鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向論(1)天孫降臨神話と古日向④

2019-04-30 09:13:32 | 古日向論

③では、天孫として降臨したニニギノミコトの父・アメノオシホミミが本来ならば降臨するはずだったのがしなかったのはなぜか、について次のように結論した。

アメノオシホミミは「ミミ」という称号からして古日向の王であり、660年代に百済対新羅・唐連合の戦いに百済方へ加勢をして敗れたことがあり、その後の中央集権的律令体制を目指した大和王権の標榜する「日本王朝列島内自生史観」によって辺土のまつろわぬ民(蛮族)視され、「日本王朝列島内自生史観」を顕現した古事記・日本書紀(特に正史である書紀)においては、アマテラス大神の子とされながらも、日本王朝の皇室の直接の始祖とすることがはばかれたからである。

それでも降臨したニニギノミコトの父であるとは記載されているのだから、アメノオシホミミという古日向の王の系統が大和王朝(皇室)の祖先であることは否定されていない。

また、ニニギが天下って「179万余歳」を、数えることが可能な「179万余日」であろうと考え、その179万日とは約4900年にそうとうする。よって、ニニギが南九州の古日向の地にやって来たのは今から6200年ばかり前であろう。(※記紀編纂時代をさかのぼる4900年前は現在からは6200年前になる)

以上から、ニニギの降臨(到来)は6200年前の縄文前期に当たり、南九州の南方で鬼界カルデラの大噴火(約7400年前)が発生してから、約1000年あとになって植生が完全に回復して人が住めるようになった頃である。

ニニギと出会った大山津見の娘・カムアタツヒメ(別名コノハナサクヤヒメ)が、子を産むときに産屋に火を放ったという神話も、火山活動の盛んな時代に生き延びた人々の記憶を総合した説話として説得力を持つ。

その子であるホデリ(海幸彦=隼人の祖)、ホオリ(山幸彦=皇室の祖)の釣り針を巡る争いは、水運に秀でた生業と陸産に秀でた生業のどちらが主導権を握るかの争いであり、結局は水運の方が敗れて陸上の狩猟や畑作中心の地域づくりの方が統治権を握ることになったことの象徴だろう。

畑作の中に米作りを入れるかどうか――が肝要な所だが、日本列島では6200年前に米作りをしていた証拠はまだ得られていない。

ただ、日向風土記(逸文)によると、ニニギノミコトが降臨する際に地上が暗かったので稲モミを撒いたら明るくなったという。そうなるとニニギの降臨の6200年前にすでに米作りはあったということになるが、これは後世の付会だろうか。

6000年前に確実に米作り(水田耕作)をしていたのでは中国大陸の「河母渡遺跡」が知られているが、列島では5000年前をさかのぼる遺跡は出ていない。それでも当時、畑作によるコメ作りはあった可能性は否定できないだろう。

古日向でもおよそそのような状態で、ホオリノミコト時代は火山灰土の生産性の低さに泣かされながらも、芋やクリ・果実などの山の幸と若干の畑作(アワ・ヒエ・イネ)及び豊富な水産物によってそこそこに暮らしていけたはずである。

特筆すべきは加工能力で、縄文早期(鬼界カルデラ噴出前の7500年~10000年前)に見せたあの薄手の芸術品と見まごう「円筒型・角型」で平底の土器群やつぼ型土器の製造ほどではないにせよ、様々な型式の土器群。また精巧な石製のノミは丸木舟を造ったり木材の生産加工に使用された。

古日向に王となったのは山幸彦であるホオリノミコトではあったが、海産や水運を担ったホデリノミコト(海幸彦)の働きも大きかった。特に水運では遠く北部九州に出かけ、黒曜石の移入に活躍していた。

隅半島の垂水市柊原(くぬぎばる)遺跡(縄文中期~後期)から出土した黒曜石群を産地別に分けると、同じ南九州産が7割以上を占めるが、残りのものの産地では大分県の姫島、佐賀県伊万里市の腰岳など北部九州の名品が見られるという。

