鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

2月最後の日(2022.02.28)

2022-02-28 22:17:10 | おおすみの風景
2月も最後の日というのに今朝も寒かった。ウメとの散歩道の周囲の畑という畑には霜が降りていた。車のフロントガラスも完全に凍っていた。

この2月はこれまで経験した2月の中でおそらく最も寒い2月だったと思う。

無風だったので日中は20℃くらいまで上がり、4月初旬並みの陽気になったのだが、それでも「春一番」はまだ吹かない。

今日は所用があって垂水からフェリーに乗って鹿児島まで行った。

久しぶりにフェリーに乗ったのだが、出航の時間まで少し余裕があったので、フェリー桟橋に隣接する船溜まりまで行き、桜島を眺めた。



我が家から車で10分ほど行った所にある霧島ヶ丘公園の外れからも桜島の全容は望めるのだが、海から立ち上がる桜島の雄姿はまた格別である。

「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハ― 桜島」と歌うおはら節はよく知られているが、この冬は桜島が噴煙を上げることが少なく、かねての桜島らしくない。

もっとも噴煙つまり火山灰が噴き出すと必ずどこかに舞い落ちる。その落ちる先は風向きによって決まる。

北風なら指宿方面、南風なら姶良市方面、東風なら鹿児島市、そして西風だと大隅半島。

特に冬は北西風が卓越するので大隅半島でも鹿屋市方面に飛んでくるのだが、この冬は桜島の爆発・噴火がごく少なかったので、その点楽というか気が抜けるほど車に積もる火山灰は微量だった。

しかし鹿児島大学の火山学の先生によれば、桜島はあの大正大噴火を起こしたマグマ量の90%くらいまで「回復している」そうだから、桜島が大人しいといって油断は禁物だそうだ。

つね日頃、カッカカッカしている父ちゃんが急に大人しくなると、逆に心配になるのと一緒である。

鹿児島での用件が早く済み、垂水に戻ってもまだ午後1時前だったのでその足で国分(霧島市)の「縄文の森」に行って見た。しかし今日は月曜日だったので展示館は休館。しまったと思ったが、隣接する「埋蔵文化財センター」に行くと、ここは開いていた。

中に入って受付で「錦江町の田代で発見され、縄文時代早期の土器がまとまって発掘されたホケノ頭遺跡の出土品を見たいのだが」と言うと、専門員の人が出て来て、話を聞いてくれた。

専門員の解説では、錦江町田代のホケノ頭遺跡から見つかった「バケツ型」の土器は「前平式でも古いタイプ」だそうで、11000年前頃のものだそうだ。その発掘物は埋蔵文化財センターには保管されておらず、「旧田代町教育委員会がまとめた報告書があることから、現地で保管してあるのではないか」とのことだった。

なぜ11000年前の土器であることが分かるかというと、桜島由来の「薩摩火山灰」が積もっている層の下から発見されたからで、薩摩火山灰の年代は10500年前なので推定できるという。

鹿児島から宮崎にかけてはこの薩摩火山灰と鬼界カルデラ由来の「アカホヤ火山灰」(7400年前)が厚く積もっているので、縄文時代早期(7500年~11000年前)の遺構・遺物が特定しやすいのだそうだ。

極め付けは早期最終期7500年前の「縄文の壺」の発見だろう。壺は一般的には弥生時代の物との認識があり、古く見てもせいぜい3000年前のものと思われていた壺(つぼ型土器)が、定説をはるかに覆す7500年前にすでに作られていたのには、驚きを通り越して何と表現していいか分からないほどだ。

さらに離島の種子島では何と13000年前の「サラダボール型」の土器が出土しているうえ、当時の生活の跡である住居跡を示す柱穴も出土しており、住居跡が一緒に確認されたという点では全国で最も古い遺跡のようである。

改めて鹿児島の縄文早期の出土物の多様性には驚かされる。

隣の宮崎県でも都城市山之口町の農道で縄文早期の土器がまとまって発見されており、南九州古日向域の超古代の先進性は否定すべくもない状況にある。

寒さひとしお(2022.02.26)

2022-02-26 10:07:41 | おおすみの風景
立春を過ぎたら俗にいう「三寒四温」の季節に入り、次第に春めいて来るのだが、今年はことのほか春の来るのが遅い。

