鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

成會(会)山陵の真相

2024-06-18 14:45:36 | 『続日本紀』散策
西暦700年は文武天皇の4年に当たり、『続日本紀』によるとこの年の6月3日に南九州で大きな事件が発生している。

その事件とは、

<朝廷から派遣された南島への国覓(ま)ぎの使い「覓国使(べっこくし)」が南九州(古日向)において、三か所の豪族によって脅迫を受けたが、これに対して、筑紫の惣領(のちの太宰府長官)によって彼らを決罰させた>

というものである。

正確に言うと、700年6月3日の記事は「太宰府によって南九州の豪族を懲らしめた(懲らしめ終わった)」と報告があったということで、この6月3日に南島への使いに対して脅迫事件があったのではない。

その決罰を朝廷が発令したのは文武元年(697年)の4月13日に南島への使いが出発し、翌年の11月4日に復命してから脅迫があったことが報告され、それに基づいて朝廷から筑紫惣領に対して「南九州のあの豪族たちをを懲らしめよ」という命令が出されたのであろう。

この翌月、12月4日の記事に「大宰府をして三野、稲積の二城を修せしむ」とあるが、三野は宮崎県内、稲積は鹿児島県内であるから、脅迫事件を起こした南九州の豪族を討伐するため攻撃の拠点だと思われる。

だが、その攻撃拠点の完成や、討伐に関しての記事はないので、どの程度の「決罰」だったのか類推するほかない。

700年の「決罰」の記事から2年後の大宝2(702)年の8月1日の記事に、

<薩摩・多祢(種子島)は王化を受け入れず、命令に逆らったので兵を発して征討する>

とある。ここで明らかに朝廷の征討軍が薩摩と種子島を攻撃したことが見え、2年前の「決罰」の真相が垣間見られる。

翌9月14日には、

<薩摩隼人を討った軍士に勲を授けたが、軍功により褒美には差をつけた>

とあり、薩摩と種子島への討伐は成功したようである。さらに薩摩国を「唱更国」とし、国司も置いているし、要害の地には薩摩隼人を抑えるための「柵」(砦)を設けている。

ただし、700年6月3日の記事には薩摩半島側の豪族、薩摩比売のクメ・ハズ、衣君の県(あがた)・テジミと並んで肝衝難波(きもつきのなにわ)が記されているのだが、こちら(大隅半島側)は以上のような討伐からは免れている。

702年には薩摩半島側は征服されて「唱更国司」(のちの薩摩国司)が赴任し、防衛拠点(柵)が置かれたのだが、大隅半島側は抵抗が大きかったため、薩摩に送れること11年後の713年4月になってようやく大和王権に屈し、大隅国が置かれた。

(※この古日向から大隅国が分立した際の戦乱は大きかったらしく、713年7月の記事によると、征討将軍・士卒1284人には功に応じて勲章が授けられている。)

ともあれ、『続日本紀』の文武天皇4)(700)年6月3日の記事には、当時の南九州の豪族の実名が初めて記されたことで注目される。

同じこの700年の記事で注目すべきが、2か月後の8月3日の記事だ。その記事とは、

<8月3日、宇尼備(うねび)、賀久山、成會山陵及び吉野宮の辺り、樹木、故無くして彫枯す>

で、「畝傍山・香久山・成會山陵、それに吉野宮界隈の樹木が原因不明の枯れ方をしている」というのである。

樹木が枯れる現象では「マツクイムシ」による虫害が著名だが、虫害なら古代人といえども「原因不明」にはしないだろう。あるいは目に見えない細菌やバクテリアの類によるものだろうか。

その穿鑿はさて置き、私が注目するのが「成會山陵」である。

畝傍山・香久山とくれば大和三山の残りの「耳成(みみなし)山」が想起されるではないか。しかも「成」という漢字が共通である。

私は耳成山を「みみなりやま」と読んで、南九州に存在した投馬国の王「ミミ」の后「ミミナリ」を当てている。

したがって耳成山とは「ミミナリの陵墓」つまり「ミミナリ山陵」と考えているので、この「成會山陵」とは「耳成山」が山陵であり、そうであれば被葬者は耳成こと投馬国由来のミミナリ(皇后)であってよいことになる。

そのことは伏せておいて、成會山陵について御所市の教育委員会に問い合わせてみた。

そうすると返事はこうだった。

――あの『続日本紀』の記事の成會山陵は成相古墳のことです。成相は「ならい」と読みますが、この墓は馬見古墳群の中にありますが、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄の墓と言われています。

敏達天皇はいいとしても皇子の押坂彦人大兄にはピンとこなかった。34代舒明天皇の父であり、33代推古天皇まで母方が豪族蘇我氏だったのを断ち切ったそれなりに重要な系図の中の人であった。

――成相陵墓については『延喜式』の「諸陵式」に記載がありますよ。

とも言われたので、調べてみた。たしかにあった。それによると、

<成相墓 南北20町 東西25町>

誰の墓とは書かれず、場所も特定されていないが、兆域(陵墓の規模)を見て目を疑った。

町とは古代の長さの単位でおおむね100mである。

そうするとこの成相墓の墓域は南北が2km、東西が2.5kmにもなる。あの仁徳天皇陵と言われる世界最大級の大仙山古墳でも陵域の南北は8町、約800mに過ぎない(この長さはリーズナブルだ)。

これからして文武天皇4年6月条に登場した「成會山陵」が馬見古墳群中の「成相墓」では有り得ない。

この大きさから考えれば、耳成山が相当するだろう。つまり耳成山こそが「成會山陵」であり、延喜式諸陵式に記載の「成相墓」そのものだと言えるのではないだろうか。

その被葬者とは、古日向から移り住んだ最初期の大和王権(橿原王朝)の初代「神武天皇」(私見ではタギシミミ)の皇后(ミミナリ)であろう。

具体的な皇后名はミシマノミゾクイミミの娘で「神武天皇」(私見ではタギシミミ)の妻になった「イスケヨリヒメ」がふさわしい。






続・肝衝難波(『続日本紀』散策④)

