鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

鬼ノ城西門の「楯型文様」

2024-03-29 16:12:21 | 古代史逍遥

先日書いた<鬼ノ城が最強の城に>ではNHKの日本各地に残っている城でもっともインパクトのある城を、城に関しては一家言のある芸能人をゲストに迎えて決めるという番組で、今回紹介された四つの城の内から選んだら、岡山県の総社市にある「鬼ノ城(きのじょう)」という一風変わった城が選ばれた。

この城の基本情報は「663年に百済を救援しようとして向かった倭国の船団が白村江の海戦でほぼ壊滅したあと、列島に亡命した百済人の力を借りて戦勝国である唐や新羅からの遠征を防ごうと列島各地に防御用の朝鮮式山城を何か所か築いた中の一つだろう」――というものだ。

岡山県総社市にある標高400mの「鬼ノ山」の頂上部に周囲2.8キロという広大な石積みの囲いが築かれ、その中に城と思しき施設があったとされている。

たしかに日本型の城塞とは趣を異にしており、朝鮮伝来の強固な山城には違いない。

テレビではその中の「西門」がクローズアップされていたが、復元された西門の上部を見て私は驚きを禁じ得なかった。

というのは西門の上の板状の文様の中に、我々には親しい「隼人の楯」に似た逆S字の文様が見えていたのだ。

逆S字文様は「僻邪(魔除け)」の意味があり、どうやら平城京の創建当時から使われていたようだ。

平城京の跡地を発掘調査していた時に、井戸跡から何枚かの「隼人の楯」が見つかり、このことにより延喜式の中に登場する「隼人司」の管轄で「僻邪」の役割で隼人たちが駆り出されたことが分かる。

そのことと、この鬼ノ城の西門の逆S字状のデザインとは関係があるのかという疑問が起きたのだった。

そこでまず鬼ノ城ビジターセンターに問い合わせたところ、「たしかに隼人の楯を参考にしています。それと、岡山市の操山古墳群のうち金蔵山古墳から見つかった盾形の埴輪にも逆S字型の文様が見つかっていて、両方を参考にしたデザインと聞いています」との返事。

そこで古墳と言えば埋蔵文化センターの管轄だろうとネットで電話番号を調べ、当該施設に連絡を入れた。

そうしたら「金蔵山古墳出土の物は倉敷考古館に展示があります」とのことで、今度は倉敷考古館に連絡を入れたところ、「金蔵山古墳の報告書の中に盾形埴輪の図形(スケッチ)があるので、それをファックスで送ります」と送ってもらうことができた。

これが金蔵山古墳の「逆S字文様」の描かれた盾形埴輪の復元スケッチである。

線が複雑でよく分からないが、この楯の大きさは幅が60㎝、縦が120㎝の埴輪としてはかなり大型だ。

そこで意味のある線刻を赤の細字用マジックでなぞり、さらに線刻の中身全体を同じマジックで彩色してみた。

この楯には彩色した右側の縦の群と、左側の縦の群とがセットで、右と左では対偶対称(左右も上下も反対になっている状態)であることに気付かされる。

また右側のマジックで線をなぞったこの文様は逆S字型ではない。「ええっ」と思わされるが、よく見ると真ん中の線は交わっていない。

隼人の楯では真ん中の部分は分離せずにダブっているのだ。

真ん中の赤と黒の部分は決して分離しておらず、一体化している。

また金蔵山古墳のは円形を描いていない。複雑な曲線の集合体である。この複雑な文様こそ「僻邪」の意味を持つのに違いない。

さらに隼人の楯では上下の鋸歯文は内向きだが、金蔵山のは外向きである。

隼人の楯の文様は余りに洗練され過ぎていると思われる。

だが、金蔵山出土の盾形文様の埴輪が造られたのが4世紀の終末から5世紀の初めとされており、そうなると平城宮の井戸跡から出土した隼人の楯は8世紀の奈良時代であるから、金蔵山出土の盾形文様より3世紀も後のことになる。