昨日も今日も最低気温は氷点下で、今朝などは-3℃まで下がった。

朝のウメとの散歩では、やはり指先が痛くなった。それでも風が全くないので、歩いているうちに身体の方は温まるのが早い。

今朝は近くの星塚敬愛園の敷地の中まで足を伸ばしたが、そこまで行くと約2キロの距離になる。

庭の咲きほころび始めた河津桜も満開にならず足踏みをしている。それでもヒヨドリが頻繁に花の蜜を吸いに来ているから、鳥たちにとってはもう春なのだろう。

これを書いている10時現在で我が家の寒暖計は8℃を指している。納屋の中なのでやや高めに出ているが、8時半頃まで見られた車のフロントガラスの氷はもうすっかり消えてなくなっている。

昨日今日とようやく日中に晴れ間が広がり、今日はいまのところ空に一片の雲も見当たらないので快晴である。

しかしやや遠方の山々が霞んで見えるのは、ゾゾゾ! 花粉か? 

間違いない、今しがた空を見に庭に出た際、マスクをしていなかったのだが、家に入ってこのブログの続きを書こうとパソコンの前に座ったら、くしゃみと鼻水が出て来た。

くしゃみをしても体がゾクゾクッと寒気がしないのが花粉症の特徴で、その直後に鼻水がすーっと流れ下るのでも判断できる。風邪だったら熱っぽいし、咳き込んでくるはず。

ああ、いやな花粉症の季節がやって来た。今年で30年ほどの付き合いだ。2月5日ごろから予防の薬を飲み始めているが、今日のような快晴の日にはスギ花粉が多く撒き散らされるから用心すべし。

ただ、一昨年の2月から始まった新型コロナ対策で、誰もかれもがマスクを常用するようになったので、この時期に必ず着けている自分への好奇の目(違和感)がほとんど感じられなくなったのは嬉しい。

特にカラオケなどで一緒になる高齢者の中で、花粉症に罹るような人はほぼ皆無なので、マスクして行くのはちょっと気が引けていたからなおさらだ。

花粉情報によると今年は少な目だということだった。桜の咲くころになると杉花粉の飛散はほぼ終焉するので、あと1か月余りの辛抱である。


ウクライナ情勢

2022-02-25 23:16:13 | 日本の時事風景
2月24日、ついにプーチンロシアはウクライナに侵攻した。

南部のクリミア、東部のドンバス地域、そして北部のベラルーシから3か所の国境を越えてロシア軍は侵入した。

侵入の直前に、南東部に位置するドンバス地方で、親ロシア派武装勢力が支配するルバンスクとドネツクにそれぞれ「人民共和国」が急遽設立され、その間隙を縫い、それら人民共和国からの要請を受けて軍隊を派遣したのだそうだ。

何とも茶番というべき経緯である。

2014年にクリミア半島がロシアによって奪われ、今度は東部のドンバスがロシアの支配領域に入った。

ウクライナは旧ソ連の穀倉地帯だと習った記憶がある。日本の面積の1.6倍もあり、人口は3分の1の4千万ほどである。

ウクライナは第1次世界大戦の頃、旧ソ連と戦争をしたことがあり、ソ連とは一線を画していたが、第2次大戦後にはソ連邦の一員となった。そして1991年、ソ連邦が解体されると、ウクライナは独立を果たした。

しかし旧ソ連のKGBの一員であったプーチンにとっては、ロシアを中心とする連邦体制を解体した欧米、とくにアメリカが憎いのであり、その心情はずっと変わらないでいる。

ウクライナと同じように独立を果たしたベラルーシは、結局ロシア側の言い成りの国家になり、実質上、旧ソ連邦の一員に戻ってしまった。

ウクライナはその豊かさでロシアとは一線を画したいのだろうが、国民の20パーセント近くいるロシア系住民の保護を口実にプーチンは軍を出動させた。あまつさえドネツク・ルバンスクという傀儡というもおこがましい架空に近い「人民共和国」をでっち上げ、今度はその2国からの要請で軍隊を送ったという建前にしてしまった。

しかも2014年に併合した、これも住民の要請に応えたという理由で併合したクリミア半島からも軍の出動があり、北部ではあの爆発事故を起こしたチェルノブイリ原発周辺を包囲したという。原発を抑えたという意味はよく分からないが、しいて言えばロシア侵入軍の安全確保のためか?

