鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

続・「岩戸」考

2019-08-27 14:18:11 | 古日向論

「岩戸」でもう一つ思い出すのが八女市にある「岩戸山古墳」である。

この古墳は527年に大和王府軍と戦った筑紫の君「磐井」の寿陵(生前墓)としてあまりにも有名だが、磐井自身が死後にこの墓に葬られるつもりで増築したのだが、その実、肝心の彼はここには眠っていない。

日本書紀の「継体天皇紀」の記述によると、北部九州を支配下に置いていた磐井が朝鮮半島の百済を救援に来た王府軍と「御井郡」(福岡県久留米市界隈)で戦いを交え、相当な激戦ののち磐井が切られて終戦となった。息子の葛子は死罪を逃れようとして領有する「粕屋の屯倉」を王府に献上したーーとある。

これによると磐井は斬殺されたわけで、王府への叛逆者の遺体がそのまま生前墓の岩戸山古墳に葬られることなど万が一にもあり得ないことは常識である。首は王府軍の手によって王府へ送られ、胴体以下は「八つ裂き」にされて、そこかしこに埋められたはずである。

また、「筑後国風土記逸文」によると、筑紫の君磐井の寿陵(生前墓)があるとし、その形状などの特徴を紹介したあと、継体天皇の世に叛乱を起こし官軍と干戈を交えたが、敵わぬとみて「独り自ら豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)にのがれ、南山の険しい峰々の曲(くま)に終わりき。」ーーと記す。

風土記は記紀撰修の少し後に諸国に編纂命令が出され、730年代には主だった国々から王府へ提出されたのだが、筑後国のは散逸して「逸文」という形でしか残らなかった。残されたものがその当時のままで全く改変されていないという保証は必ずしもないし、日本書紀の記す「磐井の最期」と比べると大きな違いもある。

だが、その最期が「被殺」と「行方不明」とでは確かに大きな違いではあるものの、共通しているのは、磐井は王府軍に敗れて自分の本拠地である八女(上妻県=かみつめのあがた)からはいなくなったということである。

そうなると磐井は自ら造った寿陵たる「岩戸山古墳」の被葬者でないことは明らかであろう。

寿陵としての造り主が葬られていないのに、なぜ岩戸山古墳は廃棄されなかったのだろうか。焦点はそこに移る。(※ただし、筑後国風土記逸文が記すように、磐井が行方不明になったのを受けて、頭に来た官軍兵士が寿陵の一角に置かれていた石人や石馬の手や頭を打ち壊すことはしている。)

常識から考えると叛逆者の生前墓であれば石人・石馬の破壊などというみみっちいことより墳墓そのものを崩して使えなくするはずであろうが、そのままにされた理由が分からない。謎なのである。

そこでクローズアップされるのが岩戸山古墳の後円部に祭られていた「伊勢神社」である。

古来、岩戸山古墳の上にはこの伊勢神社はじめ数社(天神社・八幡社など)が祭られたという。

また「岩戸山」なる名称は江戸時代のいつの頃からかあったそうで、この名称の由来がよく分かっていない。

地名であれば、今この古墳の後円部に接して「吉田大神宮」というアマテラス大神を主祭神とする神社があるように「吉田」が字名なので「吉田山古墳」などとしたほうが考古学上は正解だろう。

ところが「岩戸山」である。この「岩戸」から連想されるのは、後円部に祭られていた伊勢神社で、御祭神である天照大神の例の「岩戸隠れ」が想起される。

伊勢神社がいつから祭られていたのか確認はできないが、おそらく磐井の時代にはそれ相応の祭られ方をしていた神(被葬者)の故に、官軍もおいそれと古墳を破壊するわけにはいかなかったと見たい。

伊勢神社と言えば「アマテラス大神またはオオヒルメムチ」である。

魏志倭人伝を解釈し、私見で邪馬台国(女王国)を八女と比定したのだが、西暦247年に卑弥呼が死んで「大きな塚(径百余歩)を築き、が百人も殉死した」と書かれていた「卑弥呼の墓」を探しあぐねていたのだが、灯台下暗しで、この岩戸山古墳こそが卑弥呼の墓ではないかと思い至った。

