器群が多量に見つかっている。いずれも1万年前の土器群である。

縄文時代の土器というと歴史の教科書でまず取り上げられるのが、北陸や中部地方から発掘される「火焔型土器」だろう。土器の口縁が炎のように造形されており、見るからに手の込んだ、したがって芸術的だとされる。

しかしこの火焔型土器の時代は縄文前期から中期(6000年~4000年前)であり、この時代になると世界的には多種多量の土器が発見されており、「火焔型」は確かに珍しく特筆に値するが、年代の古さでは南九州の前平式とか岩本式・吉田式などにははるかに及ばない。

もう10年近く前になるが、東京の国立上野博物館を訪れたことがある。その際、縄文時代の展示コーナーに火焔型土器は置かれていたが、上野原遺跡出土の土器は(前平式も壺型も)展示されていなかったのには首を傾げた。(※国の重要文化財なので展示は無理にしても、レプリカさえなかった。)

一体どういうわけか? 思うに「古過ぎるから」だろう。なにしろ南九州は蛮族「クマソ・ハヤト」の居住地であったから、そんな古い時代に日本(世界)に先駆けて土器など作るはずはない――というのが考古学者の見解なのだろう。

日本国内で最古のものが発掘されても、「もっと古いのがシベリアあたりから発掘されるかもしれない」などとのたもう一流の考古学者もいるくらいだ。

「クマソ・ハヤト」地方に限らず、とにかく日本国内で世界最古の土器が作られるはずはない――という、素人から見ると何とも自虐的な見方をする学者が多いようだ。「物自体に語らせよ」というのが物質科学の基本的なテーゼではなかったのか?

日本考古学会、中国考古学会、ロシア考古学会が何と言おうとも、「今の時点では南九州の縄文早期土器群と壺型土器が世界最古だ。文句あるか!」くらいな気持ちで声を上げないと南九州の超先進的土器群は無視されるだけだ。

上野原縄文の森では来年度までに、上記の年代観を取り入れた展示に模様替えをするというから楽しみだ。

一歩進めて「南九州の1万年前の定住遺構と土器群」を世界文化遺産に登録できないかを考えたい。期待は高まる。

はじまりの旅(山辺道)

2022-05-23 15:51:14 | 邪馬台国関連
昨日の日曜日は鹿児島県大隅地方に所在する肝属郡東串良町で、NHKのど自慢があった。

東串良町の町制施行90周年を記念するイベントとして、公民館などの掲示板にポスターが張られたりしていたので楽しみにしていたが、12時20分ごろから始まった番組は、何と二組目が終わると同時に「臨時ニュース」が入り込み、中断してしまった。

その臨時ニュースというのは「福島県沖を震源とする震度5弱の地震の発生」だった。

NHKの渋谷(東京本局)のニューススタジオに画面が切り替わり、すぐに福島放送局からの画像が送られて来た。画面が小刻みに揺れ、やがて少し大きな揺れに代わったが、「震度5弱」だから決して大揺れではなかった。

その後、例によって各地の震度と、福島沖の震源地が×で示された日本地図が表示されたが、「これによる津波の心配は有りませんが、念のため海岸には近寄らないでください」というアナウンサーの言葉に、「ああ、大きな地震ではないんだ。間もなくのど自慢会場に場面が切り替わるだろう」と思っていたのだが、あに計らんや地震のニュースはそのまま続行された。

それでも地震関連のニュースはあと10分くらいなものだろうと高を括ったのだが、何と午後1時時を過ぎても流れ続け、終わってから1時のニュースでも取り上げられ、結局、東串良町でのど自慢大会は最初の二組が放映されただけで終わってしまった。

楽しみにしていた視聴者にとって「幻ののど自慢大会」になってしまったのだが、のど自慢大会が行われている大隅地方で震度5弱とかの地震が発生したのならともかく、こっちにはほとんど影響のない遠隔地の地震である。当地の鹿児島放送局による放映に切り替えられなかったのだろうか。残念至極であった。

そのままNHKを見続けていたら、「はじまりの旅」という15分の小番組を見ることになった。

奈良県大和地方の桜井市から天理市にかけて山沿いに通じている「山の辺の道」が紹介されていた。

番組の起点は桜井市にある「大神神社」であり、そこから山の辺の道を歩き、終点の天理市の「石上神宮」であった。特に興味をひかれたのが石上神宮で行われている「鎮魂行事」で、自分が毎朝唱えている「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり」というのと一緒であった。