昨夜のテレビで見たのだが、ウクライナのゼレンスキー大統領は自ら「プーチンの狙いは私(の首)だ。そして私の家族もだ」とカメラの前でかなりラフな格好(おそらく退避壕の中)で語っていたが、そうであれば痛ましい限りだ。そして「誰も救援に来てくれない。孤立無援だ」とも。

ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に加盟することがプーチンにとって最大の懸念であり、それを推し進めようとしているゼレンスキー大統領は不倶戴天の敵なのだ。

NATOもそれを軍事的に援助しているアメリカも今のところ軍事的コミットは避けているが、ウクライナの首都キエフが制圧されたらどう出るか分からない。

日本を含む欧米諸国の経済制裁がどんなに厳しいものでも、その効果が表れるには時間がかかり、制裁の効果が表れた頃にはすでにキエフが陥落し、ゼレンスキー大統領がロシア側に拘束されるか、最悪の場合大統領の命が奪われるという事態になった時が問題だ。

かつての社会主義国では「民衆主義革命」となると、そこの指導者が他国へ亡命することがよくあったが、ウクライナのゼレンスキー大統領の場合、もし彼が亡命するようなことがあったら真逆のケースになる。

しかしそうしないであくまでも自国にとどまり、ウクライナの自由を守って欲しいものだ。

NATOが臨時総会を開き、急遽ウクライナの加盟を認めるという手は出せないものか。そうしたらウクライナに軍事出動が可能になる。

プーチンもNATOという「多国籍軍」を相手にはしたくないだろう。しかもその後ろ盾には忌み嫌う米軍がいるのだから。

「ロシアには強力な核兵器がある」とプーチンはよく言うが、実戦に使うことはあるまい。そうしたら全世界を敵に回すことになる。

ウクライナに平和を!

天武天皇の時代(記紀点描㊽)

2022-02-23 16:33:55 | 記紀点描
【天武天皇時代の特質】

壬申の乱で大友皇子(漢風諡号・弘文天皇)方の近江王朝に勝利した大海人皇子こと天武天皇(在位672~686年)の時代相を一言でいえば、「神仏両拝を基軸にした中央集権国家を目指した時代」ということになるだろう。

神仏両拝という用語はないが、神仏混交あるいは習合が「本地垂迹」「反本地垂迹」という「神が先か仏が先かの論争」に至った中世より前の、神道の定型化(神社化)が仏教の伽藍様式に触発されてそれなりの社殿が建立され始めた時代に、いわば神仏への礼拝が「棲み分け」によって確立しつつあった様相を「神仏両拝」で端的に表現してみた。

実際、まず天武天皇からして、今はの際の天智天皇から皇位を継ぐように言われたが、即座に断り、僧形になって近江から吉野へ隠遁したのだった。

仏教が百済から倭国にもたらせられてから、熱心に取り組んだ蘇我氏の影響を受けて仏教に関心を持つ天皇や皇族は多くいた。中でも蘇我氏の血を引く聖徳太子(574~622年)は仏教学者と言っていいくらいの経典理解を示したが、太子自身は僧形にはならず、また僧形になった天皇はいなかった。

しかし天武天皇は近江から隠遁するため、つまり逃避するために仮に僧形になったにせよ、法服を身に纏った唯一の天皇であった。

天皇として即位後も、次のように仏教関連のイベントを行っている。

・僧尼2400名に設斎(法会)を開催させた。(天武紀4年4月条)
・金光明経・仁王経を講義させた。(同5年11月条)
・飛鳥寺にて設斎(法会)。一切経を読誦させた。(同6年8月条)
・宮中において金光明経を説く。(同9年=5月条)

など、かつては蘇我氏だけの私的な法会などを、天皇自らが主宰するようになった。

その一方で、神道系の催しもかなり行っている。

・大来皇女を伊勢の斎宮に行かせた。(天武紀元年4月条)
・十市皇女・阿閉皇女(のちの元明天皇)が伊勢に参宮した。(同4年2月条)
・旱(ひでり)のため、諸方に使いを送り御幣を奉納して諸神に祈らせた。(同5年夏条)
・天神地祇祭祀のため祓い禊する。(同7年春条)
・御幣を国懸社・飛鳥四社・住吉社に奉納した。(同15年7月条)