とすれば両者はそれぞれ独立してデザインされたとするより、金蔵山の盾形文様の方が隼人の楯の文様の起源ということになる可能性が強い。

古代岡山は吉備と呼ばれたが、この吉備と南九州にルーツを持つ隼人との関係がまたもやクローズアップされることになったと言ってよい。

しかしながら、まず4世紀にかくも複雑極まりない「僻邪の文様」をデザインした古墳時代人には一目置きたいと思う。

 


鬼ノ城が「最強の城」に

2024-03-16 09:19:00 | 古代史逍遥

昨夜のNHK「最強の城スペシャル」では4つ挙げられた名城のうち、ゲスト4人の話し合いの結果、岡山県総社市にある「鬼ノ城」が選ばれた。

この番組の司会者は鹿児島県出身の恵俊彰で、ゲスト出演者のひとり高橋英樹は芸能界では知る人ぞ知る城マニアだ。また今回は出ていなかったが、落語家の春風亭昇太も同様で、いつも番組では城巡りの蘊蓄を語っている。

今回取り上げられたのは、千葉県にある大多喜城、赤穂浪士の故城・赤穂城、鹿児島島津氏の鶴丸城、そしてこの鬼ノ城だった。

大多喜城は現在地元の高校の敷地に掛かっており、その分価値が減るように思われるが、いすみ鉄道路線との相性がよく、インスタ映えのする人気の城である。

赤穂城は水城と言ってよく、掘割にそそり立つ石垣の屈曲が見事で、私などはこの城を第一に挙げた。

鹿児島市の黎明館に藩主館のあった鶴丸城はもともと天守閣がない城として有名で、後背に聳える城山と一体化して防御が考えられており、近世の城というよりも中世の山城を彷彿とさせている。

そして今回ゲスト4名から「最強の城」の栄冠を勝ち得た岡山県総社市の「鬼ノ城」。

これを地元では「きのじょう」と呼ぶらしいが、鬼城(きじょう)山という標高約400mの頂上一帯が城の敷地で、その周りを土塁が延々と囲っている(ゲストの上方に映し出されているのは鬼ノ城の西門)。

土塁の幅は7m、高さも7mほどあり、土を突き固めた版築工法で造られている。その距離は2.8キロというから半端ではない。そこにこれほどの土をどうやって運び上げ、崩さないように土壁に仕上げたのかがよく分からないようだ。

また築造について、日本書紀などの古史料には記載がないため、そもそも何の目的で誰が築いたのかが不明である。

大方の推測は次のようである。

あの白村江の海戦で倭の水軍が壊滅し、救援に行ったはずの百済は完全に滅び、その王族はじめ多くの百済人が日本列島に渡って来た。

彼らの中には石を多用した山城(いわゆる朝鮮式山城)を築く技術に習熟した者が多く、倭王権(大和朝廷)は敵対した唐と新羅の連合軍がいつか攻めて来るのを予想し、百済人亡命者を使って防御用の堅固な城を築かせた。

対馬の金田城、九州の太宰府にある水城、長門の城(城の名は不明)、四国屋島城、畿内の高安城などが主な朝鮮式山城だが、この岡山県総社市の鬼ノ城もその一つではないかと考えられているようだ。

たしかに土塁とはいえ、こんな高い山頂部(麓からの比高は300m近くある)に高さ7mもの壁を周囲2.8キロにわたって築き上げる技術は、魏志倭人伝(韓伝)時代の3世紀以降、国家間(三韓・高句麗・大陸王朝間)の争いが絶え間なかった半島人の獲得したものだろう。

番組ではこの城跡からの眺めの内に、総社市はもとより岡山平野から遠く瀬戸内海までが視野の内に入っているとして、半島からの進攻への監視所的な城でもあるような捉え方をしていた。

ところで上の番組内で映された「西門」をよく見ると、その上部にあたかも居酒屋のメニューのような楯状の板があり、そこに書かれたデザインがあるものにそっくりなことに気付かされた。

全部で15枚の板があるが、真ん中から左右対称に掲げられた中で、それぞれ片側には一つ置きにクエスチョンマークに似た「鉤(かぎ)型」が見える。しかもその上下には三角形のギザギザがあるではないか。

これは俗に言う「隼人の盾」そっくりなのだ。

一体これはどうしたことだろうか?