また、同じ頃の土器で市来式土器というのは屋久島や奄美大島などにも渡っており、古日向域では以下に水運が盛んであったかを証明している。

肥前風土記に見える「値賀島」(現在の長崎県五島市)の条には大ミミ・垂ミミという豪族がおり、景行天皇の時に王化に逆らったので討とうとしたが、海産物の種々の「御贄(にえ)」を貢納することを条件に赦したーーとあるが、この豪族たちの称号「ミミ」は古日向とのつながりを濃厚に感じさせる。

同じ条には「この島の白水郎(海人)は、容貌が隼人に似ている。常に騎射を好み、その言語、俗人とは異なっている」とも見え、南九州の隼人に似た容貌の海人が多くいる様子が分かる。

長崎県内では「滑石入りの縄文式土器」がよく出土するが、これは土器の焼き上がりのひび割れを防ぐためのもので、遠く朝鮮半島や薩摩半島でも出土しており、五島列島に住んでいたという隼人に似た「白水郎」の水運がもたらしたものではないだろうか。

山幸彦のホオリノミコトの系譜が古日向の王統であったとすれば、兄の海幸彦の系譜がその水運による経済力で王統を支えて(支えさせられて)いたのかもしれない。このあたりの経緯が「釣り針紛失を巡って争い、海幸彦が敗れて山幸彦に臣属する」という説話に象徴されたのではないだろうか。

ホオリノミコトによる古日向支配はどのくらい続いたのだろうか。

約6200年前のニニギノミコトの古日向への降臨(到来)があり、その後すぐに後継となったと考えるよりも、やはりまずはニニギ王朝のような存在を考えてよいのかも知れない。

ニニギノミコトが到達した先は薩摩半島の加世田(笠沙)であり、定住したのは金峰方面で古来「阿多」と呼ばれているところである。鹿児島県本土内で活火山である開聞岳・桜島の噴火による火山灰蓄積の比較的少ないのが、それら火山の西側の地帯である。なぜなら噴火した際の噴煙は多くが上空を西から東へ吹いている「偏西風」によって火山の東側に降り積もるからである。

ニニギの時代の古日向は鬼界カルデラの大噴火後はそれを凌ぐような大きな噴出はなかったが、それでも開聞岳の噴出(約3800年前)、山川湾、池田湖の噴出という大きな噴火があり、いずれも東側(大隅半島側)に大量の火山灰を降らせている。

ニニギノミコト時代はまだまだ火山活動の真っただ中にいたといってよい。したがってニニギ時代は6200年前から4000年前ということになるだろう(縄文時代前期から中期)。

ホオリノミコト時代になると比較的大地は安定しており、したがって土地を利用した経済活動が盛んになったはずである。

土地利用の中でも水田耕作がもっとも経済性の高い活動であったが、これを担保するのは水と集約的な労働力である。さらに農具である鍬は欠かせない。

水は湧水でも構わないが、水量は知れているので河川からの引き込みが重要視され、これを利用するには多くの労働力と農工具が必要になる。

農工具では石器に代わって鉄製のものが現れ始めたのが、中国大陸では春秋戦国時代(約2500年前)で、その後朝鮮半島部でも次第に普及していった。

朝鮮半島では伽耶に大きな鉄山が見つかり、これの開発が多くの耳目を集めた。朝鮮半島にいた倭人集団も絡んで、精錬と加工が行われ、日本列島にももたらされた。もたらした者は水運を生業とする海人集団で、彼らのうち多くは半島に定住地を有していただろうと思われる。

時代は700年ほど下って紀元200年頃のことだが、魏書の東夷伝の中の「馬韓・弁韓・辰韓」の条を見ると、弁韓と辰韓は雑居していて、刺青を施した者が多いとあり、これは倭人の海人集団を指している。

弁韓などはほぼ倭人国であり、のちに「伽耶」と呼ばれた国々は倭国の一部であった。(※このことはこの古日向論の(2)で詳しく論じるので結論だけ)