大来皇女や十市皇女・阿閉皇女が参宮した頃の伊勢神宮の規模や構造などはうかがい知れない。

しかし仏教の仏像・仏具・経典などが百済の聖明王(第26代・在位523~554年)から伝えられ、それを蘇我稲目がわが屋敷の内に祀った(552年)頃から次第に仏殿が発達したことを受けて、神祭りにおいても神社という社殿を建立するようになったわけで、仏寺が伽藍様式を取り入れたように、神社もそれなりに建築様式を発達させていたと思われる。

したがって伊勢神宮本殿とは別に斎宮(殿)があったものとしてよい。そこに皇女たちが寝泊まりしてアマテラスオオカミに仕えたのである。

旱(ひでり)は水田栽培を基本とする稲作にとっては最大クラスの災害であったから、諸国に官員が派遣されて地方ごとに存在する社に幣帛を捧げているが、これは要するに「雨ごい」である。

(※持統天皇(在位687~697年)の時代になると、竜田社と広瀬社への幣帛の奉納は年中行事のようになったが、竜田社は水の神であり、広瀬社は物忌みの神であった。)

最後の6社への御幣奉納は天武天皇の病気回復祈願のためであったが、祈願の効無く天皇は686年9月9日に崩御した。11月には殯宮(もがりのみや)が飛鳥浄御原宮の南の庭に建てられた。

【天智天皇の殯宮はなく、陵もなかった】

天武天皇が崩御すると2か月後には殯宮が建てられたと記事にあるが、天智天皇の殯宮が造られたという記事はない。

また2年後の持統天皇2年(688年)の11月には「大内陵」に葬ったという記事が見えるが、この陵に関しても天智天皇のは天武紀には見当たらない。(※ただ、壬申の乱が起きる直前の672年5月、近江方が天智天皇の陵を築くために美濃と尾張の国司に人夫の徴用を命じた、といい、これに対して朴井君雄君という舎人が大海人皇子に「この徴用は決して陵を造るためではなく、有事のためのものですから、吉野から逃げた方がよいでしょう」と進言する場面がある。この時の築陵は偽りだったというわけである。ここでも天智及び天智陵の行方は追えないままだ。)

壬申の乱において敵であった大友皇子は自害しようが殺されようが、敵であった以上はその死後のことが書かれなくても理解はできるが、天智天皇は大友皇子の父ではあるものの、壬申の乱の敵方の当事者ではなかったのだから、記録に残らなければおかしい。

このことは天智天皇の死の謎をさらに深める。やはり山科で「行方知れず」になり、その遺骸も行方知れずになったと理解すべきだろうか。

天武天皇の皇后の持統天皇(幼名・ウノノササラノヒメミコ)は天智天皇の娘なのであることからして、たとえ同時に敵(大友皇子)の父であるにしても、天智天皇を一切祭らないことについては抵抗を感じてしまうのである。やはり「行方知れず」ということなのだろうか。

【天智天皇の娘4人を后妃にした天武天皇の素性】

天武天皇は天智天皇の4人の娘を后妃にしているが、これも不可解である。

古代の天皇の婚姻では、姪を娶ることは不道徳ではなかった。それどころか異母兄妹同士の婚姻も許されていた。母親が違えば同父であっても結婚は可能であった。

そう考えると兄天智の娘が天武の后妃になることは有り得ることだが、4人もの姪を後宮に入れるのは前代未聞。

皇后にしたのがウノノササラ皇女(のちの持統天皇)、妃にその同母姉のオオタ皇女。さらに異母のオオエ皇女とニイタベ皇女。この4女はすべて天智天皇の娘である。ほかに他氏から6人の娘を後宮に入れている。(※その中の一人が鏡王の娘・額田姫王で、このヒメは最初大海人皇子の妃だったのだが、のちに天智の下へ移った(移らされた)ことで天智と天武の間に亀裂が走った。この亀裂が壬申の乱の遠因だったという説もあるが、これは現在否定されている。)