番組ではそんな指摘はなかったので、インターネットで総社市の観光案内を調べてみたが、やはり言及はない。

鬼ノ城が日本100名城であり、最強の城であることに異論はないが、ひとつ謎が増えてしまった。

 

(追記)

隼人の楯について>

昭和38年(1963)に奈良の平城京跡地の井戸底から出土した「隼人の楯」。長さ5尺(約150㎝)、幅1尺8寸(約54㎝)、厚さ1寸(約3㎝)を測る。

延喜式の隼人の楯に関する記述通りの寸法のまま発掘された。ただし、鮮やかな色は復元されたもの。

隼人の司に従い、元日式や即位式、また国外からの使者に対する儀礼の場に居並び、魔除け的な役割を担った隼人たちが所持していた。

真ん中に描かれているのは「鉤(かぎ)型」と呼ばれ、赤・白・黒三色でうず巻き文様が上下対称に描かれている。たての上と下に見える三角形の波文様とともに「魔除け」の意味を持つとされている。

鬼ノ城の西門の上に掲げられた10数枚の板状の物のうち特にこの隼人の楯に似た板は、実は「楯」をモデルにした「魔除け」で、門からの敵の侵入を防ぐためのものだったのかもしれない。

 


とんでもない出土品

2023-01-27 21:10:30 | 古代史逍遥
奈良県奈良市の日本最大と言われる円墳(直径109m)「富雄丸山古墳」のわずかに付属している造り出しの部分から未だかってない出土品が現れた。

ひとつは「盾形銅鏡」であり、もう一つは「蛇行剣」である。

後者の蛇行剣はこれまでも日本各地で見つかっているが、今度の発掘品は長さがなんと2.3mもあるという代物であった。日本で見つかった最も長い物が83㎝というのだから、実に約3倍の長さである。


発掘調査をした橿原考古学研究所の所員もびっくりしたという。

しかしもっと驚くのは「盾形銅鏡」の方だ。


銅鏡と言えば円形なのが普通であり、これまで発掘された何万という数の銅鏡でその例外はない。

ところが、ところがである。角張っているのだ。それで「盾形銅鏡」。

長さは64㎝、幅は31㎝で、半分に割れば円形の銅鏡が2枚作れそうな大きさである。

専門家はこれらは国産で、共に「僻邪」(魔除け)のために埋納されたという。

さらに専門家は前方後円墳ではないことから、被葬者は大和王権の王族クラスではなく「秘書官クラス」だろうという。要するに大王の腹心の部下が被葬者ではないかという。

具体的には誰かという指摘はなかったが、この円墳のある富雄は、富雄川の流域にあることから推理すると、平群氏の一族だろうと思われる。

4世紀の後半という築造年代だとすれば、平群氏の始祖の可能性が考えられる。

平群氏は武内宿祢の後裔とされており、そうであるならば武人の系譜であり、武人であるならば鏡が「盾形」だったり、考えられもしない長大な蛇行剣を作っていてもおかしくはない。

私見では平群氏の始祖と言われる「平群木菟宿祢(へぐりのづくのすくね)」の墳墓ではないかと思う。

平群木菟宿祢は応神天皇の16年に新羅に行ったまま帰らない葛城襲津彦を迎えがてら、新羅を攻撃し、襲津彦とともに弓月君たちを連れて帰ったという。勲功極めて大きなものがあった人物である。

私見では平群氏の墳墓だが、奈良の考古学者や歴史家の意見はどうだろうか?

