鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

熊本県出身力士では初の優勝

2020-09-28 11:01:22 | 日記
大相撲秋場所で、熊本県出身の正代が、自身も初、県出身力士としても初の優勝を飾った。13勝2敗だった。

熊本県出身力士では、これまでに優勝者が一人も出なかったそうだが、これには驚くほかない。

相撲解説者も言っていたが、熊本の中学・高校の相撲部は全国的にも強豪で有名らしいのだが、プロの大相撲では芽が出なかったそうである。

これをようやく打ち破った意義は大きい。ここのところ熊本は震度7が2回あった「熊本大地震」や、今年7月の人吉豪雨災害など暗いニュースが続いていたから、県民への明るい励ましのプレゼントだ。

・・・ここで休題・・・

昨日、正代のことを書きかけたのだが、「女優の竹内結子さん逝去。自死のもよう」というニュース速報が飛び込んで来た。

俗語の「ウソーッ」という若向きの言葉が口から出かかった。

聴けば40歳の若さ。しかも今年の1月に男の子が生まれたばかりだという。

「乳飲み子を抱えているのに自死とは?」と考え込んでしまったが、すぐに思ったのが「産後ウツ」か、だった。

しかしインターネットなどで調べてみると、産後ウツはおおむね3か月くらいまでで自然に癒えるようで、産後8か月の竹内さんには適用できない。

もちろん個人差はあるので一概に否定はできないが、近所の人の最近の目撃情報によると「普段通りの気さくな振る舞い見えた」そうだから、ウツの線は消えるだろう。

するとやはり例の連鎖なのか。あのトレンディ俳優三浦春馬の自死が影響しているのだろうか。三浦春馬とは共演している映画があり、そっちの線が濃厚だ。

二人とも、4月に自死した女子プロレスの木村花のように「SNS上で罵詈雑言を浴びせられたゆえの自殺」とは対極的で、周りからは俳優としての才能や人柄をほめたたえられてきた存在である。

ただ、人には外見や振る舞いからは推し量れない「心の鬱積」が誰でも大なり小なりはあるものだ。

聞くところによると、三浦春馬の場合は母親との間に心理的なトラブルがあったという。それが自死を選んだすべてではないだろうが、自分が苦労して磨き上げたという自負心というものがないまま、周りの注文にひたすら応じていることに嫌気がさしたのではないか。

竹内結子もそういう一人だったのかもしれない。高校生の時に既に女優業を開始しているが、以来マネージャーが付き、失敗してなんぼの実人生とは別の「作られた(フィクションの)世界」にどっぷり漬かったままの芸能生活が日常になった。これは三浦春馬にも共通だろう。

こういう人たちに「人生とは何か」を問うてもおそらく「今の自分しかないのだけれど・・・」と首を傾げ、うつむいてしまうだろう。

お受験から始まる「エスカレーター症候群」は何も子供だけの話ではない。

今はただ、女優・竹内結子さんのご冥福を祈りたい。

・・・ここから復題・・・

さて正代の優勝には熊本県勢初の優勝のほかにもいくつかがメモリアルだ。

学生出身の優勝者としては古くは横綱輪島をはじめ9人いるが、東京農大出身者では初めて。

また属する時津風部屋からの優勝者として1963年の北葉山以来57年ぶり。

本名をしこ名にした優勝者としては上の輪島以下、長谷川、保志(現理事長の八角親方)、出島についで5人目。

平成生まれの優勝者として、照ノ富士、御嶽海、貴景勝、朝乃山に次ぎ5人目。

面白いというか、唖然とするというか、熊本県勢の優勝はただ今度の正代の1回だが、最多は北海道勢の120回。モンゴル勢が88回。北海道の強さにはあきれて物が言えない。自分としてはひょっとしてモンゴルかと思っていたのだが・・・。

(※以上の情報は今朝の南日本新聞による)

ついでに「正代(しょうだい)」という本名だが、気になるのでインターネットで調べたところ、全国で400軒ほどあり、うち熊本県には130軒ばかりあるという(関脇正代は同県宇土市の出身)。

正代の本字は「小代」で、埼玉県東松山市に「正代」地名があり、そこから平安時代末期に熊本の荒尾に移って来たそうである。(※以上は「日本姓氏語源辞典」name-power.netによる)