天武天皇(大海人皇子)が天智紀の中では姿を見せていないのも不可解な話である。いや無いことはない。その際は決まって「皇弟」もしくは「大皇弟」「東宮」と書かれ、幼名の大海人皇子という名(個人名)は決して出てこないのだ。

最初に大海人皇子が登場するのは、舒明天皇(在位629~641年)の2年(630年)条で、天皇と宝皇女(のちの皇極天皇)との間に生まれた三子(葛城皇子・間人皇女・大海人皇子)の一人として登場するのだが、その後の動向は一切不明である。

父の舒明天皇が崩御した時に兄(天智)の方は「この時に東宮葛城皇子は、年16才にして誄(しのびごと)したまう」と記録され、あまつさえ当時の年齢が記されている(舒明紀13年条)。(※舒明天皇の崩御年は641年であるから、天智天皇の生年は626年と逆算される。)

天智天皇の時代、天智(中大兄皇子)が対百済救援軍を組織して筑紫の朝倉宮に行き、そこで母の斉明天皇が崩御し、中大兄皇子が斉明天皇の殯宮を長津宮(磐瀬行宮)に設けても、大海人皇子は姿を見せないのだが、実母であり天皇である人の葬送に姿を見せないような関係というのは普通では考えられない。大和の統治を任されていて、繁忙で席を離れることができないにしても、何らかの悲痛・弔意の場面があってしかるべきところである。

それの片鱗もないということは、わたしはどうも大海人皇子こと天武天皇は、天智天皇の弟でも斉明天皇の子でもないのではないか、という思いに至るのである。

では誰であろうか?

その候補としてあげたいのが、藤原鎌足の長子とされ、孝徳天皇の白雉4年(653年)に遣唐使とともに唐へ仏教を学びに同船した「定恵(じょうえ)」である。

定恵は本名を中臣真人といい、藤原氏(といっても653年の時点ではまだ中臣氏であった。藤原姓は天智の死の2年前の669年からである)という本来なら神道系の家筋であり、しかも嫡子が仏教僧になるという点で、極めて異例なことである。

この定恵が唐から帰って来たのが、天智天皇の称制4年(665年)の9月であった。唐からの使者、劉徳高・郭務悰らの乗った船に同船して筑紫に到着したのである(孝徳紀5年2月条に引用の「伊吉博徳の書」)。そして『藤氏家伝』によれば、同年(665年)には亡くなったとある。

この年の前年に天武天皇が一度だけ「太皇弟」として現れるようになり、668年の天智天皇の即位後は「東宮」を含めて登場の場面が増えて行く。しかし天智天皇が大和から近江宮に遷都した後、671年に我が子大友皇子を太政大臣にしたのがきっかけとなり、「東宮」(皇太子)を返上した挙句、法服を纏って吉野宮へ隠遁する。

この時の法服を纏うということ自体が、天武の仏教への傾斜を端的に表しており、このことは天武が相当深く仏教を学んだ人物であったことを象徴している。

そのうえ、【天武時代の特質】で指摘したように、国を挙げての仏教への取り組みに並々ならぬものが伺われることから、私は藤原真人こと定恵こそが天武天皇なのではないかと思うのである。

天武天皇の漢風諡号が「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」と「真人」を含んでいることも、この考えを後押しする。また「瀛(おき)」は大陸中国から見た島国という意味であり、この名付けは、唐に学僧として12年も留学していた中臣真人が故国に帰った後、天皇位に就いたという暗喩ではないだろうか。

以上、兄である前代の天皇の娘を4人も后妃にしていることから天武は天智との間に血縁関係はないこと、仏教に非常に造詣が深くかつ傾斜していること、そして天武の漢風諡号が「中臣真人」を連想させることなどから、天武天皇とは実は藤原鎌足の長子で唐に12年間も留学し、665年の帰国後はその年のうちに亡くなったと記されている定恵(本名・中臣真人)その人が天武天皇だったのではないかと考えてみたい。

この点についてはいまだ確定ではなく、後考を待ちたいと思う。





壬申の乱(記紀点描㊼)