これまでの常識を覆す前例のない副葬品なので、どんな見解が示されるか固唾を吞んで待ちたいと思う。

出雲の神宝は金印か(古代史逍遥ー4)

2023-01-10 10:49:21 | 古代史逍遥
【大倭と厳奴と邪馬台国】

第10代崇神天皇は北部九州の糸島を本拠地とする五十(イソ)国王であった。

その来歴については、朝鮮半島南部の三韓のうち辰韓に最初の王権を築き、公孫氏を滅ぼした魏の司馬懿将軍が次には半島攻略を狙って来るのを避け、ついに王宮を糸島に移したので和風諡号「ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ」と表現された。

また息子の第11代天皇垂仁の和風諡号は「イクメイリヒコ・イソ(五十)サチ(狭茅)」であり、これは垂仁天皇が糸島という狭い地域の中で生まれ育ったことが表現され、さらに青年時代にイクメ(生目・活目)として邪馬台国の一等官として赴任したことがあることも表現している。

糸島の五十王国は崇神と垂仁の2代で北部九州の倭人国家群を糾合し「大倭」に成長したと考えられ、その大倭は魏志倭人伝の記す「国々に市有りて、有無を交易す。大倭をしてこれを監せしむ」とあるように、邪馬台国国家群内の市場取引を監督していた。

邪馬台国は、当時、言わば「大倭」の監視下にある保護国のような立場にあったわけで、その監督者の官名こそが一等官であった「伊支馬(イキマ=イキメ=生目)」だったと考えられる。

では邪馬台国が大倭から監督されるというような危機的状況に陥った原因は何だったろうか?

私見の邪馬台国は筑後の八女だが、北部九州の筑前と福岡県南部の筑後の間には佐賀県小城市から朝倉市にいたる広大な平野部があり、もともとそこを支配領域としていた「厳奴(イツナ)」こと「伊都(イツ)国」勢力が威力を振るっていた。「厳(イツ)」とは武力に秀でていることを示し、大国主が別名「八千矛(やちほこ)神」と呼ばれ、干戈によって国々を治めていたことの表現に他ならない。

しかしこの厳奴(イツナ)と北部九州の海岸部から南へ勢力を伸ばして来た五十王国(大倭)とは、早晩、干戈を交える運命にあった。そして実際に戦闘になった。

これが後漢書も記す「倭国の大乱」で、ついに大倭が勝利し、厳奴の主たちは出雲に流され、一部の者たちだけが佐賀平野の西の山間部、現在の厳木(きうらぎ)盆地に留まることを許された。これが倭人伝に記載の「伊都(イツ)国」である。

この厳奴の残存勢力が伊都(イツ)国として存続を許されたのは、おそらく大陸の漢王朝時代に彼我の交流を通じて漢籍や外交に明るかったからだと思われる。だが、厳奴の大首長である大国主は現在の出雲に流されたと見る(イツナ→イヅマ→イヅモ)。先年、出雲地方で発掘された銅鐸の鋳型が佐賀平野東部の三津永田遺跡から見つかっているのは一つの考古学的証拠である。

(※八女の邪馬台国は、厳奴と大倭との間の戦乱に直接巻き込まれることなく無事であったが、北部九州の大倭によって保護国化され、監督(総督)の置かれている間は良かったが、「大倭」こと崇神・垂仁の五十王国が大和へ東征してしまうとたちまち南の狗奴国の侵攻を許すことになった。

その結果、2代目女王トヨの時に八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されてしまう。トヨは辛くも九州山地を越えて落ち延び、宇佐地方に至り小国を安堵された。宇佐神宮に祭られる正体不明の「比女之神」こそがトヨであり、このトヨに因んで現在の大分県域が「豊の国」と呼称されたと考えている。)

【出雲と崇神・垂仁王権】

北部九州から出雲に流された厳奴の首長は八千矛神ことオオクニヌシであった。この神は出雲大社に祭られているが、出雲大社の本殿の向きが西なのは、元の本拠地である北部九州を忘れてはならぬという決意の反映だろう。

出雲大社の宮司は千家氏(中世の一時期から北島氏も神職を得ていた)だが、現在の宮司は千家尊祐氏で84代続いており、2世紀後半の倭国大乱の結果厳奴が出雲に流されて祭祀が始まったとすると現在まで84代約1800年の系譜ということになり、1代が22年ほどとなり、代数と年数に整合性が得られよう。

