鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

全国戦没者追悼式2018

2018-08-16 10:09:01 | 日本の時事風景

8月15日正午、全国戦没者追悼式が開催された。

毎年8月15日に日本武道館で催されるようになったのは昭和40年からで、その前年(昭和39年)は靖国神社で、またその前年(昭和38年)は日比谷公会堂で開かれた。

日比谷公会堂の以前には2回催されている。一回目は昭和27年の5月、二回目は昭和34年の3月である。

第一回と第二回はこのように連続しておらず、どうしてなのか首をかしげるが、場所はいずれも新宿御苑であったという。

その二回を含めると、政府主催の全国戦没者追悼式は今年が58回目である。

無論、各地では小規模な追悼式や慰霊祭などが戦後間もなくから始まっていたが、政府としては以上のように昭和27年5月のが正式な主催であった。

というのも、この27年5月というのは、前月の4月28日に昭和26年9月8日に調印された「サンフランシスコ平和条約及び日米安保条約」が発効(効力開始)されたことがある。

日本が自国民の戦没者を追悼するのは我々の感覚からすれば当然のことだが、アメリカからすれば追悼式に名を借りて「アメリカ憎し。亡くなった皆さんの仇をとってやりたい」などというニュアンスで開催されたらまずい。

だが、日米安保が効力を発揮した昭和27年5月以降なら堂々たる米軍基地支配によって「二度と歯向かわない」ということが保証されたので、日本政府が恐る恐るアメリカにお伺いを立てて許可をもらったのだろう。

ところがそれも一回で終わり、二回目は何と7年後の昭和34年だった。この年は皇太子ご成婚(現・平成天皇ご夫妻)があり、また日米間の和やかムードも醸成されたので開催にこぎつけたのだろう。

以上の二回の式典が27年・34年と間延びになっていることを忖度してみると、やはり日本政府のアメリカへの遠慮というか及び腰の姿勢がはっきりわかる。

昭和38年(1963年)に初めて終戦の日に日比谷公会堂で開催されたのを皮切りにその後はずっと8月15日だが、武道館での開催は40年(1965年)からだ。

武道館が完成したのは東京オリンピックに合わせてだから昭和39年で、この年はまだ武道館を使えなかった(おそらく8月15日にはすでに落成はしていただろうが、こけら落としに追悼式典は無理だったろう)。

この昭和39年(1964年)8月15日の追悼式は何と靖国神社で開かれている。アメリカもこの頃はもう目をつぶったのだろうか?(中国などからの横槍が入ったとも聞いていない。古き良き時代!)

そして今日につながる日本武道館での追悼式。武道館で行われるのは昭和27年(第一回)・34年(第二回)・38年(第三回)・39年(第四回)を除く第五回からで、今回で54回目となる。

 

以上が全国戦没者追悼式の略史。戦後間もなくから始まっていたのだろうと思っていた人々は、自分も含めて蒙が開かれたかもしれない。

考えてみれば戦後まもなくは米軍の占領下にあり、国を挙げての追悼式はままならなかったのだ。

占領が終わっても日米安保・日米地位協定下のアメリカへの過剰な忖度は今に続く。

天皇陛下は「戦後長きにわたり続く平和は国民のたゆみない努力のたまもの」という風に述べられた。この国民の努力・平和への願いに忖度することこそが日本の政治家でなければなるまい(アメリカにではなく)。


今岳神社の謎

2018-08-11 14:12:31 | 鹿児島古代史の謎

 枕崎に観光に行ったついでに、・・・というか、以前から気にかけていた場所を訪れた。

 それは枕崎市の北東にそびえる下山岳(416m)の麓に鎮座する「今岳神社」である。

 この神社の社殿自体は、約440年前の天正年間に当地が「鹿籠郷」(今の枕崎市)と呼ばれていた時代の領主・喜入氏5代目の季久が、下山岳山頂にまつられていた祭神をここへ勧請したものだ。

 その理由はよくある「山頂では祭式に事欠く場合があり、行き来(管理)のしやすい麓に社殿を建立して祭る」ことで、山頂の奥宮に対する「里宮」の発想であった。

 鹿籠の領主なら「鹿籠氏」になりそうなものだが、5代目の喜入季久の時に武功があって島津氏から鹿籠郷を与えられ、それ以前すでに喜入郷を領有していたために喜入氏となっていたのを、名前の基となった喜入郷を返納して鹿籠郷に移ったので姓はそのまま喜入を捨てずに幕末に到ったという経緯がある。