この平安末期から鎌倉時代にかけては関東信越方面から九州に移った武士団が多い。鹿児島でも鮫島氏、二階堂氏、渋谷氏など非常に多いし、熊本県人吉の相良氏は駿河からの移住である。

来場所には新大関正代となる。この地位も県勢初だろう。

邪馬台国問題 第3回(「史話の会」9月例会)

2020-09-25 14:44:06 | 邪馬台国関連
前回からいよいよ倭人伝本文に即して解釈を施していったが、今回はその2回目である。

【前回の要旨】
コースは船で帯方郡から半島を沿岸航法で南下し東して狗邪韓国に到着し、そこから朝鮮海峡を渡り、対馬国・壱岐国を経て九州北岸の末盧国(唐津市)に上陸した(水行10日=距離表記では1万里)。この時点で「帯方郡より女王国に至る1万2千里」のうちの1万里が消化されたことになる。

末盧国から邪馬台国までの残りの2000里は徒歩(陸行1ヶ月)で、まず東南の松浦川沿いを遡上し、500里で「伊都(イツ)国」の厳木(きゆらぎ)町へ。ここで旅装をあらためて東南へ100里で奴国(戸数2万戸=多久・小城市)、東100里歩いて不彌国(大和町)へ。

残り1300里は今日の佐賀平野の山沿いをほぼ東へ、途中、吉野ケ里を通過して筑後川に到り、三根町辺りで川を渡り、久留米から筑後八女へ。私見ではここに邪馬台国の女王卑弥呼が住んでいた。

以上が邪馬台国への行程である。

「海峡渡海水行所要日数1日=水行1000里」説によって帯方郡から末路国(唐津市)までの水行1万里は所要日数が10日。また唐津から東南に松浦川沿いに遡行していく陸行2千里は所要日数が1ヶ月。

これが「南至る邪馬台国、女王の都する所へは水行10日、陸行1月(かかる)」という行程記事の正体であった。

ただし、水行(船行)では一日に行ける距離を「1000里」とし、陸行(徒歩)では一日で行ける距離を「100里」としてあり、どちらの「里」も、実際の距離単位の里ではないことに気が付かなければならない。


さて、今回はこの邪馬台国の「官制」の記述から始まる。原文の書き下しは以下の通り。

〈官に「伊支馬」有り、次を「彌馬升」と曰い、次を「彌馬獲支」と曰い、次を「奴佳鞮」と曰う。7万余戸なるべし。女王国より以北はその戸数・道理の略載を得べくも、その余の傍国は遠絶にして詳しきを得べからず。

 次に「斯馬国」有り、・・・(中略=以下20か国を挙げるが煩雑なので省略する。ただし最後の国「奴国」を記しておく)・・・、次に「奴国」有り。これ女王の境界の尽くる所。その南に狗奴国有り。男子を王と為す。その官に「狗古智卑狗」有り。女王に属さず。
 郡より女王国に至るに万2千余里。〉

邪馬台国の「官制」(統治組織)だが、トップに出て来るのが「伊支馬(イキマ)」である。これは当然倭語なのだが、帯方郡からの使者が邪馬台国で聞いた名称を、まず帯方郡使が記録した時点で「イキマ」を漢字の音を取り入れて「伊支馬」と書いたのか、もしくは陳寿の史局にもたらされてから陳寿が「伊支馬」と記載したのか、どちらかであろうが、今のところ決定打はない。

いずれにしても「伊支馬」を私は「イキマ」と読む。

「イキマ」とはどのような存在なのか。官制のトップであるから今日で言えば「首相・総理」に当たるわけだが、私はこの「イキマ」を「生目(いきめ)」の転訛と捉え、邪馬台国へよそからやって来て監視する総督のような存在と見る。

すなわち、邪馬台国は「伊支馬」によって監督される保護国のような状況であったと考えるのである。

ではどこの勢力によって保護国化されたのか?