2021-11-30 14:52:55 | 『続日本紀』散策
【「国司塚」の被葬者は誰か?】

鹿屋市永野田町にある「国司塚」は地元の伝承では「養老4年に隼人に殺害された大隅初代国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)」の墓ということになっている。

ところが直前のブログ「肝衝難波」で書いたように、陽候史麻呂が隼人に襲われて殺害されたのは国衙のある霧島市国分であった。

仮にもし、国分では殺害されずに、うまく逃げ延び、ここ鹿屋市永野田町にまでやって来てから死んだとしよう。

すなわち、大隅国司・陽候史麻呂が隼人によって殺害されたのは『続日本紀』の養老4(720)年2月29日の記事で明らかであるが、その国司が実は国分では殺されず、鹿屋の永野田まで逃れて来て殺害され、その遺体か首級かは分からぬが、とにかくそれを埋葬した場所が「国司塚」であるとしよう。

この隼人の叛乱は結局1年半後に決着がつき、大和王権側の勝利に終わった。

政府軍は勝者であり、隼人との戦いの原因となったのは陽候史麻呂が殺害されたことであった。

そうなると陽候史麻呂の扱いは、「大和王朝に楯突き、反逆を起こした隼賊(シュンゾク)の犠牲になってしまった大隅国司」となり、慰霊され、称揚されてしかるべき存在になろう。

ならば大和王権は筑紫総領(のちの大宰府)に命じて、陽候史麻呂が殺害され埋葬された鹿屋市永野田に筑紫総領から吏員を派遣して墓を掘り起こし、陽候史麻呂の遺骨を収容して筑紫総領経由で大和王権の下へ帰還させただろう。

奈良時代には「骨送使」という人員がいて、王権から派遣された大宰府の管理職や各国の国司クラスの者が現地で亡くなった場合に、荼毘に付した後の遺骨を都へ届ける制度があったのである。

もし「国司塚」に埋葬されたのが大隅国司・陽候史麻呂であるのならば、当然そのような扱いを受けなくてなならないから、養老5年に隼人の叛乱が終結を見たあと、さほど時を置かずに王権側の吏員(大宰府職員)が派遣され、墓を掘り起こして採骨して都へ運んでいったはずである。

とすればその時点で現地において慰霊の祭りをする必要はなくなる。百歩譲って慰霊祭が挙行され続けたにしてもせいぜい50年が限度だろう。

それを永田家の伝承によると1300年余り継続して来たというのであるが、「勝てば官軍」のほうに属する大隅国司の「御廟」であるのならば、もっと立派な神社のようなものが建てられていておかしくないではないか。なぜ次のように、ひっそりとした祭られ方をしなければならないのだろうか?

【「国司塚」の祭礼】

私は6,7年前に一度だけ、永田家の当代当主である永田良文さんにお願いして、旧10月の二の丑の日に行われる「国守祭」に参列させていただいたことがある。

その時に頂いたのが神主を勤めた年貫神社宮司から「雑祭記帳」というタイトルの「国守祭の事」を印刷した物であった。

それによると、「皇室の祭式に似たるにより、斎戒沐浴、最も厳粛に執行の事。」という注意書きがある。さらにこの「国守祭」は祭典終了まで「黙行・黙読のこと」とある。この黙行・黙読については、かの永田良吉翁が衆議院議員として昭和天皇の即位式(御大典)に参列した時、そう聞かされ、「我が家の国守祭と同じだ」と感激したそうである。

国守鎮座地(国司塚)に行き、礼拝の後行うのが、「御幣替え」である。「御幣」とは和紙を縒って作る「御霊代」のことで、毎年この祭礼の時に新しく立て替える。


後ろの叢生した竹がいわば「神社」で、その前に和紙で作った御幣を立て並べてお祭りをする。

御幣には手前の「金幣」と後ろの「日本(ひのもと)幣」の2種類があり、金幣は16本、日本幣は36本、合計54本の御幣を「御霊代」として立て、その後、小祓い、大祓い、ののち、「祝詞」をほんの小声で奏上していた。

神主によると、金幣に降ろされる御霊は名前が分かっている御霊で、日本幣は名前が分からない御霊とのことであった。

言い伝えでは、「金幣」の16本は陽候史麻呂を護衛した騎馬隊の人数であり、「日本(ひのもと=霊のもと)幣」の36本はそれ以外の部下たちの人数だそうである。

もっともらしい言い伝えだが、なにしろ陽候史麻呂はここに来て死んではいないので、全くのこじつけというより他にない。

(※私見ではこの54本の御幣(御霊代)は肝衝難波以下永田家が1300年余、子孫として祭っている代々である。新たな1本が加わって55本。これが難波から現在に至るまでの子孫の代数であろう。1300年を55代で割ると、24年余で、一代の年数としては妥当な数値である。)

石の祠も無いようなこんな簡略極まる慰霊の地が他にあるだろうか。しかも「勝てば官軍」側の被葬者の塚とは全く思われない。

もし永田家が官軍側の陽候史麻呂を祭る後裔だとしたら、この後の大隅国司(大宰府)が放っておかないだろう。しかるべき官吏(官職)に取り立て、少なくとも大隅郡や肝属郡の郡司クラスにはなったであろうが、そんな顕職を担ったという伝承はない。

また塚自体も、もっと立派な神社様式の物になったであろう(※前の道路と変わらない高さの5アールほどの広さの広場があり、その奥に叢生した竹があるが、そこが埋葬地らしい。何の祠も無い殺風景な、見方によっては「清楚な」空間があるばかりだ。)

この「国司塚」が大隅初代国司・陽候史麻呂の墓地であり、それを祭って来た永田家が陽候史麻呂の子孫であるとは、以上の理由からまず考えられない。

【「国司塚」は肝衝難波の墓】

官軍側のオエライさんの墓でなければ誰の墓であろうか?

公的には何も顕彰されず、死後こんなにひっそりと祭られているのは、官軍側に属した人物ではないと考えるのが常識というものだろう

では誰だろうか?

