鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

新型コロナウイルス

2020-01-31 10:12:03 | 災害
中国武漢で見つかった新型コロナウイルスによる感染者は昨日30日には1980人余り増加し、これでほぼ1万人になった。

そのうち死者は213人だという。つい3週間ほど前には6~7人だったのがここへきて急激に数を増やしている。


死者数は2003年から4年にかけて大流行したSARZ(高病原性呼吸器疾患)の時までには達していないものの感染者数は2倍近い。中国当局による強圧的な「武漢封じ込め作戦」にもかかわらず大幅に増え続けている。

(注)中国当局の発表によると、2月1日現在感染者数は14800人、死者数303人と、わずか二日で感染者数が5000人近く増え、死者数は90人増加した。うち重症者は2000人余りで重体なのが400人ほどいるそうである。大変な事態になりつつある(2月2日追記)。

日本をはじめ各国も武漢滞在の自国民保護のため本国へのチャーター便を飛ばし始めた。

日本企業が武漢だけで160社もあり、現地赴任社員の数は650人だというのも初めて知った。160社もあって日本人社員数が650人(家族も含むのか?)というのは多いのか少ないのか、そういった経験を持たない自分には分からないが、とにかく現在までに3便が飛び、帰国希望者のほとんどは乗って帰れたようだ。

ユーチューブでこの新型コロナウイルス騒動を見ていると、中にヘイトスピーチならぬ「ヘイトチューブ」があった。曰く「新型コロナウイルスは中国のテロだ」。

「坊主(中国)憎けりゃ袈裟まで憎い」の類で、こういった騒動に便乗する似非愛国者にはあきれて物が言えない。放っておくしかない。

ところでインフルエンザの方はどうなっているのだろう。昨年10月に感染者が出始めた時は「今期は異常に早い流行の兆しが見られ、この冬は大流行する」などと心配されたのだが、新型コロナウイルスの話題ですっかりメディアから消えてしまった。

実際大流行にまでは至らなかったのだろう。何しろとんでもない暖冬なのだ。

当地方では11月下旬から弱い霜が見られるのが普通だったが、3週間も遅れた12月中旬から始まり、年内に4回、年が明けてからは今朝(31日)を含めて6回。そのどれも強い霜ではなく日の出から2時間後には全くウソのように消えてなくなった。

今日で1年で最も寒い1月が終わるが、雨や曇りが多かったせいだろうか、気温が下がり切らなかった。毎朝雨でなければ7時前後に犬(ウメ:8歳)の散歩に出るのだが、手袋をしても手が冷たいという朝はたったの1回だけだった。

散歩の途中で望まれる高隈連山も、例年なら12月下旬からこの時期までに4~5回は雪を被った神々しい姿を見せるのだが、この冬はまだ1度もない。

桜島も例年同じくらいの頻度で冠雪が見られるのだが、同様にまだ1度もないそうだ。暖冬もここに極まれりの感がする。

暖冬で湿潤な日の多かったのがインフルエンザの流行を抑えたのかもしれない。2月に入ってからはなおさら雨含みの日が多くなるから、インフルエンザに関してはやや安心できるだろう。

※暖冬を証明するかのように我が家の庭に植えた「ツルコザクラ」がもう可愛らしいピンクの花を咲かせた。ツルコザクラの開花期は普通4月から6月。狂い咲きには違いないが、極寒のはずの1月に咲いたのだから、この後も寒さに打ちかって咲き続けるものと思われる。

大相撲の復活!