卑弥呼は「日御子(日の巫女)」であろうというのが私の解釈で、そうであれば伊勢神宮の「アマテラス日の大神」すなわち「オオヒルメムチ」ということであり、後円部に伊勢神社が祭られたのは、そこに卑弥呼が埋葬されているからだろう。ずばり卑弥呼であるという伝承はなくても、非常に大切な神様が眠っている(お隠れになっている)から汚してはいけない、というような言い伝えはあったものと思われれる。

ただ、247年の当時に今見るような前方後円墳はなかったはずで、後円部だけ、つまり円墳であったろう。

磐井もそのことを知っていて、寿陵を築いたと言いながら後円部はそのままに、前方部だけを付け足して今見るような全長170メートルほどの「岩戸山古墳」としたのではないだろうか。

そして自分が死んだ暁には、自分の築いた前方部のしかるべき位置に石槨を作り、そこに石棺を置くように指示したのではなかろうか。

「天円」を象徴とする卑弥呼(オオヒルメムチ)と「地方」を象徴とする磐井とが同じ墳墓に祭られることで、かっては邪馬台国の中心地であった八女(筑後国上妻郡)であり、今は筑紫の君たる「磐井王家」の永遠の王都である八女の繁栄を願うのにこれほど舞台装置の整った場所は他にはないだろうーー王府に逆らうことを必ずしも望んではいなかった磐井だったが、ついに王府軍に敗れ去った。

「岩戸山」という名称は、「日御子(日の巫女)」がお隠れになっているがゆえに後世になって名付けられた名で、その名にふさわしい「日の巫女」こそ八女邪馬台国の卑弥呼女王その人に違いないと考えたい。


「岩戸」考

2019-08-26 11:00:45 | 古日向論

8月4日のブログ「吾平山上陵の謎」では、鹿屋市吾平町にある吾平山上陵(正確にはアイラ・ヤマノウエノ・ミササギだが、通常アイラ・サンリョウと言っている)が「洞窟陵」なのになぜ「山上陵」と呼ぶのかーーについて書いてみた。

自分の結論としては、岩窟を御陵としたのは南九州(古日向=投馬国)を襲った天変地異のためであり、天変地異を「スサノヲの乱暴狼藉」に喩えると、あのアマテラス大神をして「岩戸隠れ」をさせた神話を想起させる。

つまり南九州ウガヤ王朝最後の王は天変地異のさなかに亡くなり、本来なら塚を築いて埋葬し祭祀されるところをそれがかなわず、天災の影響を受けない洞窟を御陵としたのではないかということである。

幕末の慶応3年に洞窟内に入って調査した国学者の後醍院真柱は、「この御陵は考えてみれば山上陵ではないが、後背の国見山系から連続する峰々の重なった内にあり、また地元の姶良(吾平)村の中心から見ればはるかに高い所にあるので、山上と言ったのに違いない」と『神代山陵志 吾平山上陵』に書いている。

後醍院真柱は吾平山上陵たる洞窟内で実際に塚と祭祀壇があり、その土中の5メートル×9メートルほどの広さにびっしりと石が敷き詰められているのを確認し「神代の御陵に違いない」と確信したそうだ。(※後醍院真柱の調査については『吾平町誌・上巻』を参照した。)

後醍院真柱の説も一理はあるが、日本書紀にある「山上陵」というネーミングは霧島市溝辺町にある「高屋山上陵」が、日本書紀に「高千穂山の西にある」という記述からまず山上陵と言われ、吾平のこの洞窟陵もそれに倣って吾平山上陵とされたのではないかと思われる。記紀撰修が行われた平城京から撰修者がわざわざ確認に来るには余りにも遠方であるので、そこは致し方なかったと考えるほかない。

さて岩窟は古来「岩戸」と呼ばれるのが一般であった。鹿屋市大姶良には「岩戸神社」があるが、この「岩戸」は岩戸神社の奥宮に相当する山中に屹立する数枚の巨岩群がそれである。

ただ、この奥宮たる「岩戸」は洞窟ではなく、巨岩と巨岩が斜面にそれぞれもたれかかっていて、その隙間は人間がやっと通り抜けられるくらいしかなく、「悪人は通れない」などと験を担がれたりしているので、それなりの信仰空間を醸し出している。