千家氏の始祖は天照大神の五男子の二番目「アメノホヒ」であるのは、北部九州の厳奴と大倭との戦いこそが「国譲り」だったことを端的に示している。高天原系の天つ神が、敗れた側の国つ神である大国主を祭り、二度と干戈を交えないようにするための方途として第一級のやり方である。

さてこの出雲には神宝(シンポウ=かむたから)があるという。

日本書紀によると、崇神天皇の60年7月に崇神天皇は次のように臣下に告げた。

<武日照命(タケヒナテルノミコト)が天から持参した神宝は出雲大社にあるというが、ぜひ見たいものだ。>

そこで矢田部氏の遠祖である武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。

しかし、この時に神宝を管理していた出雲振根は筑紫国(九州)に出かけていて留守だった。ところが振根の弟の飯入根(イヒイリネ)は兄に相談もなく神宝を崇神王権に上納してしまった。

筑紫から帰って来た兄の振根は怒り心頭で、ついに弟を殺害した。

その事情を下の弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子のウカヅクヌは崇神王権に訴えたところ、王権側から吉備津彦(キビツヒコ)と武渟河別(タケヌナカワワケ)が派遣され、振根は殺されてしまう。

崇神王権はついに出雲を徹底的に叩く政策に出たようである。

厳奴(イツナ)は北部九州において宿敵として戦った相手だが、首長の大国主は生存を許されて葦原中国を天孫に譲り、自分は「百足らず八十隈手に隠れて侍らわん」と出雲の地を隠居の地として鎮まったわけだが、その出雲には「神宝」があるとして、それを差し出させることが最終の目的だったかのようである。

【出雲の神宝とは】

その神宝が崇神王権側に奪われ、当時の首長で神宝を管理していた出雲フルネが殺害されたことで、出雲では神祭が行われなくなってしまった。その時に丹波の氷上の人が「子どもが神がかって不思議な歌を唄いました」と朝廷に奏上したのだが、其の歌とは、

<玉藻の鎮め石 出雲の人祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主。 山河の水泳(くく)る御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主。> 

意訳してみると、「水の中で藻が付着した石を出雲人が祭っている。本当の立派な鏡を押しのけてしまうような素晴らしい神。これこそが水底にある宝の中の宝だ。山川の水によって洗われている御魂が静かに居付いているような素晴らしい神。これこそが宝の中の宝だ。」となる。

前半の「宝の中の宝」までと後半の「宝の中の宝だ」までの二つの文は、同じ「宝の中の宝」を少し表現を変えて形容しているのだが、共通しているのは「宝の中の宝」が水中にあるということである。

また、その宝の貴重なことは、前半の文中の「本当の立派な鏡」を押しのけてしまう、つまり鏡よりも数段上の宝というほどだというのだ。

当時の貴重品は何と言っても祭祀の必須アイテムである「鏡・玉・剣」だろう。この中でも「鏡」こそは天孫降臨の際に天照大神が孫のニニギノミコトに「鏡を私の形代にしなさい」と言ったのであるから、最高の御神だったはずである。

しかしながら、それを上回る貴重な宝だというのである。

その宝を求めて崇神天皇は武諸隅を出雲に派遣し、その結果、神宝の管理者出雲フルネが筑紫(九州)に出かけていた留守の間に上納させることに成功したようだが、宝がどんなものであるかは不明であった。

ところが時代の垂仁天皇になったその26年8月、垂仁天皇は突然、物部十千根(モノノベトヲチネ)の大連に対して次のように言い出したのだ。

<「たびたび出雲に使いを遣って出雲の神宝を調べさせるのだが、どうもはっきりしない。お前が出雲に行って調べて来なさい。」

そこで物部トヲチネが出雲に出張し、調べて「これこそが出雲の神宝だ」と断定し、そう復命した。物部トヲチネはその神宝を管理することになった。>

これで出雲の神宝探しは一件落着したというわけだが、この時もまた出雲の神宝が鏡なのか玉なのか剣なのか、明確に記されていないのである。

出雲ではオオクニヌシが主祭神だが、オオクニヌシは高天原から出雲に天下ったスサノヲノミコトの6世の子孫であり、ならばスサノヲがヤマタノオロチから得た「草薙剣」こそが出雲で祭るべき至高の神宝のはずである。

