鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

アメリカの分断、日本の分断

2021-01-31 13:05:52 | 専守防衛力を有する永世中立国
トランプ前大統領の「アメリカファースト」政策による世界からの孤立と、自己本位なツイートの濫発がもたらした米国内の分断は、バイデン新大統領によって修復されていくのだろうか?
 
1月21日の就任以来、矢継ぎ早に署名された大統領令の数々はその期待を抱かせるものだ。「パリ協定からの離脱」を止め、「WHOからの脱退」も中止するという。国際協調路線へ大きく踏み出したことになる。当然のことだろう。

しかしその一方で、対中国制裁(高関税。フア・ウェイの締め出しなど)はそのまま継続するようだから、中国脅威論は民主党政権下でも「健在」のようである。

見逃してはならないのが、トランプが停止した「オバマケア」(国民皆保険制度)で、バイデン大統領はこれをどうするのか。同じ民主党のオバマ政権下で確立した制度だから復活へ舵を切るとは思うが――。

なにしろアメリカが新型コロナ感染者数にしろ死者数にしろ、世界の中でダントツに多いのは国民皆保険でないことが極めて大きい。盲腸の手術をして一週間入院したら100万円(1万ドル)も請求されるような医療環境では、新型コロナに感染したと疑わしいくらいでは金持ち以外はなかなか医者に掛かろうとしないだろう。

新型コロナウイルスの世界への拡散は中国の災いだが、アメリカのとんでもない感染拡大はオバマケアを葬った「トランプの災い」と言える。病気になるのは自分へのケアができておらず、そのために医者にかかるのは自己責任だからそれ相応の医療費を負担しろ――というのがトランプの言い分だろうが、こうして貧者は医療環境から分断(排除)されてしまうのだ。

バイデン新大統領が就任して一週間たった一昨日の未明に、菅首相はバイデン大統領と電話会談をした。内容的にはもし今でも安倍さんが首相だったらしたであろうような話だったが、しかしながら安倍さんとは違い北朝鮮の拉致問題には触れなかったようだ。

その一方で、尖閣諸島については、日米安保第5条を持ち出して「守ってネ」とお願いしている。「それなら辺野古も馬毛島も、わが米軍の使い勝手のいいようにしてくれなければだめだヨ」とバイデン大統領が言ったかどうかは定かではないが、日米安保があり、その運用に関して日米地位協定という治外法権の一種がある以上、そこは暗黙の了解があったに違いない。

沖縄の辺野古でも鹿児島の馬毛島でも、米軍が関与する所では県民が、あるいは市民が分断されているか、されかかっている。

今日はその馬毛島のある西之表市では市長と市議会議員の同時選挙がある。結果はどうであれ市民間の分断が始まる可能性は高いだろう。

初天神(令和3年1月25日)

2021-01-25 14:58:34 | おおすみの風景
丑年の令和三年、元旦は鹿屋市吾平町の鵜戸神社に詣でたのだが、牛と言えば天神様というわけで、我が家から西北へ12キロばかりの天神町荒平海岸に鎮座する「荒平天神」こと菅原神社に詣でて来た。

25日は菅原道真公の命日で、年の初め、つまり1月の25日は「初天神」である。昼過ぎに行くとちらほら参拝客があった。本堂の中は受験生が正月のうちに詣でたのだろう合格祈願の絵馬が所狭しと奉納してあった。

荒平天神は旧国鉄大隅線の「荒平駅」跡から目と鼻の先、国道を渡り階段を降りると砂浜で、砂浜と天神島との間は砂州でつながっている。これを「陸繋島」というのだが、珍しいし風光明媚なので観光スポットとして大隅地方では名高い。

不思議なのはこんな岩礁の上になぜ天神様が祭られているかということだ。普通、島であれば神奈川県の江の島のように「弁天様」が祭られるのが一般で、たまには海の神の「住吉神社」などもあるが、水や海とは何のゆかりもない天神様こと菅原道真公が祭神なのである。

鹿屋市にはこのほかに菅原道真が祭られる神社が2社あるが、海とは無縁の場所に建立されている。

この荒平天神の創建については全くの不明で、ただ伝承としては、この岩礁に立てられた年代は戦国期の天文年間(1532年~1555年)であろうというのがあるだけだ。誰によるものかも分かっていない。

もう一つ伝承というよりこれは事実だと思うが、大正12年に浮浪者(ホームレス?)が社殿で寝泊まりをしていたことがあり、火災を起こしてしまい、焼け落ちてしまったのだが、本尊の木製の道真公は焼けていなかったそうである。