古日向におけるホオリノミコト(山幸彦)系譜の支配する王朝は、4000年前にニニギの後を継いでから鉄製の農工具類が普及する直前の2500年くらい前までではなかっただろうかと考えたい(縄文後期から弥生前期)。


古日向論(1)天孫降臨神話と古日向③

2019-04-24 10:42:35 | 古日向論

古日向を舞台にした「古日向神話」(天孫降臨神話)は古事記によれば、最初、高天原から葦原の中つ国に降臨するはずだったアメノオシホミミノミコトが、降臨の準備をしているうちに子のニニギノミコトが生まれたので、ニニギノミコトが中つ国に降臨することになった。

ここで不可解なのがアメノオシホミミがなぜ辞退したのかということである。

たしかに、ニニギノミコトが高天原からの降臨に際して「真床覆衾(まどこおふすま)」(書紀)、つまり赤児として降った方が地上に慣れるのに都合がよいのかもしれないが、古事記には「赤子で降った」という表現はない。

この部分を古事記では「ここに、アマツヒコホノニニギノミコトは天の磐座を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、イツの地分きに地分きて、天の浮橋にウキジマリ、ソリ立タシテ」とあるように、自らの足でぐいぐいと地上に向かって行く姿を描いている。

本来ならば父のアメノオシホミミ(天照大神の五男子の一人)がこのように降臨していたはずであるが、アメノオシホミミ自身が降れなかった理由は書かれていない。

ここで考えてみたいのが、アメノオシホミミが避けられた理由である。

私見では邪馬台国に匹敵するほどの「戸数5万戸」の大国・投馬国こそが古日向域を領土としていた(この見解については古日向論の第2章「邪馬台国論争と古日向」で詳細に論じるので、ここでは結論として扱う)。

魏志倭人伝によると、この古日向「投馬国」の王(官)を「ミミ(彌彌)」、副官(女王)を「ミミナリ」と言ったとあり、ここから推論すると、アメノオシホミミは古日向の王であったことになる。

そしてこの古日向は②で論じたように、白村江の戦役で唐・新羅連合に敗れて半島での倭人利権を失ったがゆえに、中央集権化によって列島の統一を目指す大和王権による「日本列島内王朝自生史」を描かざるを得なかった記紀においては、「王化に属さない蛮族の住む地域」に貶められた。

そうなると、そのような蛮族の支配する古日向域の旧投馬国から、中つ国全域(列島全域)を支配するような王者を生むようなストーリーは描けないというのが記紀編纂者たちの最低限の自制であったろう。

そこでその子のニニギノミコトを降ろすという、ワンクッション(一世代)置いた表現にしたのだろうと思われる。

もっとも、ワンクッション置いたからと言って、ニニギノミコトはやはりアメノオシホミミノミコトの子であることは謳われているのだから、いずれにしても古日向に「天孫降臨」が行われ、ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ・そして神武(トヨミケヌ)と四代にわたって古日向域でその歴史を紡いだということは否定されていない。

そこで、天孫降臨の嚆矢であるニニギノミコトの説話が何を象徴しているのか考えてみたい。

古事記によるとニニギノミコトは「竺紫の日向の高千穂のクシフルタケ」に降り立ち、そこから笠沙岬に赴き、そこで大山津見神の娘・カムアタツヒメ(コナハナサクヤヒメ)と出会い、子としてホデリ・ホスセリ・ホオリの三男子を得るのだが、この生まれ方がすさまじい。

カムアタツヒメは、孕んでいるのは国津神の子だろうというニニギの疑いを晴らそうと、産屋に火を点けて、その中で子を産んだ。その結果は無事に三男子が生まれたわけだが、この火の中で生まれるという点を私は「火山活動の中で生まれる」ということの象徴と捉えるのである。

古日向は九州では阿蘇地方と並び、列島中でも、活火山の活動が極めて大きい地域で、古日向域だけでも、北から、霧島火山帯を有する「加久藤カルデラ」、桜島を有する「姶良カルデラ」、開聞岳の属する「阿多カルデラ」そして薩摩半島の南40キロほどの海中にある「鬼界カルデラ」と、直径20キロ前後の巨大カルデラが4つもその中心部を貫いている。