この勢力とは倭人伝の後に出て来る「大倭」のことである。「大倭」についてはまだ先で詳述するので、ここでは「九州北部倭人連合」のことであるとの指摘だけにとどめておく。

さて2番目の官は「彌馬升(ミマショウ)」といった。これの当時の倭語を私は「ミマシヲ」と考える。つまり「ミマの男」と復原する。

では「ミマ」とは何か。これは「スメミマ(皇孫)」のミマ、すなわち「孫」に該当し、要するに子孫の男ということである。女王卑弥呼一族の直系の男子に他ならない。

三番目の「彌馬獲支(ミマワキ)」は、「ミマ」は二番目と同じ「子孫の」という意味だろう。それより考えなければならないのは「獲支(ワキ)」の方である。

「ワキ」は「脇」「別」などの倭語だろうとは考えられるが、果たして具体的に何を指すのだろうか。私は前者の「脇」ととり、ミマワキは「ミマ」の配偶者、つまり「女官長」クラスの倭語ではないかと思う。これも後述になるが卑弥呼が擁立された時、「婢千人を以て、自ら侍る」ことになったようだが、この千人の婢を統括するのが「女官長」の役割と見たい。

最後の第四番目の官を「奴佳鞮(ナカテイ)」と言ったとあるが、これこそ後出の「卑弥呼のもとに出入りして飲食を提供したり、卑弥呼へ情報を伝えたり、卑弥呼からの「ご神託」を持ち返ったりする役目の官である。

このナカテを倭語の意味では「中手」で、「中に立つ人」のことだろうと思われる。のちに「中臣(なかとみ)」と表記されるその祖語ではないかと考えたい。

さて、末盧国(唐津市)に上陸してから伊都国をはじめ奴国や不彌国など徒歩で通過して来た国々については、その官の名や距離・方角・戸数を記載できたが、それ以外で女王国に属する国の数は21か国あるが、遠方なので詳細が分からない。ただ国名を列挙するだけだ――とある。

いま煩雑を顧みず、すべてを挙げると次の通りである(「国」は省いてある)。

1斯馬、2已百支、3伊邪、4都支、5彌奴、6好古都、7不呼、8姐奴、9対蘇、10蘇奴、11呼邑、12華奴蘇奴、13鬼、14為吾、15鬼奴、16邪馬、17躬臣、18巴利、19支惟、20烏奴、21奴

以上が女王国に臣属している国々である。これらはすべて倭人が国名を述べたのを帯方郡の使者が聞き覚え、それを陳寿のいる晋の史局にもたらし、今度は陳寿自身が倭人の発音を基にして万葉仮名風にその音に近い漢字を当てて記したものであろう。

これらのうち、音価で拾えるのは、1「しま」、3「いさ」、4「つき」、5「みな」、9「つそ」、10「そな」、12「かなさな」、13「き」、14「いご」、15「きな」、16「やま」、18「はり」、19「きい」、20「うな」、21「な」の15国だろうか。

無理に読めなくもないが、しかし読めたからと言って現在の九州島のどこの地名なのか、明確にはしがたい。

それでも1は「杵島」、2は「諫早」、9は「鳥栖」、12は「神崎」、13は「基山」、16は「山国」、そして21番目の奴国は「玉名市」に比定できると思われる。女王国連盟のうちもっとも南に位置する国で、菊池川を挟んだ南側は狗奴国の領域になる。

この狗奴国についてはこう記してある。

〈その(最南部の奴国の)南に狗奴国あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗(くこちひく=きくちひこ)あり。女王に属さず。〉

狗奴国は男王がいて、官を菊池彦といい、女王国には属していなかった。

この狗奴国についてはあとの本文で邪馬台国との関係が描写されているので、これ以上の言及は避けておく。

そしてこの段落の最後に陳寿はこう書いている。

〈郡より女王国に至るや、万2千余里である。〉

この12,000里のうち、1万里が帯方郡から末盧国までの1万里(水行で表記すると所要日数10日)であり、上陸した末盧国(唐津市)からは、まずは東南方向へ徒歩で2000里(陸行で表記すると1か月)行った所に女王国がある――ということをダメ押ししているのがこの一文である。

邪馬台国畿内説はこれで100パーセント(最近の強調法で言うと200パーセント)成立しないことになる。

邪馬台国が九州に存在した2~3世紀の頃、畿内には(他の地方でも)邪馬台国とは別の王権があったのだから、それをこそ畿内説の人たちは追うべきだろう。

(邪馬台国問題 第3回 終わり)

