③では、天孫として降臨したニニギノミコトの父・アメノオシホミミが本来ならば降臨するはずだったのがしなかったのはなぜか、について次のように結論した。
アメノオシホミミは「ミミ」という称号からして古日向の王であり、660年代に百済対新羅・唐連合の戦いに百済方へ加勢をして敗れたことがあり、その後の中央集権的律令体制を目指した大和王権の標榜する「日本王朝列島内自生史観」によって辺土のまつろわぬ民(蛮族)視され、「日本王朝列島内自生史観」を顕現した古事記・日本書紀(特に正史である書紀)においては、アマテラス大神の子とされながらも、日本王朝の皇室の直接の始祖とすることがはばかれたからである。
それでも降臨したニニギノミコトの父であるとは記載されているのだから、アメノオシホミミという古日向の王の系統が大和王朝(皇室)の祖先であることは否定されていない。
また、ニニギが天下って「179万余歳」を、数えることが可能な「179万余日」であろうと考え、その179万日とは約4900年にそうとうする。よって、ニニギが南九州の古日向の地にやって来たのは今から6200年ばかり前であろう。(※記紀編纂時代をさかのぼる4900年前は現在からは6200年前になる)
以上から、ニニギの降臨(到来)は6200年前の縄文前期に当たり、南九州の南方で鬼界カルデラの大噴火(約7400年前)が発生してから、約1000年あとになって植生が完全に回復して人が住めるようになった頃である。
ニニギと出会った大山津見の娘・カムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)が、子を産むときに産屋に火を放ったという神話も、火山活動の盛んな時代に生き延びた人々の記憶を総合した説話として説得力を持つ。
その子であるホデリ(海幸彦=隼人の祖)、ホオリ(山幸彦=皇室の祖)の釣り針を巡る争いは、水運に秀でた生業と陸産に秀でた生業のどちらが主導権を握るかの争いであり、結局は水運の方が敗れて陸上の狩猟や畑作中心の地域づくりの方が統治権を握ることになったことの象徴だろう。
畑作の中に米作りを入れるかどうか――が肝要な所だが、日本列島では6200年前に米作りをしていた証拠はまだ得られていない。
ただ、日向風土記(逸文)によると、ニニギノミコトが降臨する際に地上が暗かったので稲モミを撒いたら明るくなったという。そうなるとニニギの降臨の6200年前にすでに米作りはあったということになるが、これは後世の付会だろうか。
6000年前に確実に米作り(水田耕作)をしていたのでは中国大陸の「河母渡遺跡」が知られているが、列島では5000年前をさかのぼる遺跡は出ていない。それでも当時、畑作によるコメ作りはあった可能性は否定できないだろう。
古日向でもおよそそのような状態で、ホオリノミコト時代は火山灰土の生産性の低さに泣かされながらも、芋やクリ・果実などの山の幸と若干の畑作(アワ・ヒエ・イネ)及び豊富な水産物によってそこそこに暮らしていけたはずである。
特筆すべきは加工能力で、縄文早期(鬼界カルデラ噴出前の7500年~10000年前)に見せたあの薄手の芸術品と見まごう「円筒型・角型」で平底の土器群やつぼ型土器の製造ほどではないにせよ、様々な型式の土器群。また精巧な石製のノミは丸木舟を造ったり木材の生産加工に使用された。
古日向に王となったのは山幸彦であるホオリノミコトではあったが、海産や水運を担ったホデリノミコト(海幸彦)の働きも大きかった。特に水運では遠く北部九州に出かけ、黒曜石の移入に活躍していた。
大隅半島の垂水市柊原(くぬぎばる)遺跡(縄文中期~後期)から出土した黒曜石群を産地別に分けると、同じ南九州産が7割以上を占めるが、残りのものの産地では大分県の姫島、佐賀県伊万里市の腰岳など北部九州の名品が見られるという。