それはそれとしていずれ書く機会があるかもしれないが、大神神社と石上神宮とを結ぶ山の辺の道の中央部に展開するのが「纏向遺跡」で、その遺跡の中心的な大古墳「箸墓古墳」が卑弥呼の墓のごとく説明されていたのには驚く。



「箸墓古墳」はたしかに「史上最大最古の前方後円墳」(全長278メートル)には違いないが、前方後円墳として最古ではない。現に、同じ纏向遺跡に散在する纏向古墳群の中には箸墓古墳より1世紀以上古い前方後円墳が3つもある。

これら小ぶりの前方後円墳(全長100メートル前後)なら卑弥呼の時代に何とか合致するが、そもそも畿内大和に卑弥呼の墓があろうはずもない。

朝鮮半島の魏の植民地である帯方郡から卑弥呼の治める邪馬台国までの行程は「1万(水行)2000里(陸行)」であり、帯方郡から九州島北部の末盧国(唐津市)まですでに水行1万里なのだから、残りは陸行の2000里で、唐津に上陸したら邪馬台国までは徒歩の行程、つまり邪馬台国は九州島内にあるほかないのだ。

「箸墓古墳」は宮内庁の比定では正式名「太市墓」で、埋葬者は書紀の記事からは「倭迹迹日百襲媛」で、第10代崇神天皇の大叔母に当たる。

この人は三輪山にます大物主神と聖婚したとされ、大物主の正体が蛇であったことに驚き、陰部(ほと)を箸で突いて亡くなったとされている。そのため葬られた墓の名が「箸墓」となったという伝承がある(崇神天皇紀10年条)。(※陰部を女陰とする説が一般だが、自分は「喉(のと)」だろうと考えている。)

私は崇神天皇の時代を300年代の初めのころと考えるので、倭迹迹日百襲媛が死んだのは320年の頃であり、そう考えると箸墓古墳もその時代の築造、つまり4世紀前半となる。この年代観が妥当だろう。






文化庁の京都への移転

2022-05-22 09:12:07 | 日本の時事風景
昨日岸田首相は京都に出張し、文化庁の京都新庁舎の竣工を祝っていた。

6,7年前の安倍首相時代に、首都機能分散の目玉政策として省庁の地方移転が推し進められようとした。

しかし徳島県に消費者庁が移転する話が進み、徳島市にパイロット事業所が設けられのだが、結局5年経っても本庁の移転にはつながらず、尻切れトンボで終わってしまったという経緯がある。

だが文化庁の移転は本格的なもので、竣工後は文化庁長官が京都に常駐するそうである。

多種多様な省庁の内で、必ずしも東京に本庁を置かなくてもよい筆頭が文化庁ということなのだろう。歴史的に見ても。文化的要素の濃い京都は文化行政にとってはむしろやりやすいのではなかろうか。

またインバウンド(観光客)もだが、世界から訪れる文化芸術のプロにとってやはり1200年を超える文化の集積を持つ京都の魅力は格別なのに違いない。

あの終戦の年に日本中の大都市に戦時国際法違反の一般市民への無差別爆撃を行ったアメリカ軍でさえも、さすがに古都である京都や奈良への爆撃はためらっている。「鬼の目にも涙」と言うべきか。いや「鬼の目にも雀の涙」か。一般市民100万からを焼き殺したのだから。

首都分散論から見ると、「成果はたった一つかよ――」となるが、まずは隗より始めよ、で、移転しやすいものから始めて実績を作ればよい。

もう何年前になるのか、おそらく50年前のことだが、茨城県のつくば市に東京にある官公庁の研究機関の移設が進められたことがあった。国土庁の国土地理院とか文部省の核融合研究施設などが移った。

目玉は筑波大学の設立であった。筑波大学の前身は東京教育大学で、東京の文京区にあったが、つくば市に移転されると筑波大学と改称された。「教育」の名辞が取れ、完全な総合大学になった。

谷田部町・豊里町・大穂町・桜村という純農村地帯が合併して新都市「つくば市」となり、今や学術研究都市として名高い。

学術を含むこのような文化的な施設の移転は、省庁の縦割り行政からは比較的自由なので移設はスムースに事が運ぶが、中央官庁の基軸である省庁の移転は難しいだろう。特に立法府の国会議員とのつながりの強い省庁はなおさらだ。

今度のコロナ禍によって「リモートワーク」が採用され始め、勤務するにあたっては必ずしも東京のオフィスに居なくてもよいというタイムリーな条件が生まれたのだが、民間はいざ知らず、公官庁で採り入れたところがあっただろうか?