2022-02-21 21:22:45 | 記紀点描
壬申の乱(西暦672年6月~7月)は古代では最も大きな内乱と言われる。

しかしその規模(戦闘員の数)と戦死者数については確定した数字はない。

他にも内乱は数多くあった。崇神天皇時代の「武埴安彦の叛乱」、垂仁天皇時代の「狭穂彦・狭穂姫の乱」など相当な数で起きている。だが、皇位の継承を巡る皇族同士の直接対決は実はそれほどない。

壬申の乱が起きた原因を、かつては天智天皇と天武天皇の額田王(ぬかだのおおきみ)を巡る恋の鞘当てに求めることが多かったのだが、これは今日では否定されている。

この叛乱は天智天皇の弟大海人皇子が、天智天皇の皇子で当時太政大臣に任命され、近江の宮に都を置いていた大友皇子の政権に対する大海人皇子(のちの天武天皇)による「王権奪取」の戦いであった。

天智天皇が我が子の大友皇子を太政大臣にしたあと、死の床に大海人皇子を呼んで後継を託すのだが、大海人皇子はなぜ今さら自分を後継者に指名したのか疑わしく思い「皇后のヤマトヒメ様を天皇に立て、大友皇子を皇太子にすべきです。私は出家して功徳を行うつもりです」と頭を丸めて吉野宮に入った。

その疑いはどうやら正鵠を射ていた。もし後継を引き受けたら、太政大臣の大友皇子を差し置いて皇位に就いたことをとがめられ、下手をすれば殺害されてもおかしくなかったのである。

大海人皇子はもともと都を飛鳥から近江に移すのには反対で、同じように反対する多くの豪族の支持を得ていた。

近江軍が飛鳥の古京に到る道々に軍勢を派遣したのを見計らった吉野宮側はついに吉野宮を離れいったん東国を目指すことにした。かくて壬申の乱の幕が開いた(672年6月22日)。

吉野側が真っ先に一報を入れたのが、安八郡(美濃)の「湯沐令」と書いて「ゆのうながし」と読ませる役職(皇太子の養育のための田畑を管理する役)についていた多臣品治(おおのおみ・ほむぢ)であった。(※この人は太安万侶の父らしいが、記紀には明示されていない。)

多臣品治が美濃の軍団を組織したことで、吉野側は大きな勢力となった。尾張国司なども吉野側に就き、近江側の劣勢は明らかになった。

吉野側の将軍は武の名門出身の大伴吹負(おおとものふけい)であったが、近江側は将軍といっても文官系の貴族から成り、遠く筑紫大宰府の栗隈王に出兵を打診して断られる始末で、劣勢は覆うべくもなく、ついに瀬田川の戦いで完敗し、大友皇子は自害するという最悪の結果を迎えた。

近江側の加担者、蘇我赤兄・蘇我果安・中臣連金・巨勢人・紀大人など8名が斬罪となり、戦いは吉野側の勝利で幕を閉じた。ちょうど一月にわたる戦いであった。

この結果近江宮は廃止され、都は大和に戻った。大和の豪族たちはみな安堵したに違いない。

近江の都はその後放置され、荒れるに任せられたようだ。その光景を詠ったのが奈良時代の歌人柿本人麻呂であった。

<(前略)天に満つ 倭をおきて 青丹よし 平山を越え いかさまに 思ほしめせか 天さかる 鄙にはあれど 石走る 淡海国の 「楽浪(ささなみ)」の 大津宮に 天の下 知しめしけむ 天皇の 神のみことの 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処といへども 春草の 茂く生ひたる 霞み立つ 春日の霧れる 百磯城(ももしき)の 大宮処 見れば悲しも>

柿本人麻呂が近江を訪ねて行ったら、もう近江宮の建物は跡形もなくなり、春草の茂るに任せていた。悲しいものだーという歌だが、人麻呂は710年に死んでいるので、この歌を詠んだ年代を700年とすれば近江の宮は30年で面影を留めなくなったことになる。

(※なお、歌の中で「楽浪」と漢字で書いているにもかかわらず訓では「ささなみ」とよませている部分があるが、「淡海」すなわち琵琶湖を暗喩する「さざなみ」に楽浪を宛てたのは、近江地方に百済の亡命者や避難民をたくさん配置したことが反映されている。半島の百済の故地の西の海は「楽浪」と呼ばれていたのである。)