岩戸神社(里宮)の御祭神は「アメノヒワシノミコト」で、忌部氏の祖神であるから「天の岩戸隠れ神話」との関連はない。

「天の岩戸隠れ神話」と言えば、何と言ってもそのものずばりの宮崎県高千穂町に存在する「天岩戸神社」だろう。

高千穂町は若い時に一度行ったきり。さしたる研究意欲もなかった頃なので天岩戸神社よりは麓の高千穂神社で有名な神楽を見るくらいなことで通り過ぎたのであるが、今はインターネットの検索で神社自身のホームページを見ることができる。

それによると天岩戸神社には「西本宮」と「東本宮」とがあり、本来の「天の岩戸」を祭っているのは「西本宮」だそうである。本宮と言っても社殿があるのではなく、巨岩の中に穿たれた洞窟を拝する「遥拝所」である。

これが本来の天岩戸神社であり、御祭神はオオヒルメムチ。また東本宮は元は「氏神社」だったそうで、こちらはアマテラス大神を祭っている。もともとは別々の神社だったのだが、統合されて現在の「天岩戸神社」になったようだ。

ここ高千穂町では毎年の初冬になると「夜神楽」が長期間催され、その中で「岩戸明け」神楽も奉納される。生きている神話と言ってもよい風物詩である。

吾平町の吾平山上陵でも「天変地異による岩戸隠れから再びよみがえる」という神楽劇のような物があってもいいかもしれない・・・「天災大国日本」を元気づけるためにも。


専守防衛力を有する永世中立国へ(4)

2019-08-20 08:44:49 | 専守防衛力を有する永世中立国

永世中立国といえば何と言ってもまずスイスが挙げられる。

スイスのほかにはベルギーとオーストリア、そして中米のコスタリカが現在のところ国際的に認められた永世中立国である。

それぞれの国が永世中立国になった歴史的背景について、ウェブから[www.y-history.net]というホームページに行き当たり、簡潔にして要を得た内容だったので参照させてもらった。以下に国別に要点を書きだしてみる。

 

1、スイス連邦

1815年のウィーン議定書により、永世中立国となった。

スイス憲法に「永世中立国」とは謳っていない。

軍事力あり(徴兵制によって維持)。

NATO(北大西洋条約機構)にもUN(ヨーロッパ連合)にも属していない。

国際連合にも2001年まで加盟していなかった。

 

2、ベルギー王国

1839年に永世中立となった。

憲法上の規定なし。

軍事力あり(志願制か徴兵制かは不明)。

国際連合、NATO、UNのいずれにも参加している。

 

3、オーストリア共和国

1955年に英米仏ソとの「オーストリア国家条約」によって主権回復が認められ、翌年、永世中立国となった。

「永世中立に関する連邦憲法法規」(中立法)を制定している。

軍事力あり(志願制か徴兵制かは不明)。

国際連合とUNには加盟しているが、NATOには参加していない。

 

4、コスタリカ共和国

1983年に永世中立を宣言した。

軍事力なし(1948年に憲法で常備軍を廃止している)。ただし非常時の徴兵を憲法で定めている。

国際連合には設立当初から加盟している。

 

以上が現在の永世中立国4か国の概要だが、歴史的経緯も違えば条件も各々異なっている。

スイスのようについ最近(2001年)まで、戦後の国連にさえ参加していなかった国もあれば、ベルギーのように集団的自衛権によるNATOにも国連にも加盟している国もあれば、枢軸国側の国として中華民国を除く「戦勝国かつ安全保障理常任事国英米仏ソ」によって慫慂されて永世中立国になった国もある。

徹底していると言えば徹底しているのがコスタリカで、この国はかっての日本社会党の主張のように「非武装」で永世中立国になっている(ただ非常事態には徴兵があり、国連には加盟している)。

まさに4者4様であり、永世中立国になる要件は、軍隊を持つ持たぬにかかわりなく、要するに「二国間軍事同盟」だけは持たないということに尽きる。

日本における二国間軍事同盟はもちろん「日米安全保障条約」である。

日本占領時代の早い時期にマッカーサーが「日本はスイスのようになればよい」と言ったそうだが、朝鮮動乱による駐留米軍の大量投入があり、「日本もこの動乱へ軍人を出動して欲しい」と吉田首相に申し出たことから見て、その考えは現実から遠のいてしまったようだ。

その後、占領時代を終わりにするはずの「サンフランシスコ平和条約」の締結の時(全権は吉田茂)に、同時に「日米安保(旧)」が結ばれ、10年後(1960年)には岸信介首相が改定「日米安保」を(何か裏があったと思うのだが)締結し、さらに10年後(1970年)には一年毎の自動延長となり、今日に至っている。

