鴨着く島

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パリ五輪まであと1か月

2024-06-26 09:52:04 | 災害
7月26日に開会式を迎えるパリオリンピックまであと1か月となった。

今回の目玉は開会式だ。オリンピック史上初めて競技場の中ではなく外で行われるという。その中でも「メイン会場」はセーヌ川らしい。

具体的にはどう行われるのか分からないが、とにかくどのような形であれ、数万人の警察や警備会社が出て「テロ」への警戒を担うというからこれも史上初めてではないか。

テロはイスラム過激派によるもので、何年前になるか、パリ市内何か所かで同時多発テロが起きて数十人が犠牲になっているので警備の大きさはやむを得ないだろう。

下手に競技場内で開会式を行うと、テロによって多数の各国要人が巻き込まれる恐れがあるから、外で行うようにしたに違いない。

パリオリンピックの前代未聞の競技場外開会式――このことも一種の災害だが、それよりももっと考えなければならないのがオリンピック開催日程だ。

7月26日に始まって、終わるのが8月11日という。

前回のパリ五輪の日程は不明だが、仮に同じ時期とすると、100年前(1924年)のあの頃、ヨーロッパでもやや北寄りに位置するパリではおそらく真夏と言っても日本の5月(秋なら10月)くらいの気温だったはずだ。

その当時ならいざ知らず、近年とみに暑さを増しているヨーロッパ全体の傾向から見て、7月下旬から8月上旬というのはすでにかつての日本並みの気温30度以上の日が珍しくない。

アフリカ大陸の高気圧が張り出した時は、40℃にもなろうかという暑熱が襲い、多数の熱中症による死者が出たのが報道されたこともあった。

競泳種目にとっては最適だろうが、陸上種目には最悪だ。なぜもっと涼しい季節を選ばなかったのだろう。

これも例のアメリカのメディアによる「アメリカのスポーツシーズンである稼ぎ時の秋には開催しないでくれ。その代わり暇な夏場ならそれなりの対価を支払う」という金まみれのごり押しの故か。

選手ファーストならぬ米メディアファーストはオリンピックの私物化だ。日本でも同じ構図でオリンピックをめぐる利権が長いこと取り沙汰された。

ただマラソンだけは涼しい北海道での開催となったのが救いだったが、秋に開催すれば東京中心の一か所で済んだだろうに。

もうオリンピック開催地は各国持ち回りを止めて、古代競技会発祥の地で近代オリンピック第一回開催地であるギリシャのアテネに固定して欲しいと思う。

そもそも近代オリンピックはスポーツを通じて各国が相互理解を深める「平和の祭典」「参加することに意義がある」という理念で始まった。

既に各スポーツによる「世界大会」「国際大会」は一年中どこかで行われており、スポーツによる国際交流は日常化しているではないか。

近代オリンピックが「国際的な平和交流の要」としての位置づけを保つのであるのならば、過度の国家間競争やメダル争いに終始するのではなく、古代競技会から昇華した近代オリンピックの最初の理念に立ち返り、アテネでの恒常的かつ最適な気候の下での開催を望みたいものだ。





奇妙な一致

2024-05-22 09:55:48 | 災害
約一か月前の4月20日に太平洋上で訓練をしていた海上自衛隊のヘリコプター2機が衝突事故を起こし、2機とも海中深く沈んだが、双方にはそれぞれ4名が搭乗していたという。

そのうちの一人が見つかったが既に死亡しており、残る7人の生存は絶望的で、いまだに行方不明だそうだ。

ヘリコプター同士の衝突というのは珍しいが、夜間訓練だったことに加えてそれぞれが別の母艦から飛び立っているので2機が受ける電波の混線があったのではないかと取り沙汰されている。

フライトレコーダーを回収すればそのあたりの無線傍受に関するそれぞれの母艦との応答の内容が確認されるのだろうが、何しろ現場の海域の深さが5000mはあるというから、回収は不可能に近く、真相究明ははるか先だろう。

どちらかの機体の不具合という可能性も捨てきれないが、結局のところ海上自衛隊員の8名が殉職したという事実のみが確実ということだ。

ところで、この事故を聴いた時に思い出したのは去年の11月に屋久島沖で墜落した米軍のオスプレイの事故だった。その時の殉職者数もまた8名だったのだ。

あのオスプレイは何かの不具合を感じて屋久島空港に緊急着陸しようとしたがそれがかなわず、海中に墜落したのだった。

実はその事故を聴いた時に、同じ去年(23年)の4月に陸上自衛隊の東部方面隊所属のヘリコプターが、宮古島沖で管制塔のレーダーから消えて間もなく墜落した事故を思い出していた。

そのヘリコプターに乗っていたのは、当時の師団長と宮古島守備隊隊長という高官を含む10名であったが、坂本師団長は就任して間もなくの初めての偵察飛行の最中だったので驚きは大きかった。