それならそうと記されて何の不思議もないだろう。

ところがそのような記載はないのである。

【「漢倭奴国王」の金印こそが出雲の神宝か・・・】

父の崇神天皇は出雲の神宝を求めたが、得られず、子の垂仁天皇の時に改めて出雲の神宝を求めたが、これもどうやらはっきりしない。

そこで神宝探索の最初に戻ってみよう。

崇神天皇の派遣した武諸隅の時、神宝を管理していた出雲フルネは筑紫(九州)に行って留守だった――というのだが、朝廷から使者が派遣されるにあたっては突然やってくるのではなく、あらかじめ何らかの予約があってしかるべきだろう。

その予約がありながら、神宝を管理している肝心の出雲フルネが筑紫に行ってしまって留守をしていたということも通常なら有り得ない行動である。

私はそこに出雲の策略を見るのだ。つまりフルネは神宝が危ういとみて神宝を筑紫に持ち出し、そこに隠したと考えるのである。

九州北部には元来の土着倭人がおり、それを支配していたのがオオナムチことオオクニヌシの厳奴(イツナ)であった。その一国である博多奴(ナ)国は西暦57年に漢王朝に朝貢した。その結果得られたのが「漢倭(委)奴国王」の金印であった。

この金印は漢王朝の藩屏であることを物語るしるしだが、倭国として初めての「大国のお墨付き」であり、当時の倭人の国々のどこも持ち得ない最高の勲章なのであった。博多奴国を傘下におさめるのちの出雲こと厳奴(イツナ)にとっても同様であった。

ところがその後、約100年にして、糸島を本拠地とする五十(イソ)王国の崇神王権が次々に北部九州の倭国を傘下に「大倭」を形成すると、大国主の厳奴(イツナ)と「大倭」の両雄は戦端を開いた。

これが「倭国大乱」であり、後漢書に依れば「桓霊の間」すなわち後漢の「桓帝」と「霊帝」の統治期間(148年~187年)に起きた筑紫最大の戦乱であった。大国主の厳奴(イツナ)は敗れ、出雲に流されたことは上で述べたとおりである。

この時、厳奴(イツナ)は「漢倭奴国王」の金印を大倭に差し出さず、「神宝」として出雲に持参し、深く隠匿したのだろう。

それが崇神王権が大和に開かれ、しばらく経つと「あの漢王朝から貰ったという金印はどうなったのか」と過去を振り返るようになり、それは出雲にあるという疑いに発展し、ついに「神宝を探し出せ」という崇神の要求になったに違いない。

その一報を聞いた出雲フルネは金印を持って筑紫に下り、ゆかりの地である博多沿岸の志賀島の海岸の浅瀬に石の板囲いを設え、その中に金印を隠したのだろうと考えるのである。

まさに「水泳(かか)る」場所であり、もしかしたら出雲から元の本拠地である筑紫北部を奪還しようとして金印に魂を込め、海岸の浅瀬に置いたのではなかろうか。

時は移り天明4年(1784年)、当地は陸地となっており、そこを田んぼとして耕作していた百姓甚兵衛が排水路を改修していた折に金印を見つけたのであった。金印は実に1500年ほどの眠りから覚めたのである。これこそが「出雲の神宝」であろう。






北部九州の「大倭」から畿内の「大和」へ(古代史逍遥-3)

2022-12-22 16:32:01 | 古代史逍遥
奈良県の「大和地方」と言えば、古代王権の揺籃の地であり、また絶対王権を巡る争乱の地でもあった。

【大和(やまと)の語源】

この「大和」だが、この名称の謂れについては分かっているようでよく分かっていない。

そもそも「やまと」が先か、漢字の「大和」が先なのか。

日本語(倭語)の地名なら、まず倭語で「やまと」という呼称があり、その後に漢字が取り入れられて地名を漢字で表記するようになってから「大和」を当てるという時系列になり、「やまと」が先ということになりそうである。