 さて、その枕崎の喜入氏が440年ほど前にここに社殿を建立して祭ったという今岳神社の御祭神が意外な人なのだ。

 その名は「建小広国押盾命」(たけおひろくにおしたてのみこと)という聞きなれない神様で、実は第28代天皇の宣化天皇。

 宣化天皇がなぜここに祭られているのかーーこれが今岳神社の由来を知った時の驚きであった。

 神社の由緒によるとこうである。

 

 宣化天皇は西国巡検で船で当地にやってきたが、沖に流されてとある島に着いた。その島民は畏れ多いとして天皇を本土にお連れ申した。その上陸地が枕崎中心部から東へ5キロほどの「板敷の唐浜」であった。

 天皇はよき所と定められて板敷と下山岳の中間にある「俵積田」という地に御殿(木花御殿)を建てて滞在された。しかしやがて亡くなったので遺体を下山岳の山頂に納め、当地の人々の祭る霊山になった。

 その後、約千年余り経って、上記の喜入季久が新たに社殿を麓に建てて崇敬の社とした。

 

 というもので、宣化天皇が当地に来たという伝説には驚きを隠せなかった。なぜなら古事記は無論のこと日本書紀の宣化天皇紀にもそれを裏付ける記事は皆無だからだ。

 古事記には、同じ継体天皇の皇子で兄にあたる安閑天皇(第27代。西暦533年頃、在位2年)の没年と御陵の両方を記すが、弟である宣化天皇(西暦535年頃。在位4年)については没年も御陵もどちらも記していない。

 ところが不可解なことに日本書紀では宣化天皇について、「檜隈廬入野宮にて崩御。時に御年73歳。冬11月、天皇を大和国の身狭桃花鳥坂上陵に葬しまつる」と実に具体的に記されている。

 古事記の方が書き忘れたのかーーと最初はそう思ったが、他のほとんどの天皇について、まして前代の兄の安閑天皇にさえある没年と御陵の記載が次代の天皇にないのはちょっと考えられないのではないか。

 そう思ったときにこの今岳神社のことを知り、どうしても現地を見てみたかったのである。

 今岳神社は予想よりはるかに小綺麗で堂々とした造りであった。もっとも今のはコンクリート製だが・・・。

 鳥居も階段もしっかりと造られ、境内も雑草など生えておらず、すがすがしい趣きである。

 振り返ると鳥居越しには青々とした茶畑が広がり、その向こうに海がわずかに霞んで見える。

 地元の尊崇が強いのだろうなと思われる神社だ。

 板敷の浜からは直線距離にして5キロほどだろうか、下山岳の特徴ある山容は海浜からも即座にそれと分かる。そういう山の頂は霊地(聖地)にふさわしく、宣化天皇云々は別にしても、そんな場所に偉大な統治者の霊廟が営まれることは往々にしてあることだ。

 古事記に没年も御廟も記されないのはそれなりの理由があると考えてみたい。

 当時の朝鮮半島南部は、倭国の一つである任那(伽耶国)が新羅によって侵攻されつつあった。大伴狭手彦が将軍となって任那を救援に行ったのもこの天皇の時代だった。この朝鮮半島南部の動乱との関係で何かあったのかもしれない。

 また、次代の欽明天皇(継体天皇の第3皇子で、宣化天皇の弟とされる)との間に何らかの諍(いさかい)いのようなものがあり、それとの関係かもーーと思ったりもする。

 天皇が九州南部にやってくるとすれば、以上の二点が原因として浮かび上がる。要するに天皇ともあろう人がここで命を落とすのは俗に言う「客死」(逃避・遠流)で、尋常なことではない。

 地元の語り伝えは今風の「観光宣伝事業」とは全く違う。存外な真実を含んでいることが多い。もう少し調べを進めてみよう。


2018長崎平和祈念式典

2018-08-09 13:44:47 | 日本の時事風景

 今日は広島に続いて原爆を投下された長崎市で平和祈念式典が開催された。

 投下時刻の11時2分の前には長崎での慰霊祭に欠かせない「献水の儀」が行われた。これは被爆して息も絶え絶えの多くの人々が幽霊のように歩きながら水を求めていた事実に基づいている。今年も5か所からの清水が献納された。