このことが一層信仰に拍車を掛けただろうことは想像に難くない。危難を逃れたことにあやかりたい心理は十分に理解できる。

学問の神様だから「どうか志望校に合格できますように」というのが受験生の、また「頭脳明晰でボケませんように」というのが高齢者の今様の願いだが、コロナ禍に打ち克つことができますようにという願いも併せておきたいものだ。

天神様と牛との関係だが、菅原道真公の誕生は西暦845年であるそうだから、まさしく「丑年」の生まれということになる。また、左大臣藤原時平の画策により太宰府へ左遷されてその2年後(903年)に太宰府で失意のうちに逝去するのだが、逝去した日が「丑の日」だったらしい。

丑年の人は「思慮深く、よく隠忍自重する」そうだが、それも学問には向いているかもしれないが、そもそも菅原家の代々は学者の系統で、祖父も父も、そして本人も文章(もんじょう)博士であった。

特に道真は漢詩文にすぐれており、文集(もんじゅう)も残している。さらに政治家でもあり太宰府に左遷される2年前まで「讃岐守」として讃岐に赴任しており、その際に残した「寒早十首」は漢詩人と同時に政治家としての顔がうかがえる傑作だと思う。

鹿児島で道真公を祭る最も有名なのは東郷町(薩摩川内市)の「菅原神社」で、立地の字名を採った「藤川天神」という名称で人口に膾炙している。この神社の境内には150本もの梅の古木があり、中でも「臥龍梅」は天然記念物になっている。この梅はやはり道真公由緒の太宰府の「飛び梅」が発端だろうが、太宰府天満宮境内の「飛び梅」のお株を奪うほど素晴らしい。

向こうは太宰府に潜居している間に道真公が藤川まで巡見に訪れたとか、境内に墓まであるということだが、どうだろうか。墓はいただけないが、巡見の方は満更でもない気がする。古くは中大兄皇子(のちの天智天皇)が百済救援のために置かれた筑後の朝倉宮に滞在している時に鹿児島の国分まで巡見し、国分山中の台明寺を訪れてそこの竹(台明寺竹)を所望したという伝承があるから、全く可能性がないとは言い切れない。

まあ、でもここ荒平天神に関しては巡見という線は無いだろう。500年ほど前の誰か(おそらく当地の地頭クラス)が太宰府から勧請して建立したに違いない。しかしよくもこのような岩礁に建てたものだ、岩礁が牛に見えたのかもしれない。

コロナ禍の一年

2021-01-24 13:50:20 | 災害
去年の1月23日に中国では共産党政府が武漢市を強制的にロックダウンした。

悪夢の始まりである。

テレビで当時の報道が再放送されたが、徹底した交通取り締まりや住民の封じ込め、特にマスクをしていない者や、マージャンに興じている連中を激しくののしって蹴散らすような場面が流された時には「さすがに一党独裁の強権が演じられている」と、半ば呆れ、武漢市民への同情すら感じたものだ。

このことと相俟って政府が1500床ものプレハブ病床を突貫工事で作っている様子が流れたが、結局あの強権による強制措置が功を奏して武漢のコロナ感染拡大は阻止された。(※といっても武漢だけで2か月で8万5千人の感染があり、4500人もが命を落としている。)

習近平指導部はこれを「我が国の対コロナ禍勝利だ」と自画自賛しているわけだが、最近になって北京市内で変異種コロナによる感染が散発し始め、当局がまた大々的な対応に乗り出している。

何のことはない、地球を一周してまた中国に新型コロナウイルスが戻って来た(襲ってきた)というわけである。

そもそも武漢をロックダウンをする約一か月も前から「新型のウイルスが出現したらしい」と報告されていたにもかかわらず、確認が後手後手に回り、その間に武漢をはじめ湖北省あたりからの旅行者が世界に拡散してしまったのが世界への流行の原因であったのだ。

札幌でかなり早くにスキー好きの小学生の感染が見つかったり、東京の屋形船の客が感染したり、東京と京・大阪を往復したバスツアーの運転手とバスガイドが感染したり、また大阪の2軒のライブハウスで集団感染が見つかったりしたのは、ほぼ間違いなく武漢か湖北省からのバスツアー客があったところである。

それだけ中国人が豊かになり、春節を含んだ期間に古里よりか海外へ旅行ができるようになったことの表れだが、そのために割を食ったのが日本をはじめヨーロッパの観光国だった。


ヨーロッパ、アメリカそして日本では悪夢がまだ盛んだが、特に世界で患者数・死者数ともにトップのアメリカにしてしまったドナルド・トランプ前大統領は一昨日で離任し、同日バトンを継いだバイデン大統領は、早速、コロナ対策ほかトランプが放り出したパリ協定への再参加やWHOからの離脱中止などの大統領令を出した。