二国間軍事同盟は国連憲章上疑義がある。たとえば同じように「米韓相互安全保障条約」があるが、朝鮮半島は現在でも休戦であって「戦争状態」が続いているので、アメリカとの二国間軍事同盟が望ましくはないが継続されているに過ぎない。本来は国連安保理決議によって「国連多国籍軍軍」が出動して解決にあたるのが国連憲章上の筋なのである。

もし板門店で少なくとも「終戦協定」、可能ならば「平和条約」が締結されれば、米韓同盟による米軍の駐留は排除されることになり、あとは国連監視団(軍)による監視活動にゆだねることになる。

日本の場合はポツダム宣言を受諾し、またサンフランシスコ平和条約締結でアメリカとの間では完全に和解が成立したのだから、本来なら米軍が駐留しているはずはない。ところがマッカーサー憲法によって自衛軍の存在すら否定されてしまったことと、1949年以降の中国共産党政府やソ連の脅威が高まったことで、米軍のプレゼンスが持ち越されることになった。

いわゆる東西冷戦危機が太平洋の要石と言われた沖縄の米軍駐留を既定のものとしてしまったわけである。必然として日米安保は必須のものにならざるを得なかった。

しかしながら、もう30年近く前の1990年代初めに冷戦は終わっている。

頭を切り替えたほうが良い。今度のペルシャ湾タンカー銃撃事件でイランとの関係が取りざたされているが、アメリカの要求に応じてペルシャ湾へ自衛隊艦船を出動させたら、せっかくの友好関係にあるイランとの関係が悪化する。

日本が自衛隊艦船を出したら、必ず、「日米同盟あるがゆえに、そっちを優先させたのだろう。日本はアメリカの言いなりだ。主体性がなく鵺(ぬえ)のような正体不明の国だ」とのそしりを受けるだろう。

日本が有色人種差別の欧米植民地解放を掲げて大戦を戦ったことは、戦後に植民地からの独立を果たしたアジア・アフリカの国々なら皆知っていることだ。欧米の一員であるアメリカの言いなりになっているからそのことが見えないだけである。

日本はある意味でラッキーな地政学上の位置にある。それは「国土環海」の条件にあり、要するに多くの国が衝突を繰り返してきた国境地帯を持っていないのだ。

今は北方領土問題を筆頭に竹島、尖閣諸島の国境問題があるが、これらのことで武力衝突することはない。

それ以上に国民の教育程度の高さとまとまり、文化の多様性と歴史性、経済活動の自由など世界に冠たる条件を持っている。そして戦後は74年間一度も他国との武力衝突をしていない。この一点だけでも永世中立を宣言するに値し、何国といえども認めざるを得ないだろう。

その一方で地理的条件から大地震、台風、大雨による災害多発国である。今や南海トラフ、首都圏直下型地震、富士山を象徴とする火山噴火など喫緊の災害対策に対応していかなくてはならない。

「日米安保がなくなったら北朝鮮が、中国が、ロシアが」とビビるより、もっと喫緊の課題があるのだ。アメリカの言いなりで軍備をどんどん増強するより、日本は大災害に打ち勝つ安心安全対策にもっと真剣に取り組むべきだろう。

永世中立国宣言は、新天皇の世界への最高のメッセージになるに違いない。

私はそれをぜひ聞きたい。世界もそれを待っている。

 

 

 

 

 

 


専守防衛力を有する永世中立国へ(3)

2019-08-19 13:06:27 | 専守防衛力を有する永世中立国

ポツダム宣言受諾後の日本とアメリカ(建前は連合国だがほぼアメリカ)との関係が如実に分かるGHQ指令と、日本の国連復帰(1956年)、および現在に続く新「日米安全保障条約」までの流れをおさらいしておく。

 

1945年 8月15日ー昭和天皇による終戦の詔

   同年 9月 2日ー降伏文書に調印(米戦艦ミズーリ号上)。

   同年 9月11日ーGHQが戦犯容疑者逮捕を指令。

   同年 10月4日の治安維持法廃止指令を皮切りに、12月までに民主化5大改革・戦時協力教員の追放・財閥解体・農地改革・神道分離令・修身等の授業停止など矢継ぎ早に、戦時軍国色の強かった制度を廃止または大幅に改革。