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菅総理の采配

2020-09-24 09:46:31 | 日本の時事風景
菅さんは戦後の「団塊世代」生まれ初の総理大臣である。

団塊世代の名付け親は経済企画庁長官だった作家の堺屋太一だが、昭和22年から24年に生まれたベビーブームの世代だ。何しろ、出生数260万台をキープしていた時代である。

この三年間で約800万もの人口が増えたのだからインパクトは大きかった。この当時の日本全体の人口は8000万に満たなかったのだから、昭和22年から24年までで人口が約10パーセント増えたことになる。

それに比べると昨今は100万をやっと超えたくらいの人口増でしかなく、仮に同じ三年間だと300万余で、これは現有人口の2.5パーセントにしかならない。

この少子化には歯止めがかからない。菅さんは産みたくても産めない女性の不妊治療に対する助成を大幅に増やすと言っているが、もちろんやらないよりはましだが、いま喫緊の問題になっているのは産んでもせいぜい一人か二人と考える女性の多いことだ。

さらにもう一つの大きな理由は、結婚しない若者がかなり増えていることで、子産み子育て予備軍が予備軍のまま終わっていることだろう。

これら二つの少子化要因は、実はどちらも大都市集中によって引き起こされている。

収入は良くても地価や家賃が高いため、勢い居住空間は狭く、子供を遊ばせるのにも気を使い金を使うのが都会の生活である。

よく言われる保育所の不足、これは地方から出て来た者同士のカップルでは、実家が遠いため爺さんばあさんの子育て援助が受けられないので深刻だ。

それにまた教育費の高さも少子化へのインセンティブになる。都会では目移りがするほど各種の塾があり、学齢期の子供を持つ親の見栄もあって学費がバカにならなくなる。

現在でも東京一極集中は続いている。特に20台前後の若者は大学入学や就職で東京を目指す。それ自体は悪いことではないが、東京に何でもあり過ぎるのだ。

いくら地方の良さを伝えても、こういった夢多き若者たちにはどこ吹く風なのかもしれない。さらに故郷を離れる時に期待が大きければ大きいほど、夢破れた時でも「おめおめと帰れない」心境になるのだろう。

結局こういった経済・教育問題や地方からの上京人の心理をも勘案した時、東京一極集中の打破、地方への分散を断行しなければ、この先たとえ菅総理の言う「急速なデジタル化」が進行しても、集中化は変わらないだろう。

今度の新型コロナ対策でデジタルの強みを見せつけられたことは事実なのだが、それは中央にいながら地方とのリモートなやり取りで済むようになったという話だけで、中央本社や中央官庁の分散にはつながらなかった。

分散とは具体的に中央官庁や企業の本社の「機能的構造物自体」が地方への移転を果たさなければ意味がないということだ。

菅さんは秋田県の地方都市の出身であり、「男子郷関を出でて・・・」を地で行くような立身出世を実現し、ある意味、東京一極集中なればこその人生のモデルなので、言い出しにくいかもしれないが、しかし来るべき首都直下型や関東大震災クラスのことを考えれば、もう待ったなしではないかと思うのである。

「激甚災害対応の都市再計画法」(首都分散法)なる法律を制定し、早く地方への移転を促進して欲しいものだ。

彼岸花が咲いた

2020-09-19 17:10:24 | おおすみの風景
今日は秋の彼岸入り。

この時期に決まって咲くのが彼岸花だ。

昨日、銭湯に行った帰り、我家の近くの県道550号線沿いに彼岸花の群落を見たので、今朝写真を撮って来た。
道路の片側の土手沿いに20メートルくらいにわたって、真っ赤なのとやや薄い赤いのとが、一叢に5本くらい茎を伸ばし、1メートルほどの間隔で咲いている。

全部で100本くらいはあるだろうか、土手の草を刈る人が彼岸花を見せるために刈り残しておいたのだ。この時期、田んぼや畑の畔でも同じように畔草は刈っても彼岸花だけは刈り残しておくというのはよく見かける風景で、時期外れということのない律儀な咲き方をする花である。