 爆心地に近い山里小学校の生徒が永井博士の作詞した「あの子」を合唱したが、これも恒例である。

 11時2分に一分間の黙とうのあと、長崎市長の「平和宣言」、続いて被爆者代表の86歳の田中さんという人、そして安倍首相と続き、最後に今年初めての登場となった国連事務総長の追悼のあいさつがあった。

 長崎市長も被爆者代表もそして国連事務総長もすべて昨年国連において決議された「核兵器禁止条約」の早期の批准を日本に求めていたが、安倍首相は広島と同じく「唯一の戦争被爆国である日本は、核保有国と非保有国との間の橋渡しになって核のない世界へ主導的な役割を果たす」と述べていたにもかかわらず、アメリカの核のもとに安全を保障されているため、結局のところこれは単なるリップサービスに過ぎないことは祈念式典参加者すべてがお見通しだ。

 このことは国連事務総長も残念に思っているようで、昨日のNHKのニュース番組で事務総長にインタビューする場面があったが、事務総長は「日本の核なき平和な世界への貢献は非常に大きいし、期待されている」と昨年のノーベル平和賞受賞団体「Ican」の代表と同じ見解を述べていた。

 この日本のアメリカへの忖度(遠慮)は日米安全保障条約・日米地位協定に起因しているのであるから、本当に「保有国と非保有国との間の橋渡し」をするのであれば、アメリカの核の傘の下から出て、堂々と「非核三原則」を金字塔に、世界に向かって「核兵器廃絶・不使用」を訴えなければ意味がない。

 せっかく戦後73年の間世界に向かって一発の銃弾も(もちろんミサイルも)発しないという空前絶後の歴史を重ねながら、何とももったいない話なのだ。

 世界はこの日本の徹底した平和主義を非常に評価しており、日本が対米従属を止めたら必ずや大きく称賛されるだろう。武力を使わないで安全を確保してくれる平和国家日本が求められているのだ。

 アメリカファーストに洗脳された安保維持論者(またはアメリカ依存症患者)は「そんなことをしたら、中国が、ロシアが、それどころか北朝鮮さえ小馬鹿にしてミサイルを発射してくる」などと、依存症患者らしいことを言うに違いないが、事は反対だろう。

 アメリカの影が無くなったら、多くの国々(中国もロシアも北朝鮮も含めて)は日本に対して「平和への使者」的なエールを送ってくるだろう。

 その時むしろアメリカの方が心配に思うかもしれない。「居丈高になった日本が原爆や大都市への無差別攻撃をしたアメリカ憎しと、北朝鮮のように核武装をしてアメリカへ仕返しの攻撃をしてくるのではないか」と。

 これはもちろん杞憂だが、何にしても日米安保はトランプ自身が言うように「アメリカが一方的に日本を守らなければならない相互条約はおかしい」のだ。

 もう冷戦は過去のもの。アメリカでさえ冷戦思考はとっくに捨てているのに、「日米安保がなければ、共産中国が、社会主義ロシアが攻めてくる。安全が脅かされる」とおうむ返しのことしか言えないアメリカ依存症患者よ哀れ。

 

 


2018広島平和記念式典

2018-08-07 09:14:18 | 日本の時事風景

 73年前の8月6日月曜日午前8時15分、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が広島の上空で炸裂した。

 数万度の熱戦と爆風が行きかう人々を直撃し、ほぼ一瞬にして8万、24時間以内に合計12~4万の人命が失われた。

 

さながらの地獄絵がそこに現出した。

 「日本がすぐにポツダム宣言を受諾しなかったからこんな目にあった」「日本の軍国主義に対する鉄拳だったのだ」「そもそも勝てるわけのない大国アメリカ相手に戦争なんかするからこうなった」

 戦後はこのように原爆を落とされたのはすべて日本側の落ち度であったかのように言われた。

 アメリカは悪くはないのか? という疑問がずーっと後回しにされたのは、まず被害の程度が想像を絶する規模であったことへの心の整合性を得るための猶予期間だったこともあるが、早い話が占領期のアメリカ側の日本に対する口封じ(検閲)だったのだ。