2020-01-27 15:19:44 | 日本の時事風景
令和になって初めての大相撲正月場所で、幕内最下位番付の徳勝龍が優勝した。

最下位が優勝したのは20年前の貴闘力以来だというから、ざっと120場所ぶりの快挙だ。

しかも徳勝龍は奈良県出身力士としては98年ぶりだという。98年前の力士の名は分からないが、98年前というと1922年(大正11年)で関東大震災(1923年。9月1日)の前年の頃である。

初優勝33歳というのも記録的だが、優勝インタビューで照れつつ「私などが貰っていいんですかね」と冗談めいたことを言いながら、次に放った言葉は名言に属するだろう。

「もう33歳とは思わず、まだ33歳だと思ってこれからも頑張ります。」

相撲の世界では30歳を超えれば完全なベテランで、体力の限界も見えてくる年回りだ。

今場所はモンゴル出身の二人の横綱「白鵬」と「鶴竜」はともに34歳で、体力の限界を思わせるように一勝しかできないうちに4日目・5日目から相次いで休場した。

偶然なのか必然なのか、大相撲の幕の内東と西のトップにでんと居座っていたモンゴル出身両横綱の休場は、世代交代というより私にとっては「本来の大相撲」への転換の象徴に思われた。

モンゴル出身最初の横綱「朝青龍」以来約15年、日本古来の大相撲が「モンゴル大相撲」化して久しい。一時は幕の内に最大10人はいたと思うが、どの力士も番付が上位だったからほとんど「烏の鳴かぬ日はあってもモンゴル力士の勝たぬ日はなかった」状況がずっと続いた。

私は別にモンゴル人だからといって大相撲から排除しようという気はさらさらないが、朝青龍のあの土俵を割ってからの相手力士への「ダメ出し」や白鵬の立ち合いの毎回の「張り手」という横綱らしくない態度・取り口が大嫌いであった。

今場所は朝青龍のそれや白鵬のこれが影を潜めたので、ようやく興味津々で大相撲を堪能した。今場所こそ「本来の大相撲」に回帰したと言えるだろう。すっきりした!

相撲の起源については諸説あるが、日本書紀の記録では垂仁天皇の7年(4世紀)に大和の「当麻の蹴速(たいまのけはや)」と出雲の「野見の宿祢」が垂仁天皇の御前で「角力」を取って見せ、野見の宿祢が当麻の蹴速の「肋骨や腰骨を打ち砕いて」蹴り勝ったのが最初らしい(お互いに蹴り合ったので、相撲というよりはキックボクシング形式だったろう)。

はっきりと「相撲で対戦した」という記事は天武天皇の11年(682年)に「隼人が多く(朝貢に)やって来た。大隅隼人と阿多隼人に宮殿の前庭で相撲(天覧相撲)を取らせたところ、大隅隼人の方が勝った。」

と見える記事で、この時は多数の隼人が大隅側と阿多側二手に分かれて対戦しているので、今日の大相撲につながるやり方である。

こののち奈良時代には隼人が宮殿の守備隊のような役割を担うようになり、おそらく隼人の相撲は守備隊の体力向上に役立てられたであろうが、平安時代になると「相撲の節会」が宮中の行事に取り入れられ、鎌倉から戦国期に廃れたことはあったが、江戸時代に今日みる大相撲のひな型が確立している。

法的には「国技」ではないようだが、1月5月9月の三場所が行われるのは両国「国技館」である以上実質的には国技だろう。その国技に恥じない正々堂々として取り口が望まれるし、我々も常にそれを期待している。

今回奈良県出身つまり大相撲の発祥の地「大和」出身の力士が、大相撲にふさわしい正々堂々とした取り口で優勝を飾ったのは何としてもうれしいことである。

「○○軍は永久に不滅」です。

2020-01-24 14:40:20 | 専守防衛力を有する永世中立国
1月19日は1960年に結ばれた日米安全保障条約締結60周年ということで記念式典が行われた。

当事者では開催者側の安倍首相がまさに当時の岸首相の娘の孫であり、アメリカ側からは当時の大統領アイゼンハワーの孫が参列した。

1960年1月19日に締結された日米安保は、それまでの「敵国日本への占領米軍」から「相互に安全を確保し合いましょう」という「占領軍から同盟国軍」へと転換されたので、「日本と米国が対等になった」と語られる向きがあるが、全く違う。

百歩譲って同等な相互防衛関係になったと言っても、それは現実に1960年以降に日本がどこかの国から攻められ、その時に米軍駐留地に対して攻撃が加えられたので自衛隊も「対等に」防衛に加わった、つまり米軍と一緒に戦ったーーという事実があればこその話であって、そんなものがない限りは「米軍と自衛隊は対等だ」とは全く言えない。