彼岸花は、他に墓花、死人花などという変名があり、どちらにしてもあまり良い名ではないが、やはり秋の彼岸シーズンに決まって咲き揃うからだろう。

北原白秋の詩に「赤い花なら 曼殊沙華 ごんしゃん ごんしゃん どこへ行く」というのがあるが、こっちは仏教経典からの借用で、ごんしゃん(若い娘)のあでやかさの比喩に使っている。

今朝は思いがけないところに咲いているのに気付いた。

何と我が家の南の花壇、マテバシイの真下に、いつの間にか一輪の彼岸花が顔を出していたのだ。
彼岸花は球根だから、ここに植え付けない限りは芽を出すはずがない。

しかし自分がここに植えたという記憶はない。

いろいろ考えてみると、去年の12月に、宮崎県三股町に住む従姉夫婦が引越した時に加勢に行き、お礼に貰った植木か鉢かの中に植えられていたものだったのかもしれないと思い当たった。

これまで庭付きの家だったのが、高齢の二人暮らしでもう庭仕事は無理だということで町営の団地に移り住んだのだが、その際に庭に植えてあった五葉松をはじめ、何種類かの植木と、植木鉢を何鉢か貰い受け、我が家の庭に植えたり、植木鉢の土を花壇の中に混ぜ入れたりしたのだった。

その中に一株(一球根)が紛れ込んでいたのではないかと思う。

余り庭に植えるような花ではないが、今時は「リコリス」という名で、赤のみならずクリーム色や白いのが普通に園芸店で販売されているから、不吉という評価は過去のものだろう。

夏の終わりから本格的な秋になるまでは花の少ない時期なので、これはこれで鑑賞に値する。

出来レースだった総裁選

2020-09-15 09:36:18 | 日本の時事風景
昨日は自民党の菅氏一強の出来レース(総裁選)の中継を見ていたが、民放からNHKにチャンネルを変えたら、画面の下に各都道府県ごとの党員票がテロップで表示されていた。

地方の党員票は党員全部の投票ではなく、各支部長などの役員票が都道府県の規模によらず3票与えられており、その3票の決め方が都道府県によってまちまちなのが気になった。

決め方で一番多かったのが党員投票の獲得数に応じて各候補に割り振る比例案分の「ドント方式」だったと思うが、「総取り方式」も少なからず(数えたわけではないが10都道府県は)あった。

その総取りでは菅氏が圧倒的に強く、石破氏と岸田氏がそれぞれ地元の鳥取と広島で総取りの3票を獲得した以外、残り8都道府県の24票はすべて菅氏に入っていた。

それでも石破氏はドント方式の県では2票ないし1票は確実に獲得していた。だが地方での獲得数は42票と菅氏の半分にも届かなかった。

しかしもし地方の党員投票数が本来のやり方であったなら、石破氏の得票数は3倍の120から140票は下らなかったと思われる。

まあ、これをもってしても衆参両議員得票で選挙前に既に8割を固めていた菅氏に及ぶべくもないが、地方では人気の石破氏の得票を極力減らしたい現政権サイドの思惑(石破外し)通りの結果となった。

今朝の新聞による確定得票数は、菅氏377票(議員288票・地方89票)、岸田氏89票(議員79票・地方10)、石破氏68票(議員26票・地方42票)だった。

岸田氏は地方は地元広島くらいでしか人気はなく、国会議員票でも菅氏の3割弱の得票に甘んじてしまった。来年9月の正規の総裁選も出馬するはずだが、再び石破氏が出馬するとなると地方票の少なさが最大の不安材料だろう。

菅さんの夢を貫き通した成り上がり人生は驚嘆に値する。47歳で初めて国会議員になり、非主流派に属したこともあったが、ほぼ無派閥に近いながら25年足らずで自民党総裁(=総理大臣)の座を射止めたわけで、あの今太閤と言われた叩き上げの田中角栄に並ぶ快挙には違いない。

今後の政界運営にどう取り組んでいくのか、政策的には安倍内閣の継承で終わるのか。また、折しも野党の立憲民主党と国民民主党とが合流して新「立憲民主党」が立ち上がったが、これとの付き合い方も大変だ。

自分的には、結局、菅さんが中心になって支えた安倍前政権のコピーで行くだろうと思う。言うならば「菅・安倍ミックス」、「スガ・アベミックス」要するに「スガベミックス」政権だろう。