しかしそうなるとなぜ「やまと」を表記する漢字に「大和」があてられたのか、が問われなくてはならない。

そこで地名学者などが唱える説を見ると、おおむね「山の麓」説もしくは「山の入り口」説が大勢を占める。

ところがこの説は陳腐過ぎる。なぜなら「山の麓」にしろ「山の入り口」にしろ、このようなものは奈良県の中央部のみならず、全国到る所にあるからだ。そんなどこにでもあるような地名を王権発祥の地でありのちに日本史上並びなき権力の中枢であった地方に名付けるとは思われない。

まして「山の麓」「山の入り口」という「やまと」からは決して「大和」という漢字表記は生まれない。

「やまと」は実は邪馬台国畿内説を唱える人たちは「やまたい」から「やまと」に転訛したと考えている。行程論的に畿内説は絶対あり得ないのだが、「邪馬台国は大和にもともとあった。その証拠に<やまたい>から<やまと>へと連続しているではないか」と考えるのは一理ある。

私も「やまと」という呼称の淵源は邪馬台国の「やまたい」にあったと考えるのである。

ただし、私は「やまたい」を「あまつひ」から来たと考えている。

邪馬台国女王ヒミコの属性を私は「アマツヒツギのヒメミコ」と捉え、「天津日継ぎの姫御子」という漢字を当てている。天なる日(アマテラス大神)を「継ぐ」ほどの霊力をも身に供えた姫なのがヒミコであったろう。

これをローマ字で表すと「amatuihi-tugi-no-himemiko」となり、この倭人の発音を聞いた中国人使者が、「yamatuhi-tugi」と頭音に「Y」を付けて「やまつい」と転訛したものと考えるのである。

そして「やまつい」が彼らの「漢音」によって表した時、「邪馬台(国)」となったのであろう。

つまり「天津日継のヒメミコのおわす国が我らの国である」という倭人の自国の呼称に対して中国の使者及び史官が示した反応が「邪馬台国」という表記だったのである。

【二つの「大倭国」】

「大倭」(タイワ)は魏志倭人伝に登場する名称である。その部分を抜き出すと、

<国々に市有りて、有る無しを交易す。大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国之を畏れ憚る。>

以上の4つの短文のうち、2番目にあるのが「大倭」(タイワ)である。

前の2文を解釈すると、「女王国に属する国々には市場があり、有るものと無いものとを交換している。(その市場を)大倭に監督させている」となる。

この大倭を「倭の大人」と解釈する向きがほとんどだが、それなら「倭之大人」と書けばよく、著作者の陳寿がたった2文字を惜しんで「倭の大人」とすべきところを「大倭」にしたとは思えない。私は女王国とは別の「大倭」という国を連想した。

3文目と4文目は、その「大倭」が女王国以北の国々に「大率」なる「武力装置」を置いて威嚇していた――と解釈する。

要するに、女王国は当時、「大倭」という国家(群)の支配下にあったと考えるのである。その内容が、女王国にあった官名は第一位が「伊支馬(いきま)」、第二位が「彌馬升(みましを)」、第三位が「彌馬獲支(みまわき)」、第四位が「奴佳てい=革ヘンに是(なかて)」であったが、このうち第一位の1等官は「生目」と読み替え、江戸幕府でいう「大目付」、つまり監督者と思われる。

ということは、女王国は当時、大倭なる組織によって監督されていたことを意味する。その大倭こそが北部九州においての一大勢力で、具体的に言えば現在の福岡県糸島市に本拠地を構えた「五十(いそ)王国」であった。この五十王国の盟主が第10代とされる崇神天皇である。

そして皇子の第11代垂仁天皇は和風諡号「イクメイリヒコ・イソサチ」で、「イクメ」は「イキメ(生目)」であるから、垂仁天皇はまだ父の崇神が糸島の五十王国に王宮を構えていた頃に、「生目」(伊支馬)として女王国に赴任していた可能性があると考えている。

糸島にあった「五十(いそ)王国」が発展して九州北岸の国々を傘下に入れて作った連合が「大倭」であり、これを私は「九州北部倭人連合」と捉えたのである。

この九州北部の「大倭」が登場するのが、『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」で、その序文には次のように九州北部に「大倭国」があったことを記している。その箇所を抜粋すると、