結局は第二次大戦後の冷戦構造の中で、日本の米軍基地が中共・ソ連(主たる仮想敵はソ連)に睨みを利かせる好位置にあり米国にとって必要不可欠だったから米軍が置かれたに過ぎない。

1987年のソ連邦崩壊、1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のロシア共和国成立により、核戦争さえ孕んだ米ソの確執は完全に終結し冷戦構造が終わった。

その時が日米同盟解消のチャンスだったのだが、自民党政府は何も動かず、かえって米国では「?」だった。米国側は解消されないので駐留続行の名分にひそかに「瓶の蓋論」を持ち出している。これは「日本が暴発して、対米攻撃をしないように軍事力を抑え込んでおく」ということで、日米同盟の本質が実は180度転換した瞬間だった。

ところがこの冷戦構造が終わって30年も経つのに相変わらず安倍首相は「日米同盟は不滅」などとアメリカにおべっかを使っている。

この「不滅」には驚いたが、これを聞いて即座に思い出したのが、昭和49年に巨人軍を退団した長嶋茂雄選手の最後の試合後のマウンドでのあいさつの中にあった「巨人軍は永久に不滅です」というセリフだった。

永久と不滅は同義語なので「永久に不滅」は語法としておかしいが、感激性の長嶋さんらしい言葉として受け入れられる。しかし「日米同盟は不滅」などと国連にも承認され(1951年)重要な地位を築いて69年にもなる独立国のトップが言うべき言葉だろうか。

「日米同盟」はニュアンスこそ違え、直ちに「米国の軍事力に拠る日本の安全」略して「米軍」と置き換えられる。つまり「日本に駐留している米軍は不滅」と言っているのに等しい。

そもそも国際連合はこのような二国間の相互防衛同盟を排除する目的で設立された機関であって、すべての紛争は国連全体(主として安全保障理事会)に諮り、多国間で平和的に集団的に解決しましょう――という機関なのであるから、日本と米国の二国間軍事同盟は国連憲章上好ましくないのだ。

そのことを知ってか知らずか、多分知ってはいるだろうが、アメリカを過度に忖度するという1960年安保以降の自民党の「党是」に従うと、結果としては今度の安倍首相の「日米同盟は不滅」発言になるのだろう。

要するに「アメリカ軍は60年も日本を守ってくれました。だったらもう永久に日本に駐留して下さい。頼んまっせ」ということだ。これにはトランプもびっくりだろう。

「そんなに長くいるわけないだろ。自分のことは自分でやれよ。第一、ソ連とも中国とも戦争などできねーよ。それよりも喫緊の課題だ、駐留経費をたっぷり寄こせ」がトランプの本音だろう。

ああ、情けなや、対米独立志向の全くない日本。

ワインと花束

2020-01-20 10:53:22 | 日記
1月14日が私の誕生日だが、一昨日(18日)は行き付けのカラオケスタジオの「誕生会」というイベントで他の1月生まれ3人とともに花束を貰い、また昨日は月一回学習センターで開いている「史話の会」のメンバーからワインをプレゼントされた。

後者は思いがけないことで驚いた。メンバーに出した年賀はがきに1月の誕生日で70歳になりますとは書いたのだが、気を遣わせてしまった。何にしてもありがとう。ワインは鹿児島最大の百貨店「山形屋(やまかたや)」が幕末に鹿児島から英国に密出国した薩摩藩留学生の一人で最年少だった長澤鼎(ながさわかなえ)が米国に渡って開拓したブドウ園由来のワイナリーで醸造させた同店ブランドの「ナガサワ・ワイン」。

長澤鼎は本名・磯永彦助で、当時わずか14歳(数え年だろうから満では13歳)という若さだった。英語を習得するには若い方がよかったのだろう。しかしこの人は帰国して政府の官吏にも中央の学者にもならずアメリカに渡り、結果としてブドウ園を経営することになった変わり種である。