それは大隅の豪族で、当時の大和王権に抵抗して殺害された肝衝難波としか考えられない。

ということは、これを1300年間も祭り続けている永田家も官軍側の子孫ではなく、敗れた大隅の首長「肝衝難波」の子孫とした方が筋が通る。

肝衝難波は大隅はじめ広く古日向を支配していた「投馬国」の直系であろう。具体的に言えば、大隅で生まれた神武天皇とアイラツヒメとの間の2皇子タギシミミとキスミミのうち、「東征」に参加せず、地元に残ったキスミミ(岐須美美)の子孫に違いない。

キスミミは「岐の王」すなわち「港の王」であり、兄のタギシミミが大和への東征を敢行した(西暦170年の頃)のちも大隅半島に残った。

その子孫が「肝衝氏」であり、難波はキスミミのおよそ500年後の子孫であった。そして難波の子孫「永田氏」が、非業の死を遂げた先祖の難波を現地で祭り続けているということになろう。

その祭り方が皇室の祭り方と似ているのは、かつて古日向人は南九州から大和に入り、そこで橿原王朝を開いたのだが、南九州時代に斎行した神祭りを大和に入ったのちも続けていたからだろう。神祭りの祭式は極めて保守的なのが普通である。

【キスミミとアツカヤと肝衝難波】

キスミミ(岐須美美)は上で述べたように、神武天皇とアイラツヒメとの間の2皇子(タギシミミ・キスミミ)のうち弟に当たり、タギシミミが東征に加わったのに対し、南九州(古日向)に残ったのだが、そもそもキスミミは古事記には書かれているのだが日本書紀には書かれていない。

この理由は、キスミミが肝衝難波の先祖だからだろう。大和朝廷に対する当時最大の反逆者・難波の先祖は書くに値しないのだ。抹殺されたと言っていい。

同様の理由で文字通り抹殺されたのが、他ならぬキスミミの兄のタギシミミである。

「東征」に参加したタギシミミは神武天皇亡きあとを継ぐのが順当だったのだが、大和生まれの腹違いの弟カムヌナカワミミに「神武天皇の諒闇に勝手なことをした」「継母に言い寄った」という理由で、殺害されるというストーリーになっている。

しかし「綏靖天皇紀」にはタギシミミは「年すでに長じており、朝機を経ていた」と書かれているのだ。つまり「腹違いの弟カムヌナカワミミよりかなり年上であり、弟がまだ小さいので天皇位(朝機)を経験していた」というのである。

私は神武天皇を古日向「投馬国王タギシミミ」その人であると考えるので、それは当然と言えば当然である。

しかし肝衝難波が、南九州から「東征」したタギシミミの弟キスミミの子孫だったら、同族として、本来、大和王朝に協力的でなければならないはずなのに、叛逆した。その年代は大隅建国時の争乱があった712年頃のことであったから、720年に編纂が完成した日本書紀では難波の先祖キスミミを書かなかった(抹消した)のだろう。

(※古事記がタギシミミとキスミミの両方を書いているのは、編纂者の太安万侶がカムヌナカワミミの兄のカムヤイミミの子孫だから。つまり、南九州に出自を持っているから書き落とせなかったのだろう。)

これと同じように南九州人を排除するストーリーを創作したのが、「景行天皇のクマソ親征」ではないかと思われる。

私は景行天皇の「親征」というのはなかったと思う(古事記では「ヤマトタケルのクマソ征伐」しか書かれていない)。

日本書紀では、景行天皇が南九州でクマソの兄弟(アツカヤ・サカヤ)を、アツカヤの娘を篭絡することによってうまく成敗するというストーリーなのだが、このアツカヤ・サカヤの「カヤ」を見れば、大隅半島の中心部の鹿屋を想起せざるをえない。

つまり、この二人のカヤは、大隅の支配者・肝衝難波をモデルにして景行天皇時代の「クマソ親征」として描いたものだろう。

このストーリーの創作は、やはり712年頃の大隅国建国時の肝衝難波による叛逆を受け、編纂途上の日本書紀(720年に完成)から大隅を出自とした人物群の抹消(キスミミ排除)及び改変(タギシミミ殺害)が目的だったのである。

(※尚、地元の伝承で「国司塚」は「女人禁制」的な祟りがある――というのだが、これは上記のクマソ豪族アツカヤが、娘イチフカヤの寝返りによって征伐されてしまったことと関係がありそうだ。)





肝衝難波(『続日本紀』散策③)

2021-11-29 12:00:00 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

肝衝難波は「きもつきのなにわ」と読む。(※以下、単に難波と書いて行く。)

難波は、文武天皇の4年(西暦700年)に、薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)、衣(頴娃)君とともに、朝廷が派遣した「覓国使(ベッコクシ=国境調査団)」の刑部真木一行を脅迫したことで、筑紫総領(のちの大宰府)によって罰せられた――と記されたうちの大隅半島側の首長である。

今回はこの難波にスポットを当てたい。

続日本紀ではその姓を「肝衝」と書くが、これは「肝属」でも「肝付」でも「肝坏」でもよく、いずれも「きもつき」と読む。

西暦713年4月の記事に、<日向から肝坏・曾於・大隅・姶羅の四郡を割いて大隅国とする>という記事があり、この時点で古日向は薩摩国(702年に建国)と大隅国と日向国(現在の宮崎県)との3か国に分割された。

(※日向国が3か国に分割された後も、宮崎県域は日向国として同じ名称が残されたので、間違いを起こし易くなった。例えば、日向神話と言えば宮崎県域だけの出来事のように思われているが、713年以前の「日向国」は鹿児島県域をも含んでいることを忘れてはならない。私はその昔の日向国を古日向と呼ぶことにしている。この古日向はまた私見の「投馬国」でもあった。)

唐の律令制を取り入れて中央集権を目指す大和王権にとって、支配領域の大きな地方豪族は目の上のたん瘤であり、分割してその勢力を奪ったのだが、古日向を3分割したことは、まさにその政策の帰結であった。

【薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)・衣君の没落】

薩摩半島側で、700年に国境調査団である「覓国使」を脅迫した薩摩ヒメと衣(頴娃)君のその後は702年の次の記事でおぼろげながら了解される。

<薩摩・多禰、化を隔て、命に逆らう。ここにおいて兵を発し、征討し、ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。>(702年8月1日条)