これは地球上でもまれな光景で、特に最後の鬼界カルデラの噴出は7500年前で、人類有史史上最大と言われる噴火を現出し、それまで存在した古日向域の縄文早期のつぼ型土器及び角型・円筒型の平底土器を有する先進文明は壊滅に瀕した。

古日向のほぼ全域にわたって地中に見いだされる「アカホヤ火山灰層」はその時のもので、アカホヤ火山灰が降り積もる前に襲来したであろう火砕流は植物も家も人ももなぎ倒したのであった。

しかし、この1万年に一度の大噴火でも、北寄りの遠方に住んでいた古日人や海にのがれ得た古日向人の子孫はいたはずで、数百年して火山灰に覆われた土地の植生が回復するのを見計らって、再び父祖の地に戻ってくるようなことがあったのだろう。

(※鬼界カルデラの大噴火で移動した古日向人は、列島内では西九州の海岸地帯、四国の海岸地帯、さらに海外では太平洋の向こうの南米ペルーやチリなどにも到達した可能性がある。南米のインディオに見られるATL=成人T細胞白血病の遺伝子は、鹿児島など南九州に多いATLと共通しているとの研究結果がある。)

この火山活動の極めて盛んな父祖の地に再び戻って来たというのが、ニニギノミコトの降臨の中身ではないだろうか。カムアタツヒメが産屋に火を放ちながら、無事に出産を果たしたというのはこのことの象徴としてよいのではなかろうか。

その年代を特定すれば、やはり鬼界カルデラの噴出年代からそう遠くない時期であろうから、噴出を火山地質学によって7500年前とされていることから、7000年前として大過ないだろう。

実はこの年代については、日本書紀の「神武天皇紀」に次のように書かれているのが示唆になるかもしれない。

「この時(ニニギノミコトの降臨の時)、世は荒きに属し、時に暗きにあたれり。ゆえに正しきを養い、この西辺を治めり。皇祖・皇考、すなわち神、すなわち聖にましまして、よろこびを積み、ひかりを重ね、多くの年を経たまえり。【本文注記=天祖の天降りましてよりこの方、179万2470余歳。】」若干の修正あり)

ここに見える【本文注記=天祖の天降りましてよりこの方、179万2470余歳】が最初は荒唐無稽にしか思えなかったのだが、「歳」を「日」とみなすとにわかに現実味を帯びてくるのだ。

「天祖の天降りまして」とある「天祖」は高天原より降ったニニギノミコトを指すが、その時から現在(編集年代=西暦700年頃)までの期間が、いくら神話とはいえ冗談にもほどがある179万年という過去。

誰しも信じられないし、第一、179万年前にいた人類は猿人の類であり、現生人類ではない。仮に知能の高い人類が存在したとしてもどうやって数を数えたのであろうか。

原始時代の人類は数の数え方でまずはおのれの指を使うが、大きな数になると木の枝や石を使うことは可能だったろう。

文字通り、枝一本または石一個は一(ひとつ)に該当する。これを10本または10個で十。100本または100個で百。

古語での数え方に「百千万(もも・ち・よろず)」というのがあるから、おそらく百というのが区切りの単位だったと知れる。

一万を数えるのに石が一万個必要かというと、百ごとにそれまでより大きな石を「百の石」使えば、再び小石を並べて百まで行けば、その時にまた二個目の「百の石」を使うと、200が数えられる。

こうして数えていくと、小石100個と、そりより大きな中石100個があれば、一万までは数えられることになる。

さらにまた、一万個について大石一個を「一万の石」とすれば、小石100個、中石100個そして大石100個で百万まで数えられる。

したがって179万を数えるのに必要な石は、小石100個、中石100個、大石100個、特大石79個でよいことになる。

これらの石を保管する場所は、それぞれの石の大きさによるが、当然必要最小限の大きさの石を選ぶことになるだろうから、まず、10畳間ほどの空間があればよいだろう。

問題はこの数える単位が「年」だった場合で、一年に一個の小石を置いていくわけだが、50年もしたら人の一世代が終わるので、少なくとも(179万年÷50年=)35800世代もの世代を数える間、ずっと保管していなくてはならず、これはまず考えようがない。