結局のところ、大和を捨てて近江に都を遷した天智天皇とその子の大友皇子は、本来の大和王権の地である飛鳥を離れたことと、亡命百済人を重用しすぎたこと、これらが大和の豪族たちの反感を買い、ついに反旗を翻させた真因だろう。

 【追 記】

・吉野宮の大海人皇子側が、吉野を立って東国に進軍する際、5日目の672年6月26日に朝明郡(あさけのこおり)の迹太川のほとりに到った時に、はるかに「天照大神」を遥拝したとある(天武元年6月条)。これは垂仁天皇の時に皇女ヤマトヒメが大神を祭るにふさわしい場所として現在の伊勢神宮の地に宮を建てたのは史実であったことの証左となる。

・また、672年7月に、吉野側の将軍大伴吹負(ふけゐ)が劣勢になった頃に、三輪君と置始連との合流軍が近江軍に大勝したのが「箸墓の下」であった(同元年7月条)。この描写によって通称の「箸墓」が7世紀にもそう呼ばれていたことになり、ヤマトトトビモモソヒメが箸で「ほと」(陰部と書くが、私見では「のど」のこと)を突いて自死し、亡骸を葬ったがゆえに墓を「箸墓」と呼んだという伝説は史実であったことの証拠になる。

・また、この「箸墓下の戦い」以前のこととして、高市郡大領・高市県主許梅(こめ)に神がかりがあり、託宣の中で「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」という神示があったという(同元年7月条)。この描写によって「神武天皇陵」の存在が確認され、したがって「神武天皇」(私見では南九州の投馬国王タギシミミ)の存在も創作(おとぎ話)ではなかったことの証明になる。

・因みに、箸墓こそが卑弥呼の墓とする畿内邪馬台国論者が多いが、箸墓は学説上定型的な最も前方後円墳らしい前方後円墳であるとしてある以上、その築造が4世紀半ばを遡ることはない。卑弥呼の死は247年とはっきりしている。約百年のタイムラグがある。先年の環濠調査で木製馬具の一部が出ており、この点からも4世紀半ば以降の築造であることは間違いない。

・もっとも、邪馬台国が大和に無かったことは(1)帯方郡から邪馬台国までの道のりは1万2千里であり、そのうち九州北岸の末盧国(唐津)までですでに1万里だから残りはわずか2千里。しかもその2千里は陸行(徒歩)の道のりであるから、畿内に求められるはずはない。九州島の中にあったのである。

また、(2)方角につても畿内説では「南」とあるのを「東」に改変しており、この点も承認のしようがない。この方角改変の元凶は「伊都国=糸島」説なのだが、伊都国が糸島なら壱岐島から直接船をつければよく、なぜ唐津で船を降り、わざわざ海岸段丘の発達した狭隘な海辺の道を糸島へ歩かなければならないのか説明が付かない。この不可解な解釈により、末盧国(唐津)から「東南陸行500里」にあるはずの「伊都国」は「東北陸行500里」の誤認とされ、以降の道のりにおける「南」はすべて「東」に読み替えられてしまった。

この改変やおそるべし、で、明治以降今日まで150年(江戸時代を入れれば約300年)経っているのに、いまだに邪馬台国の比定地に決着がつかない原因なのである。

素直に唐津から松浦川沿いに「東南陸行500里」していけば、戸数千戸の伊都国(いつこく)は「厳木(きゆらぎ)町」(厳はイツと読める。イツキは伊都城だろう)と比定でき、そこからは方角も距離表記もほぼ無理なく佐賀平野を抜けて、鳥栖から筑後川を渡り、久留米を過ぎた八女が邪馬女王台国と比定できるのだ。

(※江戸時代の儒者新井白石は最初畿内説だったのだが、のちに九州説でも八女の南方の「山門郡」に比定し直している。そこに至るまでの道のりについての解釈は寡聞にして知らないのだが、おそらく「山門」の「やまと」からの類推だろう。しかし私は「邪馬台国」の語源を「天津日(あまつひ)」としており(amatuhi →yamatuhi→yamatahi)、単純な「山門→大和」説は採らない。また「山跡」説も採らない。)