これによると、大和王権は征討軍を派遣し、薩摩・多禰の両国を帰順させている。そして戸数や住民の把握を行い、官吏を常駐させたのである。

この過程で、薩摩のヒメも衣君も殺害されたか、捕虜となったかして支配者の地位を失った。そう考えるのが順当だろう。

いずれにしても、薩摩国の建国は薩摩半島の大小多くの首長を廃絶に追い込んだのである。

そしてさらに、文武天皇の次の元明天皇の2年(709年)になり、その6月の記事の中に天皇の詔勅があったとして、次のような記事がある。

<大宰率(帥)以下、品の官に至るまで、事力(耕作人)を半減す。ただし、薩摩・多禰の両国の国司及び国師の僧たちは、減ずるの例にあらず。>

これは大宰府の役人の「職田」に関する勅令で、耕作人の人数を半分に減らせ、というのである。ところが薩摩と多禰の国司及び国僧に与えられた「職田」の耕作農民については、人数を減らさなくてよいと但し書きが付いている。

この記事から見えるのは、702年に薩摩・多禰両国が令制国として建国されてから少なくとも7年後には、国司と僧侶が派遣されていたことである。薩摩国では建国当時すでに「柵」すなわち「要塞」が築かれており、現地隼人への対応は万全であった。

【肝衝難波のその後】

『続日本紀』文武天皇4(700)年6月にはじめて登場してから、その後は杳として存在が知られなくなった難波のその後はどうなったであろうか。

薩摩半島の薩摩ヒメ(クメ・ハヅ)や衣(頴娃)君たちとともに難波が「覓国使」刑部真木らへの脅迫事件を起こし、筑紫総領(のちの大宰府)によって処罰されたさいに、被殺あるいは捕虜となったとすれば、事は簡単である。当然その後の登場はないだろう。

薩摩国が700年のわずか2年後に建国されたことから見て、薩摩半島側の薩摩ヒメたち及び衣君については、700年の処罰の時点で支配者から引きずり降ろされた可能性が高いが、私は大隅の首長・難波は700年から702年の時期、おそらく無事であったと思う。

というのは大隅国の建国は713年の4月であり、もし難波が薩摩ヒメたちと同じように捕殺または廃絶されていたとしたら、建国の時期はもっと早かっただろうからである。多分、薩摩国建国とさほど年を経ずして日向国から分立していたはずで、704、5年には建国を見ていておかしくないだろう。

702年の薩摩国建国前に大和王権から「征討軍」を派遣され、主だった首長層が殺されたり、捕虜となるという悲惨な状況を目の当たりにし、また聞き及んでいたら、大隅側の首長層はより一層抵抗の構えを見せるはずである。大隅国の建国が10年ほども遅れた理由はそれだろう。

それだけ大隅側の抵抗は大きかったというべきで、その中心にいたのが難波その人であったと思われる。

しかし大隅側にも大和王権に恭順する首長が現れたのである。その人物は「日向隼人・曽君細麻呂(そのきみほそまろ)」であった。細麻呂が登場するのは次の記事である。

<(元明天皇3年正月)29日、日向隼人・曽君細麻呂は荒俗を教喩し、聖化に馴服せしむ。(よって)外従五位下を授く。>

元明天皇は文武天皇の母だが、天皇の死去(25歳)を受けて皇位に就いた女帝である。この天皇の3年目(709年)の10月26日に「薩摩隼人の郡司ら188名が入朝し、500の騎兵の居並ぶ中、整列した」という記事が見え、この薩摩隼人たちは翌年(710年)の正月の祝賀の儀に、東北からの蝦夷とともに参列している。(※東北の蝦夷も709年に大規模な征討を受けて帰順している。)

彼らは日本全土が大和王権の中央集権政策により、着々とその勢力下に統合しつつあることを内外に知らしめるセレモニーに参加したわけである。参加したというより「参加させられた」というべきだろう。(※新しく造営された平城京への遷都が行われたのは、このわずか1か月半後の3月10日であった。)

ここに集った隼人は「薩摩隼人」であったはずであるが、翌年の上掲の「元明天皇3年正月29日の記事」にょると、意外や意外、何と「日向隼人・曽君細麻呂」という「日向隼人」がいるではないか。

一体どういうことか?

713(和銅6)年4月の大隅国建国以降の「日向」は今日の宮崎県であるが、それより前の日向は大隅半島側と宮崎県を併せた地域である。

この日向隼人・曽君細麻呂は「曽君」であるから、今日の霧島市の大半を占める国分と大隅半島部の現在の曽於市・志布志市までがその勢力範囲で、その南側の大隅半島の大部を支配下に置いていたのが難波であった。

記事にあるように、曽君細麻呂は「荒俗(王化に属さない民)を教喩(おしえさと)して、聖化(大和王権化)に馴服(ジュンプク=帰順)せしめた」ために律令制下の位階をもらったのであるが、この馴服させた隼人たちの範囲は自分の支配下の「曾」(のちの曽於郡)だけであったと思われる。

もし仮に曽君細麻呂が大隅半島中南部の難波の支配領域の隼人たちまでをも「馴服(帰順)」させていたのであれば、その時点で大隅国建国となってもおかしくない。

この後、元明天皇6(713=和銅6年)年4月3日付の記事、すなわち「肝杯・曾於・大隅・姶羅の4郡による大隅国分立」に至るまでの大隅半島の混乱については、うかがい知れないのだが、相当な争乱があったであろうことは疑いえないだろう。

その極め付けが、次の記事に現れている。

<(元明天皇6年7月5日)、天皇は次のように詔を出した。「勲級を授けるのは、功績があるからである。今、隼賊(シュンゾク)を討った将軍ならびに士卒等、戦陣に功ある者1280余人に対し、その功労の大小に従って勲を授けるべし」と。>

「隼賊(シュンゾク)」とは大隅国建国に反逆した肝衝難波を含む大隅の首長層及び隼人たちのことである。王朝に反逆するのは悉く「賊徒」であった。

この戦闘の時期は、当然大隅国建国の713年4月より以前でなければならないが、征討軍の将軍も出発した時期も戦闘期間の記事もないので不明とする他ない。ただ、征討軍の規模が上記の史料のように受勲した将軍兵士の数が1280名余とあるので、最低でもその数以上、おそらく2倍は下らないだろう。