国は違うが、イランの現職大統領一行を乗せたヘリコプターが、イラン西方にある東アゼルバイジャン州内の新たに建設されたダムの完成式典に臨んだ帰りに墜落したという。

その墜落したヘリコプターにはライシ大統領を含む8名が乗っており、全員の死亡が確認されたというのだが、このヘリコプター事故でもやはり8名が死亡している。

とすると去年4月の陸自機が10名だったことを除けば、この1年足らずの間にヘリコプター事故(オスプレイ機を含む)で死亡した人数が、判で押したように8名なのである。

ヘリコプターの搭乗定員が4名、6名、8名、10名というように偶数であることがこれらの奇妙な一致の真因だろうが、それにしてもオスプレイ機を含むヘリコプターの事故が多発してはいまいか。

イラン機の事故の場合、式典から帰る際に3機のヘリコプターが飛び立っており、そのうちのライシ大統領機を乗せた1機だけが墜落したという。

そのことで敵対するイスラエル軍の仕業ではないかという噂もあるようだ。

当時の天候がひどかったことと、旧型のヘリコプターだったため修理部品の劣化が避けられなかったためという解釈もあるのだが、場所が場所、時期が時期だけに憶測を呼んでいる。



急性記憶障害

2024-05-08 20:46:52 | 災害

今日の午後、トイレの黒ずみがひどいので家内がトイレ用洗浄剤を使い、加えて紙やすりで黒ずみを落としていたのだが、1時間ほどした頃、もう3時になっていたので休憩の時間と思い呼んだところ、家内は「何時になったの」と言いつつ、再び今度はもう一か所の黒ずみ落としに取り掛かった。

10分もした頃、また休憩しないかと呼んだが、こっちに顔を向けて「何時になったの」と同じ返事をする。こんな時は「まだ黒ずみが落ち切っていないから、もう少ししたら休憩する」という返事が普通だろう。

ところが、さらに10分後に「いい加減休憩したら」と語気を強めて言ったところ、返事は同じ「何時になったの」だ。

こうも同じ頓珍漢な返事をされて、不審に思ったのだが、4時過ぎにようやく終了した時にトイレを覗いたらすっかり黒ずみが落ちていたのでほっとしたのだが、そのあとの家内の言動がまたおかしいのだ。

トイレは綺麗になったか、と、道具の片付けの忘れ物はないわね、と繰り返して言う。

おかしいな――と思いつつ、綺麗になったし、片付けてもあるよと返答する。

しかしそれでも家内は同じことを繰り返して言う。

そのうちにトイレの掃除をしたことも記憶にないと言うではないか。

おお!これはどうしたことか!とうろたえつつも、家内自身も今日何をしたのか忘れてしまったことを不審に思い始めた。

何かをしたのはこちらから言えば薄っすら覚えているのだが、その内容についてはほとんど記憶から抜けていたのだった。

繰り返し「トイレ掃除をしていたのだよ」と言っているうちに、「もしかしたら記憶が無いのは毒ガスが発生したのかも」と言う。つまりこのような黒ずみを落とす際には塩素系の物と併用してはいけない、併用すると毒ガスが発生する、そのガスを吸ったので頭の中に記憶が残らなかった――と理性的な判断を口にした。

ようやくホッとした。自分が今日の出来事をすっかり忘れていたことに気付いたから、いわゆるボケ(認知症)ではないと確信したのである。

それにしても何が家内の今日の記憶を奪ったのだろうか。

トイレの黒ずみ落としに使った洗剤はフマキラーのトイレ用洗剤で成分は「塩酸」が9.5%、それに界面活性剤の「ポリオキシアルキレンアルキルエーテル」を配合していた。

この成分のうちがまず引っ掛かるのは塩酸9.5%だ。だがしかしもしこの塩酸から塩素ガスが発生したとしたら、トイレ掃除にこの洗浄液を使って10分もしないうちにせき込むか気分が悪くなり掃除など続けられないはずだ。

それよりも犯人は「ポリオキシアルキレンアルキルエーテル」ではないか。この化合物自体に毒性は少ないとしても、長時間下を向いてトイレの便器の陶器を紙やすりでこすり落としていたのだから、揮発性の成分ではないにしろ蒸発した成分を吸い込んでいた可能性が高い。

いくら好きな香りのする香水でも同じ香りを1時間も嗅いでいたら、頭がくらくらするのではないか。くらくら位いですめばよいが、吸い込んだ何らかの成分が脳に達して記憶障害を起こしたと考えたい。