そういう点もだが、一年が終わった(過ぎた)のをどう数えるのかという技術的な問題もあって、天文学を知らない以上、年を数えるのは非常に困難である。

これが「日」であれば、179万日÷365日=4904年となり、ぐっと現実味を帯びる。そのうえ、「日」というのは誰もが認識できる現象で、朝日が昇って明るくなって、夕方日が落ちて暗くなったら一つの「日」である。

夕方暗くなったら、小石を一つ前の日の次に置けばよいだけの話で、集落の西はずれに「日置き小屋」(仮称)でも設置して、小屋の管理人が日没後に所定の小石(一日の石)を一個、小屋の中の「一日の石」置き場に並べればよい。

そうしてそれが100個溜まったら、今度は離れた場所に「百の石」を置き、小石はずべて回収して翌日は再び一個から置き始める。

こうして中石が100個並べられたら、一万日が経過したことになり、これを繰り返して「一万の石」が100個溜まったら100万日が数えられる。

179万日の状態とは特大石が1個、大石が79個となった状態のことと同値である。(※中石と小石はそれぞれ100個ずつ手持ちにしておく)

179万日は数えることが可能であり、それによれば、179万日とは約4900年を表している。この4900年は記紀編纂時点までの年数であるから、編纂時点を西暦700年とすれば、紀元前4200年ということになる。

すなわち「天祖が天降りてこのかた、179万余歳」を「179万余日」とすると、天祖ニニギノミコトが古日向のクシフルタケに登場したのは、今から6200年ほど前の縄文時代前期の頃ということになり、7500年前の鬼界カルデラ大噴火のほとぼりが完全に冷め、植生がすっかり回復して古日向での生存が可能になった時代になったであろうから、整合性は得られよう。

このニニギノミコトから次の世代のホオリ(書紀ではホホデミ)へのバトンタッチがいつだったか、これも神話の象徴するところを尋ねてみれば分かりそうである。

 

 

 

 

 

 


古日向論(1)天孫降臨神話と古日向②

2019-04-19 11:19:25 | 古日向論

660年から668年に至る唐・新羅対百済・高句麗の戦いに加担した倭人水軍の大敗(白村江の戦役)によって古日向も水軍を失ったり半島の利権を失うという痛手をこうむった。そしてその後の列島支配は大陸王朝の唐の律令制と仏教政策を大幅に取り入れた強力な中央集権化であった。

大和王権側は列島の隅々までの支配を敢行しようと、地方の大国(大勢力)を細分化するという政策に出たので勢い各地で叛乱がおきた。そのうちの大規模なものが古日向におけるいわゆる数次の「隼人の叛乱」であった(東北でも大きな蝦夷の叛乱が起こっている)。

記紀神話はこうした地方の抵抗を「王化に属せぬ蛮族による叛逆」として「熊襲」「蝦夷」「隼人」などの「蔑視的な種族名」で記し、あたかも中央の王権側に属する側の倭人(日本人)とは別人種かのような書き方で終始したため、古日向(東北も)に住んでいた倭人は「蛮族」視されるようになってしまった。

(※ただし、720年の隼人の叛乱が終息してから、中央王府に「隼人の司」という役職が設置され、「隼人」は王府を守る兵士の一員となったため、「熊襲」「蝦夷」ほどの蔑称視からは免れることになった。)

大和王権は朝鮮半島の倭人が列島に移って来たり、逆に向こうに住み着いたりしても、もう半島における利権は回復の余地が無く、自由任せであった。つまり半島とは完全に一線を画し、王権は列島だけに限られることになった。

そこで国史である記紀をまとめるにあたって、大和王権の支配の領域は大昔から列島のみに限られ、それゆえずっと列島内だけで天皇家は王朝を継続してきたという、私見で言う所の「大和王権列島内自生史観」が据えられた。