この受勲した将軍兵士は大和から派遣された者たちで、大隅の現地では、先に帰順した薩摩隼人側からも徴兵されたはずであるから、実際には万を越える人員が王府軍として戦ったと思われる。その中に大隅側でありながら曽君細麻呂の指揮する曾於地方の隼人も加わった可能性が高い。

【「国司塚」の謎】

大隅建国を見る直前の712年(和銅5年)内に、大隅半島の難波の支配領域は大和王府軍の征討を受け、また薩摩国の隼人及び曾君細麻呂配下の隼人たちの加勢もあり、大隅の雄・肝衝難波も終焉を迎えたと思われる。(※この戦闘で功績を上げた将軍兵士にはそれぞれに勲章が与えられたことが、上記713年7月5日の史料に見えている。)

鹿屋市永野田町に不思議な言い伝えの「国司塚」というのがある。

この国司塚について、地元では次のように言われている。

「大隅国の初代国司である陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)が広い大隅半島部を巡見する時、あまりに広いので鹿屋市の中心部に国司分館が置かれた。

ある年の巡見で陽候史麻呂の騎馬による一行が、鹿屋市の中心部の国司分館を出てから現地の隼人たちに襲われた。麻呂たち一行は這う這うの体で逃れたが、永野田の「国司山」の麓の水場まで来て息絶えてしまった。

そこが国司塚のある場所で、「国司塚」という名は亡くなったのが国司・陽候史麻呂だからそう言われている。

この国司の子孫だろうと言われ、塚の近くに居住する永田家が先祖代々この墓の祭りを行ってきた。」

この内容と同じものが国司塚の説明版に書かれている(鹿屋市教育委員会による設置)。


国司塚の全景。「国司塚」の石碑は昭和36年に、子孫で当時鹿屋市長であった永田良吉翁が建てている。また、同じ年に鹿屋市の中心部に近いちょっとした小山(今はない)に「国司城」があったとして、同じように石碑の「国司城址」を建立している。

永田良吉翁(1886年~1971年)は若くして大姶良村長となり、その後県議から衆議院議員になって活躍した。「請願代議士」とか「ヒコーキ代議士」とか言われ、生涯に何度となく破産したことでも有名で、政治に「権力者としての金儲け」観を全く持ち込まなかった清廉な代議士であった。

この「国司の墓」について、永田翁も「わが先祖が国司どんであれば、気張(頑張)らなければならない」と自分に言い聞かせた面もあったようだが、実は永田良吉翁が鹿屋市長引退後の昭和42年刊行の『鹿屋市史上巻』の646ページ、「第5章 鹿屋地方に残る数々の遺跡」の冒頭に「国司山」というタイトルで、大略次のように書かれている(カッコ内は私注である)。

<大隅初代国司の陽候史麻呂は姶良郡清水の館にいたが、肝属地方の年貢の納入成績が悪いので・・・(中略)、現在の鹿屋駅の上に居城(国司館の分館)を構えて統治していたが、大隅地方巡見の際にここで隼人に襲われた。追ってから逃れて名貫川を経て永野田に来た時に、ついに息絶えた。首級は部下たちの手によってここ国司塚に葬られた。>(同書646ページ)

ここまでは、国司塚の教育委員会の説明版とほぼ同じである。つまり初代大隅国司・陽候史麻呂が埋葬された場所だというのである。

ところが、647ページから648ページには、『続日本紀』養老4年(720年)2月29日の記事「隼人が大隅国守・陽候史麻呂を殺す」からの一連の隼人征伐の記事を下敷きにして、

<養老4年(720年)にもまた大乱が起こった。この反乱は(鹿屋のとは違う)大隅国北部の隼人(によるもの)であったと推察されるが、朝廷では(同年)3月、中納言大伴宿祢旅人を征隼人持節大将軍(中略)として、征途に就かせた。(中略)翌養老5年(721年)7月に至ってようやく(終戦となり)、斬首獲虜あわせて1400人を数えた。
 (中略)
これを見ると(鹿屋のとは違う)北方の隼人がまたも大乱を起こしたというのであるから、永田家の伝承のように国司が鹿屋にいることを知って(北方から)追って来たのかもしれない。余程の激戦であったらしく、養老4年2月から始まり、翌5年7月に終わっているから、1年半も戦乱が続いたことになる。>

としている。

この養老4年の記事が示す戦乱こそ、続日本紀記すところの養老4年(720年)から翌5年(721年)まで続いた「隼人の叛乱」で、その時に初代国司の陽候史麻呂が殺害された事件に端を発している。

鹿屋市史では「永野田の国司塚は、鹿屋に巡見に来た陽候史麻呂を鹿屋の隼人が襲撃し、追われた陽候史麻呂がここまで逃れてきてついに命を落とした場所であり、ここに埋葬されたから国司塚という」との見解を出しながら、同時に「北方の隼人、つまり大隅国府の置かれた国分方面の隼人が反乱を起こし、それが1年半も続いた」とも論じている。

それでは一体全体、どっちの隼人の叛乱で初代国司・陽候史麻呂が死んだのか、分からないことになる。

それとも鹿屋で起きた最初の隼人の襲撃で陽候史麻呂は死んでおらず、国府へ戻ったのだが、時を経て今度は国府の地元の隼人が反乱を起こした。そのため陽候史麻呂は南へ、つまり鹿屋方面に落ち延びたのだが、残念ながら鹿屋の隼人による襲撃を受け、今度こそ絶命した。そして遺体を「国司塚」に埋葬したーーというのであろうか?