一昨年だったか、ブドウ園のあるカリフォルニアの山火事によってワイナリーが全焼してしまったようだが、貰ったワインの製造は3本のうち一本が2015年で他の二本は2016年だから、製造不可能になる前の物ということになる。そうなると貴重なものだ。

夕べは早速「奥さんと飲んで下さい」という口上付きで頂いた手前家内と祝杯となったのだが、家内は二口か三口で酔いが回ったらしい。私はというとワインでは酔うという感覚になったことがほとんどなく、さりとてがぶ飲みするわけにもいかない貴重なワインなので一杯で止めにし、あとは例によって焼酎のお湯割りに移行したのであった。

令和最初の歌会始

2020-01-17 09:53:19 | 専守防衛力を有する永世中立国
昭和22年に始まったという戦後の「歌会始(うたかいはじめ)」、令和になって初めての今回は14日に行われた。皇居・松の間で催された様子(NHKの実況中継から)

戦前は「宮中歌会始」であって、一般庶民からの詠進はなかったが、今は一般人からの応募が数万寄せられるという「民主的」盛況である。

そもそも日本で歌(和歌)が詠われた起源はおそらく縄文の昔にさかのぼるだろうが、記録として残されているのは古事記と日本書紀に記されたスサノヲノミコトのあの「出雲八重垣」の歌だが、これはスサノヲノミコトの活躍した年代が分からない以上特定できない。

また、神武天皇(弥生時代)と日本武尊(古墳時代)が詠んだという「大和は国のまほらま」という歌も、活躍年代の違う両者が同じ歌を詠むという不合理からこれも特定されない。

結局、歌と言えば「万葉集」ということになり、万葉集によればその第一巻の第一首に掲載の雄略天皇の御製とされる「籠(こ)もよ、み籠持ち、ふくしもよ、みぶくし持ち、この丘に菜摘ます児、家聞かな、名告(の)らさね・・・」という求愛の歌が文献上の始まりとなりそうだ。

雄略天皇は中国史書『宋書』中の「倭王・武」とほぼ特定されているので、年代は5世紀の後半(西暦450年~500年)。そこからしても日本における歌(和歌)の道は1500年以上連綿と続いていることになる。応神天皇の時代(西暦400年前後)には朝鮮半島経由で文字(漢字)・文献(四書五経など)が入ってきているので、漢字を使って残された始めが雄略天皇の歌だろう。(もっとも先の年代特定できない歌もおそらくその頃に文字化されたに違いない。)

宮中での歌会は「歌会始」という正月の行事としての歴史は中世かららしいが、単なる「歌会」ならそれ以前から時折々に開かれたであろうことは、元号「令和」制定のもととなった万葉集中の太宰府の大伴旅人邸に於ける「梅花の歌三十二首ならびに序」から想像される。

天平2年(西暦730年)の正月に太宰府管内の九州諸国の高級官僚たちや太宰府の官僚たちを太宰府長官(帥)であった旅人の屋敷に集めて宴会を催し、その時に「お題」を「梅」と決めて、参集した役人たちに詠ませた和歌32首が万葉集の第5巻に掲載されている。

旅人の歌は勿論だが、有名人としては当時筑前の国司であった山上憶良の歌も載せられている。歌を詠む作法として(あるいは宴会の座興として)、各人の頭に香しく匂う梅の枝を簪(かんざし)のように付けたというから優雅なものである。

少なくとも奈良時代の初めの頃にはこのような「歌会」が地方でもあったのだから、いわんや中央においておやで、年代の特定される雄略天皇の450年代にすでに「歌会」があったとみて差し支えないだろう。

日本とは何と雅な国であろうか。明治から昭和の20年まで時代の流れだったとはいえ、決して天皇を「元帥」にしてはならないのである。

自分はいまだに「詠進」したことはないが、老後の楽しみの一環として歌(短歌)を一首ものすることやぶさかではない。(※カラオケで歌う唄も、演歌の歌詞はほぼ「五七」で作られており、和歌の伝統に外れていないのは刮目に値する。)