また、同じ頃の土器で市来式土器というのは屋久島や奄美大島などにも渡っており、古日向域では以下に水運が盛んであったかを証明している。
肥前風土記に見える「値賀島」(現在の長崎県五島市)の条には大ミミ・垂ミミという豪族がおり、景行天皇の時に王化に逆らったので討とうとしたが、海産物の種々の「御贄(にえ)」を貢納することを条件に赦したーーとあるが、この豪族たちの称号「ミミ」は古日向とのつながりを濃厚に感じさせる。
同じ条には「この島の白水郎(海人)は、容貌が隼人に似ている。常に騎射を好み、その言語、俗人とは異なっている」とも見え、南九州の隼人に似た容貌の海人が多くいる様子が分かる。
長崎県内では「滑石入りの縄文式土器」がよく出土するが、これは土器の焼き上がりのひび割れを防ぐためのもので、遠く朝鮮半島や薩摩半島でも出土しており、五島列島に住んでいたという隼人に似た「白水郎」の水運がもたらしたものではないだろうか。
山幸彦のホオリノミコトの系譜が古日向の王統であったとすれば、兄の海幸彦の系譜がその水運による経済力で王統を支えて(支えさせられて)いたのかもしれない。このあたりの経緯が「釣り針紛失を巡って争い、海幸彦が敗れて山幸彦に臣属する」という説話に象徴されたのではないだろうか。
ホオリノミコトによる古日向支配はどのくらい続いたのだろうか。
約6200年前のニニギノミコトの古日向への降臨(到来)があり、その後すぐに後継となったと考えるよりも、やはりまずはニニギ王朝のような存在を考えてよいのかも知れない。
ニニギノミコトが到達した先は薩摩半島の加世田(笠沙)であり、定住したのは金峰方面で古来「阿多」と呼ばれているところである。鹿児島県本土内で活火山である開聞岳・桜島の噴火による火山灰蓄積の比較的少ないのが、それら火山の西側の地帯である。なぜなら噴火した際の噴煙は多くが上空を西から東へ吹いている「偏西風」によって火山の東側に降り積もるからである。
ニニギの時代の古日向は鬼界カルデラの大噴火後はそれを凌ぐような大きな噴出はなかったが、それでも開聞岳の噴出(約3800年前)、山川湾、池田湖の噴出という大きな噴火があり、いずれも東側(大隅半島側)に大量の火山灰を降らせている。
ニニギノミコト時代はまだまだ火山活動の真っただ中にいたといってよい。したがってニニギ時代は6200年前から4000年前ということになるだろう(縄文時代前期から中期)。
ホオリノミコト時代になると比較的大地は安定しており、したがって土地を利用した経済活動が盛んになったはずである。
土地利用の中でも水田耕作がもっとも経済性の高い活動であったが、これを担保するのは水と集約的な労働力である。さらに農具である鍬は欠かせない。
水は湧水でも構わないが、水量は知れているので河川からの引き込みが重要視され、これを利用するには多くの労働力と農工具が必要になる。
農工具では石器に代わって鉄製のものが現れ始めたのが、中国大陸では春秋戦国時代(約2500年前)で、その後朝鮮半島部でも次第に普及していった。
朝鮮半島では伽耶に大きな鉄山が見つかり、これの開発が多くの耳目を集めた。朝鮮半島にいた倭人集団も絡んで、精錬と加工が行われ、日本列島にももたらされた。もたらした者は水運を生業とする海人集団で、彼らのうち多くは半島に定住地を有していただろうと思われる。
時代は700年ほど下って紀元200年頃のことだが、魏書の東夷伝の中の「馬韓・弁韓・辰韓」の条を見ると、弁韓と辰韓は雑居していて、刺青を施した者が多いとあり、これは倭人の海人集団を指している。
弁韓などはほぼ倭人国であり、のちに「伽耶」と呼ばれた国々は倭国の一部であった。(※このことはこの古日向論の(2)で詳しく論じるので結論だけ)
古日向におけるホオリノミコト(山幸彦)系譜の支配する王朝は、4000年前にニニギの後を継いでから鉄製の農工具類が普及する直前の2500年くらい前までではなかっただろうかと考えたい(縄文後期から弥生前期)。