『続日本紀』の養老4年2月29日に書かれた記事は、大宰府からの急報であったわけだが、当時の情報伝達にかかる日数からすれば、おおむねこの720年の2月29日の一か月前かそれくらいの時に、国分にある国衙において陽候史麻呂が殺害されたのは明らかなのである。

国分で言われているのは、720年正月の最初の「仏教会」に陽候史麻呂が伺候した際に襲われたというものであるが、的を射ているように思う。そうなると、陽候史麻呂が鹿屋市永野田の「国司山」の麓で絶命し、その傍らの「国司塚」に埋葬されたなどということは全くあり得ないことになる。

それでは永野田の「国司塚」とは誰の墓なのか・・・、次回に続く。













薩摩ヒメ・クメ・ハヅ(『続日本紀』散策②)

2021-11-16 15:31:42 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

11月13日に書いたブログ「古日向のヒメたち」で取り上げたヒメたちでは、古日向出身の王妃としては仁徳天皇の妃となった日向諸県君の娘「髪長媛」が最後であった。

武内宿祢・応神天皇亡きあとでは、古日向最大の豪族が諸県君牛諸井(うしもろい)で、その娘が仁徳天皇の王妃に入内したのは、古日向勢力の衰えを背景にしており、髪長媛とは「神長媛」のことで、古日向の祭祀権が仁徳王権へ移動した象徴だと思われる。

南九州(古日向)は魏志倭人伝上の「投馬国」(つまこく)であり、投馬国では女王のことを王をミミと呼ぶのに対して「ミミナリ」と言っていたが、これは近世以降の沖縄で「聞得大君(きこえのおおきみ)」と呼ばれ、王の統治権に並ぶ祭祀権を担当していた女王を髣髴とする。髪長媛はまさにミミナリに相当し、古日向の祭祀権を担う女王であったと思われる。

その祭祀女王が畿内河内の仁徳側へ移動したということは、取りも直さず、古日向が仁徳王権(河内王朝)に屈した証でもある。

髪長媛後の古日向のヒメたちは知られていないが、同じ「古日向のヒメたち」において、「薩摩ヒメ・クメ・ハヅ」というヒメたちを登場させている。これらのヒメたちの素性を追ってみたい。

【薩摩ヒメ・クメ・ハヅとその時代】

続日本紀は第42代文武天皇(在位697~707年)の元年から、第50代桓武天皇(在位781~806年)の10年までの95年を紀年体で記した、正史(六国史)の2番手である。ほぼ奈良時代を網羅していると言える。

その早い方の文武天皇の4年(700年)6月条に現れたのが、タイトルの「薩摩ヒメ・クメ。ハヅ」で、個人を特定できる人物名として南九州では初めての登場になる。

次にその部分を掲げるが、書き下し文かつ現代漢字・仮名遣いにしてある。また訓を括弧付きで補った。

<6月庚辰の日(3日)、薩麻比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はづ)、衣評督衣君県(えのこおりのかみ・えのきみあがた)・助督衣君弖自美(すけのかみ・えのきみてじみ)、また肝衝難波(きもつきなにわ)、肥人などを従え、兵を持して、覓国使の刑部真木などを剽劫(ヒョウキョウ)せり。ここにおいて、竺志惣領に勅して、犯に准じて決罰せしむ。>

これは西暦700年の旧暦6月3日の記事である。

内容を簡単に言えば、「南九州に出かけた覓国使(ベッコクシ・くにまぎのつかい)という名の「国境調査団」のうち、刑部真木(おさかべのまき)たちを、肥人たちが武器(兵)でもって脅迫したという事件があったということで、そのため朝廷が竺志惣領(筑紫総領=のちの太宰府)に命じ、肥人の支配者である薩摩ヒメ・クメ・ハヅたち首長層を、その脅迫の程度に応じて罰を与えた」というものである。

彼ら首長層の詮索を始める前に、この「国境調査団」が南九州に送られた経緯・経過をかいつまんで書くと、以下のようである。

覓国使(調査団)が発遣されたのは、続日本紀によると2年前の4月のことであった。この調査団は8名の編成で、団長は文忌寸博士(博勢とも書く)であった。刑部真木もその一人であった。「戎器(ジュウキ)」(兵器)を持たせたとあるから、これは警護役の刑部真木の担当であったろう。

そして翌699年の11月の記事に、「文忌寸博士、刑部真木ら、南島より至る。位を進めること、各々差あり。」と見え、調査団は無事に帰京し、朝廷から位階を上げられる待遇を受けたという。派遣期間は1年半に及んだことになる。

ここで元の史料に戻るが、700年の6月3日の記事として書かれたこの史料が意味するのは、あくまでも筑紫総領に対して「彼ら首長層に罰を与えよ」という勅命を出し、その結果が分かった日だということである。一見すると間違いやすいのが、「700年の6月3日に剽劫事件が起きたのだ」と捉えてしまうことだ。

上の調査団派遣の期間中、つまり698年4月から699年11月の間に現地の南九州において、その地の首長層から脅迫を受け、そのことを刑部真木たちが帰京してから朝廷に報告したわけで、それへの対応の「決罰」の勅命が筑紫総領に伝わり、さらに実際に「決罰しました」という報告が筑紫から朝廷にもたらされた日が、700年6月3日だったということなのである。

今日なら報告の類はすべて電信電話で済むから、こんなタイムラグは有り得ないのだが、調査団の都から南九州への往復と、朝廷から筑紫への往復でそれぞれ数か月はかかることを念頭に置かないと、早とちりをしてしまう。史料を読み取る際に特に注意を要する点である。

さて、肝心の「薩麻ヒメ・クメ・ハヅ」であった。

この「薩麻」だが、これは「薩摩」の旧字である。「ま」については「摩」より「麻」の方が簡略で使い勝手がいいのだが、なぜわざわざ「摩」を使用するようになったのかは、以前に書いたことがあるが、仏教用語で「薩」は「観音菩薩」を意味し、「摩」も仏教用語中の「摩訶般若波羅蜜」の「摩」から採用したと思われる。

南九州への仏教普及の端緒は前代の持統天皇の6年(692年)、阿多と大隅には僧侶を派遣せよとの勅命が出されており、それ以降、南九州に僧侶と仏典の入り込みがあり、ある程度、仏教に関する知識の広がりはあったと考えてよいだろう。

実際に702年の8月の記事に、「薩摩と多禰が、化を隔て、命に逆らったので、兵を発して征討した」とあり、ここでは薩摩が使われているのである。

この「薩麻ヒメ・クメ・ハヅ」を三人の「ヒメ・クメ・ハヅ」と見るか、それとも二人のヒメと見るかがちょっとした問題点である。私は二人と見たい。つまり、「薩麻ヒメ、すなわちクメとハヅ」としたいのである。要するに「薩摩ヒメ」を「薩摩」と「ヒメ」に区切らず、一般名詞とみなし、「薩摩のヒメ(女性首長)すなわちクメとハヅ」と解釈するわけである。