 

1946年 2月13日ー新憲法の松本丞治案を拒否し、GHQ案を交付。

   同年 5月 3日ー極東軍事法廷を開廷。

        22日ー第1次吉田内閣成立。

      6月17日ーキーナン検事が「天皇は裁かない」と言明。

 

1947年 4月 1日ー学校教育に六・三制を導入。

     10月10日ーキーナン声明「天皇と実業界に戦争責任なし」

 

1948年 8月ー対日経済安定9原則を発表(エロア資金による物資供給を開始し、また集中排除を大幅に緩和した。)

     12月23日ー東条英機らA級戦犯の死刑を執行。

       同24日ー岸信介らA級戦犯容疑者を釈放。

 

1949年 2月16日ー第2次吉田内閣成立。

      7月19日ーGHQ顧問のイールズが共産主義大学教授の追放を訴える。

     10月 1日ー中国人民共和国の成立(ソ連が承認)。

1950年 1月 1日ーマッカーサー声明「日本国憲法は自己防衛の権利を否定しない」

       同 6日ーイギリスが中国共産党政府を承認。

       同31日ーブラッドレー来日し、沖縄の基地及び本土の基地の強化を声明。

      2月10日ーGHQが沖縄に恒久的基地建設を声明。

      3月 1日ー自由党の結成(党首・吉田茂)

      6月25日ー朝鮮動乱が始まる。

      7月 8日ーマッカーサーが警察予備隊の創設を指令。

     11月10日ーマッカーサー旧軍人追放を解除。 

 

1951年 2月 2日ー特使ダレスが米軍駐留のままの講和(平和条約締結)を表明。

      4月11日ーマッカーサーが罷免される。

       同18日ーダレス、リッジウェイ、吉田会談(駐兵問題)

      9月 8日ーサンフランシスコ対日平和条約締結。

            同時に旧「日米安全保障条約」に調印(全権は吉田茂)。

            ※改定された新「日米安全保障条約」は1960年6月19日に調印(日米地位協定が付属している)=岸信介内閣。

             

1952年 2月13日ー日米合同委員会を設置。

 

1954年12月10日ー民主党の鳩山内閣。

 

1955年11月15日ー自由党と民主党が統合して自由民主党が結成される(初代総裁・鳩山一郎)。自由民主党の党是の柱に「自主憲法制定」があるが、いまだ実現していない。

 

1956年10月19日ー日ソ共同宣言。

     12月18日ー国連総会で日本の加盟を可決。

 

1960年 6月19日ー改定・新「日米安全保障条約」に調印。10年の期限付き。

            その後も1年更新の「自動延長」のまま、今日まで続く。

            ~以上~

 

日本が降伏した1945年9月2日以降、連合軍総司令部(GHQ)は矢継ぎ早に日本の戦時体制を打破し、軍国主義から民主主義へと転換を図った。

翌年には民主主義に基づいた「新憲法」を策定するのだが、日本人の構想した「松本案」は受け付けられず、結局GHQサイドの憲法案が優先された。これが現在の日本国憲法であり、俗にマッカーサー憲法と言われるものである。

要するに日本から武力をもぎ取り二度と歯向かわせないようにすることが主眼の新憲法だが、そう決めたにもかかわらず、当時の労働者対使用者間の抗争状況や、「共産主義」を標榜する教育者などの横行で国内治安の乱れがあり、さらに中国で1949年10月に共産党政府が樹立されたことでにわかに東アジア情勢が緊迫してくると、マッカーサーは「憲法で日本の自衛権は否定されていない」として再軍備へと舵を切った。

1950年6月には朝鮮動乱が勃発し、在日米軍の大部隊が半島に投入されると、日本国内は米軍による監視活動が不如意になり、ついに警察予備隊から保安隊へと名目上は国内治安維持のための再軍備が進められたのだ。

(※この時にマッカーサーは吉田首相に「日本も軍隊を出してほしい」と依頼したのが、吉田は「国内が疲弊しきっているというのにとんでもない。復興が優先。」と振り切ったというエピソードがある。)

サンフランシスコ平和条約は安全保障理事会の常任理事国になっていた社会主義国ソ連との間での平和条約は結ばれず、そのため国連復帰はソ連の拒否権に遭ってできなかったのだが、旧民主党の鳩山一郎自由民主党総裁の尽力でなんとか共同宣言に漕ぎつけ、翌年(1956年)の国連総会で承認された。