その結果、上述のように南の果てである南九州の大国・古日向は「熊襲」や「隼人」という王化に逆らう蛮族の故地ではあっても、天皇家の発祥の地であるなどとんでもない(あるいは戦時中に神話が史実であったとして教えられたことへの知的アレルギー)として、記紀神話は学者からは造作(おとぎ話)と一蹴されたわけである。

しかし、これは邪馬台国研究の泰斗・安本美典氏が述べているのだが、

「(神話学者や日本史学者が)記紀神話を大和王権の成立過程と支配の正当性を強調するための造作に過ぎないとするのならば、天孫ニニギをあんな遠い九州の果ての山に降ろさずとも、大和地方のしかるべき山に降ろしたらよかったのではないか。その方がずっと大和の「聖地性」が強調されて大和王権にとって都合がよかったのではないだろうか」

との問いかけには、答えに窮してしまうだろう。

私は史実として古日向における天皇家発祥に至るまでの長い歴史があったと考えているが、天孫降臨神話そのものが史実であったと考えるものではない。

神話はあくまで「史実の象徴的表現」なのである。

③以降で、その「象徴」が何を象徴したものかを考察し、記していくことになる。


古日向論(1)天孫降臨神話と古日向①

2019-04-14 10:34:15 | 古日向論

天孫降臨神話は別名「日向神話」とも呼ばれている。舞台が古日向だからである。

神話学者はこの「日向」を正しく「600年代以前の日向」(私論で使う古日向)と捉え、現在の宮崎県と鹿児島県を含む広大な領域と考えているから問題ないにしても、一般的な記紀の学習者は「宮崎県の神話だ」と短絡してしまうので大いに注意が必要である。

この短絡を避けるためには「日向神話」ではなく「古日向神話」に代えてもらいたいと私などは思うのだが、今のところ神話学者の間でもそう改める動きはないようである。

私論では600年代以前の日向を「古日向」とするので、「日向神話」という部分はすべて「古日向神話」と言い換えることにする(もっとも必要な場合以外は天孫降臨神話と表記するつもりなのでさして面倒ではないが)。

さて、天孫降臨神話とは何かと言えば、皇室が斎(いつき)まつる天照大神(現実に祭るのは御魂代としての八咫鏡)の孫にあたるニニギノミコトが高天原から古日向に天下り、ホオリノミコト、ウガヤフキアエズノミコトという直系を経てトヨミケヌノミコト(神武天皇)が誕生するまでの説話のことである。

(※古事記はこの天孫直系4代に一代一名のみのニニギーホオリーウガヤフキアエズートヨミケヌを挙げるが、日本書紀は各世代に多様な名を挙げており、漢字で書くと大変なことになるので、最も省略的な名をカタカナで表記するので了解されたい。ただ、解釈上必要な場合はもちろん漢字の表記を取り上げて論じる。)

天孫が古日向に降臨したこの記紀ともに認める説話に対して、戦前、史学会にに大きな影響力を持った津田左右吉は、「日向国、つまり日に向かう国という吉祥な地名なので、そこ(南九州)を説話の舞台にしたに過ぎず、天孫降臨神話は皇室の出自を飾るための造作(作り話)である」とおおむねこう述べて天孫降臨神話をおとぎ話の類にしてしまった。

また、鹿児島国際大学教授であった隼人論の大家・中村明蔵氏はこの津田説を支持し、かつホオリノミコト(山幸彦)の兄であるホデリノミコト(海幸彦=隼人の祖)について、「隼人の出自は皇室の祖先ホオリノミコトの兄であるとして、南九州で大和王権に叛逆する隼人を我が身内に囲い込み、反抗を和らげようとした」と天孫降臨神話は南九州の風土や風俗を巧みに取り入れたとする大和王権側の造作説を唱えている。

さらにまた、神話学の泰斗である大林太良(東大教授)は、「ニニギが火を、山幸彦(陸の支配者)であるホオリが海幸彦のホデリを破ることで海をも支配し、大和王権の完全性を強調した説話である」という見方をしている。