(※このヒメたちはこの後、どこにも現れないので、どちらとも決めようがないが、これはこれで置いておく。)

「薩摩のヒメ」とは女首長ということで、薩摩すなわち薩摩半島は女首長が取り仕切る世界だったということになる。古代及び古代以前の地方では女首長が立てられていることが多い。その典型は邪馬台国だろう。卑弥呼とその後継の台与の2代にわたって女が代表者であった。

薩摩でもそのような統治形態であったのだろう。女首長の名は「久売(クメ)」及び「波豆(ハヅ)」といった。

二人の女首長の名が挙げられているということは、この二人は母子関係だったのか、それとも邪馬台国の卑弥呼と台与のように宗族の中で後継される関係なのか、見解の分かれるところだ。

邪馬台国の場合は、ヒミコが死亡したので、その後継に宗族の中から13歳の台与が抜擢されて立てられたのだが、クメとハヅは同時に立っているので、そのような後継関係ではなさそうである。あるいは「両頭体制」なのかもしれないが、今はここまでしか言うことができない。

薩摩半島の首長として刑部真木の調査団に抵抗したのは他に「衣評督衣君県(えのこおりのかみ・えのきみあがた)」と「助督衣君弖自美(すけのかみ・えのきみてじみ)」がいる。

この「衣(え)」は今日の南九州市頴娃町のことだというのは大方に共通の見解であり、私もそれに従う。「評(こおり)」とはのちの「郡」であり、郡より古い名付けであった。この古称が使われるのは南九州独自であり、南九州(のみならず九州一円)が大和王朝にとっては特別な地域であったことを物語っている。

【南島調査団の目的と南九州】

大和王権からの南島調査は698年よりもっと古くに行われていた可能性が高い。

というのは、書紀の天武天皇6年(677年)条に、「この月、多禰島(たねがしま)人らに、飛鳥寺の西の槻の下に饗え給う」とあり、少なくとも677年よりも前に何らか種子島との交渉があり、島人がそれに応じて朝貢して来たことが推測されるのだ。

これを嚆矢として、南九州との「外交」が行われた結果、5年後の682年には、「秋7月3日、隼人多く来て、方物を貢げり。この日、大隅隼人と阿多隼人と朝庭にて相撲せり。大隅隼人が勝ちぬ」という記事がある。種子島より5年遅れで、大和王権に恭順したことが分かる。

そして何と、天武天皇が15年(朱鳥元年=686年)の9月23日に崩御し、殯宮(もがりのみや)が営まれると、百官の最後に誄(しのびごと=弔辞)を捧げているのである。これを隼人が重視されていたと解釈するか、珍客としての扱い、つまり王権支配が辺境にまで及んでいることを示すための、いわばデモンストレーションと見るかで多少の違いはあるが、いずれにしても王権側に隼人が「汚れた存在である」との認識はなかったはずである。

持統天皇の時代になってその9年(695年)には、「文忌寸博勢と下訳語諸田(しものおさのもろた)らを多禰に遣わして、蛮(ひな)の居所を求めしむ」(3月23日)、「隼人大隅に饗え給う。21日に隼人の相撲取るを西の槻の下に観る」(5月13日)と2か月足らずの間に南九州関連の記事が連続する。(※「隼人大隅」というのは「大隅隼人」の誤記だろう。)

3月23日の記事には700年6月3日の記事に書かれた南島調査団の団長格の「文忌寸博勢(士)」の名が見え、結局、文忌寸博勢は695年と698年の2回、南島調査団を率いていたことが分かる。

677年に朝貢して来た種子島人の話を聞いて、種子島が余程気になったのか、あるいは「宝の山」だったのか、大和王権は続けざまに2回の派遣団を送ったわけだが、後者の698年に送り出した時には団長の文忌寸博勢を警護するためか、刑部真木というのちの兵部省に属しそうな刑部氏に「武器」を携行させたのが不穏と言えば不穏であった。

それかあらぬか、おそらく種子島に渡る直前に、出航場所である現在の薩摩半島の山川港あたりで、薩摩半島側からは頴娃の首長である衣君や薩摩半島側の大首長であるクメ(ハヅ)、そして大隅半島側の大首長・肝衝難波の配下にいる「肥人(ひびと)」たちが、武器を携行している刑部真木たちを見て「何しに来た。武器を捨てよ」などと凄んだに違いない。それはもちろん王権側にとっては「脅迫」以外の何物でもなかった。

このありさまが、700年6月3日の記事の光景だが、その結果として朝廷の命令を受けた筑紫総領がどんな処罰を、各首長に対して行ったかについては書かれていないので不明であるが、おそらくその処罰さえも南九州側からは拒絶された可能性が高い。

というのも『続日本紀』の大宝2年(702)の8月に次のような記事があるからだ。

<8月1日、薩摩・多禰、化を隔て、命に逆らう。ここにおいて兵を発して征討す。ついに戸を挍し、吏を置けり。>

この記事で「南島調査団」(覓国使=くにまぎのつかい)の本性が判明する。要するに一種の国勢調査であり、大和王権支配の下に置くための派遣業務だったわけである。

薩摩・大隅の首長たちが色めき立ったのもむべなるかなで、この702年に行われた王権による武力行使によって、薩摩と種子島が鎮圧され、住民の数が把握され(「戸を挍し」)、役人を置く(「吏を置けり」)ことになった。

武力行使(征討)の程度がどのようなものであったか、これも書かれていないので詳細は不明だが、少なくとも種子島と薩摩半島側の首長たちは連行されるよりかは殺害されたのだろう。女首長のクメもハヅも断罪されたに違いない。

同じく山川・指宿を支配下に持つ頴娃の首長・衣評督衣君県(えのこおりのかみ・えのきみあがた)も助督衣君弖自美(すけのきみ・こおりのきみてじみ)も断罪をまぬかれなかっただろう。