当のトランプは新大統領の就任式をボイコットし、フロリダの別荘に行ってゴルフを楽しんでいたというから呆れる。フロリダのトランプ所有のゴルフ場と言えばあの「ドナルド=シンゾー」コンビのシンゾーも遊んだところである。今ごろシンゾーはどんな面持ちでトランプのこんな人を馬鹿にしたようなゴルフ三昧のニュースを見ていることやら・・・。

思えば4年前の先の大統領選でトランプは「日本に我が国のクライスラーは走っていないのに、こっちは日本車ばかりが溢れているじゃないか、不公平だ」などと選挙民へ訴えていたのだが、日本(の外務省)では「トランプはどうせ泡沫候補で、民主党のヒラリー・クリントンが本命だ」と高をくくっていたのにドナルドが当選したら手の平を返すように世界に先駆けて「トランプタワー詣で」をしたのがシンゾーだった。

その後シンゾーはトランプべったりになってしまい、「自分の政権の時に必ず拉致問題を解決する」と言っていたのに自分では全く動かず、トランプに下駄を預けてしまった(公約違反も甚だしい)。

ドナルド=シンゾーがらみでは言いたいことは山ほどあるのだが、ドナルドが去ってしまったので繰り返すまい。

それよりトランプは最後に「また会おう」と捨て台詞を残してワシントンを後にしたらしいが、その言葉はまた4年後に再出馬する含みだなどと取り沙汰されている。

冗談じゃない。それよりトランプは大好きなゴルフのできるフロリダの州知事選にでも出るがいい。そして当選のあかつきには「トランプ王国」を自認して好きなように治めるがいい。たまにはシンゾーもゴルフに呼んでやってくれ。

それから、そうそう、州境に「壁」を作るのをお忘れなく。

邪馬台国問題 第7回(「史話の会」1月例会)

2021-01-21 18:19:25 | 邪馬台国関連
年明け後、初の史話の会が17日に開催された。

新年を迎えて今年も新たな気持ちで学習に取り組みたい(脳トレを兼ねている)。

さて今回は魏志倭人伝の最後の読み取りである。

この部分は西暦238年から同247年までの足掛け10年ではあるが、ほぼ同時代史と言ってよく、その当時の倭国内の具体的な様子が描かれている稀有の史料なのである。

ではその様子を眺めてみよう。

① 景初2年(西暦238年)から正始8年(247年)の倭国

景初2年(238年)
 6月、卑弥呼が魏王朝に生口10名及び班布遣使した。使者は難升米(なしめ)と都市牛利(としなり)。
 12月、魏の明帝は詔書及び金印紫綬を授けた。難升米と都市牛利には銀印青綬を授けた。
 ※卑弥呼からの朝貢品は「生口6名」と「班布2匹2反」
 ※魏の明帝からの返礼品は「親魏倭王の金印紫綬」など大量。

正始元年(240年)
 1月、魏の明帝が死に、子の斎王が即位する。

正始4年(243年)
 ・倭王が貢献する。使者は大夫・伊聲耆(いしおき)、掖邪狗(わきやこ)ら8人。率善中郎将の爵位を受ける。
 ※卑弥呼からの朝貢品は「生口、倭錦、丹木、短弓矢」など。

正始6年(245年)
 ・難升米が黄幢を授かる。

正始8年(247年)
 ・倭の載斯烏越(さいしうえ)が帯方郡に行き、狗奴国との戦闘を訴える。
 ・郡から張政らが詔書と黄幢を携えて到来し、難升米に手渡して檄を飛ばし、告諭する。
 ・卑弥呼死す。後継として男王が立つも国中が従わず争乱となり千人が死す。
 ・卑弥呼の一族から「台与(とよ)」が擁立され、ようやく収拾する。
 ・張政は布告して台与を告諭する。
 ・台与は掖邪狗(わきやこ)ら20人を遣わして張政らを送り、同時に魏へ朝貢する。
 ※台与からの朝貢品は「生口30名、白珠5千、孔青大勾珠(ヒスイ製の勾玉)2枚、異文雑錦20匹」。

以上のような魏王朝とのやり取りがあり、中国の正史に記されたことによって、3世紀の倭国の状況が克明とまでは行かないにせよある程度臨場感を持って理解できるのは稀有のことに違いない。

さて、卑弥呼がなぜ魏への遣使をしたかについては諸論があるが、私は邪馬台国の南にある狗奴国が北進し侵略しようとして来たからだと考えている。

要するに大陸王朝の魏の庇護(お墨付き)を得たいがためであったとみる。かなり切羽詰まって遣使したことは朝貢品の余りに貧弱なことで見て取れる。正始8年の台与からの朝貢品と比べるとまさに雲泥の差である。