コロナ禍では多くの民間人が「在宅ワーク」を強いられたのだが、公務員は「エッセンシャルワーカー」ということで、通常の勤務に近い形で電車やバス通勤をしていたが、こりゃダメだ――と思ったのは私だけではないだろう。

東京のこの公務員天国からの脱却がなければ、首都移転・分散の実行は難しかろう。

私が首都分散に関して期待しているのは「皇居の京都移転」つまり「還都(かんと)」である。今年上皇様のお住まいが新装なったので、ちょっと還都の期待が削がれたが、皇居及び付属する宮内庁が京都に移れば、京都は名実ともに「千年の古都」(実際には1200年だが…)になる。

世界で最も古いながら現代にまで続く皇室があり、歴史的文物・建造物が残る京都の魅力となると、ちょっとやそっとで語り尽くせるものではない。

この還都には歴史的に見るほかにもう一つ大きな役割がある。それは首都分散に大きくつながるということである。皇居の土地は旧千代田城跡で、言わずと知れた徳川幕藩体制の中心居城であった。そこを皇居にしたのは明治新政府の徳川つぶしの象徴でもあった。

しかしその象徴的役割はもう疾くに終わっている。皇居は京都がふさわしい。京都は、地震もそれによる大震災も、台風や大雨といった風水害も至って少ない土地柄であることからも、皇居の移転すなわち「還都」を願いたい。

都市伝説に近い話だが、2035年前後には首都直下型および南海トラフ型地震による大震災が首都圏はじめ太平洋沿岸地方を襲うという。

そんな阿鼻叫喚の中に皇居を置いて欲しくないし、東京はじめ首都圏の住民にも味わって欲しくない。今後10年の内に、移転できる施設はどんどん地方に移転すべきだし、移住可能な人は安全な地方に移住したらよい。

ロシアのウクライナ侵攻で我が国の防衛論議が盛り上がっているが、それより世界に名だたる天災国家日本が肝に銘ずべきは「震災は忘れぬうちにやって来る」ということだ。


沖縄独立論を巡って

2022-05-18 13:33:39 | 日本の時事風景
【琉球王国から沖縄県へ】

沖縄はかつて琉球王国と呼ばれたが、明治12年の「琉球処分」によって、一時的に設置された沖縄県の官選知事となった琉球王朝の19代目の尚泰王が退位し、日本に吸収合併されて解体した。

沖縄の歴史は考古学的には2万年前の保存状態の良い人骨が南部で発掘され、本土でいう旧石器時代から人の営みがあることが分かっているが、その後本土では縄文時代が始まっても、本土では見られる早期の土器は見られず、数千年のずれがあると言われている。

稲作の定着普及が見られなかったことが、本土との間で考古学年代にかなりの遅れが生じた最大の原因だろうと思われるが、文献の上でも琉球を統一的に支配した権力については「舜天王」の存在を待たなければならなかった。

もっとも舜天王と言うのは本土の武将「源為朝」のことであり、平安末期の1160年代に琉球へ渡り、運天港に上陸して現地を討伐して従え、王となったと言い伝えられているに過ぎず、為朝が支配したということの証明は不可能である。

江戸時代になって編纂された琉球の歴史書『球陽』などによれば、舜天王が統治する前に琉球では「天孫氏25代」があったとされるが、具体的な王名は記されていないので、架空だろうとされる。

そこへ行くと舜天王については、その人物は源為朝であると書かれており、まったくの造作とも言えない気がする。

この舜天王の系譜はわずか3代70年余り(1187年~1259年)で終わり、それを継いだのが天孫氏の苗裔の英祖であったが、この由緒ありそうな系譜も5代90年(1260年~1349年)で終わってしまった。

この後を継いだのが浦添の察度と言われる一族でこれはわずか2代55年(1350年~1404年)しかなかった。そしてさらに後を「第一尚氏」といわれる尚思紹が継ぎ、尚徳まで7代65年とやはり短命の王統であった。

以上の短命王統が4つ続いた後、明治の最後の王「尚泰」まで続いたのが5番目の王統「第二尚氏」であった。

第二尚氏の始祖は尚円(在位1470年~1476年)といい、舜天王の孫の義本の後裔と伝えられており、舜天王こと源為朝の琉球渡来が本当でなければ出自には疑いが持たれるところだが、なにしろ系譜上は300年近く前の岐れであってみれば系図を信じざるを得ないだろう。