何事も「過ぎたるは及ばざるに如かず」で、過度の取り組みは弊害を生む。


台湾の大地震はM7.7

2024-04-03 19:07:18 | 災害

今朝の8時58分ごろ、テレビ画面に緊急地震のアラートが表示された。

すわ南海トラフかと先走ったが、すぐに、沖縄県宮古地方と与那国島では津波が来るかもしれないから避難をしてください――とさほど緊迫度はなかったが、それでも「大変なことだ」と脳裏をよぎった。

しかしすぐに震度が表示され、与那国島で震度4、宮古島で震度3とあった。

「何だ、震度4じゃないか」と拍子抜けの体で、なおも画面を見ていると震源はごく浅く、マグニチュードは7.5と出た。「おう、意外に大きいぞ」と画面から目を離せなくなった。

震源に注意が行くまでやや時間を喰ったが、震源は台湾近海で、マグニチュードは7.7、震央の深さは23キロと訂正された(台湾当局の発表ではM7.2、華蓮県沖25キロ、震源の深さは15キロ)。

M7.7と言えばかなりの規模の地震だ。震源に近い台湾の東部海岸沿いの華蓮県では震度6強で、昼のニュースを観ていたら華蓮市が中継で映されていたが、大きなビルが横倒しになっていた。

4月1日に書いた1月1日の能登大地震で、朝市が開かれる通り沿いの3階か4階建てのビルがやはり横倒しになっていた光景と重なった。

この地震による台湾での死者数は午後7時現在で9名と極めて少ないが、負傷者は820名いるからこのうち重症者がどのくらいいるかだ。

台湾の東海岸では津波が発生したはずだが、それに関しての情報は今のところまだない。数百キロ離れた与那国島や宮古島で最初の予想では3mだったのだが、実際には30㎝とごく小さかった。

しかしわずか25キロの沖で発生しているから、台湾東部では3m程度の津波があっておかしくない。

西郷隆盛の奄美愛加那との間に生まれた菊次郎が赴任して活躍した宜蘭(ギラン)県では震度5強だったそうだが、こちらでの被害の実態は伝えられていないから、その程度は軽微だったのだろう。

台湾も日本列島と同じく環太平洋造山帯に属しているから、活断層が発達していてやはり地震災害の多い地域だ。

ただ活火山はごく少ないのが台湾の利点と言えば言える。

地震の島と地震プラス火山噴火の列島、どちらも人の生きにくい条件のはずだが、それを既成値として前向きに暮らしていくほかない。明日は我が身、御同輩と思いやる覚悟が必要だ。

ところで今日の天気は大荒れだった。

昨夜たしかに大雨注意報が出ていたのだが、雨はたいして降らず、それよりも風の強いのには閉口した。

午後4時過ぎからは台風並みの西風が日没まで吹きまくったが、この先いったいどんな気象になるのか予断を許さない。


1月1日と4月1日(2024.04.01)

2024-04-01 19:51:59 | 災害

新年の始まりは1月1日、新年度の始まりは4月1日。

今年はどちらも曜日は月曜と一致した。

令和6年1月1日元旦のあの能登大地震には本当に驚かされ、元旦のお屠蘇気分はすっ飛んでしまったのを思い出す。

今日4月1日は令和6年度の始まりの日で、ニュースでは各地の会社の入社式がクローズアップされていた。

能登地方のある市では新人市役所職員の辞令式が放映されていたが、インタビューの中である男子職員が市外の会社に決めていたのだが、地元に残って復興に携わりたいので役場に入職したと抱負を語っていた。

若手の活躍を大いに期待したいものだ。未来につながるだろう。

今度の地震では死者が240人余りと地震の規模にしては少ないが、インフラの破壊度はすさまじい。

中でも大きな被害が出たのは水道施設だ。まる3か月経っているのだが、まだ8,000戸弱が復旧されていないそうだ。

能登地震よりも大きな被害をこうむった熊本地震では、3か月後にはほぼ全戸で水道の復旧が行われたのだが、それに比べて能登地方の復旧の遅れが目立つ。

その原因としては、幅の狭い半島特有の道路事情の影響が大きいようだ。この地理的条件は変えようがないので被災者には同情するしかない。

今月は新年度ということで能登の青少年たちも移動の季節になっている。

進学で能登を離れる者、就職で離れる者、それこそ人さまざまだが、かつてなら彼らの多くはゴールデンウイークや夏休みに故郷に帰省するのが通例だろう。だが今年はどうだろうか。

帰っても家族で過ごした懐かしい家はないし、避難所に家族がいるからといって逗留することはできまい。

ただ父母がいて祖父母がいてこその故郷だから、どうしても様子を見たい、避難生活を励ましてあげたいという気持ちが募るに違いない。

延伸された北陸新幹線を記念し、石川県の復興を後押しする旅行割引もいいが、今年の夏は各地から能登に帰る若者たちに「帰省割引」でもサービスしてくれまいか。