国連に加盟したということは、もし日本の周辺で紛争が発生し日本が攻撃された場合、安全保障理事会に訴え、その採決による話し合いが不可能であれば「国連多国籍軍」が出動して紛争を収めるのが正当な手順である。

しかし日本はすでに国連加盟の5年前の1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約締結と同時に「日米安全保障条約」を結んでいるため、平和条約を結んだら「他国軍の駐留」は認められないにもかかわらず、米軍はそのまま居座ったのであった。

国連憲章上も「軍事的な二国間同盟(地域的取り決め)は暫定的なものでなくてはならない」としてあるのだが、旧安保の時効である1960年に新安保に調印し、さらに10年後の新安保の時効である1970年以降も「自動延長」(どちらかががもう廃止すると言わない限り永遠に続く)状態のままである。

日米安保があるから日本の安全は保障されているのだから、それでいいではないかという向きならそれでいいだろう。沖縄の基地問題も永遠に続くだろう。

しかしよく考えて欲しい。1989年でベルリンの壁崩壊、翌々年にはソ連邦崩壊。冷戦は過去のものとなったし、中国だけは共産党の一党独裁が続いているが、日本は1978年に平和友好条約を締結して、その前もその後も武力的な衝突はなく、ロシアも日本の経済発展に学ぼうとしこそすれ、武力を掲げて攻めるような理由は全くない。

今や「鉄のカーテン」も「竹のカーテン」もない。

いったい何をびくびくしているのだろう。北朝鮮にしろロシアにしろ中国にしろ、日本に対して攻撃を仕掛けて何の得になろう。むしろ国際社会から囂囂たる非難を浴びて窮地に陥るのはむこうである。

日本がもし「永世中立国(専守防衛力は有する)」を宣言したら、日米安保廃止通告と同じ効力を持ち、一両年後には駐留米軍は撤収するが、そこを狙って攻撃してくるだろうか? 何の理由で?

ソ連邦が崩壊して間もない1992年ごろに、アメリカの司令部の高級軍人が「日米安保は日本を他国から守る役目から、日本の軍事力を監視して抑止する役目へと変貌した」と喝破したが、これが有名な「瓶のふた」論で、アメリカの本音はそれである。

アメリカはもう中国もロシアも日本へ攻撃を仕掛けていく理由など全くないことを先刻ご承知なのである。むしろアメリカびいき(依存症)の日本人が「馬鹿言うな安保がなくなったら大変だ。すぐにやられるぞ」と禁断症状をきたし取り乱すだけの話である。

日本が永世中立を宣言し、それに伴って日米安保を廃棄すれば喜ぶのは中国とロシアだ。喜ぶといっても「さあ、アメリカがいなくなった。日本を攻めてやろうぜ」とほくそ笑むのではなく、これまでの頑なな「歴史認識」を言上げする必要がなくなり、双方との意思疎通が格段によくなるだろう。

一番期待したいのは北方領土問題で、これは日本とロシアとの間で平和友好条約を結べば解決するはずである。プーチンが言うように「日米同盟があるまま平和条約を結んで北方領土を返還したはいいが、そこに米軍基地が置かれたら元も子もない」だろう。しかし安保が廃棄され米軍の駐留がなくなれば北方領土返還は可能となる(シベリア抑留問題を不問に付してやることを条件とすれば案外解決は早いだろう)。

 

 

 

 


専守防衛力を有する永世中立国へ(2)

2019-08-15 13:17:30 | 専守防衛力を有する永世中立国

今日は終戦後74周年の記念日。

武道館で行われた全国戦没者追悼式に、新しい天皇皇后両陛下が臨席され、追悼のお言葉を述べられた。

それに先立って政府代表として安倍首相が開式の挨拶を述べたが、「国際社会と協力して諸課題に立ち向かう」という力強い内容であった。

それはそれでいいのだが、国際問題に関する課題の解決に当たって日本が採る道筋はおおむね「必要な資金を提供しましょう」で終わっている。

物事には金で解決できるものとそうでないものがある。国際問題で金で解決できるようなものは、その国との関係がまっさらな場合に限られる。

アジア・アフリカのいわゆる開発途上国(日本との関係がまっさらな国々)などへの資金供与はそれなりに大変役に立つし、日本はかなりの資金を提供したり、廉価な借款で協力して感謝されていることが多い。