この結果、大和王権側の官吏を置かれた薩摩は薩摩国に、種子島は多禰国になったと考えられる。

ところが、702年の大和王権による征討は上述のように薩摩半島側と種子島に限定されており、大隅半島側への征討はまだ着手されていなかった。

大隅半島側の大首長・肝衝難波(きもつきのなにわ)は702年の時点では健在であったと思われるのだ。

その肝衝難波が殺害(戦死)されるのは、薩摩国の次に古日向から大隅国が分立された和銅6(713)年4月の「日向国の肝杯・曾於・大隅・姶羅の四郡を割いて大隅国を置いた」時の「戦争」によるものだろう。

古日向(日向国)が三か国に分割され、律令体制下の「令制国」になった時点(713年)で、薩摩のクメをはじめ南九州の首長たちは次々に命を落としてしまったようである。

最後まで残った(と言っても713年までだが)肝衝難波については、別項を考えている。








「成會山陵」の謎(『続日本紀』散策①)

2021-11-03 14:43:37 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

『続日本紀(しょくにほんき)』は文字通り『日本書紀』の続きとして編纂された正史で、文武天皇の即位元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)に到る事績が紀年体で記されている。

勅令を出したのは桓武天皇で、延暦16年(797年)には撰修完成している。撰修者の代表は藤原継縄であった。

撰修完成の年と、事績の最後の年との間はわずか6年しか離れておらず、同時代史と言ってよい歴史書である。

日本書紀が「日本は万世にわたって列島内で後継を繰り返して来た一系の王統が治める国である」というビジョンの下に、その不合理を破綻させずに何とか書き記した史書であるのに比べ、続日本紀はそのようなバイアスを持たずに、坦々と事績をつづっているのが特徴である。

と言ってももちろん「アメリカファースト」ならぬ「天皇家ファースト」という史観は大前提としてはあるので、そこは勘案しつつ読んでいかねばならない。

【成會山陵とは?】

続日本紀で私など南九州に住む歴史愛好家にとっては、「大隅国の建国」や「隼人の叛乱」に関する記事に最も興味があって読み出したのだが、その中で「これは?」と思う記事も多々あり、中でも興味をそそられたのが、次の記事である。

<8月戊申(3日)、宇尼備、賀久山、成會山陵、及び吉野宮辺りの樹木、故なくして彫枯す。>(文武天皇4年(700年)8月3日条)

宇尼備は「畝傍」、賀久山は「香久山」、吉野宮は今日でも「吉野宮」だが、「成會山陵」はどこだろうか。

私は畝傍(山)、香久山と並んでいるので、首を傾げつつも「耳成山」のことだろうと思った。成會山陵の「成」が共通であることもそう合点した理由である。

さらに吉野山に所在する吉野宮とくれば、なるほど畝傍山にしろ香久山にしろ耳成山にしろ、すべて広大な山であるわけだからそこには樹木が鬱蒼と茂っている。その樹木が理由なく枯れている――という記事である。

原因がわからずに枯れるという点では、松くい虫の被害ではないかと思わされるのだが、この記事は単独でただこの一文でしかない。例えば、枯た樹木を切り出して処分させたとか、枯れた木を割ってみたらなかから虫が出てきたとかいった続きは記されていないのである。

文武天皇の宮である藤原宮を取り巻くように聳えている畝傍山、天の香久山、耳成山の山肌の樹木が枯れて赤茶色に変色した姿は、たしかに痛々しく、記事として取り上げるに値したのだろう。

ただ気になったのが、成會山陵であった。

というのは耳成山が「山陵」と表現されているという疑問である。「山陵」とは、南九州で皇孫三代に関わる「神代三山陵」として使われているように、「陵墓」のはずである。

耳成山が陵墓であるとは聞いたことがない。

私はこの点について御所市だったか桜井市だったか失念したが、ともかく近辺の大きな町の教育委員会に電話を入れて確かめてみた。

すると返事はこうであった。

――續日本紀のその記事が指している成會山陵とは、「成相墓(ならいのはか)」ですよ。延喜式の諸陵式に出ています。墓の主は押坂彦人大兄(オシサカヒコヒトノオオエ)皇と見られ、舒明天皇の父に当たる方です。広瀬郡にある牧野(ばくや)古墳が皇子の墓だとされています。

確かに諸陵式には「成相墓」があり、どうやら間違いはない。しかし、その墓地の規模(兆域)を見て驚いた。何と、「東西15町、南北20町」とあるではないか!

最も墓域の広いと考えられている「大仙陵古墳」(仁徳天皇陵)の兆域は「東西、南北ともに8町」なのである。8町とは約860メートルであり、これだけあれば世界最大という墳丘の長さ450メートル(周濠を入れて約700メートル弱)はすっぽり収まる。

ところが牧野(ばくや)古墳は直径が60メートルの円墳であり、これなら兆域はせいぜい2町四方もあればおつりが来る。

それなのに東西15町、南北20町、即ち仁徳天皇陵の4倍の面積がある、というのはどういうことか?

成相墓を押坂彦人大兄皇子の墓とするのは間違いだろう。なぜなら押坂皇子の子は舒明天皇になったのだが、皇極天皇の2年9月条に、舒明天皇を「押坂陵」に埋葬したという記事があるのだ。舒明天皇の父が「押坂彦人大兄」であるのならば、同じ押坂(桜井市)の内に葬るのが普通であろう。

それをわざわざ押坂から遠く離れた広瀬郡内に墓を造営し、後世名「牧野古墳」に埋葬するわけがないのだ。

私は「成會山陵」は耳成山そのものだと思う、そもそも耳成山は「みみなし」とは読めず、「みみなり」である。「みみなり」と言えば、南九州投馬国の女王が「彌彌那利」(ミミナリ)であった。

畝傍山の東北陵に埋葬されたのが神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)であり、妻たる「ミミナリ」は耳成山に葬られたのが真相であろう。耳成山の呼称こそ逆にそこに「ミミナリ」が埋葬されたから付いた名だろう。耳成山は人工的な陵墓であった可能性が高い。

大和三山の内では最も低いながら、非常に整った秀麗な容姿で、人の手が加わったような山容である。

耳成山こそが「成會山陵」という神代三山陵風の陵墓名である「山陵」に違いないと思うのである。