これに対し、東海の姫国からの貢献に明帝はいたく感興を催したのだろう、返礼の品々の豪華な内容をみるとそれが分かる。なにしろ女王が国政のトップに立つなどということは大陸では有り得ないことだったのだ。

② 卑弥呼の死
 卑弥呼は正始8年、帯方郡からの使者・張政の関与で死亡する。卑弥呼の死についても諸論があるが、私は張政によって「詰め腹を切らされた」と解釈する。要するに狗奴国との交戦に「神意を聴く」などという悠長なことでは対処できないとの判断を下したのだろう。もちろん「自死」という形式をとったに違いないのだが・・・。

(※卑弥呼の墓について倭人伝では「径百余歩」の円墳としている。この「歩」だが中国の一歩は倭国の二歩に当たり、そのまま解釈すると直径が144mもあるような巨大円墳になってしまうが、私は造った倭人が倭人の「歩」で測ったのを張政に伝えたと思うのでその半分の直系72mと見る。私の考える邪馬台国は福岡県八女市であり、卑弥呼の墓は「岩戸山古墳」の後円部に比定する。)

ところがあに計らんや、卑弥呼の後継に立てた男王では国中が服さず、内乱状態になって収拾がつかなくなり、結局、卑弥呼の一族の中から13歳の台与が立てられなければ収まらなかったのであった。これには張政も想定外であったに違いない。

明帝が卑弥呼という女王がトップに立つ倭国へのある種の「畏敬の念」を懐いたのと同じような感慨を張政も持ったのではなかろうか。

とにもかくにも卑弥呼の後継に台与が立ち、邪馬台国は平静を取り戻し、南の狗奴国からの侵攻も収まったようである。

しかし倭人伝の記述はここで終わり、台与の時代がいつまで続いたか、その後継は誰だったかなどの情報は残念ながら中国の史料からは得られない。

しかし『晋書』の「四夷伝」にある次の記事により、台与の治政は少なくとも265年までは続いたようである。

【宣帝(注:晋の始祖の司馬懿)、公孫氏を平らげる(注:238年)や、其の女王(注:卑弥呼)使いを帯方に至らしめ朝見せり。その後、貢聘(注:貢は朝貢、聘は訪問・挨拶すること)絶えず、文帝(明帝の次の斎王)の相たるに及んでまた数至(何回か)あり。泰始の初め(265年)、使いを遣わし、訳を重ねて入貢せり。】

卑弥呼の後を継いだ台与はその後も何回か魏に変わった晋王朝に朝貢したようであり、また西暦265年の泰始元年にも代替わりを祝すの朝貢をしたらしい。この時台与はすでに40歳ほどの中年だったが、その後はどうなったかは不明とする他ない。

ただ私はその頃に南の狗奴国によって併呑されて滅び、台与は辛うじて落ち延び、現在の大分県の宇佐地方に到ってそこで新たな女王として擁立されたのではないかと考えている。

現在の大分県はかつては「豊の国」であったが、その豊(とよ)は台与に由来すると思うのである。

また宇佐神宮の三祭神のうち、「比女之神」とは台与を指しているとも考えている。

片屋根倉庫が完成

2021-01-19 15:13:27 | 日記
去年の11月中旬から造り始めた家の西側の片屋根倉庫は、12月末までに外観が完成していたが、年明け以降、内部の机や棚など細々したものを作り終続け、今日でほぼ完成した。
写真① 倉庫内部の北側は作業所で諸道具をコンパネの棚に収めてある。写真② 南側は農具の置き場で、肥料なども置けるようにしてある。
この倉庫をこれからは「西小舎(にしごや)」と呼ぶようにするが、写真①に見える北扉と、写真②に見える南扉には敷居がなく、南の庭から北側の裏手まで通り抜けられるようにしてある。

それは、裏手にあるちょっとした庭と物置に家人が行くのと、同じく裏にある浄化槽を検査に来る事業所の係員の通路として使うためである。

計画の当初はこれら二つの扉にはそれぞれ敷居を設けるようにしたのだが、年に一回は必ずある浄化槽の汲み取りの際にホースが引っ掛かるのではと危惧し、敷居を作らない設計に変えた。

要するにちょっと広めのレストランで、ど真ん中を通路が貫いていて、客は左右どちらかの座敷に上がるのだが、常に客の出入りを眺めながら食事をとるというような構図である。

だからもしかしたら、私が何かの作業で机に没頭しているその後ろに、浄化槽用の汲み取りホースが活躍しているという日が来ないとも限らない。

・・・まあ、そんなことは有り得ないだろうが・・・。