<(神武)東征の時、「大倭国」において漁夫に見(まみ)ゆ。>

神武東征を既定の事実としており、その東征の節に「大倭国において潮路をよく知っているという漁夫(シイネツヒコ)に出くわした」というのだが、この「大倭国」を「大和国」と解釈することはできない。なぜなら「大和国」には海がないからである。

二つ目の「大倭国」については序文の後の方で、

<シイネツヒコを以て「大倭国造」となす。>

ともう一度登場する。この「大和国造」がのちの「大和国」を表しているのは明らかであるが、では「大倭国において漁夫シイネツヒコに出くわした」とある「大倭国」とはどこの国だろうか。記紀の神武東征説話にはサオネツヒコという別名で登場するが、大分県(豊後・豊前)と愛媛県(伊予)の間に所在する「豊予海峡」が該当する。

この豊予海峡に近い国と言えば、それこそが北部九州倭人連合の「大倭」である。

この大倭(タイワ)と伊都都比古(いつつひこ)が率いる厳奴(いつな)とが佐賀平野から筑後川流域の肥沃な地帯を巡って戦い、結局、厳奴の方が敗れて主だったものは「出雲(いつな→いつま→いづも)」に流さた。そして一部のものは厳木町という佐賀平野の西の隅に押し込められたのだが、私の考える魏志倭人伝に記載された「伊都国(いつこく)」なのである。

【「大倭」から「大和」へ】

「海路を案内しましょう」と言って神武東征の船団の前に現れたシイネツヒコ(サオネツヒコ)は豊予海峡から北上した先の大倭国(北部九州倭人連合)の国人ではなく、古事記によればヒコホホデミの孫だという。

それだとヒコホホデミの孫である神武とは世代がピタリと合致する。そのシイネツヒコの案内で瀬戸内海を東に向かい、ついに畿内の前哨に位置する難波に到達した。その後はナガスネヒコの攻撃にあって南へ大きく迂回し、熊野から陸路を奈良南部の宇陀から飛鳥地方までを攻略しつつ、橿原に都を樹立する。

そして道案内の功により、シイネツヒコは「大倭国造」に任命されたという。

この「大倭国造」は「大和国造」と同義だが、九州北部にあった「大倭」が「倭」を「和」に換えられて、そのまま奈良県大和地方の地名に横滑りしたことになる。

いわゆる「地名遷移」の一形態だが、「倭」と「和」の違いがあり、この違いは単に「倭」は縁起の良くない卑字だから吉祥字の「和」に代えたというだけではなく、実は上記のような歴史的な意味を持っている換字なのである。

要するに、(1)北部九州の大倭(北部九州倭人連合=盟主は糸島を本拠地とした五十王国の崇神王権)が畿内に東征を果たしたがゆえに大和地方が「大倭国」となり、その大倭という漢字はのちに「大和」に換えられたこと。

(2)その読みについては、九州の女王国(盟主はヒミコ)の倭人呼称「アマツヒツギのヒメミコの国」が、中国の使者および史官(陳寿)が「ヤマツイ国→ヤマタイ国」と表記したのをそのまま取り入れて「やまと」にしたこと。

以上の二つの歴史的な事象から「大和」が生まれ、かつ「やまと」というこの漢字にしては不可解な読みが付けられたのだろうと考えるのである。

※(1)については私見の「二つあった神武東征」に詳しい。
※(2)について中国人が名付けた「ヤマタイ」が「やまと」になるはずがない、と思う人も多くいるようだ。だが今日では日本をジャパンと呼ぶケースが増えているが、このジャパンの語源は宋の時代に中国を訪れたマルコ・ポーロが日本のことを中国人が「リーベン」と発音したのを「ジパン(グ)」と書き記したのが西洋で一般化し、今現在はジャパンとして国際的に定着したもので、そのことを思えば、「アマツヒツギの国」から中国音で「ヤマツイ→ヤマタイ」が倭語に取り入れられ「やまと」になって定着したとして何の不思議もない。















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