 アメリカは口を開けば「原爆を落としたのは、アメリカが日本本土への軍事的上陸を敢行した場合、双方に途方もない犠牲者が出るであろうことを回避するために、早く終戦に持ち込むための作戦であった」(から、原爆を投下したのは間違っていない)と言う。

 嘘もいい加減にしろ。まず、ソ連との密約「ヤルタ協定」によってソ連軍参戦を容認していたのだが、もともとソ連軍がそこまでは到底できないだろうと踏んでいた。密約に従ってソ連が日本と結んでいた不可侵条約を破れば日本も戦争遂行をあきらめるだろうから、実質的にソ連軍の出番はなくなるーーとの読みがあった。

 ところが意外にも早くソ連軍が満州方面へ集結してきたので、ソ連軍が満州を手中に収めたあと、その勢いで日本本土まで上陸されたらたまらないと焦ったアメリカが「それならそうされないうちに最終兵器でアメリカの軍事力を誇示し、日本を降伏させ、ソ連の野望を食い止めなければならぬ」と原爆を2発も落としたのだ。

 もう一つの大きなアメリカの悪業は戦時国際法によって一般人(民間人=非戦闘員)への攻撃は許されていないにもかかわらず、そんなことは屁の河童で、沖縄でもそうだったが、非戦闘員への殺戮が行われたことである。

 当時のアメリカ人の多くは次のような戦争スローガンを鵜呑みにしていた。

 「良い日本人は、死んだ日本人である」

 これは「日本人なら誰を殺しても構わない」ということで、起源は

 「良いインディアンは、死んだインディアンである」

 とのスローガンで、インディアンを追い詰めていった保安官ワイアットアープの時代にまでさかのぼる。

 これが原爆投下の彼らの「基本理念」だった。日本人なら誰を殺してもよかったのだ。

 ただ、日本人でもクリスチャンは人間扱いされたらしい。

 2発の原爆のうち二回目のプルトニウム型「ファットマン」は長崎に落とされたのだが、ちょうど浦上天主堂では多数の信者たちが教会に集ってミサの最中だった。そこに壊滅的被害を与えてしまったのをのちに気づいたアメリカ側は、せめて天主堂の再建をさせてくれないか、と長崎に申し出たのだが、断られた。

 長崎にしてみれば、クリスチャンも仏教徒も神道主義者も同じ人間であるのにクリスチャンだけを特別に人間扱いにするわけにはいかなかったのだろう。当たり前のことである。

 その後も浦上天主堂は広島の原爆ドームのような象徴的な姿のままだったが、20年位前だったか老朽化を理由に再建された。その時にアメリカ側から寄付でもあったのかどうかは不明だ。

 たぶんなかっただろう。もしあれば、広島まで来たオバマ大統領が同様の被害を受けた長崎まで来ないわけがない。

 アメリカにとって同じクリスチャンを多数殺害した長崎は「鬼門」なのである。

 日本人は、戦後アメリカから物質的な援助はもとより、「自由」の重要性を大いに学ばせてもらったと感謝する人も多いが、これも眉唾な話で、今のエピソードでもわかるように、基本的には「クリスチャン・白人」以外の人間は貶められてきた。黒人が最もよい例だ。ベトナム戦争への従軍を経て戦後25年目くらいにしてやっと黒人にも白人同様の「権利」が与えられたに過ぎない。

 今回の安倍総理のあいさつには被爆者や被爆2世の人もその素気のなさに憤慨していたようだ。何しろ国連決議である「核兵器禁止条約」の採決の場に参加していないからもちろん批准もなく、言及することもなかった。

 あまつさえ「核兵器保有国と非保有国との間に立ち、主導的な役割を果たします」と言ったときは呆れてしまった。だったらせめて核兵器禁止条約に署名して唯一の被ばく国の矜持を示したらどうなんだ。

 そうできないのは「アメリカの核の下に保護されているから」なのだろう。その根拠は「日米安保」である。これがなくなったら、「北朝鮮がミサイルを打ってくる」「中国が尖閣諸島を皮切りに南西諸島を手中に収める。そして沖縄も・・・」とアメリカ依存症の連中の常套文句が飛んでくる。

 こういった連中はこれまで書いたりそう言ってきた手前、引くに引けないのだ。たぶんトランプの大統領就任はあり得ないと言ってきた連中でもある。情けない話だ。トランプよりよほど「アメリカ第一主義」に染まってしまっている日本人。憐れむべし。