この尚円から始まる琉球統一王朝が明治まで続いていたのだが、明治12(1879)年の琉球処分によって最後19代目の尚泰王が退位させられ、ここに1470年から始まった第二尚氏王統が支配する琉球王国は400年余りで滅亡し、日本に組み込まれて沖縄県が確定したのであった。
(※この項は『沖縄志』伊地知貞馨著を参照した。)

【琉球征伐】

琉球王国から沖縄県への移行の記述が長くなりすぎた感があるが、もう一つ忘れてはならないのが「琉球征伐」である。

「琉球征伐」とは江戸時代の慶長14年(1609年)に薩摩藩が行った琉球王国への侵攻である。この征伐の意味は太閤秀吉亡き後に天下を統一した徳川家康が、全国を掌握する過程で起きた事件であり、それを薩摩藩に担わせたのは中世以来の対宋対明交易に明るかったためで、他の藩では決して成し得ない水軍力があったからである(薩摩藩の兵力を消耗させる狙いもあったに違いない)。

当時の国王は第二尚氏王統7代目の尚寧(在位1589~1620年)であったが、薩摩藩はこの琉球征伐を難なく成し遂げてしまい、尚寧王は捕らえられ江戸に送られている。この時第二尚氏の王統は断絶の危機に瀕したが、琉球王国の存在は許され、その代わりに薩摩藩の監視下に置かれることになり、将軍の代替わりには慶賀使を送る義務が課せられた。

薩摩藩は琉球国を監視下に置くことで、琉球国と明・清王朝との間の交易に関与することが可能になり、大きな利得を掌握することになった。

※この利得と奄美諸島の隷属化による砂糖生産の収益とともに藩財政は豊かになったが、幕府からはそのことに目を付けられ、薩摩藩の強大化を削ぐために木曽川治水工事(お手伝い普請)(1754~1755年)が命じられ、逆に数多の借金を背負う羽目になったのは歴史の皮肉と言えよう。

【沖縄独立論】

時代は下って昭和も戦後の話になるが、「沖縄独立論」が声高に唱えられたことがあった。

嚆矢は1972年の沖縄の本土復帰(アメリカの施政権返還)の直後にはあったのだろうが、国会内でそう発言したのは沖縄県選出の衆議院議員(社会党)の上原康助(1932~2014年)であった。

1945年に日本がポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏した後、本土にもだが沖縄には膨大な米軍基地が構築された。そして沖縄は日本本土から切り離され、本土が1951年のサンフランシスコ講和により主権を回復した後も引き続きアメリカの施政権下に置かれた。

その後1972年5月15日には待ちに待った本土復帰を迎えるのだが、「核抜き本土並み米軍基地」と思っていたのが、まったく本土並みではなかったのであった。
 
これへの失望と落胆は非常に大きく、狭い沖縄本島に日本本土の4倍もの面積で米軍基地が存在し、戦闘機などの離着陸の騒音、米軍人・軍属の交通事故や性的暴行など、治外法権そのものの有様だったのだ。

上原康助は非自民・非共産政党によって連立された細川内閣(1993年~1994年)の閣僚に迎えられたが、沖縄県選出の代議士としては初めての就任だった。就任した役職は北海道開発庁・沖縄開発庁の各長官であり、まさにうってつけであった。

この時期に唱えたのが「沖縄独立論」であり、本土にある米軍基地と沖縄の米軍基地の現状を比べ、余りにも沖縄への負担が重すぎると認識したのが引き金になったようである。

1945年の4月から始まった沖縄への米軍上陸作戦は、上原の13歳という多感な心に大きな傷を残したであろうことは想像に難くない。

上原の独立論は日本からの真の独立ではなく、「一国二制度」という中国と香港のような関係になることに落ち着いた。

真の独立と言うと「琉球王国」の復活ならいわば沖縄版「王政復古」だが、昭和の民主主義の世となってはいまさら「王制」は有り得ないだろう。

といって沖縄住民投票(民意)による独立の可能性はゼロとは言えないが、その時は当然、米軍も自衛隊も沖縄を撤収することになるが、その後に自衛のための沖縄人民軍のようなものを置くのかどうか。

沖縄の歴史から言うと「非武装非同盟」がふさわしいが、果たしてそれでやって行けるのだろうか。「万国津梁」(世界の橋渡し)に徹しても現状では難しいだろう。特に中国がどう出るか、その点に尽きる。

沖縄ならうまくやれる? いっそのこと「永世中立」を宣言する?

考えさせられる問題提起である。