問題は「まっさらな関係にない国」すなわち「日本との間で歴史問題を抱えている国」の場合だ。

今最も熱い問題を抱えているお隣の韓国を筆頭に、拉致問題かれこれの北朝鮮、首相が靖国神社を参拝しようものならたちまち突っ込みを入れてくる中国、そして北方領土問題とシベリア抑留問題のロシア。

この4か国に関しては政府のみならず日本人の多くが「困った奴らだ、ねちっこいなあ。少しは譲歩したらどうなんだ」と内心は思っているだろう。

ところが実はアメリカとの間にも「歴史問題」を抱えているということは忘れがちなのだ。

もちろん太平洋戦争がもたらした問題である。

太平洋戦争が始まったのは当たり前だが終戦前で、この戦争の原因などここで簡単に述べるわけにはいかないが、まず根本は「欧米の植民地分捕り合戦に見られる有色人種差別はダメだ」とする日本と、「そういうわけにはいかない。邪魔立てするとただじゃ置かないぞ」とする欧米諸国との対立があった。

またロシアロマノフ王朝が倒れて社会主義国となったソ連の脅威がヨーロッパに押し寄せ、やがてイタリア・ドイツで独裁主義者が生まれて混乱に拍車をかけ、これに危機感を抱いたヨーロッパの中心国家であり世界最大の植民地帝国であった英国の策略でモンロー主義だったアメリカを戦争に引き出した。

これが「眠れる大鷲アメリカ」が世界に目覚めた瞬間であった。

第一次世界大戦後のベルサイユにおける平和条約締結会議の議長を務めながら、日本(全権大使は西園寺公望)から提出された「有色人種差別はやめにしよう」という議案を葬ってさっさと国にかえったアメリカのウィルソン大統領は、結局自ら創立を提案した「国際連盟」に加盟せず、「一国主義」(モンロー宣言)に徹し、国際関係の表舞台には立たなかったのであった。

その目覚めたアメリカは日本に対する対決姿勢を強め、最終的に開戦に至ったのだが、この黒幕は人種差別にもとづく世界最大の植民地支配国家「大英帝国」であったと考えるのが至当だろう。

この点に関しては諸説があるのは承知だが、ともかく太平洋戦争は対英米(仏蘭)というよりは対米戦争であった。

結果は敗戦となったが、欧米のアジアにおける人種差別的搾取型植民地支配は音を立てて崩れ、1960年になるとアフリカ諸国でも植民地支配から次々に独立を果たしたのであり、日本の対英米仏蘭戦争は大きな功績を残したわけである。(戦後の歴史教育がこのことを教えていないのは残念至極だ。)

日本は併合した台湾と朝鮮で相当な資本をつぎ込んで土地改良や小学校の建設など一般市民の教育環境向上や農業生産の発展に貢献しており、また戦時に基本的には台湾人・朝鮮人からの徴兵はなく、ただ慰安婦だけは軍の求めに応じて民間業者が相当な高級を条件に募集をしている。

このような慰安婦は日本人慰安婦同様、けっして「奴隷」ではない。朝日新聞記者が「奴隷」と名付けたと聞いているし、また吉田某が証言したという「無理やり連行して慰安婦にした」というのも虚偽であることが分かっている。

徴用工の問題も強制連行というようなものではなく、本人の自由意志によるものである。ただ、戦時中の事とて、寮の食事が乏しかったり、人手不足で相当な残業を強いられたり、賃金の欠配もあったかもしれないが、その点では当時の日本人労働者とそう変わるまい。

こういった戦時中のことを蒸し返して騒ぎ立てる韓国人には、あの女性前大統領パク・クネの妹が公の前で言ったという「日本が支配しなかったら、韓国の教育、農業、産業の今はない」という言葉を思い出して欲しいものだ。(これに付け加えて、妹氏には1965年の日韓基本合意を持ち出して欲しかったが・・・。)

さて世界の人種差別的な植民地支配は、戦前の日本が目指したように戦後も早い段階で終焉となったが、アメリカとの間の歴史問題では戦後74年の間に胚胎し、現在も続いている問題がある。

それは他ならぬ日米安全保障条約である。

次回は、終戦後、日米安全保障条約が締結されて今日に至るまでの経緯を、時系列で追ってみたい。