いずれにしても、天孫降臨神話は当時(600年代末期=天武・持統・文武天皇時代)の大和王権側の「国策」によって作られた話であるという点では一致している。

津田説は、そもそも文化度の低い南九州が皇室の祖先であるわけがない、という南九州無視論であって取着く島がないが、中村説および大林説は造作論とは言っても、まだ南九州(古日向)の風土や歴史を観察し考慮しているのでうなづける点は多い。

中村説では、天武・持統王朝のもとで国策(戸籍作成・令制普及・仏教化)を推し進めるために南島へも特使を派遣して王化を急いでいたことで、現地隼人の非常に強い抵抗にあったことを神話の記述に反映させ、「隼人の祖先と皇室の祖先は天孫二代目の時に兄弟であった」とすることで隼人を懐柔しようとしたーーとするのだが、この隼人懐柔論は無理があろう。あまりに共時的に過ぎるのである。

それより、山幸彦たるホオリノミコトと海幸彦たる隼人の祖のホデリノミコトの争いで山幸彦のホオリノミコトが勝利したのは、660年から663年にかけて行われた白村江の戦に出陣した海洋系の隼人(そのころはまだ隼人とは呼ばれていないので正確には古日向の航海が生業の海人)が壊滅的な打撃を受けて没落し(その没落海人の統率者は天智天皇であった可能性が高い)、天武天皇を中心とする陸上の農業を中心に据えた令制国家への求心的な指向がおのずと高まったことを反映しているのだと思う。


大坂維新の会の勝利

2019-04-10 22:35:01 | 日本の時事風景

4月7日に一斉に行われた地方議会選挙のうち、注目の大阪では前大阪府知事の松井氏が市長選に出て当選し、前大阪市長の吉村氏が府知事選に出て当選した。

前例のない知事と市長の交換出馬には批判もあったが、大阪都構想を推し進めるための奇策で、法令(公職選挙法)違反ではない。

大阪市を廃止し、途中に大阪市の入らない「大阪都○○区」にするのは東京都に倣うわけだが、これにより府・市の二重行政は解消に向かうだろう。

もっとも大阪に限らず、神奈川県横浜市・川崎市をはじめいわゆる「政令指定都市」はすべて二重行政なのだが、大阪の場合は東京都の補完的役割が期待されるので非常に重要である。

東京一極集中はとどまるところを知らない。国会を筆頭にすべての公的機関(ほかに企業の本社やマスコミ)が集まってしまうと、いざ災害の時に国家機能がマヒする可能性が高い。

東日本大震災でもあれだけの都市機能停止になったのだから、そう遠くない時期に起こるのは間違いないとされる首都直下型や東南海トラフ・南海トラフ由来の大地震・大津波への備えにはまずは大阪都への公的機関の移転から始めてもらいたいものだ。

この首都分散に加えて、私が希望するのは「還都」である。

即位の礼を京都御所で済まされた明治天皇は明治元年(1868)に江戸城に行幸し、翌年の10月に美子(はるこ)皇后が江戸城に入ると江戸城は東京城と改名され、明治4年(1871)の11月に東京で大嘗祭が営まれ、この時点で東京城が皇居となり、東京が日本の首都となった。

江戸城が皇居になったのは、「徳川武家政権の本拠地を差し押さえて天皇親政の新しい国家にする」という象徴的意味合いが強かった。

城というのは本来の伝統的な天皇の在り方からすればマッチしない施設である。1000年余り天皇家が祭祀を中心に過ごした京都御所こそがふさわしい。

皇居が京都に移るのは、元に復するので「還都」というが、これにより少なくとも宮内庁はすべて移動し、また外国の大使館や公使館なども移る国があってもよい。また文科省や文化庁など文化的な行政も移ったらよい。

大阪都には経済を中心とした行政機関を置くようにすれば、東京の国家機能分散が進み、大災害への対応にも余裕が生まれるのではないだろうか。

是非そうなってもらいたいものだ。今度の大阪の選挙結果は近来になく面白いことになった。