 


高屋山上陵

2018-08-03 17:00:06 | おおすみの風景

  日本書紀にはいわゆる「天孫の三山陵」の名称が記されている。

 天孫とは天皇家の祖先のことで、初代は高天原から地上の「高千穂のクシフルの峰」に天降った「ニニギノミコト」、その子である二代目は「ヒコホホデミノノミコト」、三代目は「ウガヤフキアエズノミコト」で、その子の4代目が神武天皇である。

 日本書紀は初代のニニギノミコトは「久しくましまして、かむさり(崩御)ましぬ。因って、筑紫の日向の可愛(えの)山陵に葬(かく)しまつる。」と書く。可愛山陵とは薩摩川内市の独立丘上に鎮座する新田神社奥の墳墓であるという。

 二代目のヒコホホデミノミコトについては「久しくましまして、かむさり(崩御)ましぬ。日向の高屋山上陵に葬(かく)しまつる。」と書く。この日向の高屋山上陵は鹿児島空港のある溝辺町にあり、独立峰の山頂に墓域があるという。

 三代目のウガヤフキアエズノミコトの墳墓は「久しくましまして、西洲の宮にかむあがりましぬ。因って、日向の吾平山上陵に葬(かく)しまつる。」と書く。吾平は現在の鹿屋市吾平町で、町の中心部から2キロほど姶良川をさかのぼった清流の地に山陵がある。山陵といっても吾平山上陵は洞窟の中にあるのが、前の二山上陵と全く違うところだ。

 ところでここに出てくる「日向」とは古日向のことで、奈良朝以前では現在の鹿児島県と宮崎県とを併せた領域であった。したがって天孫三代の御陵はすべて古日向にあった。この三山陵の治定をめぐっては宮崎県と鹿児島県で相論があり、どちらも譲らなかったが明治7年当時の内務卿大久保利通の最終決定により現在の地に確定された。

 今日は二代目のヒコホホデミノミコトの御陵に行ってみた。

(溝辺から蒲生町に抜ける県道に架る「橋ノ口橋」から望む「高屋山上陵」。

完全な独立峰で、古代人の「聖なる山」だったのだろう。)

 場所は鹿児島空港前から北西に延びる県道を4キロほど行き、九州高速道路をくぐってすぐの右手だ。

 駐車場は整備されていないが県道の右手が凹状になっているので5、6台は停められる。

 陵域の中は広く、石でできた「高屋山上陵」という看板からは長い石段となっている。数えてみると鳥居のある遥拝所まで210段あまりあった。結構な運動になる。

 御陵であるから鳥居があるといっても神社ではないので、柏手は打たず、一礼だけするのみ。

 管理事務所に詰めていた人に聞くと、例年3月25日頃に「墓前祭」をするという。一般人の参列はなく、ヒコホホデミノミコトを祭神とする最大の神社である鹿児島神宮宮司など関係者だけによるお祭りだそうだ。

 帰りに高屋山上陵から西に1キロ半余り行ったところにある「鷹屋神社」を訪れたらちょうど宮司さんが境内の草払いをしているところだった。説明によると祭神はヒコホホデミノミコトで、今から600年ほど前に高屋山上陵のすぐ南にある「神割岡」に鎮座してあったのをここに遷したとのことであった。

 神割岡は今は「愛郷平和公園」という名称になり、戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・太平洋戦争で亡くなった当地(大川内)出身の軍人たちを祭る聖地になっていた。

 この神割岡はもしかしたらすぐ北にそびえる高屋山上陵を祭る場所だったのではあるまいか。もっとも、現在の高屋山上陵は明治7年の治定なので、それ以前は何と呼んでいたのか不明だが、とにかく何か重大な死者を祭る墓域であったことは間違いないだろう。

 古事記ではヒコホホデミノミコトは「高千穂宮に5百80歳(年)ましましき」としてあり、これは一人のホホデミではなく、何十代か続いた言わば「ホホデミ王朝」の継続年数だったという解釈もできる。それだったら鹿児島県や宮崎県の古日向領域に数か所の宮や墳墓があってもおかしくはない。

 日本書紀ではすべてこの三代の治世を「久しくましまして」と表現しており、一代限りではなかったことを示唆しているのかもしれない。